INTERNATIONAL MUSIC FOR BIGINNER~初めての洋楽~ -5ページ目

ミュージックバトン

「ミュージックバトン」とはブログ内で次から次へと、ちょうどマラソンのバトンをまわすようにアンケートをつないでいくという企画のようです。こんなちっぽけなブログにも回ってくるくらいなので、かなり出回っているみたいです。このブログにはチャモ さんから回ってきました。ちょっと面白そうなので、答えてみたいと思います。


1 PCに入ってる音楽の容量

 i podを持っているわけではないのでぜんぜん活用していませんが、僕のPCの音楽専用ファイルの容量

 は3.85GBです。


2 今聞いている曲

 いろんなものを聴いていて今特にハマッテいるものがあるわけではないですが、MDプレーヤーに入

 れてるのはラジオを録ったもの。その中で特にいいと思っているのが、マリオン・レイブンの「ブレイク・ユー

 (Break You)」。ガールロックで、アヴリル・ラヴィーンが好きな人に特にお勧めしたい曲です。


3 最後に買ったCD

 結構前ですけど、KEANEの『Hopes And Fears』。コールドプレイが好きな人にお勧めですね。欲しいCD

 はたくさんあるんですが、お金がないのであまりCDを持っていません。


4 よく聴く、または特に思いいれのある5曲

 The Beatles 『Norwegian Wood(ノルウェーの森)』

  僕を洋楽の世界にいざなってくれたビートルズの中でも、特にお気に入りのナンバー。ジョージ・ハリスン

  がシタールに挑戦しています。なんともノスタルジックな感じが心地よい曲です。

 Maroon5 『This Love』

  初めて買ったCDがマルーン5でした。この曲を洋楽チャート番組の中で聴いたとき、ほんの少ししか流

  れなかったのに全身が激しく共鳴し、急いでCDショップに走りました。

 Linkin Park 『Numb』

  リンキンパークの中でも一番好きなのはこの曲です。歌詞に共感し、落ち込んだときとかによく聴いてい

  ました。ちなみにリンキンパークにはまるきっかけを与えてくれたのは、この曲とJay-zの『Encore』をマッ

  シュアップさせた『Numb/Encore(ナム/アンコール)』です。

 Bob Dylan 『Blowin' in the wind(風に吹かれて)』

  曲だけ聞いて感動したのですが、曲名や歌手名がわからず、何の曲なのかかなり探したことがありま

  す。なぞが解けたのは小田和正さんがテレビでカバーしているのを聞いたときでした。戦争に反対する

  気持ちをうたった名曲です 

 Rod stewart『Sailing』

  この曲は昔英会話のラジオ講座でかかっていて好きになりました。CDを借りてきてこの曲ばかり10回く

  らいリピートして聞いていました。


5 バトンを渡す人

 ブログの中にお友達がたくさんいるわけではないので、誰に渡していいのか分かりませんが、とりあえず

 、読者登録してくださっている方に渡してみたいと思います。

  

  「鬼嫁になれなくて」

  大人気ブログ「実録鬼嫁日記」のような鬼嫁になれないながらも頑張る結婚生活をつづったブログです
  

 ほかの方にも渡そうと思ったけどすでに別の方がバトンを渡していました。かなり広まっているみたいで

 す。それにしても面白い企画ですよね。そのうち、音楽以外のものも回ってくるかもしれませんね。


※アンケート中に名前が出た歌手で、まだこのブログで紹介していないものは、「洋楽初心者向けブログ」 

  の名にかけて必ず近い内に紹介します。


 

用語解説 ~ライヴ・エイド~ 第二回

昨日に引き続いて「ライヴ・エイド」をみていきましょう。今回はウィキペディアを参考にしたいと思います。

このページにあるリンクは一番下のDVDを除いてすべて無効です。注意してください。



ライヴエイドLIVE AID)は「1億人の飢餓を救う」というスローガンの下、「アフリカ 難民 救済」を、目的として行われた、20世紀 最大の「チャリティー・コンサート」。「1980年代 ウッドストック 」とも、一部でいわれていたが、その規模をはるかに超越したものとなった。2004年 DVD として発売された。

経緯

「バンド・エイド」を提唱した、「ブームタウン・ラッツ」のリーダー「ボブ・ゲルドフ」が、中心となって開催されることとなり、その呼びかけに賛同した、多くのミュージシャン たちが、国とジャンルを越えて参加した。


概要

  • メイン開催場所:
イギリス ロンドン 郊外ウェンブリー・スタジアム  
アメリカ合衆国 フィラデルフィア JFK スタジアム
日本 でも協賛する形で、解説とは別に、独自にテレビ でのミュージシャン 出演が設定され、3元中継となる。)
なお、フィル・コリンズのようにロンドンの会場に出演した後、超音速旅客機のコンコルド で移動し、
フィラデルフィアの会場にも出演したミュージシャンもいた。
日本での放送は、同年、7月12日 夕刻から7月13日午前中まで。
  • 開催総時間:計12時間に及ぶ。(「計16時間」と記載されているものもあり。米英間の時差による、コンサート開催時間のズレを含むものと推測される。)
計84ケ国に衛星同時生中継。録画放映分を含めて、140~150ケ国ともいわれている。

参加ミュージシャン

順不同。一部のみ

ミック・ジャガー キース・リチャーズ ロン・ウッド (共に、ローリング・ストーンズ )、ボブ・ディラン 、ティナ・ターナー、ポール・マッカートニー (元ビートルズ )、レッド・ツェッペリン (3人による再結成。)、ザ・フー エリック・クラプトン デビッド・ボウイ ブライアン・フェリー エルトン・ジョン スティング ダイアー・ストレイツ 、フィル・コリンズ、クイーン U2 、ブームタウン・ラッツ、フォー・トップス、デュラン・デュラン プリンス マドンナ 、ジョーン・バエズ、クロスビー・スティルズ&ナッシュ ニール・ヤング ビーチ・ボーイズ B・B・キング サンタナ 、ホール・アンド・オーツ、ウルトラ・ヴォックス、ブラック・サバス、ジューダス・プリースト、など。

各ミュージシャン1組当りの持ち時間は、正味約20分

追記

その年の、ノーベル平和賞 候補として、「ボブ・ゲルドフ」の名が挙がる。

問題点

放映(企画)面

  • 不可抗力の部分もあるが、長時間の衛星生中継のため、回線切れが何度もあった。
  • 「国内では、民放 による放映のため、やむをえないことではあるが、進行予定表があったはずなのにもかかわらず、演奏途中でCMが入る。」「英米2会場の衛星生中継と、日本での生放送、及び、録画による演奏シーンや、スタジオでの解説といった部分にみられた、連携のうまくいかない箇所」などが随所にあった。
  • 日本では、深夜にまたがってしまったために、テレビ放送が終了し、朝の再開までラジオ中継しか行われなかった。
  • 黒人歌手の出演が少ない。白人主体。ライオネルリッチーやティナターナーはがんばっているが、Mジャクソンやプリンスが出ていない。
視聴者の多数に及ぶ、邦楽ファンにも楽しめるような企画や構成が、一方では、英米現地での放送シーンの寸断や中断にもつながり、(貴重な生映像という点でも)洋楽ファンからの不満ともなったといえる。

コンサートの目的や結果として

  • 後に、開催者側の金銭がらみのトラブルが発生した。
  • 支援物資が、末端まで行き届かず、アフリカの港の段階での腐敗等、使い物にならなくなった食料も少なくなかった。
  • アフリカ数カ国では、国家側の政治的目的のために利用されてしまった。
などといった、21世紀 現在、国際援助や民間支援に伴う問題点と同様のトラブルが、既に露呈していた。

 事実、ライヴ・エイドの後実際にエチオピアに向かったのはU2のボノただ一人だったようです。



タイトル: ライヴ・エイド (通常版)

用語解説 ~ライヴ・エイド~

今年の7月にスコットランドで開かれるG8サミットにあわせ、てミュージシャンたちがアフリカの飢餓救済を各国首脳陣に訴えるチャリティーコンサート「ライヴ・8」が開催されます。妙な名前は「G8サミット」にちなんだものですが、これは初めての試みではなく、実は2回目です。始めて行われたのは1985年に「ライヴ・エイド」と名づけられた、「アフリカ難民救済」を目的としたチャリティーコンサートでした。今日はその歴史に残る一大イベントの「ライヴ・エイド」について見ていきましょう。


ライブエイドは

●ボブ・ゲルドフ(ブームタウン・ラッツ)が中心となり、当時のイギリスのミュージック・シーンのトップ・アーティストを集結させ、飢餓で苦しむエチオピアへのチャリティ・シングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」をバンド・エイド名義でリリースしたのが1984年12月のことでした。瞬く間に全英チャートで首位を獲得、英国でのシングル・セールスの記録を樹立すると共に、世界各地でも大反響を呼び起こしました。
●ブリティッシュ勢のバンド・エイドに続き、アメリカではライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンが作曲した「ウィ・アー・ザ・ワールド」がUSA for AFRICA名義で1985年3月にリリースされました。(USA=United Support of Artists) 当時全米ヒット・チャートを賑わせていたアーティストからベテラン・大御所を含め46人が参加したこの曲も発表直後から大反響を呼び、ヒット・チャートの首位を独走しました。この曲もアフリカやアメリカでの貧困に苦しむ人々へのチャリティを目的としたものです。
●この2つの代表的なチャリティ・プロジェクトの反響を受けて1985年7月に開催されたのが、『ライヴ・エイド』でした。全世界で15億人もがテレビ中継を見たというこのコンサートはロンドンのウェンブリー・アリーナで開幕、追ってフィラデルフィアのJFKスタジアムのステージもスタートしました。両会場は衛生中継でリンクされており、英国側と米国側でやりとりをしながら、ステージは進行していきました。一足先にフィナーレを迎えたロンドンでは「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」で、フィラデルフィアの方では「ウィ・アー・ザ・ワールド」で締めくくられるまで、両会場ともにジャンルを超えたトップ・スターたちが勢揃いし熱いパフォーマンスが繰りひろげられました。特に、当時「世界一多忙なアーティスト」との称号を得ていたフィル・コリンズは、コンコルド移動により大西洋をひとっ飛び。両方の会場でパフォーマンスを行っています。この公演を通じ、壊滅的な飢饉で苦しむアフリカに1億4000万ドル以上の基金が届けられました。



補足 今年ライヴ・エイド20周年を記念し、バンド・エイドの21世紀版といえる「バンド・エイド20」を結成し、     

    「Do they know it's Christmas?」を発売しました。(昔のものと比べて少しアレンジされています)

    「彼らは今日がクリスマスだと知っているのだろうか?」というタイトルのこの歌は今やクリスマスソン

    グの定番となっています。         



アーティスト: バンド・エイド20
タイトル: ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?

明日は、ライヴ・エイドについてもう少し詳しく見ていきます。


洋楽紹介 ~マライア・キャリー~

世界の歌姫と呼ばれ、圧倒的な歌唱力(7オクターブの声域の持ち主)で爆発的な人気を誇るマライア・キャリー(Mariah Carey)。ニューアルバム『THE EMANCIPATION OF MIMI 』も好調なセールスを見せています。日本でもかなりの人気があり『恋人たちのクリスマス(All I Want For Christmas Is You)』などは、どこかで一度くらいは耳にしているのではないかと思います。

マライア

 1970年3月27日、ニューヨーク郊外のロングアイランドで、アフリカ系アメリカ人とベネズエラ系の血を引く宇宙工学技術者の父・アルフレッド・ロイ・キャリーとアイルランド系移民族の子として生まれたアイリッシュ系の血を引くオペラ歌手、母・パトリシア・キャリー(旧姓ヒッキー)の間に生まれる。黒人系の血を引く肌の白いマライアは、幼い頃から数々の人種差別の問題に直面し辛い経験をしてきている。レーナー・アンド・ロウの人気ミュージカル、“ペイント・ユア・ワゴン”中の、“ゼイ・コール・ザ・ウィンド・マライア”からその名マライアがつけられた。1973年、マライアが3歳のときマライアの両親は人種差別などの問題から夫婦生活も上手くいかなくなり、またいろいろな状況が重なって離婚。マライアは母パトリシアの元へ。兄姉は父アルフレッドの元へ。後に母パトリシアは再婚。マライアと母パトリシアは本当に仲が良く、マライアにとって母は時にベストフレンドであるみたいだ
 4歳から歌い始めるようになり、オールドフィールド・ミドル・スクールに通う頃には既に自作の曲を書き上げていたマライアは、高校を卒業した翌日、単身ニューヨークに旅立つ。 ニューヨークでの生活は決して楽ではなく、ウェイトレスをしながらデモ・テープ作りに励む日々を送っていた。そんなある日マライアはブレンダ・K.スターと出会った。ブレンダはマライアの才能を見出し、バック・コーラスとして彼女を採用。このブレンダとの出会いが彼女に転機をもたらすことになった。 とあるパーティーで、ブレンダがマライアのデモ・テープをコロンビア・レコードの社長、トミー・モトーラに渡したのだ。パーティー会場を後にしたモトーラは、車中でこのデモ・テープを聴いた途端、運転手に今すぐパーティー会場に戻るように指示したという。この若いシンガーに会うために。その直後、マライアのコロンビア・レコードとの契約が成立した。1988年。当時マライアは18才。ミュージック・シーンの新たな歴史が刻まれた瞬間である。

1990 デビュー曲「ビジョン・オブ・ラヴ」が8/4付から4週連続全米NO.1獲得。セカンド・シングル「ラヴ・テイクス・タイム」も11/10付から3週連続NO.1。デビュー・アルバム『マライア』をリリース、全米最高1位を獲得。

1991 2月、第33回グラミー賞でベスト・ニュー・アーティストとベスト・ポップ・ヴォーカル、フィメールを受賞。3rdシングル「サムデイ」が3/9付で1位(2週連続)、4thシングル「アイ・ドント・ウォナ・クライ」が1991/5/25付で1位(2週連続)となり、デビュー・アルバム『マライア』から4曲の全米NO.1ヒットが生まれた。 10月にリリースした2ndアルバム『エモーションズ』も大ヒット。このアルバムからの1stシングル「エモーションズ」は10/12付全米チャートでNO.1(3週連続)を獲得し、デビュー以来リリースしたシングル5曲が連続でNO.1となる。続くシングル「キャント・レット・ゴー」は2位、「メイク・イット・ハップン」は最高5位を記録している。

1992 MTVアンプラグド・ライヴ『ヴィジョン・オブ・ライヴ』をリリース。ジャクソン5のカヴァー「アイル・ビー・ゼア」が6/20付全米チャートでNO.1(2週連続)。
1993 3rdアルバム『ミュージック・ボックス』(通算4作目)をリリース。1stシングル「ドリームラヴァー」が9/11付全米チャートでNO.1(8週連続)。 10月にプロモーションで初来日を果たしている。 12/25付全米チャートで2ndシングル「ヒーロー」がNO.1(4週連続)獲得。 また、この年コロンビア・レコードのトミー・モトーラと結婚。のちに、意見の食い違いなどが原因で離婚する。

1994 『メリー・クリスマス』リリース。シングル「恋人達のクリスマス」がTVドラマ「29歳のクリスマス」の主題歌として使用された日本で、空前のヒット・シングルとなった。

1995 10月に4thアルバム『デイドリーム』リリース。先行シングル「ファンタジー」が9/30付全米チャートで初登場NO.1(8週連続)を獲得。続くシングル「ワン・スウィート・デイ」(ボーイズⅡメンとのデュエット)も12/2付全米チャートで初登場NO.1(16週連続)。シングル2曲連続の全米チャート初登場1位は史上初の快挙。

1996 3月に初来日公演が実現。東京ドームで3回公演を行った。アルバム『デイドリーム』からの3rdシングル「オールウェイズ・ビー・マイ・ベイビー」は5/4付全米チャートでNO.1(2週連続)を獲得。

1997 9月に5thアルバム『バタフライ』リリース。アルバムからのシングル「ハニー」が9/13付全米チャートでNO.1(3週連続)を獲得。

1998 1月に2度目の来日公演が実現。 アルバム『バタフライ』からの2ndシングル「マイ・オール」が5/23付全米チャートでNO.1を獲得。マライアにとって13枚目の全米NO.1シングルとなり、女性アーティストの全米NO.1を獲得した枚数で歴代1位に躍り出た。11月にグレイテスト・ヒッツ『The Ones』をリリース。1stシングル「ホエン・ユー・ビリーヴ」(映画「プリンス・オブ・エジプト」主題歌)では、ホイットニー・ヒューストンとのデュエットという夢の企画が実現した(プロデュースはベイビーフェイス) 。

1999 10月に6thアルバム『RAINBOW』リリース。アルバムからのシングル「ハートブレイカー」(feat. Jay-Z)は10/9付全米チャートでNO.1(2週連続)を獲得し、通算14枚目の全米NO.1シングルとなった。この時点でマライアは全米NO.1獲得アーティストの歴代3位に名を連ねた。(1位はビートルズの20曲、2位はエルビス・プレスリーの18曲)。 『RAINBOW』のプロモーションのため、4度目の来日を果たしている。

2000 アルバム『RAINBOW』からの2ndシングル「サンク・ゴッド・アイ・ファウンド・ユー」(feat. Joe & 98 Degrees)が2/19付全米チャートで通算15曲目の全米NO.1となる。3月に3度目の来日公演が実現

2001 ヴァージン・レコードと契約し、初の主演映画でもある同名作品のサウンド・トラック・アルバム『グリッター』をリリース。

2002 5月アイランド・デフ・ジャムと契約を。 11月20日に移籍第1弾アルバム『チャームブレスレット』(通算7作目のオリジナル・アルバム)をリリース、 プロモーションのため6度目の来日を果たしている。

2003 4度目の来日公演を果たす。

2004 「爽健美茶」CM楽曲にマライアが歌う「朧月夜(おぼろづきよ)」(「MISTY MOON」)が使われる。

2005 3月30日に2年半振りのニュー・アルバム『MIMI』(原題:THE EMANCIPATION OF MIMI )(通算8作目のオリジナル・アルバム)をリリース。このアルバムからのシングル『We Belong Together』がビルボード1位

となる。これで通算16作が一位を取ったことになった。これはビートルズ20曲、プレスリー18曲に並ぶ記録。

マライア・キャリー  

公式ページはこちら

ブックマーク追加

ブックマークを追加しました。実はブックマークに追加し忘れていました。今回追加したのはBARKS です。

改めて紹介する必要もないかも、と思うくらい有名なサイトで、このアメブロでも多くの人が利用しています。洋楽ニュースのブログの元ネタはここからだったりすることが、非常に多いです。他にもアーティストのバイオグラフィーやインタビュー、プロモーションビデオの視聴なども出来ます。また、洋楽アーティスト以外にも邦楽アーティストの紹介もあります。このブログで紹介したアーティストをBARKSで検索してみると、このブログでは紹介しきれなかったアーティストの意外な一面を知ることが出来るかもしれません。洋楽の世界を深く知る上では欠かせないサイトです。ほかのブックマークとあわせて大いに活用してください。

洋楽紹介 ~デスティニーズ・チャイルド~

Destiny's Child


突如解散してしまったアメリカを代表するR&Bグループ、デスティニーズ・チャイルド(Destiny's Child)。ニューアルバムからのシングル『Girl』も好調で、先日は日本にも来日していました。そんな人気絶頂の彼女たちが衝撃の解散宣言!ソロ活動に専念するための前向きな解散ということなのですが、どうなるのでしょうか。

今回はこのニュースにあわせてデスティニーズ・チャイルド(略 デスチャ)を紹介します。(公式ページからのコピーを基にしてあります。)


ヒューストン出身の4人組、ビヨンセ/ケリー/ラトーヤ/ラターヴィアという幼馴染みで結成されたデスティニーズ・チャイルド。‘92年にオーディション番組に登場したところその飛びぬけた才能が評判となり、USコロンビアと契約。『メン・イン・ブラック』のサントラに楽曲を提供した後、’98年にリリースしたデビュー曲「ノー、ノー、ノー パート2」がいきなりの大ヒット。同じ年に発売されたデビュー・アルバム『デスティニーズ・チャイルド』は見事ゴールド・アルバムに(なんとこの時ビヨンセはまだ15才!)。
明けて’99年7月に2nd『ライティングズ・オン・ザ・ウォール/The Writing’s On The Wall』を発表。今をときめくシェイクスピア、ロドニー・ジャーキンス、ティンバランド等の豪華プロデューサー陣を迎えながら、鮮烈なヴォーカル・スタイルと斬新なサウンドを打ち出した作品となった。アルバムからの1stシングル「ビルズ・ビルズ・ビルズ」は、瞬く間にビルボードHOT 100シングル・チャートで1位を獲得(R&Bチャート9週連続1位)、アルバムも発売週に6位に飛び込んだ。続く「バガブー」もR&Bチャート1位を記録。まさに成功の階段を着実に登っている最中、ラターヴィアとラトーヤの二人が突然グループから脱退、新たにミッシェルとファラの2人が新たに加わった。

そんなメンバー・チェンジも彼女達の成功には全く影響を及ぼすことはなく、3rdシングル「セイ・マイ・ネーム」はビルボードHOT100チャートで1位となりその年を代表する大ヒット曲に。ビヨンセ自らがプロデュースした4th「ジャンピン・ジャンピン」もR&Bチャート1位を獲得。2000年7月、加わったばかりのファラがやはり脱退、3人で新生デスティニーズ・チャイルドとして新たなスタートを切ることになる。その後も快進撃は続き、映画『チャーリーズ・エンジェル』主題歌「インディペンデント・ウーマン パート1」がビルボードHOT100チャートで11週連続1位という記録を打ち立てる(ギネスブックに掲載)。2001年はグラミー賞2冠達成を始め数々の主要音楽賞制覇、『ライティングズ~』の全世界でのセールスが1,100万枚を越え、全世界No.1の女性グループとしての地位を確立。中でもビヨンセは新時代のセックス・シンボル、トレンド・リーダー、アーティストとして老若男女問わずリスペクトされるカリスマ的な人気を集める。

そして2001年4月、期待の3rdアルバム『サヴァイヴァー/Survivor』を発売。予想を上回る爆発的なセールスでのスタートで、アメリカ、イギリスを始め10カ国以上でアルバム・チャート1位を獲得。先行シングル「サヴァイヴァー」(全米シングル・チャート2位)、続く「ブーティリシャス」(全米シングル・チャート1位)、「エモーション」とリリースする全てのシングルが大ヒット、ここ日本でもいまだセールスの衰えない驚異的なロング・ヒットに。ビヨンセは同時にMTVによる世界初ヒップホップ・オペラ・ムーヴィー『カルメン』に主演、その美貌と演技力で女優としても高い評価を受ける。休む間もなく10月にはデスチャ初のクリスマス・アルバム『8デイズ・オブ・クリスマス』をリリース。U2ボノが音頭をとったオールスター・チャリティ・シングル「ホワッツ・ゴーイン・オン」にも参加。まさに2001年を代表するアーティストとして強烈に印象付けた。

2002年となってもその勢いは増すばかり。ビヨンセが映画『オースティン・パワーズ』3代目ヒロインに抜擢、撮影開始。並行してデスチャとしても2月には2年連続となるグラミー2冠!3月リミックス・ベスト『This Is The Remix』リリース、4月にはミッシェルのソロ・アルバムがリリースとなった。5月(8-11)には遂に日本で本格的なアリーナ公演が実現、その強力なパフォーマンスで35,000人以上の観衆をノックアウト。その来日公演にも参加したビヨンセの15才となる妹ソランジュも夏にデビューを予定。


2004年には4thアルバム『デスティニー・フルフィルド(Destiny Fulfilled)』をリリース。『Lose My Breath』、『Soldier』、『Girl』などのヒットシングルを出していた。そういった中での突然の衝撃的な解散。これからのソロ活動に期待です。


>>>現在「洋楽をカラオケで歌ってやろうぜ」の改良版を準備中です!!今までの内容を踏まえながら、よ

   り良いものになるよう作っているところです。また、新コーナーも検討中!皆様からの希望もあれば検

   討いたします。日々更なる進化の構想を練っています。楽しみにしておいてください!!

   




洋楽紹介 ~シンプル・プラン~

simple plan


グリーンデイのフォローワーとして「パンク第3世代」の筆頭にあげられることの多いシンプル・プラン(Simple Plan)です。

「初めての人にお勧めの洋楽」 で少し紹介したのですが、その後まったく紹介いていなかったので、ここできちんと紹介しておきましょう。


メンバーは

 ピエール・ブーヴィエ(ヴォーカル)

 チャック・コモー(ドラム)

 デヴィッド・デロシアーズ(ベース、バッキングヴォーカル)

 セバスチャン・ルフェーヴル(ギター、バッキングヴォーカル)

 ジェフ・スティンコ(リードギター)

simple plan3

(左から、ジェフ、セバスチャン、ピエール、デヴィッド、チャック)

のカナダ、モントリオ-ル出身の5人組。



1990年半ば、当時13歳だったドラムのチャックとシンガーのピエールが、”リセット”というパンク・バンドを結成。リセットは’97年に1枚アルバムをリリースしたが、翌年、チャックは学業に専念するためにバンドを脱退。しかし、チャックは直ぐに音楽活動に引き戻され、高校時代からの友人である、ギターのジェフ、セバスチャンと新しいバンドを結成。ヴォーカルとベースを探していたとある日、シュガー・レイのモントリオール公演でピエールと再会し、ピエールはリセットを辞めて、この新しいバンドにジョインすることになった。
最初はピエールがヴォーカルとベースを兼任していたのだが、ライヴで自由に動きまわれるヴォーカリストになるために、ベーシストとして、脱退したピエールの後釜として”リセット”に加わっていたベーシスト兼シンガーだったデヴィッドを招き入れた。
こうしてシンプル・プランは正式に活動をスタートさせ、デビュー・アルバム『俺達★シンプル・プラン(原題:"NO PADS,NO HELMETS・・・JUST BALLS")』を2002年にLAVA/Atlantic レコーズからリリース。全世界で200万枚以上のアルバム売上を記録したほか、「アイ・ドゥ・エニシング」、「アディクティッド」そして「パーフェクト」といったTOP10ヒットシングルを次々と生み出した。
更にシンプル・プランは2003年にはMTVのビデオ・ミュージック・アウォードで「ベスト・ニュー・アーティスト」にノミネートされた他、2003年&2004年のマッチ・ミュージック(※カナダの音楽専門チャンネル):ピープルズ・チョイス・アウォードを受賞。シュガー・レイ、ランシド、エアロスミス等とも同じステージに立ち、3年連続でワープド・ツアーにも参加した(内2年はヘッド・ライナー)。
日本へは2002年9月にJapan Tour(東京、大阪、名古屋、福岡、札幌)で初来日、2003年5月にはアヴリル・ラヴィーンのJapan Tourのサポート・アクトとして再来日を果たしている。
そして今年待望のセカンド・アルバム『Still Not Getting Any』をリリース。『Welcome To My Life』や『Shut Up!』、『Untitled』などのすばらしいナンバーがシングルカットされている。


彼らの音楽は、しばしばパンクか否かという議論の種になります。人それぞれによって結論はちがうでしょう。しかし、そんなことは彼らにとってはどうでもいいことなのです。彼らはただいい音楽を作ろうとしているだけなのですから。


公式ページはこちら   

オアシスの補足

以前このブログでオアシス を紹介しました。でも大事なところで細かいことを紹介し忘れていたので、改めてノエルのインタビューの言葉を交えて紹介しておきましょう。(僕がインタビューしたわけではないですよ。もちろん。)


オアシスはメインヴォーカルはリアムなのですが、ノエルもヴォーカルをしています。

ノエルは単にバックヴォーカルというだけでなく、実際に自分がメインで歌っている曲も結構あります。

どういうときに歌いわけているかというと、

「リアムは面倒くさがりだから、時々俺が歌わなくちゃいけないのさ。それにあいつは強弱の強い曲はうまく歌えないから、そういう時は俺に歌ってくれって頼むんだよ」

とノエルはいっています。

『Little By Little』などの曲をノエルが歌っていますし、ニューアルバム『Don't Believe The Trurh』では今までのアルバムよりたくさんノエルが歌っています。どうやら、ニューアルバムでは自分が作った曲はほとんど自分で歌っているんだそうです。ノエルは昔と比べて格段に歌がうまくなり、「俺はリアムよりもずっといいシンガーだと思ってるんだよ」なんていっています。


またノエルは、「オリジナルメンバーはギャラガー兄弟二人だけになって、結局このバンドはギャラガー兄弟のものだと思いますか」という質問に答えて、
「俺のバンドだよ。俺が曲を書いて、俺が演奏してるんだ。このバンドは俺のものだ。あのね、実は俺は94年にこんな計画を思いついたんだ。いつかリアムをこのバンドから追放してやるのさ。あいつも、これからはたくさん曲を書くかもしれないし、そうなればほかのバンドが必要になるかもしれないしな。そうなれば、このバンドは完璧に俺のものだ。」


曲を書くようになったリアム。曲を書き始めたいきさつについては、

「ギターをなんとなくいじり始めたのがきっかけさ。なんとなくいじっているうちに曲らしきものが出来てきて、それから曲を書き始めたんだ。(ノエルは教えてくれなかったんですか?)ノエルは何にも教えちゃくれないさ。小さいころから言われてることのひとつに『自分で出来ないことは、最初からやるな』っていうのがあってね。まあ、こいつはいわばギャラガ-家の家訓みたいなものなんだよ。」

ということだそうです。普段は凶暴な感じのリアムですが、曲は意外と繊細。それについては、

「俺の中にも繊細な部分はあるさ。それに女の人の考え方みたいなものは、いろんな女性と付き合ってきたからわかるんだ。」 

というようなことをいっていました。けれども、

「俺ってソングライターとしては全然進歩してないなー。いつもアンディーとゲムの手を借りないと出来ないんだよ。特に歌詞がなー。いい言葉がなかなか見つからないんだよなー。」

とコメントしています。


最後にノエルは「このバンドで最も欠かせない要素は何か」ときかれて、こう言っています。

「それはリアムだ。あいつが歌うとどんな曲だって『オアシス流』になるんだ。」

え?矛盾してるじゃないかって?そういうところがいかにも「オアシス流」なのです。

洋楽紹介 ~バックストリートボーイズ~

BSB


「Backstreet Boys is Back! 」。世間ではそう騒がれています。そうです、あの大人気ボーカルグループバックストリ-トボーイズ(Backstreer Boys) がニューアルバム「Never Gone」を引っさげて完全復活を遂げました。日本でも大人気の彼らを今日は紹介しましょう。


バックストリートボーイズは5人でメンバーは、

ニック(ニコラス・ジーン・カーター)

ニック

ケヴィン(ケヴィン・スコット・リチャードソン)

ケヴィン

ハウィー・D(ハワード・ドゥエイン・ドロー)

ハウィー

A.J.(アレキサンダー・ジェームズ・マックリーン)

AJ

ブライアン(ブライアン・トーマス・リッテレル) 

ブライアン



いとこ同士のケヴィンとブライアンはプロの音楽グループとなることを夢見て共に歌ってきましたが、その夢はほとんど挫折しかけていました。落ち込んだリチャードソンは地元で働き出しますが、そこでプロの俳優、歌手として活動するA.J.、ニック、ハウィーと出会い、親しくなります。リチャードソンは3人の才能に強く惹かれ、何かビッグなことができそうだと考えると、早速ブライアンを彼らに引き合わせます。こうして、バックストリートボーイズは誕生します。デビュー当時はポップスの人気が弱いアメリカでは、ほとんど評価されませんでした。そこでかれらはヨーロッパでプロモーション活動を行います。そして96年にデビューアルバム『Backstreet Boys』がドイツで1位になると、その人気はヨーロッパ全域に伝わります。続く2nd『Backstreet's Back』(97年)で、その人気が「逆輸入」という形でアメリカでもヒット。こうして彼らは世界中にファンを持つボーカルグループとなったのです。3rd『Millennium』(99年)、4th『Black&Blue』(00年)のあと、バンドとしての新しい正式な活動がなかった彼らですが、今回レコード会社との問題、メンバーの薬物中毒からのリハビリ、飲酒運転、逮捕など様々な障害を乗り越えて5th『Never Gone』で完全復活を遂げました。現在『Never Gone』からの1stシングル『Incomplete』がヒット中です。ニックは「僕たちはいろいろな苦難を経験した。メンバーの中には結婚したものもいる。僕たちはいま純粋に音楽で勝負すべき時なんだ。」と語っています。


もっと知りたい方はこちら もどうぞ


BSB2

洋楽紹介 ~リンキン・パーク~

久しぶりの洋楽紹介です。今回紹介するのは、僕も大好きな世界で最もクールなロックバンドリンキン・パーク(Linkin Park)!彼らの名前もまた、洋楽を知る知らんに関わらずよく知られています。ロックの新境地を開いた6人について紹介しましょう。


メンバーは

チェスター・ベニングトン(VO)
chester

 

マイク・シノダ(VO)
mike  


ブラッド・デルソン(G)
brad


ロブ・ボードン(Dr)
rob


フェニックス(B)
phenix


ジョー・ハーン(DJ)
harn


の6人です。


同じ高校の友人だったマイクとブラッドが、同じ学校のロブと絵画学校に通っていたDJのジョゼフを誘ってバンドを結成。96年ごろから「ハイブリッド・セオリー」という名前で活動し、2年後にチェスターが加入しました。チェスターの独特なリッチでパワフルなヴォーカルはすぐにマイクのストリートスタイルのMCとぴったり合い、その求心力のあるスタイルとすぐに覚えやすい曲で注目を集めます。彼らは、ロサンゼルスの名高いWhiskyでの最初のショウの後、まずは音楽出版社からオファーを受けます。その後リンキン・パークはいくつかのショウケースを経験し、ワーナー・ブロス・レコードと契約を結びます。そしてプロデューサーのドン・ギルモアと共にアルバムの制作に取り掛かかります。こうして完成し2000年に出されたデビューアルバム『ハイブリッド・セオリー(HYBRID THEORY)』は全世界で1500万枚を売る大ヒット。彼らは2002年のグラミー賞でベスト・ハード・ロック・パフォーマンス賞を受賞します。また、1stリリース後にはオリジナルメンバーで、一時期バンドを離れていたフェニックスが復帰します。2002年には『ハイブリッド・セオリー』のリミックス盤となる『リアニメーション(Reanimation)』をリリース。2003年には2ndアルバム『メテオラ(Meteora)』をリリース。こちらも全世界で1000万枚以上という記録的なヒットとなっている。また2005年にはラッパーのJay-Zとマッシュアップ(互いの楽曲をつなぎ合わせ新しい楽曲を作ること)した『コリジョン・コース(Collision Course)』をリリースしています。


彼らのサウンドはロック、ヒップホップ、エレクトロニックといった様々なサウンドの要素を取り込んだ斬新なものです。常に今までになかったものを求める彼らの姿勢はロック界に新たな旋風を巻き起こし、彼らはその頂点にいるのです。


公式ページはこちら

公式ではありませんがこちら も面白いのでどうぞ



lp