わたしの子育て | わたしの夢はどこに・・・

わたしの夢はどこに・・・

私ってなに?本当にGIDなんだろうか?まだまだ彷徨っています。
その中で多くの方のブログを見させていただいて、いろいろなことを教えていただきました。
このブログは自らの心の整理と、一つの事例として他の方の参考になったらお返しになるかな
と思って開きました。

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昨年の今日、彼女(元奥さん)の依頼で

  以前行った尾瀬の写真を引き伸ばすのに絡んで

  わたしのこども達に対する想いを少し振り返ったのですが

  Amebaさんのお節介に乗って、少し視点を変えて

  わたしの子育てについて思っていたこと、そしてやってきたことを

  少し纏めてみます

 

まずわたし自身は、どうしても”子供が欲しい”というわけではなかったのです

  人様より二回りくらい遅くなりましたが

  それでも縁あって結婚し、二人の子供にも巡り合えました(^O^)

    ※ただ上の子はわたし達のレインボウ・ベイビーだったのですが・・・

でも子供が出来る前よりも、さらには結婚する前にでも

  こどもは授かりモノではなく ・・・・ 親の私有物、付属物ではない

    (大きくなって自立できるまでの)預かりモノ

    別人格の一人の独立した個人であると!

  思っていました

 

そのうえで、もし将来結婚することが出来て、子供が出来たのなら

  ①(家族だけでなく、周りの人に)挨拶のできる子

  ②本の好きな子(本が読める子)

  ③(パパ/ママではなく)お父さん、お母さんと(ふだんから)言える子

  この三つだけをこども達に求めようとしました

そうすれば

  自分の考えを持ち、自律できる、自立した人に成れるだろうと(^O^)

 

①の挨拶については

  自分を振り返ってみた時

  決して経済的には恵まれた環境で育ったわけではないのですが

  親の愛情は感じて育ってきたと思っています

ですから

  ”どう子供と付き合ったらよいのか分からない??”

  なんて思ったことはないし

  ”わたしのこども”が出来たことには

  一度たりとも後悔したことはありません

そしてご近所18戸のうち同級生が4人もいて

  学齢の子供も18人もいました

  そうしたご近所環境でしたので

  それぞれのお家に互いに行き来して、時にはご飯をいただいたりしていました

そうした中でのご挨拶はあたりまえのことであり

  ご近所さんとの付き合いはいろいろな形でありました

    ※そういった生い立ちなので、わたしが「勝手にRLE」で住んだ地でも

      4年目くらいからは成り行きでしたが部長の役を引き受け

      出る前の三年ほど役員として自治会に絡んでいました

そういうことで、こども達には家族はもちろんのこと

  顔見知りのご近所さんや、学校だったり、会社と言うような

  自分の生きていく周りの人に対して

  いつでも自分からアプローチして行ける力を身に着けるのに

  構えずに挨拶することの出来る力を養ってほしいな、と思っていたのです

 

もちろん知らない人とだっていいのですヨ(^O^)

  街中ですれ違うすべての人、とまでは言いませんが

  わたしは早朝ウォーキングの時には

  家の周りでは(知らない人とでも)すべての人と

  少し離れた処なら、同じように散歩やランニングしている人とは

  会釈しながら、時には声を掛け合いながら、すれ違ったり、追い越したりしています

  そうした中で、見ず知らずの相手からあいさつされることも多いのです(^O^;)

こども達にも他の人とコミュニケーションを取るのに

  知らない人とも、構えずに、気軽にコンタクトが取りあえるようになると

  いいなぁ~と思っています

 

②の本好きについては

  わたしは小学生の頃、父が毎月一冊買ってきてくれる少年少女世界名作全集が

  とっても待ち遠しく、何度も読み返していました

  そして買ってもらった子供百科事典を引くのではなく、読んでいました

その積み重ねが、わたしの学力の原資だと思っています

  本が好きになって、本を読む力があれば、ひとりでに学力が付くとは言いませんが

  勉強をする力が付くというか、勉強の仕方が分かるのだと思っています

そういうことで、こども達には本が読めるようにと

  全四巻からなる一年365日の物語集を

  夕食を摂って、二人のこども達と一緒にお風呂に入り

  それから毎日読み聞かせしていました・・・・結局三年ほど毎晩繰り返しました

    ※子の読み聞かせが終わってからが、わたしのお仕事の時間でした

      過去に何回か書いていますが、週4日以上は夕飯を共にしていました

本が読めるということは

  文意を理解して、記憶して、流れを組み立てて、物語が楽しめるから

  文系だけでなく、理系に行くにしても、文意の理解力が学力の基本

その結果か、こども達も小学生の内はクラスでもトップクラスの読書量で

  大きくなってからは自分で好きな本が買えるようにと

  (お母さんに吸い上げられないためにも)お年玉は図書カードを渡していました

それだけで、わたしはこども達に一度も「勉強せい!」とは一度も言わなかったけれど

  そして必ずしもTOP校と言うわけではないけれど

  わたしからしたら全然勉強しないのに

  なんとか高校に行き、最終的には親の希望通り大学まで行ってくれました

これは”いい大学に行って、いい会社に入る”ためではなく

  自分が経験して”とても素敵だと思ったあの四年間を経験してもらう”ため!

  もちろんその結果としての「学卒」という

  実力主義という土俵に上がるためのパスポートを得るためと言うこともありますが・・・

  そして、好きなことをやれる選択肢を広げるため!

 

もちろん”自分”という圧倒的に他を圧倒できるだけの力があるのであれば

  学歴なんていうものは気にする必要もないのですが

  多くの人にとっては(特に社会に出る前の若者は)

  学歴と言うタグがないと

  そのタグを持っている人以上の努力が求められる現実があるのです

  そのことが”良い/悪い”ではなく

  学校を出てから半世紀近く会社に属して働いてきた一人の社会人の実感です(^O^;)

 

そして最後の③父母の呼称は前二つとは少し異質ですが

  自分の経験で、小さい頃から「お父ちゃん、お母ちゃん」と言っていたのが

  中学に上がるころになって、いつまでも「お父ちゃん、お母ちゃん」じゃないよなぁ~

  と思いつつも、なかなか切り替えるのが恥ずかしかったりして

  切り替えるのが、なかなか難しかったのです

それでこども達には端から「お父さん、お母さん」一本で

  幼児の頃から一切うちでは「パパ、ママ」は使わないようにしました

  幼児の内は喃語と言って

  幼児の発声が一音から二音そして三音と順次伸びていくのですが

  その過程の中で、”papa"とか"mama"と言った音の繋がりが出ることがあります

  普通だとこの時に「あっ、パパと言った」「ママと言った」と喜ぶのでしょうが

  うちではそういう意味で言葉を使うことがないので

  それはただ単に偶然に音が出たというだけということで喜ぶことはありませんでした

ということで、うちの子ども達は端から「お父さん」「お母さん」だけで

  大きくなってから、その時の気分というか状況でいろいろ使い分けますが

  なにも意識しないで発せられる言葉はいまでも「お父さん」「お母さん」です

    ※でも今日上の子からのLINEで

      「今日か?とちょっと疑問もありつつ・・・」「ありがとう」と!

      最初なにかな??と思ったのですが

      ”今日は父の日”

      ああ”父”を気にしてくれたのね・・・と(^O^)

      そのことに感謝しつつも

      「お母さんは〇〇〇さんひとり、どこまで行ってもわたしはお父さん」と

      昔「勝手にRLE」で家を出ようとした時に上の子に伝えたこと

      改めて伝えました

      それに対して「覚えているよ~」

      「いつも味方でいてくれて、まず否定せずに肯定してありがとう」と

      わたしの想いがストレートに伝わっていることが分かって

      本当にうれしいです(^O^)/

 

そうしたわけで、幼児の頃からこども達とはしょっちゅう触れ合っていました

  お仕事でお客様の処に行く時も、公園を見つければ、あるのを知れば

  必ず寄って遊具なんかを確認しては

  こども達をあちこちと連れて行きました

そのことはこども達も覚えてくれていて

  大きくなってから「お父さんあちこちの公園を見つけてきてくれたものね」と

  言っていました

そんなこんなで、家の子ども達は幼児の頃からわたしと二人でいることも気にせず

  おしめをしている頃でも、上の子も下の子も

  (当時は名古屋に居ましたが)わたしと二人で横浜の実家にお泊りにも行きましたし

  こども達のディズニーデビュー

  上が年長さんで下が年少さんの時に、わたしと三人だけで二泊して行ってきました

 

少し大きくなって二人ともDSでポケモンゲームにはまっていた時には

  充電器をタイマーに繋いで20時から24時の間だけしか充電できないようにして

  その間はゲームを閉じて充電しなければ使えないように規制しました

  そしてケーブルを直結すればタイマーが関係なくなることをこども達が分かっても

  わたしは”子供たちが抜け道を知ったこと”を知らないふりしていたりしました(^O^;)

そしてWiiが発売された時には、朝四時起きして何度も列に並んだり

  最終的には抽選をわたしが引き当ててGETしました

  そのあたりの時のこともこども達は覚えてくれています(^O^)

 

それから小中学校には年に何回か授業参観がありましたが

  そのほとんどにはお母さんはもちろんですが、わたしも顔を出していました

  特に小学校では

  当時の校長先生が「いつでもいらしてください」という考えの方だったので

  わたしは授業参観日には、お弁当を持って一日学校に行っていました

当然既定の授業参観は(学年で多少のズレはあるものの)ある一校時なのですが

  一校時だけ見ていても、なかなか実態は見えないものです(^O^;)

  それでわたしはこどもが二人いるので多少は動きながらですが

  一日じっくりと授業参観していました・・・・ただ単に後方で見学しているだけですが!

  ある時からは先生からのお招きで、こども達と一緒にお昼もいただきました

おかげさまでこども達が高学年になってくると

  わたしが教室に行くと

  「あっ、〇〇〇ちゃんのお父さん!」

  「〇〇〇ちゃんは✖✖にいるよ!」と教えてくれたりしていました(^O^)

そして、やはり一日居るから

  わかる、見えてくるものがあったのも事実でした

  子供達よりも、先生の方がいやだったでしょうね・・・

 

上でも書きましたが

  わたしは経済的には裕福でない家庭で育ちましたので・・・世の中もそうでしたが!

  ほとんど何も経験したことはなかったし

  旅行も毎年の夏休みに母の田舎に一週間ほど行くだけでした

ですからこども達には

  わたしが、それなりの年齢になってからの子育てだったこともあり

  多少のゆとりは合ったので、出来るだけの経験はさせてあげようとしました

わたしは(帰省以外の)旅行も、スキーはもちろん、テニスにアーチェリー、ダイビング

  車にオーディオ、PCと、フランス料理なんて大人になって初めてでした(^O^;)

  大人になってからのテーブルマナーなんて(ある意味バイキングも)

  とっても気おくれがするものです

それでそれぞれの10歳の誕生日には1/2成人式ということで

  上の子の時には、地元のフランス料理店で

  下の子の時には、ホテル志摩スペイン村でフルコースをいただきました

  そして地元の青年会議所が主催していた少年の船でふじ丸にも二人で乗せてあげました

さらにはスキー辺地のこの地でスキーをやっている子は少ないのですが

  こども達が学齢前に、わざわざ北信のスキー場をGWに何か所も回って

  ”うちのホームゲレンデ”を探しました・・・・木島平スキー場

  このスキー場には、わたしが家を出るまで毎年お正月に一週間くらい滞在し

  それ以外にも二月の連休には苗場なりトマムに出かけていました

上の子はいろいろなことをそれなりに器用にこなし

  バタフライなんかもきれいに泳げ、ピアノもクラス対抗の合唱大会で弾いちゃったりします

  でも下の子はわたしの子(^O^;)

  スキー教室で一日二日行ったって滑られるわけがない

  学校の授業ではなく、遊びとして楽しく覚えなくちゃ!それも時間かけて・・・

結果中学二年のスキー教室の時

  やんちゃなのが下の子にチヨッかいかけてきたようですが

  下の子は簡単に流して「雪の上で10年早いわ!」と言ってやったと言っていました

  十年来の読み大当たりです(^O^)

 

そして上の子が大学に入る時

  第一志望校に合格はしたものの

  行かないで来年もう一度受験して別の大学に行く、と言い出したのです

わたしも、上の子の性格ではもう一年受験する熱意を維持できるか不安だったし

  再度入試を受けて合格するのは難しいだろうな、とは思っていて

  受かった第一志望校に行って欲しいと思い、その想いも伝えはしました

なぜ行きたくないのかは、いろいろと聞いたのですが

  結局は教えてもらえませんでした(*_*;

でもわたしの想いは想いとして

  養護の先生からは「お父さんは〇〇〇さんの言いなりなんだから」と言われても

  たとえ上の子を擁護するのがわたし一人であっても

  上の子の想いを肯定してあげられる人でありたいな、と思っています

結果としては、お母さんや先生の言うことを聞いて

  来年再受験するにしても、取り敢えずは合格した学校に行くことになったのですが

  わたしは、上の子がその決断をしたことに安どするとともに

  最悪のことも覚悟して送り出しました

 

人生は常に選択選択、判断判断の連続なのですが

  その選択が、しなかった選択の方がよりよかったかもしれないけれど

  少なくとも”選択した方も悪くはなかったよね”と思えるようになりたいし

  最低限、その選択した自分を否定することは、して欲しくないと思っています

  そう思える人に育って欲しいと思っています

 

それでも自分の生き方なら、それなりにどんな結果でも自分を納められるのですが

  これが子供のこととなると

  いつでもこれで良かったのか、と悩みは尽きません(*_*;

こどもの想いを大切にするということと

  こどもの我儘を正すこと

  どう線引きするのかは、いつも悩んでいます

  それでもその時その時で精一杯考えて

  ”その時に一番よい”と思ったこととをやっていくしかないのですが・・・

 

こんな親ですが

  今でもこども達はわたしとの交流を続けてくれています

  最低限でも親にはなれているのかな・・・

 

 

それからわたしのことですが

  わたしが最初の会社の入社が決まって、その会社から

  親会社のヨーロッパ本社を訪れる研修旅行のお話がありました

  もちろ新入社員全員必須というのではなく希望者のみで・・・当然、後の考課にも無関係

  旅行費用も入社後に給与からの返還と言うことでした

それでわたしも行きたいなと思って

  父に取り敢えずは軽くお伺いを立てたのですが

  その時は「行ってもよい」とのことだったのです・・・わたしはそう感じた

  でも最終的にしっかりとした申し込みをしなければいけない時期になると

  「ダメだ!」と言うことになりました(>_<)

  それまでに行く気満々になっていたわたしはとっても落ち込んで

  家出する気で友の処に飛び込んじゃいました

  でも友に説得され、友に伴われて直ぐに家に戻って

  プチ家出にもならなかったのですが・・・

もちろん、なぜ父が反対したのかは分かるのです

  当時は(後で知ったのですが)海外に行くのにある程度の口座残高がなければならず

  さらには今まで旅行もしたことのないわたしには

  スーツケース始め、いろいろなものを用意しなければならず

  単に旅行代金を後で給与で払えばよい、と言うことではないのですよね!

でもそれなら最初から理由を説明して反対すればよのです

  途中で前言撤回されたことに、わたしはひどく傷ついたのです

  その後も父との付き合いは、特に距離を置くとか、避けるとかはなかったし

  全体的には(職人の先達としても)好きでした

  それでも父が亡くなった今でも、わたしには拭い去れないものとして残っています

  多分父はそのことは知らないと思います

 

わたしはこのことは意識して、大きなポイントとして心に留めています

  ”一度発した言葉の重み”

  その場を逃れるための想いもない言葉は発しないように心しています

  当然それは子育ての場においても!

下の子は、このあたりの感覚はとっても色濃く引き継いでいます(^O^;)

  わたしも下の子に「言葉が軽いんだから!」と言われないようにしないとね・・・

 

 

 

そしてわたしは

  ”子育てを通して親になる”のだと思っていますので

  よろしかったら

  こちらもどうぞ(^O^)