以前のブログで、一度「勝手にRLE」で家を出た時のことを
いつか書いてみます、と言っていたので
今日少し振り替えてみます
その前年2011年は、結婚20年目だったので
こども達二人(当時小学生)も含めた家族四人で富士山に登ろうと
さらにその前年の夏休みに、富士登山の予行演習として
東北地方の最高峰燧岳に登るために、尾瀬沼&尾瀬ヶ原トレッキングに行ってきました
そうした準備もしていたのですが
その後いろいろあって、わたしの女装がダンダンときつくなってきました(-_-;)
わたしの結婚は、他の人からしたらかなり遅いのですが
それでもまだ性同一性障害なんて言葉はなく(知られていなくて)
ましてや戸籍の性を変えて女性になれる、なんて夢にも思えなかった頃で
お泊りした時に、彼女(元奥さん)には、女装することを伝えたのです
彼女はどう思ったのか(結果としては、その心を読めていなかったのですが・・・)
縁あって結婚することになりました
彼女は、わたしが女装することを積極的に受け入れてくれたわけではないのですが
それでも、わたしがお家で仕事をしている時は自分のお部屋で女装するのは黙認で
「着たら汗が付くから、洗濯機にいれておいて!」とまで言われていたので
わたしが女装するのは、受け入れてもらえているのかな??と思っていたのです
でも子供たちが大きくなってきて
特に上の子が中学生になり、思春期に入ってくると
彼女から「〇〇〇も大きくなってきたし、気がつく様になるから、やめて!」と
さらに「そんな趣味に多くのお金をつぎ込んで」と!
これを聞いて
”ああ、わかってもらえていたのではなかったんだなぁ・・・・”
”結婚したら、(趣味の)女装も収まるのかな”と思っていたんだろうな・・・”
”これ以上は一緒に居てはいけないのかな(-_-;)”
そうすると、離婚をして、こども達とももう会えないことも考えないと!
でもその時は、上の子が高校受験の時
いくらわたしが、わたしの優先順位一番といっても
やはりそこは親
いくら何でも受験の時に余計なことで悩ませても、と
本当にこのまま進んでもいいのか??
自分の気持ちの確認も含めて、上の子の受験が終わるまで
一年間延期しました
その一年の間何もしないのもどうかなぁと
いつかはしなくてはいけないだろう脱毛を始めることにしました
でもどうせ脱毛を始めるのなら、ホルモン接種もできたらしたいなと
地元の美容外科のクリニックでGIDのホルモン注射もしてくれるところがあったので
初めての時には髭の脱毛のみをお願いしたのですが
二回目の時におそるおそるホルモン注射のことをお聞きして
オバホルモン1A/4Wで始めました
この時に、ホルモン接種前のホルモン値を確認する意味で
接種前に血液採取もしていただきました
この美容外科での、フライング接取時においても
半年に一度の血液検査は行っていて
ガイドラインに則ったホルモン接種に移行した時にも
この期間の検査結果を、美容外科の先生から出していただきました
補足ですが、この美容外科
GID治療をHPのメニューにも載せていて
除睾手術まではしてくれるのですが
最初にホルモン注射のお話を聞きに行った時に
「どうせならすぐに取っちゃたら」と言われましたが
それは辞退しました(^O^;)
この一年間で、ほぼ目立つところの脱毛はきれいになったのですが
1A/4Wのホルモン量ではプラシーボ的なことは別として
テストステロン値もE2値も多少の変化はありましたが
目に目るような大きな効果はありませんでした
でも結果論の勝手な素人考えですが
その後の除睾手術やSRS前の一カ月間のホルモン断ちの時にも
ほとんど不具合は出なかったし
日常でも心身とも、ホルモンによると思われる不具合の起きたことがないのは
この期間の緩やかなホルモン接種による身体の慣れが
大きく寄与しているのではないかな、と思っています
でもわたしの乳房は100%天然もののわたし自身ですが
それでもブラはAAからスタートして、今はDカップです(^O^)/
そうは言っても、もう結婚二十年目の富士登山する気もうせ
一年間の間には、おやっ!このまま居てもいかな?と思う時もあったのですが
一年経ったわたしの結論は、やはり”離れる、トランスをはじめる!”でした
離れる、って
それではどこに住む?
当時お母さんと上の子でよくバトルしていたので
時には避難小屋として
場合によっては、わたしの処から一時期的に通ってもいいかな??と
上の子の高校の傍に家を借りることにしました
ただ上の子は公私併願だったので
何カ月も前から不動産屋さんに当たって、現地を確認し
それぞれの高校の近くに予定物件を二か所見繕っておいて
上の子の高校が決まって、四月になってその高校の傍の借家の契約をしました
四月の間、洗濯機や冷蔵庫、それにTV等の家電を新規購入・搬入し
ケーブルTV会社で、CATV&電話&ネットの一括契約したり
こっそりと運び出せるものを少しずつ移しておいて
GWに彼女とこども達二人の三人に集まってもらって
「これから女性として暮らすために、家を出ます」とお話しました
相談ではなく一方的宣言ですね(^O^;)
その時に離婚届も渡したのですが
実際に離婚となったのは、わたしの解明が通って
健康保険証の被保険者名が新しくなったのが耐えられなくて
そこで離婚となりました
この離婚に先立って、わたしの家の権利を彼女に移しておきました
彼女は「こんな話は、子供に言う前に先ず私とでしょ!」と怒っていましたが
先に言っても、結論が先延ばしになるだけ
それに子供たちに正しく、わたしの口から伝えたかったのです
それでも上の子は
言葉の端々から一生懸命わたしのことを理解しようとしていることが感じられ
「これから(お父さんを)なんて呼んだらいい?」と言ってきたので
「わたしはこれまでも、これからも、お父さんだから
お父さんでいいよ!」とお返事しました
言葉遊びかもしれないけれど
わたしは親にはなろうとしたけれど、父親になろうとはしなかった
でも、こども達にとって、彼女はお母さんで、わたしは紛れもなくお父さんなのだから!
それは(法律的に)女性になったとしても
わたしがこども達のお父さんであることは、これからも変わらないのだから(^O^;)
そして、そこからわたしの「勝手にRLE」スタートしたのでした
GWの間、上の子や下の子に手伝ってもらって
一人では運べないものを移したりして
なんとか暮らすことは出来るようになりました
その後も少しずつわたしの荷物を運び出すために
なんども向こうの家に行きましたし
なんとその年の夏に、初めてというくらいの台風直撃受けて
ベランダの雨除け用にわたしが組んだ屋根が飛びそうと電話が入って救援に向かったり
声をかけてもらって、家族?四人で一緒に旅行に行ったりしていました
その後のことは、翌年からのブログに適宜「家族かな?」というテーマであげています
それも、わたしのトランスが一通り終わり
ちょうどそんな時期に彼女のご両親も続けて亡くなって
同じ敷地内のご両親が住んでいた家が空いたので
(彼女の口実とは思うのですが)
彼女の「二軒の家をお守りするのが大変なので隣の家に入らない?」との誘いがありました
少し離れた距離だから、それなりにうまく付き合ってこられたのかな
と思っていたので
これが家は違うとは言っても同じ敷地の隣の家だと、これからもうまくやっていけるかなと
心配ではあたったのですが
これから子供たちも社会人になって、本当に巣立っていくのに
しばらくは親のことは心配しなくてもいいように
親は親同士で、すぐ隣りで面倒見合っているならば
子供たちも、それぞれが自分の想う通りに生きて行ってくれればいいかな、と
7年半に渡ったわたしの「勝手にRLE」も終えることにしました