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センテンスサワー

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慶弔見舞金って、こんなに高いんだなと思いながら、しぶしぶ渡した。

 

今月だけで、慶事弔事の費用が十万以上かかり、財布と相談する余裕すらなく、それは慣例にしたがわざるおえないのである。

 

お金よりも気持ちが大切であると、心にない言葉で正当化を試みようとする人はたくさんいる。しかし、結局は数値化できない気持ちという尺度よりも、お金で関係性のパラメーターを数値化したほうが効率がいいのかもしれない。

 

ぼくはまだ三十代のため、これくらいの費用で収まっていると思うのだが、歳を重ねていくごとに慶事弔事にかかる費用が膨らんでいくのではないかと懸念してしまう。

 

今後も給料が右肩上がりであると約束されていれば、躊躇わずにもってけドロボーの精神で支払えるのだが、ぼくら世代の将来にそのような保証など毛頭なく、人工オーナスの影響で経済成長など見込めず、もはや破綻するのではと、喜びや悲しみを超越して複雑な感情が芽生えるのである。

 

 

そもそも相場はいつ頃に決まったのか。

 

時代によって、変動することはないのか。

 

個人個人の経済状況によって、配慮いただけないのか。

 

今後、参加したいけれどお金がないから参加することを断る人が増えてくると思う。

 

喜びお祝いし、悲しみ弔いする。

 

それだけでいいはずなのに、経済の一部に組み込まれて、透明性のないお金が回っているように思う。

 

近い将来、冠婚葬祭破綻が、ぼくらの大きな壁として眼前に出現するであろう。

まつもと犬のPR期間が終了し、新企画が発表された。その名は「FREEZE」。氷の塔に集結した参加者が、襲ってくる数々の仕掛けにリアクションすることなく耐え続けるという内容である。少しでも動いたと判断された者から脱落していき、最後まで残ったひとりが優勝賞金を獲得することになる。

 

第一回の収録後に松本は「笑いというのは、緊張と緩和から生まれるものだと思いますが、今回の企画はその最たるものかもしれません」と語ったそうだ。緊張と緩和とは、いわゆる笑いのテクニックのひとつとされおり、簡単に説明すると以下のようになる。

 

緊張とは、思考や感情が外的要因によって支配されてしまい、その影響下の中で特別なことを待ち受けている状態のことである。そして緩和とは、期待していたものとは違う特別なことが提示されたために、不安定な状態が弛緩されることになる。その過程で、不快な状態(緊張)から解放され、快楽(=笑い)を得られるとされている。

 

説明するまでもないが、今回の企画では、松本の「FREEZE」という一言で、参加者は身動きを封じられ、緊張された状態を作り出しているのである。そしてその状態を利用し、様々なアプローチで緩和を狙ってくるのだろうが、それはまさに身体に訴えかける笑いといってもいいだろう。

 

桂枝雀氏は、緊張と緩和の理論を、身体に訴えかける笑いと位置づける。身体がどのような状態になったときに「笑う」という状況になるのかを導き出し、それは人間の生理的な現象にこそ、笑いに近い位置に存在すると結論づけている。生理的な現象とは、つまり、身体に訴えかける現象といえる。「FREEZE」で生み出された環境こそ、合目的的に笑いを取るための確かな手段だといえるのである。

 

 

そこから敷衍して考えると、「FREEZE」は世界に最も通用する笑いの可能性を秘めているといえる。どいうことかというと、それは言語を必要としない笑いだからである。言語を必要としないというのは、言いかえると、文脈に依存しない笑いだといえる。つまり、日本人的なノリを理解していなくとも、笑いが生まれる可能性があるのである。たとえば、風刺という社会を茶化す笑いであれば、それは社会のルールや流行などを知っておく必要があり、それを知らなければ可笑しみを得る可能性が低くなる。つまり、言語とは、共有された概念の抽象化された記号に過ぎず、それを共有されていなければ、ただの音(シニフィアン)でしかないのである。

 

以前、ぼくはドキュメンタルを分析した際、初期化することの重要性を説いた。それは、すべての条件を取っ払うことで、純粋な笑い(純度なの高い笑い)を追求することが可能となるからである。秩序なき世界(=グロテスクリアリズム的)で、果てしなき戯れの果てで、生み出される笑いの純度の高さに、ぼくは普遍性を感じたのである。

 

だが、今回は、究極な条件を付与することで、違うアプローチから、普遍的な笑いを追求していると思う。それは、ベルクソン的にいうと、機械的な笑いとしての可笑しみである。どういうことかというと、「FREEZE」させるとは、人間性の機能不全を意味し、人間としてのらしさを奪うことを意味するからである。精神分析学者のエリック・ スマジャの言葉を借りるならば、「(笑いを誘うのは)人として注意深い順応力と活発な柔軟性があって欲しいところに、いわば機械のようなぎこちなさがみられるからだ」ということである。

 

機械化された身体に訴えかけることで生まれる笑いこそ、すべての文脈を破棄した普遍的な笑いなのではないだろうか。それを確かめるには、「FREEZE」を見ることしかないのである。

 

 

放送室という番組で松本人志は、「自分のファンの前で笑いを取るのは簡単である」と語り、「自分を知らない人との前で笑いを取らなければ意味がない」と語っていた。それはある意味、初期化された状態で笑いを取ることの重要性を意味する。松本人志というバイアスのかかった状態では、本来伝えたかった笑いの仕方とは異なり、いい意味でも悪い意味でも、笑いとしての濃度は下がってしまう恐れがある。それは以前、松本人志論のなかで散々説明した幻想というのが関係してくるのだが、それは過去のブログを参照いただければと思う。当時の松本人志は、そのバイアスのかかった環境を捨て、違うステージを模索している状態が続いていたのである。

 

そしてここにきてやっと松本人志は自身の求めていた環境を見つけたのだと思う。それは、「ドキュメンタル」であり、「FREEZE」であり、アマゾンプライムビデオという新たなプラットフォームなのである。松本人志を知らない人々(世界)に向けられた新たな試みを可能にし、身体に訴えかける普遍的な笑いとなりうる可能性を秘めた笑いをもって、松本人志はいまなお新たな試みを続けているのである。「世界よ、震えテロ。」と心のなかで松本人志が叫んでいるのが、ぼくには聞こえてくる。

 

 

 

 

最後に

 

これまで、松本人志論を書いてきたが、今思えば、松本信者論だったと気づいた。そして、信者というよりも、松本主義者と名のるほうが、かっこいいのではと思ったりしている。松本イズムの継承者が、いまのお笑い界を支えているのだから、今後はそのように呼ばしていただくとするが、ぼくは、お笑い界を支えていないから、松本信者でしかないと、さみしげに思ったりもする。

 

 

 

 

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渋谷にはたくさんのホームレスが生活している。いや、それは生活しているとは言えないのかもしれない。ただ、そこにいるだけ。

 

物乞いをする人もいるし、徘徊している人もいるし、ガラクタを集めている人もいる。彼らは、自己主張せず、たんたんと死なない工夫をしながら、ただ生きているのである。

 

そんな彼らに、ぼくを含めて、誰も手を差し伸べたりしない。なんとかしてあげたいと、一瞬だけ思うときもあるが、それは憐れみと化す前に消えてしまうのである。

 

 

ぼくらは、他者に憐れみを抱くことで、手助けしてやりたい、なんとかしてあげたいと思う。それが、社会を形成するうえで、とても大切なことなのである。

 

福沢諭吉は、当時、社会という概念が存在しないなかで、ソーシャルという言葉を人間交際と訳した。人と人の交わり、それこそが社会の本質であると。

 

ぼくらは、社会という用意されたプラットフォームが既に存在していて、その一部として、世間があり、社交が機能していると思っているが、実際は逆である。あくまでも社会は、人々が共生していくうえで、名付けられた総称にすぎないのである。

 

 

だが、現在の世の中は、憐れみの向くべき方向性が異なり始めているようにおもう。他者に向けて抱くものが、自己に対して抱いているように思われるのだ。

 

どういうことかというと、上記で説明しているように、他者に対して憐れみを抱くことは、利他的に人々に働きかけることになり、より良い社会を形成するうえで、とても重要なのである。

 

いっぽう、自身に対して憐れみを抱くようになると、嫉妬であったり、疎外されているようにすら感じてしまうのである。自分のほうがかわいそう。なぜ、ぼくがこんな目に合わなければならないのだ。社会は不公平だ。と、様々な自己弁護論を展開し、挙句の果ては、他者を否定するようになってしまう。その行き過ぎた例がヘイトスピーチのようなものである。

 

SNSは、ひねくれた憐れみを可視化したようなものだ。他者への嫉妬を、自身への憐れみに置き換え、それを悟られないように「いいね」ボタンを押下する。そんなもの「核のボタン」と同じである。

 

社会が多様化していくなかで、相関的(相関主義)にものごとを考えることは必要不可欠である。相関的に考えるとは、ぼくにとっての正義とはなにかと判断するのではなく、ぼくと複数の他者にとっての正義とはなにかと判断することである。つまり、利己的に正義を計ろうとしても、いずれそれらはコンフリクトを起こしてしまうため、利他的な行動を起こすことが必要とされるのである。

 

 

家なき人が、己を奮起させて、現状を変えようと思い立つ見込みなどないだろう。誰かが、手を差し伸べないといけない。だが、自身にたいして憐れみを抱いてしまうようになってしまったぼくらには、とうてい無理な話である。情けない話であるが、そんな余裕などない。自業自得だろと心のどこかで思っていたりする。

 

残された道はただひとつ。社会の中心で愛を叫ぶしかない。誰もが振り向き、誰もが立ち止まり、誰もが手を差し伸べてくれるような、そんな愛の言葉を。