松本人志論 松本人志と創造力⑮ | センテンスサワー

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これまでの議論では、狂気性を考察することで、松本人志のカリスマ性について分析を進めてきた。そして、パトグラフィという考え方を参照することで、論理の飛躍はあるにしろ、そのメカニズムを解き明かさそうと試みたしだいである。

 

しかしながら、上記の内容は、あまりにも抽象的で、説明過多になりすぎたこともあり、松本人志との接続が上手く機能しなかったように思う。それらの曖昧さを払拭するためにも、改めてそれらの前提を見直し、前回までに明らかにしたことを一度まとめて次のテーマである「創造力」へと繋げていこうかと思っている。

 

 

さて、それでは狂気性から話を進めていこうと思う。

 

まず、注目した点は、狂気と歴史の関係性についてである。西洋社会では、もともと狂人に対して寛容であり、包摂すらしていた。それは、狂人という存在が、別の世界から来た特別な存在として、歓迎されていたからである。もう少しかみくだいて説明すると、神の使いとして歓待されることで、尊敬される存在であり、一目を置かれる存在とされていたのである。

 

だが、時代の移ろいとともに、彼らは社会から排除されることになる。その原因については、諸説あるのだが、彼らは「理解不能な」人間として扱われるようになり、監禁され、収容されることになってしまう。その後、狂人は、理性そのものを観察する対象となるのだが、精神分析などの医学が発達、弱者を救済するという社会的な動きがあり、様々な要因が関係したことで、狂人を救うための対策が取られはじめるのである。

 

 

他方、西洋社会と比して、日本社会は、狂人に対して寛容であり、受け入れるための土壌があったと分析されている。それは日本の文化や芸能史と深く関係しているのである。

 

例えば、狂言は、社会風刺や社会批判などを通して、狂いの世界を表現された芸能とされている。表現としての「もの狂い」は、哀れみを抱き、また美しさすら感じてしまうような、情緒に訴えかける力があるのである。彼らの演じる狂気には、れっきとした意味があり、それはときに制度や日常性からの逸脱を意味し、そのような社会への抵抗でもあった。

 

娯楽としての側面だけではなく、少なからず学びの機会があったのである。演芸という表現のフィルターを通すことで、民衆は彼らから肯定的な人間像(狂人)を読み取ることが可能となり、狂人を包摂するための環境が整えられるようになったのである。彼らを嘲笑の対象として笑いが起こっているという側面もあるが、他方では愛されるキャラクターとして可笑しみを提供しているのである。

 

現在の日本の演芸において、狂気性は欠かすことができない要素である。漫才やコントでは、今でもそのような登場人物を演じられているし、狂気性のある設定やネタは、主流とされている。とくに、2000年代のお笑いブームでは、キャラ芸人が生産され、その大半は狂気性を感じられるインパクトの強いキャラクターであった。キャラの差別化の行き着いた先は、過激な狂気性を利用することとなり、消費者に対して誘引効果を高めることになったのである。

 

そして、それはその当時のお笑いブームだけではなく、90年代に松本人志の作り出した笑いでも必要とされたことはいうまでもない。ごっつええ感じというコント番組内では、数々の狂人的なキャラクターが生まれた。キャシィ塚本、トカゲのおっさん、おかん、Mr.BATER、半魚人など。作り込まれた笑い(コント)ではあったが、狂気性のあるキャラクターは予測不可能な笑いの可笑しみがあったのである。突然キレたり、女性のキャラであればヒステリーを起こしたりと、多様な狂気性のあるキャラクターが量産され、多様な仕方で狂気的な笑いが生み出されていたのである。

 

 

そして、その原因を探るためにヒントにしたのが、パトグラフィについてである。それは、天才(および狂気性)の創造性や独創性について、精神医学・心理学の観点から研究する方法である。天才の生涯や生き様を考察し、また彼らの心理や無意識の内部までも、分析の対象とされている。そうすることで、創造性のプロセスであったり、天才の思考パターンなどを解明することができるのである。

 

精神科医である斎藤環氏によると、松本人志の気質は分裂気質であると分析している。分裂気質者には、芸術家の分野で能力を発揮する人が多く、その気質はクリエイティブに向いているといえるだろう。

 

だが、松本人志を分裂気質者であるか否かは、あくまでもメディアを通して判断された一面的な側面でしかないだろう。私生活においての松本人志はどのような気質であるのか、それは定かではない。そして、松本人志が自身のラジオで語っていたように、当時の松本は、世間から求められたキャラクターを演じていたとも語っている。つまり、どこからどこまでが、松本人志の気質であるかそこから分析することは難しいように思う。

 

そのため、分析する対象は、松本人志が演じていたキャラクターやコントなどの作品に限られてしまう。また、バラエティ番組での彼の発言や笑いの仕方にヒントがあるだろう。そして、そこから読み取れるように、彼の作品などには分裂気質者としての狂気性が宿っているといっても過言ではないだろう。

 

再度、斎藤環氏の分析を参照させていただくが、彼は「病因論的ドライブ」という概念を提唱している。病因論的ドライブとは、表現者が狂気性の状態ではなかった場合でも、病理性のある他者(他物)と関係することで、表現者の創造活動に影響を与えてしまうということである。つまり、上記の説明に絡めると、松本人志は、彼の取巻きであったり、視聴者やファンとの関係性の中で、異常性を求められたことで、図らずも病因論的ドライブが発動してしまい、そのため、彼の創造性に影響を与えた可能性があるのである。

 

そして、常に狂気的な状態なのではなく、一時的に狂気性を利用することで、笑いを生み出しているという点がとても重要なのである。常に狂気的な状態では、創作活動などできるはずもなく、一般的な感覚は笑いを作る上でとても必要な要素である。松本人志は、その一般的な感覚と、狂気性を使い分けることで、松本人志の世界観を構築し、笑いに結びつけることで大衆性を獲得していったのである。

 

 

 

創造力について

 

ひと通り説明を終えたところで、今回のテーマである「創造力」へと接続していきたいと思う。そもそも創造力を取り上げた理由については、狂気性と深く関わりがあり、前回のブログで取り上げたパトグラフィに関連させると、パトグラフィとは天才に精神医学的な診断を下すことではなく、狂気と創造性の関連構造を分析するための一つのメソッドであるからである。

 

さて、それでは話を進めていこうと思うのだが、創造力とは一体何を意味するものなのか。一般的には、新しいモノや価値を生み出すための能力とされている。この言葉が使われ始めたのは、1951年とされており、その後(1971年以降)、メディアや宣伝広告の分野で頻繁に出現するようになったそうである。それは、仕事の面でクリエイティブというものが求められるようになり、商業的な需要の高まりでもあったのである。

 

一般的に言葉が浸透する以前に、クリエイティブは一部の人に与えられた資質とされていた。だが、現在では、仕事をする人すべてにそれは求められるようになり、創造力自体の認識が変化しつつあると思う。元来、創造力は特定の人物だけに現れる霊的能力であるという考えられていた。そしてそれは、狂気と紙一重の奇妙な人間性だと考えられていたのである。

 

いつしか、普通の人や正気な人でさえ、その特別な能力が求められてしまうそんな時代に変わってしまうのである。それは実際可能なのだろうか。創造力の範囲がどの程度までをさすのかは定かではないが、簡単なモノから複雑なモノ、浅いモノから深いモノ、それらの程度もあると思うが、世の中や社会、仕事の領域にまで、あらゆるモノや事象が細分化されていることもあり、狭い分野においてであれば、小さなクリエイティブであったとしても、機能する可能性は開かれているのかもしれない。

 

 

創造的な退行

 

それでは創造力の過程であったり、どういった経緯でそれが生まれるのか。

 

それについて、精神分析学の創始者であるフロイトは、防衛機制という考え方を提唱し、創造性の契機について分析を試みている。防衛機制とは、抑圧、退行、反動形成などの、受け入れがたい状況、または潜在的な危険な状況に晒された時に、それによる不安を軽減しようとする無意識的な心理的メカニズムである。そして、自我と超自我が本能的衝動をコントロールし、それらを操作することで、夢や妄想などを芸術的な作品として、生み出すことができるのである。

 

そこで、注目したいのが、創造的退行という考え方である。上記で取り上げている「退行」とは、困難な状況や情緒不安定なときに、行動が発達上の初期の状態に戻ること。つまり、現実逃避してしまった結果、幼い状態まで戻ってしまう状態のことである。

 

創造的退行は、その状態が、短期的・一時的な点が特徴であり、その状態を上手く利用することで、子供の頃のような、自由な発想や考え方を獲得することができ、創造的な作品を生み出すことができるとされているのである。

 

以前、松本人志は任天堂のゲームプロデューサーである宮本茂との対談で、如何に幼稚な作品を作るかということの重要性を語っていた。彼は何かを生み出すだけではなく、例えば宮本茂の生み出した作品に求めてしまう条件についても、適度な幼稚さについて示唆している。「如何に幼稚さを取り入れるか、いい意味で幼稚であることが重要です」と繰り返し、松本は語っていた。

 

さまざまなことを学び、経験することで、幼稚さを取り戻すことは難しくなり、その幼稚さを取り入れることがとても重要となってくる。ピカソの絵は子供でも書けそうだ、と誰もが思ったことがあると思う。だが、絵の書き方を学び、技術を積み上げた中で、あの破壊的とも入れる作風を誰もができるわけではない。それは、ピカソの創造的退行からきたインスピレーションであり、芸術家としての戦略的な手法なのである。

 

 

さて、それでは、創造的退行の状態について簡単に説明しようと思う。そのために、必要なのは、無意識と前意識という考え方である。

 

無意識とは、心のなかの「意識でない」領域のことを指す。そして、可動性のエネルギーであり、エスと呼ばれる一次過程とされている。

 

前意識とは、通常は意識に昇らないが、努力すれば意識化できる記憶等が、貯蔵されていると考えられる無意識の中の一部の領域である。そして、拘束されたエネルギーであり、自我と呼ばれる二次過程とされている。

 

ローレンス・キュビーは、無意識の抑圧された混沌とした状態では創造性は発揮されず、前意識の自由で豊かな活動性のみが創造性を生み出すと説明している。そして、日常的な意識的な状態化から開放され、潜在意識の中に入り込み、無意識によって生じる歪曲と妨害から、前意識によって顕在化することが必要としている。前意識体型は、意識体型と無意識体型の両側から圧迫を受けているため、この前意識の強化、つまり創造的退行の状態が重要となるのである。

 

 

妄想について

 

上記にて、創造的退行の状態の重要性について説いたが、その状態で最も重要なのは、妄想であると思う。空想的創造力といってもいいが、妄想の方がより、取り憑かれている狂気的な感じがするため、妄想という括りで考えていきたいと思う。そして、狂気性や分裂気質ととても深い関わりのあるテーマでもあるのである。

 

「フロイトはこう考えた。すべては夢であると。そして人はみな狂人である。言いかえれば、人はみな妄想的なのである」

 

精神分析家のラカンは、上記のように妄想について考察している。狂気と正気は表裏一体であることは以前ブログで説明した。同様に、上記の言葉は、ぼくたちが妄想的であり、また狂人ですらあると言及している。先ほど取り上げた内容と重なるが、ラカン曰く、「妄想において、無意識は意識のなかで直接的に表現される」と考えられている。これは前意識においての働きと意味する点は同じである。妄想と前意識との関係はとても重要だと思う。

 

そもそも妄想とは、その文化において共有されない誤った確信のこと、とされているが、一般的には、いかがわしい考えや空想を表すことがおおい。さまざまな精神疾患を伴うことで生じる場合と、健常者においても、断眠や感覚遮断など特殊な状況に置かれると一時的に妄想が生じることもあるそうである。また、妄想の種類もたくさんあり、知ってるものも、知らないものも含めると以下のようになる。

 

注察妄想、 恋愛妄想・被愛妄想(エロトマニア) 、罪業妄想 、貧困妄想、宗教妄想、誇大妄想、嫉妬妄想、被害妄想、盗害妄想など。また、あまり知られていないところで、不死妄想、Capgras妄想、被毒妄想、恋愛妄想、血統妄想。

 

これらの妄想は、上記で説明したように精神疾患を伴うことで、生じる場合がおおいようであるが、創作過程においては、とても重要な要素であり、そのイマジネーションが作品となりうるのである。

 

たびたび参照させていただいて大変恐縮であるが、精神分析家の斎藤環氏は、ヤスパースの「妄想」の考え方を自著の「文脈病」で取り上げ以下のように説明している。

 

周知のようにヤスパースは「妄想」を「妄想様観念」と「真性妄想」とに分類した。「妄想様観念」は意味論的な分析が可能であり、本論の文脈では「ファンタジー」と読み替えることもできる。ファンタジーはしばしばナルシシズムに起源があり、それらは相互に補強しあう位置関係におかれる。いっぽう「真性妄想」はもちろん分裂病の妄想である。その意味論的な解読は、必ずといっていいほど頓挫する。こちらはむしろ「現実的なもの」に起源を持ち、しばしばナルシシズムを内側から食い破り、ときには破壊するようにして発展する。

 

上記の説明からも分かるように、妄想様観念とは、妄想の原因に突き止められるほどの状態である。いっぽう、真性妄想とは、妄想の原因すら分からず、意味的な関連がわからない妄想の状態とされている。

 

ぼくたちが思春期によく経験するような妄想は、妄想様観念の方である。恋愛であったり、変態的なことであったり、夢のような将来のことであったり、ぼくたちは図らずも妄想してしまいがちである。それらは、アニメや漫画などの中二病的な作品に投影されることもおおく、青春を舞台にした作品において切っても切れないないテーマである。

 

いっぽう、真性妄想は、分裂気質との関連が着目されており、狂気的な表現をする上では、欠かせない仕方である。濃度の高い妄想でもある。シュールレアリスムやキュビズムなどの前衛的な作品においては、真性妄想における意味としての関連がない、文脈すら破壊された表現方法はとても重要である。

 

そして、松本人志の表現は、どちらかというと、真性妄想的な表現が注目されていたといえる。90年代の松本人志は、シュール性の高いネタがおおく、笑いの幅を広げ、新しい笑いへの解釈を日々探求し、挑戦的な試みがされていたと思う。笑いのない笑いをテーマとした「頭頭」という作品や、寸止め海峡(仮題)という伝説のライブなど、松本人志の真性妄想的な発想は、笑いの可能性を高めたといっても過言ではないだろう。

 

 

最後に

 

さてさて、創造力については以上となる。今回のテーマはカリスマ論とあまり関係のないように思われるが、派生的に必要な要素であるとは思っている。次回は、カリスマ論の締めくくりである、最後の内容になる。これで、次回で松本人志論を語る上で必要な要素は出揃うと思うので、引き続き、進めていきたいと思う。

 

以上。

 

 

 

 

これまでのまとめ一覧。

 

 

笑いについて お笑い観①

笑いについて 演芸にまつわる笑いの歴史②

笑いについて お笑いブームとお笑いメディア史③

お笑い第五世代 大量供給・大量消費について④

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 ネタのイージー革命について⑥

お笑い第五世代 動物化するポストモダンの笑いについて⑦

お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧

お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨

お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩

松本人志論 松本信者として⑪

松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫

松本人志論 松本人志と狂気性⑬

松本人志論 松本人志とパトグラフィ⑭