夏といえば、怖い話であったり、ホラー映画であったり、涼しさを感じられるような風物詩がたくさんある。どちらかというと、ぼくは得意な方ではないが、好奇心なのか、怖いもの見たさなのか、特集番組があればついつい観てしまう。ぼくが小学生の頃、「怪奇特集!! あなたの知らない世界」という番組が放送されていた。内容は、一般視聴者が体験した怪奇現象や心霊現象を再現したドラマである。それがフィクションだと分かってはいるけど身が竦むほど恐ろしかったのを今でも覚えている。
上記のように、「怪」を題材とした娯楽は、人を怖がらせるためだけではなく、他のジャンルでも転用されて、コンテンツ化されることも多い。たとえば、お化けや妖怪は、擬人化とデフォルメを介することで、キャラクターとなる。本来は、恐れを抱かせる存在であるはずだが、物語のなかで愛されるように描くことで、恐れという感情がなくなるのである。
また、演芸では、恐怖心を抱かせることで情動が揺さぶられ、他の感情を掻き立てることを目的とすることもある。たとえば、落語では、恐怖を笑いへとすり替えるといったテクニックが用いられることがある。漫才やコントでも、同様の仕方で笑いを取ることがある。いわゆる、緊張の緩和と呼ばれるテクニックとされているが、それは後述するとして、笑いと恐怖はとても連関するものなのである。
「怪」に纏わる日本の歴史はとても古い。遡れば、民間伝承や神話まで遡行することができ、物語とすることで語り継がれているのである。本来は、不可解なできごとを、神や祟りとして意味付けをすることで、恐怖心をやわらげるといった目的があった。その後、政治や経済のなかでさえ、「怪」は利用されるようになるのである。「怪」は人々に畏怖の念を抱かせることで、それ自体を無意識の内側に封じ込め、事物や出来事にたいして不気味なものという印象を与えることを目的とされるようになったのである。
怪は人知の及ばないところで機能しているといえるだろう。だが、近代化されていく過程で、不可解なできごとは解明されていき、情報として整理されるようになる。恐れとして抱いていたものがロジカルに説明されることで、怪としての本来の役割は消滅し、伝承されていく過程で娯楽化されていった性質のみ残ったものが、現在の「怪」なのである。
恐怖を扱うコンテンツは、今でさえ人気の娯楽である。恐れを抱かせることを目的としたコンテンツともいえる。それでは、どういう理屈で、ぼくらは恐怖心を体感することを、娯楽として楽しむことができるのだろうか。恐怖は不快な感情を抱かせるものであり、可能であれば避けたい現象ですらある。それであっても、ぼくらは恐怖を欲望し、味わいたいと考えてしまうのである。
当然のことであるが、ぼくらはホラー(恐怖を扱うコンテンツ)をフィクションだと知りつつ、恐れを抱いてしまう。それは一体なぜなのか。怖がらせられるという状況下で、それらを待ち構えていたとしても、戦々恐々してしまい、頭ではわかっているはずなのに、結局「怪」にたいして不安にさせられてしまうのである。
恐怖の哲学、中核的関係主題について
では、「怪」に恐れを抱いてしまう仕組みはどのようなものであるのか。注目すべき点はそのからくりである。そこで、戸田山和久氏の著書「恐怖の哲学」を参考に、「怪」のからくりを解き明かしていきたいと思う。本書では、ホラーの仕組みを分析することで、恐怖を構成している要素をさまざまな観点から分析し、それらをすべて結びつけて再編することで、新たな「恐怖のモデル」を提案している。それでは本書を参照しながら説明しようと思う。
一般的に、「恐怖」は情動の一部の感情であるとされている。情動には、喜び、悲しみ、怒りなどの感情も含まれているが、それらと比較して、恐怖には志向性(ある対象に向かう意志)がはっきりしていると説明する。志向性があるということは、意志が向けられている対象を、知覚によって認知するということである。その結果、その対象は、ある一定の基準によって判断され、評価されることになる。その評価こそが、恐怖を判断するために必要な鍵となっているというのである。
ここで説明されている評価とはいったいどういうことか。
その概念を理解するためには、まず、中核的関係主題という考え方を知っておく必要がある。中核的関係主題とは、主体とそれをとりまく状況の関係を、主体の利害としてまとめあげた総体といえる。
たとえば 、不安の中核的関係主題は 、不確実な 、存在への脅威に直面していること 、恐怖の中核的関係主題は 、差し迫った具体的で圧倒的な物理的危険に直面していること 、嫉妬のそれは 、他人がもっているものを欲していること 、とされている 。
上記は、さまざまな情動の観点から中核的関係主題を説明したものである。ようするに、中核的関係主題とは、それが自身にとって有意義なものであるか否かという状況との関係のことだといえる。そして、それが自身にとっての脅威であると表象すれば、それこそが、その状況を評価するということなのである。
つまり、自分に脅威が迫っているという中核的関係主題を表象することが恐怖心を抱いている状態なのである。表象とは、対象を認識する際に、抽象的な概念として、頭の中に思い浮かべるイメージのようなものだといっていいだろう。ぼくたちは、その表象にたいして恐れを抱いてしまうということである。
身体化された評価理論について
この理論は、ジェシー・プリンツが提唱した評価理論である。そして、プリンツはもうひとつ重要な点を指摘している。それは、その評価を決定づけるのは、身体的な反応だというのである。いわゆる、プリンツの提案した「身体化された評価理論」というものであり、戸田山は以下のように説明する。
プリンツは情動を、身体的反応をモニターするものとみなす。中核的関係主題に対応するようにパターン化された身体的反応をレジスタすることで、情動は評価をしている。評価はラザルスらのように、概念的な思考によってなされるのではない。身体的反応を通じてなされる。だから、「身体化された」評価理論なのである。
身体的反応とは、毒グモを見たり (知覚 ) 、幽霊を思い浮かべたり (想起 ) 、自分が崖から転落することを予想したりしたときに、ゾッとしたり 、鳥肌が立ったり 、ドキドキしたり 、手に汗をかいたりする身体に生じる反応である。これは、ソマティック反応と呼ばれるものである。ようするに、知覚によって得られた外部からの刺激が、感覚や五感を通じていく過程で決定される評価ということである。
身体的な反応と情動は限りなく近いところで結び付けられている。それは、上記で説明したような順で展開されていくのだろうが、相互作用のなかで評価されているといっても過言ではない。戸田山は、以下のようにまとめている。
恐怖は表象である。アラコワイキャーの場合、恐怖は次のような構造をしている。怖いものの知覚によって身体的反応が引き起こされる。その反応は、これは脅威でっせという評価でもある。その身体的反応をモニターし、自分に脅威が迫っているという中核的関係主題を表象するのが恐怖だ。
そもそも情動が何のためにあるかといえば、意思決定を促して、適切な行為を生み出すためにある。自身と外部状況との関係性のなかで、脅威・危険を判断し、次の行動を意思するためである。ホラーは、その動物的反応をうまく利用したコンテンツなのである。
今回は、恐怖を感じるまでの、プロセスを解説してみた。次回はさらに踏み込んで、もともとの疑問である、それが作りものだとわかっていたとしても、恐怖を感じてしまうからくりについて考えてみようと思う。そして、最終的には、恐怖と笑いの関係性を検討したいと思う。以上。