観念の亡霊たち 此岸と彼岸をつなぐ笑いの道② | センテンスサワー

センテンスサワー

気の向くままに書き綴るのでよろしくお願いします。
感想もお待ちしております!!


テーマ:

前回のブログで論じたのは、ある対象を認知してから恐怖を感じるまでのプロセスである。そのメカニズムはいたって単純で、要約すると以下のような内容である。

 

ある対象を認知した際、身体的な反応を中核的関係主題を介して表象することで、ぼくらはそれらにたいして総合的な判断をくだすことになる。それはいわゆる評価と呼ばれるものであり、その評価の結果こそが恐怖を感じる原因であるとされている。

 

噛み砕いて説明すると、こういうことである。何かに遭遇したい際、その対象との関係性のなかで、その対象が危険を及ぼす可能性があると判断した場合に、恐怖心を抱く可能性があるということである。

 

 

上記の説明で恐怖心を抱くまでのメカニズムを理解できたと思う。だが、本来の疑問とされている、「それが作りものだとわかっていたとしても、恐怖を感じてしまうからくり」については、現時点で解決されてはいない。ぼくがはっきりさせたい点はそこである。ホラー映画などの恐怖を抱かせるコンテンツが、嘘(作り物)であったとしても、ぼくらが恐怖を感じるのはなぜかということを解き明かしたいのである。

 

ぼくが腑に落ちていない点は、それ自体が嘘だとわかっていれば、その対象に危険を及ぼす可能性がないと判断し、恐怖心を抱かないのではないだろうか、ということである。なぜなら、ホラー映画は、現実の外側(虚構)のなかで展開されている作り事であり、ぼくらに害を及ぼすはずがないからである。

 

恐怖を抱くまでのメカニズムにそって理解しようとすれば、ぼくらは、作り事のなかの対象を危険が及ぼすものであると錯覚し、恐怖心を抱いているということである。そこで注目すべき点は、志向性の向けられている対象自体について、まず考察する必要があるだろう。

 

前回に引き続き、戸田山和久氏の著書「恐怖の哲学」を参照したいと思う。戸田山は、その点について以下のように説明している。

 

恐怖に「怖い対象の認知」が含まれているということは、恐怖は志向性をもつということであり、それは間違った恐怖、つまり怖がるべきではないものを怖がることがありうる、ということだ。すぐれたホラーは、この間違った恐怖をうまく使っている。

 

戸田山の主張は、評価は認知する過程で対象を錯誤しうる可能性があるということである。

 

ぼくらは何らかの対象を認識する際に、誤って違うものとして認識することがしばしばある。それは、見間違いだったり、対象との関係性のなかで判断が誤ったのかもしれない。はたまた、環境が作り出した雰囲気に飲み込まれて、錯覚したのかもしれない。ようするに、ぼくらが何かを認識する際のメカニズムには欠陥があるということである。

 

 

パースによる記号的解釈

 

それでは、いったんここらで、パースの記号論を参照し、対象を認知するまでのプロセスをまとめておきたいと思う。そうすることで、上記の疑問を解決するための手助けとなるかと思っている。パースの記号論では、まず、対象を認知した際、その対象をいったん記号化し、その記号を解釈項(他の記号との比較で認識するための機能)を通すことで、その対象自体を認識することが可能となると説明している。ようするに、記号化された観念は、他の記号(概念として保存されている)との比較で概念化が進み、記号から記号へと連鎖的に表象が明確化されていくのである。

 

ここで注目すべきは、記号化するという行為である。記号化するということは、その対象を抽象化するということであり、ようするに、記号化の過程で、その対象を判断するために、その記号の特徴を抽象化するというプロセスが発生することになる。なにがいいたいかというと、同じような特徴を兼ね備えた対象が存在するならば、対象自体を誤認する可能性があるのではないかということである。

 

その点について戸田山は、ヘビとロープを比較しつつ、その点について説明を試みている。その理解を深めるために、その予備知識として、ヘビに遭遇した際の恐れを抱くメカニズムを簡単に説明するとしよう。

 

ぼくらは、ヘビが出現すると、ヘビを知覚し、ヘビの表象がイメージとして頭の中に生じる。その際、表象に現出したヘビのイメージを、恐怖の対象として評価した場合に、情動が恐怖として揺さぶられてしまうのである。

 

ここで注目すべき点は、ヘビを見た際に、ヘビとして表象されうるということである。表象するということは、さきほど説明したヘビの特徴を抽象化するということと同じである。つまり、ヘビの特徴を備えた対象は、それがヘビでなかったとしても、表象にヘビのイメージが想起されうるということなのである。状況にもよるが、ロープにはその可能性を秘めいているアイテムであるといっても過言ではない。

 

改めて、文頭で取り上げた「それが作りものだとわかっていたとしても、恐怖を感じてしまうからくり」は、つくり手が対象を誤認させるように演出することで、可能ということになる。だが、それだけでは説明は不十分だ。さらに敷衍して、考えてみようと思う。ぼくらは、つくり手が対象を誤認させるように演出するということですら、わかっているという点である。

 

ホラー映画を観る前に、それが怖いとわかっていたとしても、怖い演出で驚かせようと仕掛けていることですら、ぼくらは知っているのである。だが、ぼくらは、その演出にまんまと騙されてしまうのである。この点については、どのように説明すればいいのか。

 

 

ごっこ遊びというトリッキーな提案

 

その点について戸田山は、作り物(虚構)を怖がっているとき、ぼくらは怖がっていると錯覚しているのではなく、怖がっているふりをしているのだと説明している。つまり、作り物に対する情動自体が作り物なのだと考えられている。そしてその仮説を「ごっこ」説と提案している。

 

「ごっこ」説では、虚構を体験することを、一種のごっこ遊びに参加することになぞらえて理解しようとする。観客はホラー映画を観るというごっこ遊びに参加している。

 

それはつまりこういうことである。観客は、自身も映画の登場人物であるふりをすることで、たとえば、襲われている状態であれば、殺されるかもしれないという状況を信じ込み、冒頭で説明している恐怖を感じるためのプロセスを通じて、恐怖を感じるということである。登場人物のふりというのは、いわゆるカタルシス効果と考えてもいいかもしれない。登場人物に感情移入することで、ふり=なりきるという共犯関係が形成され、恐怖にたいしてのカタルシス効果を得られるということである。

 

川上量生の著者「コンテンツの秘密」では、上記を説明するうえで必要なことが書かれている。以下がその内容である。

 

まず 、再現 (模倣 )することは 、子供のころから人間にそなわった自然な傾向である 。しかも人間は 、もっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で 、他の動物と異なる 。

 

本書は、コンテンツとはなにかという大きな命題を掲げて、あらゆる文献を参考にし、コンテンツの条件について考察された一冊である。そのなかで、古代ギリシャの有名な哲学者であるアリストテレスの「詩学」から引用した一説である。人は再現することを好む。この一文に尽きる。もっと詳しく述べるならば、人間は現実世界を理解するためにシミュレ ーションすることから学習し、模倣することで遊びとして理解を深めていくというのである。

 

これこそがホラーを当事者視点で感情移入してしまい、それ自体が虚構(作り物)であったとしても、危険を及ぼす可能性のあるものとして評価し、恐怖してしまうというカラクリである。

 

これでなんとなく理解いただけたのではないだろうか。恐怖の感じるまでのプロセスは以上となる。

 

これまでの説明でわかるように、ぼくらは、幻想のなかで生きているといっても過言ではない。幻想というのは、言い方をかえると思い込みということであり、その思い込みはぼくらはを恐怖に陥れようと企てるのである。その思い込みは、あらゆる記号に結び付けられており、恐怖に紐付けられた観念として、ぼくらの眼前に現れるのである。その無数の観念は、表象という名の亡霊として、身体に取り憑き、今か今かと待ち構えているのである。

 

 

 

さて、今回は以上となる。前回から恐怖について考察してきたが、次回はそれらを踏まえて、恐怖と笑いの関係性について、考察しようと思う。以上。

 

 

関連記事:

彼岸よりの死者 此岸と彼岸をつなぐ笑いの道①

センテンスサワーさんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス