前回のブログでは、戸田山和久の『恐怖の哲学』を足がかりにして、恐怖のメカニズムを解き明かした。その過程で恐怖だけでなく、さまざまな知見を獲得することに成功した。そして、ここからは笑いに絡めて恐怖との関係性に着目していきたいと思う。
これまで繰り返し述べてきたように、恐怖を感じるまでのプロセスは、限りなく笑いに呼応すると思っている。その点とは、ある対象を認識し、その対象との関係性のなかで、それ自体が危険を及ぼす可能性を秘めている状態である。さらに詳しく述べるなら、それがなんであるか完全にわかっていない段階であり、ようするに表象のなかでその対象自体にたいする恐怖の妄想が膨らんでいる段階である。言い方をかえると、緊張感が高まっている段階だといえる。その状態こそ、笑いへと変わる可能性を秘めているのである。そのテクニックは、いわゆる緊張と緩和と呼ばれる手法である。
緊張と緩和とは、いわゆるお笑いのテクニックのひとつとされているが、この言葉の歴史はとても古く、何世紀も前に生まれた笑いについての理論である。哲学者のイマニュエル・カントは、「笑いとは張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である」と独自の理論を展開し、この言葉を提唱した。
一見、複雑な言葉のように思われるが、言っていることはいたって基本的なことである。張り詰めていた予期とは、思考や感情が、外的要因によって支配されてしまい、その影響下の中で特別なことを待ち受けている状態のことである。そして、その緊張された状態から、突如として無に変わるというのは、期待していたものとは違う特別なことが提示された場合に起こるために、不安定な状態が弛緩され、快い感情(=情緒)へと誘引されるということである。
この理論は、今でこそ当たり前の概念として認識されているが、カントが活躍していた当時では、画期的な考え方だったと思われる。そもそもお笑い自体がどういう位置づけで、社会や文化に影響を与えていたのかは定かではない。様々な文化の経路に依存しながら、現在に至るまで、連綿と受け継がれて来たのであろう。
日本のお笑い界でもこの言葉は浸透しており、松本人志や明石家さんまはこの言葉の理論を引用して笑いを解説している。そもそも演芸の理論としてこの言葉を普及させたのは、桂枝雀という落語家である。彼の著書である「らくごDE枝雀」は、落語と笑いのヒミツを解き明かそうと試みた一冊であり、そのなかで緊張と緩和という概念を落語に関連付けて解説している。
本書の中では、古典落語の分析と対談が収録されているのだが、桂枝雀氏の笑いのメカニズムの解説がまた秀逸である。枝雀氏は、知的には「変」、情的には「他人のちょっとした困り」、生理的には「緊張の緩和」、社会的であったり道徳的には「他人の忌み嫌うこと」ないし「エロがかったこと」の四つに分類し、笑いを解説している。
さらにそこから敷衍し、人間の身体がどのような状態になったときに「笑う」という状況になるのかを導き出し、人間の生理的な現象が根本であると結論づけている。生理的な現象とは、つまり、身体に訴えかける現象といえるだろう。それは上記で取り上げた、「緊張の緩和」こそが、笑いを分析する上でとても重要だということである。
恐怖と笑いの関係性について
桂枝雀の着眼点は、これまで述べてきた恐怖のメカニズムととても近いように思う。緊張と緩和のロジックの基本的な筋立ては同じで、ある事象との関係性のなかで表象された観念が、身体に影響を及ぼす可能性があると判断した場合に、恐怖などの情念を支配しうるのである。この状態がいわゆる緊張状態ということである。そして、この状態から、上記で説明したように、期待していたものとは違う特別なこと(可笑しみになりうる)が提示された場合に、笑いが起こるというのである。
これは、いわゆる解放理論とも呼ばれている。解放理論では、ユーモアとは高まっった神経の興奮を解放する形式だと説明されている。フロイトの提唱する快感原則に近い意味合いであるが、それについては今回は割愛とさせていただくことにする。
さて、再度話を戻すが、上記で説明している期待していたものとは、中核的関係主題として判断し、評価されたものだといえる。そして重要なのは、その評価した結果とは違う何かが提示された場合に、それらを再評価することになるのである。その再評価の結果こそ、笑いになりうる可能性を秘めているといえるのである。
そこで、不一致解決理論とよばれるユーモアの理論を参照したいと思う。どういう理論かというと、そのままではあるが、不一致が生じている状態で、その不一致が解決された場合に、可笑しみを得られるということである。上記に絡めて説明すると、違うものが提示されて、再評価したものと、もともと評価していたものとの間に、関連性があった場合に、ぼくらは「快」を得られて、可笑しみが得られるというのである。つまり緊張と緩和とは、もともと評価していたものと再評価していたものとの差に、可笑しみが起こるということである。
とすれば、その差をどのように作るかという点では、ホラー映画などと同じであるだろう。つくり手が対象を、どのような形で誤認させるように演出するか。それがさらなる恐れを抱かせるか、意表を突き笑いへと導くのか。その観念の操作の仕方こそ最も重要な点なのである。
そうだとすれば、観念をどのように操作すれば、笑いとなりうるのか。
たとえば、ダジャレというチープな笑いの手法がある。これは自体は、意味としては不一致であるが、語感が同じため、そこに関連性を発見することで笑いとなりうる可笑しみのパターンである。ダジャレ自体は、ほとんど観念に接触していないため、下位レベルの笑いとされている。だが、状況次第では、面白くなりうる可能性を秘めているといえるだろう。
観念の不一致解決理論も同じように規則性やルール、関連を発見することで、笑いとなりうるのである。それが、言葉であるか、文脈であるか、もしくは言語化されていないイメージであるのか。組み合わせは自由自在であり、状況次第でそれらに対する評価は変わってくるのである。
トリックスターという存在をご存知だろうか。トリックスターとは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。トリックスターは、ぼくらが共有している概念や幻想にたいして、疑問を提示し、世界の見方ですら変えてしまうのである。
あわせて注目しておきたいのは、裸の王様の話である。まさに、緊張と緩和の代表的な話である。王様という存在は、否が応でも、緊張感をつくるプロフェッショナルである。そして、王に対して民衆の人々は、それが間違っていると分かっていながら、なにもいえず沈黙するしかない。そればかりか、王様という絶対的な存在に、正しい判断ができなくなり、王様だから間違っていないという安直な評価をくだしてしまいかねない。そこに、無垢な少年は、なんにもとらわれずに、王様が裸であるという違和感を指摘し、民衆の人々が無意識下に葬り去ったその違和感を呼び起こし、笑いとなったのである。
最後に
怖い話のネタは、緊張と緩和という身体に訴えかけるという手法のみならず、情動ですらも動かしてしまう。とても笑いの本質にちかい仕方だといえるだろう。ただ笑うだけではなく、他の情動を引き起こし、笑いを生成変化させることができれば、とても強い笑いだと思っている。
ぼくらは何らかの幻想にとらわれて、そこから抜け出せない存在である。その何らかの幻想は、同じ対象を認識していたとしても、認識の仕方は、それを認識する本人の能力(状態)によってかわってくる。言い方を変えるとその分だけ可笑しみが存在するということである。
全く意味のないものであったとしても、たった一言で、それにたいする見方が変わってしまうような、そんな観念の再評価こそ最も高度な笑いだといえる。
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