センテンスサワー -13ページ目

センテンスサワー

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白ごはんが大好きだった。

 

子供の頃、どんぶり茶碗に米をありったけ押し付けて、二度ほどおかわりしていた。

 

それでも足りなかった。まだまだ食べたかった。「いい加減にしなさい」と母親に叱られるまで、ぼくの手は止まらなかった。

 

 

だが、いつからだろうか、お米が嫌いになったのは。食べるたびに罪悪感を感じ、一口だけ残すのが、習慣になっていった。

 

たぶんであるが、炭水化物という言葉が、彗星のごとく現れ始めたあたりだろうと思う。

 

瞬く間に、体重を気にする人たちの概念に闖入し、炭水化物は太る食べ物だ、と邪悪な言葉で洗脳していった。

 

あんなに大好きだったのに。一口食べるたびに、日和ってしまう。どこで得た知識かわからないが、血糖値がなんちゃかんちゃらと、脳裏に浮かぶのだ。

 

 

子供の頃大好きだったのに、嫌いになったものは、それだけでない。

 

カブトムシを夢中で追いかけていたけど、もはや触ることもできない。婆ちゃんの味噌汁もゴクゴク飲んでいたけど、いつしか飲んだふりをするようになっていった。L’Arc~en~Cielも好きだった女の子がよく聴いていたから、なんとなく好きになったけど、振られた瞬間に、鼓膜がビートを刻まなくなった。そういうもんだ。

 

アメリカンドリームを感じて憧れていたこともあったし、政治に期待していた時期もあったし、世界には真実があるものだと思っていた。トランプ、SEALs、ポストトゥルース、ウンタラカンタラ。すべては、炭水化物である。誰かが教えてくれた、それは血糖値をあげてしまうなんちゃかんちゃらだと。

 

 

今日も白ごはんを食べずに、パスタを食べた。味のないペペロンチーノ。ああ、ぼくもどうやら村上春樹のようになってしまったのかもしれない。

 

90年代、当時の松本にとって笑いは、定量的に分析する対象ではなく、定性的に評価する対象となっていたように思う。つまり、笑いの量としての最大値を競い合うものではなく、数値化できないであろう笑いの本質に迫ろうとしていたのである。

 

タイトルにある『頭頭』とは、1993年に公開された映像作品である。本作はとてもシュールな作品であり、どのようなジャンルであるか一概に言えないのだが、松本は「精神的アクション」というように表現している。松本曰くそれは、笑いのない笑いであり、思弁的な試みだったと自ら解説している。

 

あらすじは、以下のような内容である。

 

小さな街工場を営むどこにでもいる平凡な男には、どこにでもある平凡な”悩み”があった。それは父を老人ホームへ送ること。この問題を避けようとする兄弟、結論を急がせる妻、どこにでもある平凡な家族の風景。しかしそんな生活の中で、一つだけ我々が体験したことがない食べ物があった。それが「頭頭」なのだ!そして、物語が進むにつれて少しづつクローズ・アップされるその存在は、やがて…。

 

一度観ただけでは、本作を理解することは難しいだろう。ましてや、可笑しみを見出すことは至難なことだ。松本の作品ということで笑い(=可笑しみ)を期待して観ると、すぐさまその期待は裏切られる。笑いのない笑いと表されているように、大衆に迎合したわかりやすい笑いではなく、あえて言うならば、笑いを排除した作品なのである。

 

であるのだが、松本自身はそこに笑い(=可笑しみ)が起こることを期待しているように思う。笑いに対する評価は、受け手の解釈(判断)に委ねられことになるが、当時の松本は「わかるものだけがわかればいい」という排他的な姿勢でわからない者を置き去りにしていた。

 

お笑い論で繰り返し述べてきたことであるが、笑いとは、それ自体に内在しているであろう可笑しみに対して、受け手がいかに解釈(判断)するかということが、可笑しみを得られるまでの本質だと思っている。ようするに、それ自体に可笑しみが内在していることはあまり重要ではなく、可笑しみの存在自体は、可笑しみが得られた時点で発生する後発てきなものでしかないのである。つまり、可笑しみは捉えるものではなく、可笑しみとして解釈するものなのである。そういった意味でも、頭頭という作品は、笑いのない笑いであるのだが、如何に笑いを見出すかという極めて挑発的な作品であり、松本の理解者であることの力量がためされた作品といえる。

 

 

そして重要な点は、笑いのない笑いのはずであるのだが、そこから可笑しみを見出したのか、はたまた松本人志に迎合したのか定かではないが、本作を観て、ゲラゲラ笑う人がいたという事実である。

 

実際に可笑しみを見いだせていたならば、松本人志の成果であるのだが、笑いのない笑いであると本人が公言しているにもかかわらず、お笑いのコアなファンには受け入れられて、評価されているのである。意図していない笑いにあたかも笑いが内在しているように見せかけられて、いいようにされてしまっているのである。

 

そこにはいったいどのようなカラクリがあったのだろうか。

 

それは頭頭に限らず、松本人志の作品を消費する人々(信者)に、頻繁に見受けられる現象といえるだろう。どういうことかというと、松本人志というフィルターを通すことで、笑いのない笑いですら、笑いが内在していると勝手に判断(評価)し、機械的に可笑しみを見出そうとしてしまうのである。松本論(=松本信者論)では、そのような現象を、ウェーバーのカリスマ論であったり、吉本隆明の共同幻想であったり、ブルデューの象徴的暴力という言葉で説明しようと試みた。

 

そして今回は、新たな概念を提唱し、松本論を援用したいと思っている。それこそが表題にある千葉雅也氏の『意味がない無意味』である。本書の中では、意味がある無意味と意味がない無意味と名付けられた二つの無意味について比較し、提案されている。それでは簡単にではあるが説明したいと思う。

 

 

本書ではまず「意味」という概念について定義づける。意味とは、言葉(事物一般)に内包される概念と表すことができるが、著者は合理的な理解とそれを共感することであると説く。

 

例えば、ある対象を定義づける場合に、それ自体を様々な角度から切り取り、解釈を加えようと試みる。だが、それ自体を正確に定義づけることは困難であり、限りなく共感する程度に定義づけることは可能であっても、落とし所(フレームに落とし込む)を見つけることでしか、定義づけすることはできない。それはつまり物自体には、あらゆる解釈が可能であり、有限的なフレームを設けるこでしかそれを正確に定義することができないからである。フレームを設けなければ、過剰に意味が溢れ、「無限に多義的なもの」としてしか認識できないのである。

 

著者は、「無限に多義的なもの」について、意味がある無意味と名付けている。ようするに、ぼくらは有限な意味しか理解することができず、有限的なフレームを設けなければ、意味が溢れ、様々な解釈が繰り返され、意味と成りえない意味を生産し続けるというのである。それは言い換えると、意味が定まっていない状態であるといえるだろう。

 

ぼくらは、自身の能力の範囲でしか実在の対象を認識することができない。そのため、複数の人々が同一の対象を認識しようと試みても、それぞれその対象を認識するための能力に差異が生まれるため、正確に同一の対象として認識できない。哲学者のイマヌエル・カントは、物自体と表現し、ぼくらは現象としてしか対象を認識できないと説明する。

 

それこそが思考することができない外部の実在とされ、千葉雅也氏の提唱する<意味がある無意味>なのである。その外部の実在を合理的に意味づけすることは不可能であり、それ自体を共有するためには、非合理的な実在として信じ込むしかない。それはもはや信仰でしかないのである。

 

 

そして著者である千葉雅也は、意味が溢れたこの状態を如何に遮断するかということの重要性について考えを展開させていく。それこそが、意味のない無意味という表題にある概念の提案である。

 

<意味がない無意味>とは、「身体」である。

<意味がある無意味>から<意味がない無意味>へーーそれは思考から身体への転換だ。

考える人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。

 

考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れることだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。無限に降り続く意味の雨を、身体が跳ね返すのである。身体で行為する。そのときに我々の頭は空っぽになる。行為の本質とは、「頭空っぽ性」なのだ。

 

千葉雅也の主張は、ある対象を意味づけし続けることから如何に切断するかということである。そのためには、行為(=断ち切る)をするための身体が必要とされているのである。その論拠としてラカン精神分析の理論をベースにして、「パラマウンド」という概念を提案している。

 

ラカンにおいて、我々人間の欲望は次のように理解される。

自己と他者の関係においてはつねに、何か重要なもの= x が「欠如」している。我々は幼少期から、その欠如を埋めようとしては失敗を繰り返しているーーーつまり、何か重要なもの= x を、取り逃がし続けている。この x が「ファルス」と呼ばれる。

ファルスとは、理想的な、勃起した男性器である。精神分析には、あらゆる欲望は性的な意味を持つという仮設がある。この仮設の下で、あらゆる欲望は、性的に重要なもの=ファルスを追求することに等しいとみなされる。

 

私はパラマウンドという造語で、<ファルス的な意味の欲望>の外部にある身体を言おうとしている。すなわちそれは、無限化するファルス的な意味を、非意味的に切断する=有限化する身体である。

 

パラマウンド自体は、ファルスと並立する存在として、著者は分身と表現している。その分身が意味の過剰に終止符を打ち下す。

 

著者は、パラマウンド的存在を、フロイトの「不気味なもの」と対置させて、「不気味でないもの」と言い換えて、説明する。不気味なものとは、不安な存在であり、恐れを抱かせる存在であるが、不気味でないものとは、それらを感じさせない馴染みな存在とされている。有限な有意味のものとして、過剰な意味付けをしなくても限りなく定義づけ、多義性の減算によって生じる実在である。

 

思弁的と説明した上で、千葉雅也は以下のように説明する。

 

「複数的で、例外が存在せず、有限な可能性しか含まないもので、非連続的時間においてあるもの」

 

パラマウンド化しているそれ自体は、ファルスのような性感帯とは異なり、たんなる通常のものと説明する。

 

この内容をお笑いに絡めるために、ぼくなりに解釈させていただくと、それは、萌のように細かく分解されて、データベース化されたパーツのようなイメージである。はたまた、その複数的な非フォルスは、フォルスから創出された何億もの白い身体ということなのだろうか。

 

 

さて、改めて松本の話に接続しようと思うのだが、90年代当時の松本の笑いは、意味がある無意味として、松本の笑いが過剰に解釈されていた時代だといえる。そう、それはつまり、信仰としての笑いが成立していた稀有な時代だったのである。

 

松本人志の笑い自体はとてもシュールだとされている。それは無意味な笑いであると言いかえることができる。だが、当時の松本の笑いは、意味がある無意味的な笑いとして、シュールであろうが、意味がわからなくても面白いだろうと判断され、過剰に解釈されたのである。その解釈された対象は、虚構にアクセスされ、可笑しみを獲得することになるのである。

 

以前、松本の笑いの拠り所が虚構であると説明してみた。どういうことかというと、松本人志が生まれたのは1963年であり、いわゆるオタク第一世代が出現した時期と重なる。新井素子や庵野秀明は、同世代の代表的な存在として位置づけることができるだろう。そのオタク世代以降の人々は、特にクリエイターたちは、その虚構(マンガ・アニメ)で構築された世界を創作の拠り所とし、新たな価値観の作品を量産していくことになるのである。

 

意味だけではなく、虚構ですら、あらゆる解釈に翻弄され、当時の松本人志の笑いは、それ以上ない状態で笑いを再構築され続けていたといえるのである。

 

 

そして、2000年代のお笑いブームに話は変わる。繰り返し述べてきたことであるが、2000年代のお笑いブームは、データベース化された笑いだといえる。それは冒頭でふれていることであるが、定量的に笑いを分析することが可能となったのである。

 

それは、インターネットの登場で、お笑いに気軽にアクセスできるようになり、理数的に笑いを数値化できるようになったのである。東浩紀の言葉を借りると、データベース消費的に笑いを消費することが可能となったということである。そして、千葉雅也の言葉を借りるならば、消費者自体が無意味な意味としての身体(一億人のツッコミ的な状態)を獲得しているため、ツッコミ待ちのようなわかりやすい笑いが大量生産されてしまったのである。ぼくはそれをイージー革命と名付けた。それは松本人志のような意味のある無意味として、高度な消費者に向けた笑いを必要とせず、わかりやすい身体に訴えかける笑い(緊張と緩和程度の)として、成立していたのである。

 

 

90年代の松本人志は、お笑いのあらゆるパターンを創出したと言っていいが、それらを体系化していったのは、2000年代のお笑い芸人たちであるだろう。彼らが、複雑な笑いを高度に解釈し、一般の消費者にも笑いが伝わるように整理していったのである。それはあたかもキリストのメーセージをまとめたマタイのように。

 

松本人志が作り出した笑いが、松本以後(90年代以後)に登場したお笑い芸人の笑いの底を支えていたといえる。彼らは、松本人志が生み出した笑い(虚構的笑い)を創作の拠り所とし、二次創作(=シミュラークル=コピー)として機能していたのである。以前、松本人志は放送室でそのこと(笑いについてではなく、社会や世間に対して)にふれて、「ぼくの生み出したものは波及的に知らず知らずのうちに影響を与えている」と語っていた。

 

そして、今回の千葉雅也の提案したパラマウンドという概念は、とても呼応する。彼らは、不気味でない者として、松本人志の笑いを切断(コピペ)し、新たな笑いを創出しているのである。

 

 

 

最後に

 

本日は、2018年のM-1 がある。本当にこれからだ。

 

めちゃくちゃ楽しみにしている。夕方ころに開催されていた、敗者復活戦は最高だった。

 

金属バットの不気味さは異常で、腹を抱えて笑ったよ。

 

霜降り明星に期待しつつ、これから観ようと思います。

 

 

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先日、祖母が亡くなった。日本人女性の平均寿命である87歳までは届かなかったが、85歳まで生きたのだから大したもんである。昭和のはじめに生まれ、平成最後まで駆け抜けた祖母は、言葉を借りるが、見事な女性だったのだと思う。

 

 

仕事中に父親から連絡があった時点で覚悟はしていた。先々月から祖母は入院し、お盆に帰省した際は、時間があればお見舞いに行っていたため、病状はよく知っていた。その時点で、もう長くはないのだろうとなんとなくは感じていた。

 

翌日、半日かけて実家に帰った。仏壇の部屋の隣に祖母の部屋があり、そこで冷たくなった祖母が棺桶のなかで眠っていた。祖母は死化粧を施されており、とてもきれいな顔をしていた。いわゆるエンディングメイクと呼ばれるものであるが、おくりびとが祖母に彩りを与え、どこかしら生き生きとした表情をしていたのである。

 

生きていない人を見ることに、はじめはためらいがあったことは事実である。だが、実際に直面すると、案外平気であった。死体であることに違いはないのだが、家族は祖母を人として扱っているし、そのことにまったく違和感はなかった。生と死の中間領域に位置した存在として、ぼくら家族は祖母とコミュニケーションをとり、即時的ではあるが、そのような共同幻想めいたものを抱いてしまったのかもしれない。

 

祖母の唇が乾く前に、綿の付いた棒に水をしみこませて、定期的に潤してあげなくてはならない。祖母が家にいる間、線香は絶やしてはならず、こちらも定期的に追加してあげなくてはならい。経験したことのない体験に対して疑問符を頭に浮かべながらも、ぼくはできる限りのことをしようと思った。

 

そのなかでも一番驚いだのは、誰かが祖母の部屋で、家族で布団を敷いて、お通夜までの期間、就眠しなければならないことである。「一緒に寝てあげなさい」と叔母にいわれ、しぶしぶ寝ることにしたのだが、連綿と続いている習わしというのは、とても不思議なものであると改めて感じざるおえなかった。

 

 

その晩、祖母のルーツについての話となった。ぼくの実家は豆腐屋である。1966年から続いているため、開業されて半世紀以上経っていることになる。父親が二代目としていまでも続けているのだが、ぼくら兄弟は後を継がずに、父親の代で閉業することはすでに決まっている。

 

ぼくはつい最近まで祖父が一代目だと思っていた。だが、話を聞くと、祖母が豆腐を学ぶための修行に行き、技術を身に着けて、豆腐屋を起こしたそうなのだ。晩年、祖母は体調を崩していて、ぼくは祖母が豆腐を作っている姿を一度もみたことがない。そのため、祖父が一代目であるという先入観にとらわれていたのだと思う。

 

はじめは軌道に乗らず、家族総出で支えながら、頑張っていたそうだ。父親たちは子供ながらに毎朝配達を手伝い、それが終わってから学校に行っていたそうだ。あまりお手伝いをしなかったぼくとしては耳が痛い話である。時代といえば時代なのかもしれないが、当時は大変だったろうなと思う。

 

半世紀以上続いた豆腐屋に生まれたことを、とても誇らしく今は思う。大変だったとは思うが、数々の歴史があり、家族から聞いた話に胸が熱くなった。配達の話、豆腐工場を作った話、ボイラーを砂を固めて支えていた話、工場に併設された家が火事になった話、父親が夢をあきらめて家業を継ぐことになった話、祖父が事故を起こした話、話を聞けば聞くほどドラマがあり、それがぼくのルーツとして根付いてるのである。

 

 

息を引き取る瞬間、祖母はそれらを想起し、走馬灯のように思い出が浮かび上がったのだろうか。紛れもない事実であるが、祖母がいたからこそ、いまここにぼくがいるのである。

 

祖母の話をもっと早く、生きているうちに知ってさえいれば、もっと祖母に優しくできたのになと、いまさらだけど思う今日このごろである。

 

豆腐屋という職業に反発し、かっこ悪いなと思う時期もあったけれど、いまは最高にかっちょいい商いだと密かに思っている。

 

祖母が修行を終え、実家に帰ってきて初めて作った豆腐は、もちろん家族で食べたそうだ。美味しかったか、美味しくなかったかは、定かではないが、それこそが、豆腐屋としてのはじめの一丁なのである。今となっては、合計すると何千万丁もの豆腐を売ってると思うのだが、その一丁目の味は、特別な味だっただろう。