先日、アマゾンプライムビデオで、新たな企画が発表された。タイトルは「まつもと犬」とされており、現時点で詳細は明かされていない。ツイッターでは公式アカウントを開設しており、少しずつ情報を公開している。公開された動画では、まつもと犬扮する松本人志が、いろんなシチュエーションで、プロモーション活動をしている。コント番組なのか、ドキュメンタルのような企画ものであるか定かではないが、いい意味で期待を裏切られることを願っている。
さて、今回のテーマは「家族」である。松本人志にとって家族は特別な存在であり、彼自身を形成するうえでとても重要だと思っている。以前、松本人志論で、松本人志と結婚について考えてみた。松本人志が家族を持つということはなにを意味するのか。松本人志の創作の主題には、紛れもなく家族というテーマが関係しているのである。
かつてこれほどまでに家族をネタにした芸人がいただろうか。家族のネタを披露し、フリートークで弄り倒し、家族と一緒にコントや漫才をする。ネタとしての材料とするくらいならまだしも、家族をテレビに出すことがどれほどハードルが高いことである。家族ですら笑いにかえようと試みる松本人志の笑いにかける情熱は紛れもない事実であるが、それと同時に、それは途轍もない覚悟がいることであり、ためらいなくそれをやってのける松本人志はまさに異常である。
普通であれば、家族からの批判がくるはずである。メディアでの露出などしたくないだろうし、テレビで馬鹿なことをさせられるのだからなおさらである。だが、家族も家族で、松本人志に協力し、ためらいなく出演しているのである。出たがりといえばそれまでであるが、それだとしても、それはそれでまた異常であるだろう。
さて、家族のなかで最も注目したいのは、母親である。松本人志と母親との関係性は、他にはない特別な関係だといえる。精神分析的にいうならば、エディプスコンプレックスが関係しているのかもしれない。エディプスコンプレックスとは、男子が母親に性愛感情をいだき、父親に嫉妬する無意識の葛藤感情のことである。松本人志が、父親と母親の性愛関係や、夜の営みについて、よくネタにしているが、ある意味その行為自体(ネタにする)は、無意識下の嫉妬を笑いにすることで昇華しているようにすら感じてしまうのである。
以前、松本人志の狂気性について考えてみた。その際、松本人志の狂気性はヒステリック的であると結論づけた。ちなみに、ヒステリックとは、「感情的、衝動的に興奮してしまう状態のこと。 理性的、論理的ではなく 感情の高ぶりに任せるがまま、 声を荒げてしまう様な状態のこと。」とされている。
松本人志の演じるキャラクター性は、自身の母親を演じた「おかん」や、情緒不安定な料理研究家の女性を演じた「キャシー塚本」など、どれもヒステリック性を感じざるおえない。「産ませてよ〜」というフレーズで有名な「産卵」というコントでは、松本人志扮する半魚人が、産卵を控えた母としての半魚人を演じているが、もはや狂気でしかない。
松本人志のヒステリックの使い分けも見事であるが、彼の女性に対する観察力と分析力、そしてそれらを笑いに変える地肩の強さがあってこその産物である。そして、それらのイメージのなかで存在する松本人志の女性像のシンボルこそ、紛れもなく母なのである。ようするに、そして、絶対的な母を独占する父という存在があったからこそ、松本人志の笑いの根底には、エディプスコンプレックスが根付いており、その抵抗としての笑いというものが構築されていったのだと思う。
松本人志と映画
2007年に松本人志は「大日本人」という映画を公開した。本作では、松本扮する変身ヒーローの日常や戦いをドキュメンタリー風に描いているモキュメンタリー映画である。内容は、特撮怪獣物とは言い難く、普通の人間が巨大化して戦う日々や苦悩、周囲の人間の反応などを主点によって構成されている。
ネタバレを恐れずに書くと、この映画の大きなメタファーとして、父親の不在を意味しているだろう。かつて、ヒーローとして人気を博していた家系に陰りが見えはじめ、その末裔の苦労が描かれている。それは、大きな物語の消滅した世界のようにすら感じられるのである。元ヒーローであった認知症の父親のお世話をするシーンが批評的に描かれていたり、また、ラストシーンでは、怪獣に追い詰められた主人公を、より大きな存在(ヒーロー)が現れて助ける場面があり、それらは国家という父性の象徴の不在を意味しているのである。
そして数年後に「しんぼる」という映画を公開することになる。内容は、主人公が目を覚ますと、白い壁に囲まれた部屋に閉じ込められており、その部屋から脱出を試みようとする奮闘劇である。本作では、箱庭ゲーム的な要素が散りばめられており、脱出するためのパターンやルールを発見しながら、物語は展開していく。
タイトルのとおり、しんぼる(=フォルス)をトリガーにし、個人と世界がしんぼるを介して接続していくのだが、本作の前半から後半のラストにかけての展開の仕方は、まさに快感原則のような、緊張状態からの解放(=放出)を表現しているように思われる。
そして、しんぼる(=フォルス)ということで想起してしまうのは、やはり父親である。この点からして、松本人志の創作のコンテキストに、母から父へという転換が見受けられるように思う。松本人志と父との関係に変化が訪れたのか、はたまた、彼自身が父となることで、創作に変化が訪れたのかは定かだでない。であるが、この時期の松本人志の創作には、息子としての松本人志と、父親としての松本人志の中間領域の揺らぎめいたものが感じざる負えないのである。
そして、2011年に「さや侍」が公開される。言うまでもないが、本作は父と娘の物語である。内容は省略させていただくが、松本人志の創作の主題は明らかに変わってしまっている。母と息子として始まった松本人志の創作の主題は、この時点で、父親と娘という主題へと変化してしまったのである。
松本人志はこれまで家族をテレビに出演させていた。だが、それはあくまでも父母兄弟である。自身の嫁や娘は出演するどころか、あまり話にすらしない。これはつまり、家族という主題を切断したことを意味する。さや侍のラストシーンのように、笑いよりも家族を守るというように感じられてしまうのである。
2013年に公開された「R100」という作品では、キャッチフレーズが「父はM」とされ、SMを題材にした主人公の物語である。作品を観た方は理解いただけると思うが、この作品は、自慰的に制作しているように思われるのだ。主題を欠いた作品という見かたもできるが、この作品自体は、松本人志にとってある意味、挑戦的な作品だったのかもしれない。
松本人志と犬
ペルをご存知だろうか。ペルとは松本人志が子供時代に飼っていた犬である。冒頭で紹介したまつもと犬であるが、それ自体が、ペルをイメージとしているならば、「まつもと犬」という新しいコンテンツは、松本人志と家族の新しい主題となりうる可能性を秘めているとぼくは思っている。
ペットの中でも、犬は従順ということで、家族と位置づけられることが多い。ペットや家畜というよりも、家族の一部として、犬は飼われているのである。
家族という創作の主題の切断に至ったのだったが、アマゾンプライムビデオという新たなプラットフォームを見出すことで、チャレンジできる環境を見つけ、新たな主題すらも見つけたのだと思う。それが、ペル(まつもと犬)である。
これは期待せざるをえない。早く最新情報を公開してほしい。楽しみにしっぽを振って待ってる。
最後に
さて、いろいろ書いてみたが、松本人志論はこんな感じで不定期で更新していきたいと思う。それと、関西ローカルの松本家の休日では、松本人志扮する「お母ちゃん」についても触れるべきだったと公開しつつ、締めくくろうと思う。以上。
これまでの連載のまとめです、読んでください。感想お待ちしております。
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