センテンスサワー -15ページ目

センテンスサワー

気の向くままに書き綴るのでよろしくお願いします。
感想もお待ちしております!!

先日、アマゾンプライムビデオで、新たな企画が発表された。タイトルは「まつもと犬」とされており、現時点で詳細は明かされていない。ツイッターでは公式アカウントを開設しており、少しずつ情報を公開している。公開された動画では、まつもと犬扮する松本人志が、いろんなシチュエーションで、プロモーション活動をしている。コント番組なのか、ドキュメンタルのような企画ものであるか定かではないが、いい意味で期待を裏切られることを願っている。

 

 

さて、今回のテーマは「家族」である。松本人志にとって家族は特別な存在であり、彼自身を形成するうえでとても重要だと思っている。以前、松本人志論で、松本人志と結婚について考えてみた。松本人志が家族を持つということはなにを意味するのか。松本人志の創作の主題には、紛れもなく家族というテーマが関係しているのである。

 

かつてこれほどまでに家族をネタにした芸人がいただろうか。家族のネタを披露し、フリートークで弄り倒し、家族と一緒にコントや漫才をする。ネタとしての材料とするくらいならまだしも、家族をテレビに出すことがどれほどハードルが高いことである。家族ですら笑いにかえようと試みる松本人志の笑いにかける情熱は紛れもない事実であるが、それと同時に、それは途轍もない覚悟がいることであり、ためらいなくそれをやってのける松本人志はまさに異常である。

 

普通であれば、家族からの批判がくるはずである。メディアでの露出などしたくないだろうし、テレビで馬鹿なことをさせられるのだからなおさらである。だが、家族も家族で、松本人志に協力し、ためらいなく出演しているのである。出たがりといえばそれまでであるが、それだとしても、それはそれでまた異常であるだろう。

 

 

さて、家族のなかで最も注目したいのは、母親である。松本人志と母親との関係性は、他にはない特別な関係だといえる。精神分析的にいうならば、エディプスコンプレックスが関係しているのかもしれない。エディプスコンプレックスとは、男子が母親に性愛感情をいだき、父親に嫉妬する無意識の葛藤感情のことである。松本人志が、父親と母親の性愛関係や、夜の営みについて、よくネタにしているが、ある意味その行為自体(ネタにする)は、無意識下の嫉妬を笑いにすることで昇華しているようにすら感じてしまうのである。

 

以前、松本人志の狂気性について考えてみた。その際、松本人志の狂気性はヒステリック的であると結論づけた。ちなみに、ヒステリックとは、「感情的、衝動的に興奮してしまう状態のこと。 理性的、論理的ではなく 感情の高ぶりに任せるがまま、 声を荒げてしまう様な状態のこと。」とされている。

 

松本人志の演じるキャラクター性は、自身の母親を演じた「おかん」や、情緒不安定な料理研究家の女性を演じた「キャシー塚本」など、どれもヒステリック性を感じざるおえない。「産ませてよ〜」というフレーズで有名な「産卵」というコントでは、松本人志扮する半魚人が、産卵を控えた母としての半魚人を演じているが、もはや狂気でしかない。

 

松本人志のヒステリックの使い分けも見事であるが、彼の女性に対する観察力と分析力、そしてそれらを笑いに変える地肩の強さがあってこその産物である。そして、それらのイメージのなかで存在する松本人志の女性像のシンボルこそ、紛れもなく母なのである。ようするに、そして、絶対的な母を独占する父という存在があったからこそ、松本人志の笑いの根底には、エディプスコンプレックスが根付いており、その抵抗としての笑いというものが構築されていったのだと思う。

 

 

松本人志と映画

 

2007年に松本人志は「大日本人」という映画を公開した。本作では、松本扮する変身ヒーローの日常や戦いをドキュメンタリー風に描いているモキュメンタリー映画である。内容は、特撮怪獣物とは言い難く、普通の人間が巨大化して戦う日々や苦悩、周囲の人間の反応などを主点によって構成されている。

 

ネタバレを恐れずに書くと、この映画の大きなメタファーとして、父親の不在を意味しているだろう。かつて、ヒーローとして人気を博していた家系に陰りが見えはじめ、その末裔の苦労が描かれている。それは、大きな物語の消滅した世界のようにすら感じられるのである。元ヒーローであった認知症の父親のお世話をするシーンが批評的に描かれていたり、また、ラストシーンでは、怪獣に追い詰められた主人公を、より大きな存在(ヒーロー)が現れて助ける場面があり、それらは国家という父性の象徴の不在を意味しているのである。

 

そして数年後に「しんぼる」という映画を公開することになる。内容は、主人公が目を覚ますと、白い壁に囲まれた部屋に閉じ込められており、その部屋から脱出を試みようとする奮闘劇である。本作では、箱庭ゲーム的な要素が散りばめられており、脱出するためのパターンやルールを発見しながら、物語は展開していく。

 

タイトルのとおり、しんぼる(=フォルス)をトリガーにし、個人と世界がしんぼるを介して接続していくのだが、本作の前半から後半のラストにかけての展開の仕方は、まさに快感原則のような、緊張状態からの解放(=放出)を表現しているように思われる。

 

そして、しんぼる(=フォルス)ということで想起してしまうのは、やはり父親である。この点からして、松本人志の創作のコンテキストに、母から父へという転換が見受けられるように思う。松本人志と父との関係に変化が訪れたのか、はたまた、彼自身が父となることで、創作に変化が訪れたのかは定かだでない。であるが、この時期の松本人志の創作には、息子としての松本人志と、父親としての松本人志の中間領域の揺らぎめいたものが感じざる負えないのである。

 

そして、2011年に「さや侍」が公開される。言うまでもないが、本作は父と娘の物語である。内容は省略させていただくが、松本人志の創作の主題は明らかに変わってしまっている。母と息子として始まった松本人志の創作の主題は、この時点で、父親と娘という主題へと変化してしまったのである。

 

松本人志はこれまで家族をテレビに出演させていた。だが、それはあくまでも父母兄弟である。自身の嫁や娘は出演するどころか、あまり話にすらしない。これはつまり、家族という主題を切断したことを意味する。さや侍のラストシーンのように、笑いよりも家族を守るというように感じられてしまうのである。

 

2013年に公開された「R100」という作品では、キャッチフレーズが「父はM」とされ、SMを題材にした主人公の物語である。作品を観た方は理解いただけると思うが、この作品は、自慰的に制作しているように思われるのだ。主題を欠いた作品という見かたもできるが、この作品自体は、松本人志にとってある意味、挑戦的な作品だったのかもしれない。

 

 

松本人志と犬

 

ペルをご存知だろうか。ペルとは松本人志が子供時代に飼っていた犬である。冒頭で紹介したまつもと犬であるが、それ自体が、ペルをイメージとしているならば、「まつもと犬」という新しいコンテンツは、松本人志と家族の新しい主題となりうる可能性を秘めているとぼくは思っている。

 

ペットの中でも、犬は従順ということで、家族と位置づけられることが多い。ペットや家畜というよりも、家族の一部として、犬は飼われているのである。

 

家族という創作の主題の切断に至ったのだったが、アマゾンプライムビデオという新たなプラットフォームを見出すことで、チャレンジできる環境を見つけ、新たな主題すらも見つけたのだと思う。それが、ペル(まつもと犬)である。

 

これは期待せざるをえない。早く最新情報を公開してほしい。楽しみにしっぽを振って待ってる。

 

 

 

最後に

 

さて、いろいろ書いてみたが、松本人志論はこんな感じで不定期で更新していきたいと思う。それと、関西ローカルの松本家の休日では、松本人志扮する「お母ちゃん」についても触れるべきだったと公開しつつ、締めくくろうと思う。以上。

 

 

 

これまでの連載のまとめです、読んでください。感想お待ちしております。

 

笑いについて お笑い観①

笑いについて 演芸にまつわる笑いの歴史②

笑いについて お笑いブームとお笑いメディア史③

お笑い第五世代 大量供給・大量消費について④

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 ネタのイージー革命について⑥

お笑い第五世代 動物化するポストモダンの笑いについて⑦

お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧

お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨

お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩

松本人志論 松本信者として⑪

松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫

松本人志論 松本人志と狂気性⑬

松本人志論 松本人志とパトグラフィ⑭

松本人志論 松本人志と創造力⑮

松本人志論 松本人志と共同幻想⑯

松本人志論 松本人志とグロテスクリアリズム⑰

松本人志論 ドキュメンタル⑱

松本人志論 特撮的リアリズム⑲

松本人志論 笑いの神は死んだ⑳

前回のブログでは、戸田山和久の『恐怖の哲学』を足がかりにして、恐怖のメカニズムを解き明かした。その過程で恐怖だけでなく、さまざまな知見を獲得することに成功した。そして、ここからは笑いに絡めて恐怖との関係性に着目していきたいと思う。

 

これまで繰り返し述べてきたように、恐怖を感じるまでのプロセスは、限りなく笑いに呼応すると思っている。その点とは、ある対象を認識し、その対象との関係性のなかで、それ自体が危険を及ぼす可能性を秘めている状態である。さらに詳しく述べるなら、それがなんであるか完全にわかっていない段階であり、ようするに表象のなかでその対象自体にたいする恐怖の妄想が膨らんでいる段階である。言い方をかえると、緊張感が高まっている段階だといえる。その状態こそ、笑いへと変わる可能性を秘めているのである。そのテクニックは、いわゆる緊張と緩和と呼ばれる手法である。

 

 

緊張と緩和とは、いわゆるお笑いのテクニックのひとつとされているが、この言葉の歴史はとても古く、何世紀も前に生まれた笑いについての理論である。哲学者のイマニュエル・カントは、「笑いとは張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である」と独自の理論を展開し、この言葉を提唱した。

 

一見、複雑な言葉のように思われるが、言っていることはいたって基本的なことである。張り詰めていた予期とは、思考や感情が、外的要因によって支配されてしまい、その影響下の中で特別なことを待ち受けている状態のことである。そして、その緊張された状態から、突如として無に変わるというのは、期待していたものとは違う特別なことが提示された場合に起こるために、不安定な状態が弛緩され、快い感情(=情緒)へと誘引されるということである。

 

この理論は、今でこそ当たり前の概念として認識されているが、カントが活躍していた当時では、画期的な考え方だったと思われる。そもそもお笑い自体がどういう位置づけで、社会や文化に影響を与えていたのかは定かではない。様々な文化の経路に依存しながら、現在に至るまで、連綿と受け継がれて来たのであろう。

 

 

日本のお笑い界でもこの言葉は浸透しており、松本人志や明石家さんまはこの言葉の理論を引用して笑いを解説している。そもそも演芸の理論としてこの言葉を普及させたのは、桂枝雀という落語家である。彼の著書である「らくごDE枝雀」は、落語と笑いのヒミツを解き明かそうと試みた一冊であり、そのなかで緊張と緩和という概念を落語に関連付けて解説している。

 

本書の中では、古典落語の分析と対談が収録されているのだが、桂枝雀氏の笑いのメカニズムの解説がまた秀逸である。枝雀氏は、知的には「変」、情的には「他人のちょっとした困り」、生理的には「緊張の緩和」、社会的であったり道徳的には「他人の忌み嫌うこと」ないし「エロがかったこと」の四つに分類し、笑いを解説している。

 

さらにそこから敷衍し、人間の身体がどのような状態になったときに「笑う」という状況になるのかを導き出し、人間の生理的な現象が根本であると結論づけている。生理的な現象とは、つまり、身体に訴えかける現象といえるだろう。それは上記で取り上げた、「緊張の緩和」こそが、笑いを分析する上でとても重要だということである。

 

 

恐怖と笑いの関係性について

 

桂枝雀の着眼点は、これまで述べてきた恐怖のメカニズムととても近いように思う。緊張と緩和のロジックの基本的な筋立ては同じで、ある事象との関係性のなかで表象された観念が、身体に影響を及ぼす可能性があると判断した場合に、恐怖などの情念を支配しうるのである。この状態がいわゆる緊張状態ということである。そして、この状態から、上記で説明したように、期待していたものとは違う特別なこと(可笑しみになりうる)が提示された場合に、笑いが起こるというのである。

 

これは、いわゆる解放理論とも呼ばれている。解放理論では、ユーモアとは高まっった神経の興奮を解放する形式だと説明されている。フロイトの提唱する快感原則に近い意味合いであるが、それについては今回は割愛とさせていただくことにする。

 

さて、再度話を戻すが、上記で説明している期待していたものとは、中核的関係主題として判断し、評価されたものだといえる。そして重要なのは、その評価した結果とは違う何かが提示された場合に、それらを再評価することになるのである。その再評価の結果こそ、笑いになりうる可能性を秘めているといえるのである。

 

そこで、不一致解決理論とよばれるユーモアの理論を参照したいと思う。どういう理論かというと、そのままではあるが、不一致が生じている状態で、その不一致が解決された場合に、可笑しみを得られるということである。上記に絡めて説明すると、違うものが提示されて、再評価したものと、もともと評価していたものとの間に、関連性があった場合に、ぼくらは「快」を得られて、可笑しみが得られるというのである。つまり緊張と緩和とは、もともと評価していたものと再評価していたものとの差に、可笑しみが起こるということである。

 

とすれば、その差をどのように作るかという点では、ホラー映画などと同じであるだろう。つくり手が対象を、どのような形で誤認させるように演出するか。それがさらなる恐れを抱かせるか、意表を突き笑いへと導くのか。その観念の操作の仕方こそ最も重要な点なのである。

 

 

そうだとすれば、観念をどのように操作すれば、笑いとなりうるのか。

 

たとえば、ダジャレというチープな笑いの手法がある。これは自体は、意味としては不一致であるが、語感が同じため、そこに関連性を発見することで笑いとなりうる可笑しみのパターンである。ダジャレ自体は、ほとんど観念に接触していないため、下位レベルの笑いとされている。だが、状況次第では、面白くなりうる可能性を秘めているといえるだろう。

 

観念の不一致解決理論も同じように規則性やルール、関連を発見することで、笑いとなりうるのである。それが、言葉であるか、文脈であるか、もしくは言語化されていないイメージであるのか。組み合わせは自由自在であり、状況次第でそれらに対する評価は変わってくるのである。

 

トリックスターという存在をご存知だろうか。トリックスターとは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。トリックスターは、ぼくらが共有している概念や幻想にたいして、疑問を提示し、世界の見方ですら変えてしまうのである。

 

あわせて注目しておきたいのは、裸の王様の話である。まさに、緊張と緩和の代表的な話である。王様という存在は、否が応でも、緊張感をつくるプロフェッショナルである。そして、王に対して民衆の人々は、それが間違っていると分かっていながら、なにもいえず沈黙するしかない。そればかりか、王様という絶対的な存在に、正しい判断ができなくなり、王様だから間違っていないという安直な評価をくだしてしまいかねない。そこに、無垢な少年は、なんにもとらわれずに、王様が裸であるという違和感を指摘し、民衆の人々が無意識下に葬り去ったその違和感を呼び起こし、笑いとなったのである。

 

 

最後に

 

怖い話のネタは、緊張と緩和という身体に訴えかけるという手法のみならず、情動ですらも動かしてしまう。とても笑いの本質にちかい仕方だといえるだろう。ただ笑うだけではなく、他の情動を引き起こし、笑いを生成変化させることができれば、とても強い笑いだと思っている。

 

ぼくらは何らかの幻想にとらわれて、そこから抜け出せない存在である。その何らかの幻想は、同じ対象を認識していたとしても、認識の仕方は、それを認識する本人の能力(状態)によってかわってくる。言い方を変えるとその分だけ可笑しみが存在するということである。

 

全く意味のないものであったとしても、たった一言で、それにたいする見方が変わってしまうような、そんな観念の再評価こそ最も高度な笑いだといえる。

 

 

関連記事:

彼岸よりの死者 此岸と彼岸をつなぐ笑いの道①

観念の亡霊たち 此岸と彼岸をつなぐ笑いの道②

前回のブログで論じたのは、ある対象を認知してから恐怖を感じるまでのプロセスである。そのメカニズムはいたって単純で、要約すると以下のような内容である。

 

ある対象を認知した際、身体的な反応を中核的関係主題を介して表象することで、ぼくらはそれらにたいして総合的な判断をくだすことになる。それはいわゆる評価と呼ばれるものであり、その評価の結果こそが恐怖を感じる原因であるとされている。

 

噛み砕いて説明すると、こういうことである。何かに遭遇したい際、その対象との関係性のなかで、その対象が危険を及ぼす可能性があると判断した場合に、恐怖心を抱く可能性があるということである。

 

 

上記の説明で恐怖心を抱くまでのメカニズムを理解できたと思う。だが、本来の疑問とされている、「それが作りものだとわかっていたとしても、恐怖を感じてしまうからくり」については、現時点で解決されてはいない。ぼくがはっきりさせたい点はそこである。ホラー映画などの恐怖を抱かせるコンテンツが、嘘(作り物)であったとしても、ぼくらが恐怖を感じるのはなぜかということを解き明かしたいのである。

 

ぼくが腑に落ちていない点は、それ自体が嘘だとわかっていれば、その対象に危険を及ぼす可能性がないと判断し、恐怖心を抱かないのではないだろうか、ということである。なぜなら、ホラー映画は、現実の外側(虚構)のなかで展開されている作り事であり、ぼくらに害を及ぼすはずがないからである。

 

恐怖を抱くまでのメカニズムにそって理解しようとすれば、ぼくらは、作り事のなかの対象を危険が及ぼすものであると錯覚し、恐怖心を抱いているということである。そこで注目すべき点は、志向性の向けられている対象自体について、まず考察する必要があるだろう。

 

前回に引き続き、戸田山和久氏の著書「恐怖の哲学」を参照したいと思う。戸田山は、その点について以下のように説明している。

 

恐怖に「怖い対象の認知」が含まれているということは、恐怖は志向性をもつということであり、それは間違った恐怖、つまり怖がるべきではないものを怖がることがありうる、ということだ。すぐれたホラーは、この間違った恐怖をうまく使っている。

 

戸田山の主張は、評価は認知する過程で対象を錯誤しうる可能性があるということである。

 

ぼくらは何らかの対象を認識する際に、誤って違うものとして認識することがしばしばある。それは、見間違いだったり、対象との関係性のなかで判断が誤ったのかもしれない。はたまた、環境が作り出した雰囲気に飲み込まれて、錯覚したのかもしれない。ようするに、ぼくらが何かを認識する際のメカニズムには欠陥があるということである。

 

 

パースによる記号的解釈

 

それでは、いったんここらで、パースの記号論を参照し、対象を認知するまでのプロセスをまとめておきたいと思う。そうすることで、上記の疑問を解決するための手助けとなるかと思っている。パースの記号論では、まず、対象を認知した際、その対象をいったん記号化し、その記号を解釈項(他の記号との比較で認識するための機能)を通すことで、その対象自体を認識することが可能となると説明している。ようするに、記号化された観念は、他の記号(概念として保存されている)との比較で概念化が進み、記号から記号へと連鎖的に表象が明確化されていくのである。

 

ここで注目すべきは、記号化するという行為である。記号化するということは、その対象を抽象化するということであり、ようするに、記号化の過程で、その対象を判断するために、その記号の特徴を抽象化するというプロセスが発生することになる。なにがいいたいかというと、同じような特徴を兼ね備えた対象が存在するならば、対象自体を誤認する可能性があるのではないかということである。

 

その点について戸田山は、ヘビとロープを比較しつつ、その点について説明を試みている。その理解を深めるために、その予備知識として、ヘビに遭遇した際の恐れを抱くメカニズムを簡単に説明するとしよう。

 

ぼくらは、ヘビが出現すると、ヘビを知覚し、ヘビの表象がイメージとして頭の中に生じる。その際、表象に現出したヘビのイメージを、恐怖の対象として評価した場合に、情動が恐怖として揺さぶられてしまうのである。

 

ここで注目すべき点は、ヘビを見た際に、ヘビとして表象されうるということである。表象するということは、さきほど説明したヘビの特徴を抽象化するということと同じである。つまり、ヘビの特徴を備えた対象は、それがヘビでなかったとしても、表象にヘビのイメージが想起されうるということなのである。状況にもよるが、ロープにはその可能性を秘めいているアイテムであるといっても過言ではない。

 

改めて、文頭で取り上げた「それが作りものだとわかっていたとしても、恐怖を感じてしまうからくり」は、つくり手が対象を誤認させるように演出することで、可能ということになる。だが、それだけでは説明は不十分だ。さらに敷衍して、考えてみようと思う。ぼくらは、つくり手が対象を誤認させるように演出するということですら、わかっているという点である。

 

ホラー映画を観る前に、それが怖いとわかっていたとしても、怖い演出で驚かせようと仕掛けていることですら、ぼくらは知っているのである。だが、ぼくらは、その演出にまんまと騙されてしまうのである。この点については、どのように説明すればいいのか。

 

 

ごっこ遊びというトリッキーな提案

 

その点について戸田山は、作り物(虚構)を怖がっているとき、ぼくらは怖がっていると錯覚しているのではなく、怖がっているふりをしているのだと説明している。つまり、作り物に対する情動自体が作り物なのだと考えられている。そしてその仮説を「ごっこ」説と提案している。

 

「ごっこ」説では、虚構を体験することを、一種のごっこ遊びに参加することになぞらえて理解しようとする。観客はホラー映画を観るというごっこ遊びに参加している。

 

それはつまりこういうことである。観客は、自身も映画の登場人物であるふりをすることで、たとえば、襲われている状態であれば、殺されるかもしれないという状況を信じ込み、冒頭で説明している恐怖を感じるためのプロセスを通じて、恐怖を感じるということである。登場人物のふりというのは、いわゆるカタルシス効果と考えてもいいかもしれない。登場人物に感情移入することで、ふり=なりきるという共犯関係が形成され、恐怖にたいしてのカタルシス効果を得られるということである。

 

川上量生の著者「コンテンツの秘密」では、上記を説明するうえで必要なことが書かれている。以下がその内容である。

 

まず 、再現 (模倣 )することは 、子供のころから人間にそなわった自然な傾向である 。しかも人間は 、もっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で 、他の動物と異なる 。

 

本書は、コンテンツとはなにかという大きな命題を掲げて、あらゆる文献を参考にし、コンテンツの条件について考察された一冊である。そのなかで、古代ギリシャの有名な哲学者であるアリストテレスの「詩学」から引用した一説である。人は再現することを好む。この一文に尽きる。もっと詳しく述べるならば、人間は現実世界を理解するためにシミュレ ーションすることから学習し、模倣することで遊びとして理解を深めていくというのである。

 

これこそがホラーを当事者視点で感情移入してしまい、それ自体が虚構(作り物)であったとしても、危険を及ぼす可能性のあるものとして評価し、恐怖してしまうというカラクリである。

 

これでなんとなく理解いただけたのではないだろうか。恐怖の感じるまでのプロセスは以上となる。

 

これまでの説明でわかるように、ぼくらは、幻想のなかで生きているといっても過言ではない。幻想というのは、言い方をかえると思い込みということであり、その思い込みはぼくらはを恐怖に陥れようと企てるのである。その思い込みは、あらゆる記号に結び付けられており、恐怖に紐付けられた観念として、ぼくらの眼前に現れるのである。その無数の観念は、表象という名の亡霊として、身体に取り憑き、今か今かと待ち構えているのである。

 

 

 

さて、今回は以上となる。前回から恐怖について考察してきたが、次回はそれらを踏まえて、恐怖と笑いの関係性について、考察しようと思う。以上。

 

 

関連記事:

彼岸よりの死者 此岸と彼岸をつなぐ笑いの道①