センテンスサワー -16ページ目

センテンスサワー

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夏といえば、怖い話であったり、ホラー映画であったり、涼しさを感じられるような風物詩がたくさんある。どちらかというと、ぼくは得意な方ではないが、好奇心なのか、怖いもの見たさなのか、特集番組があればついつい観てしまう。ぼくが小学生の頃、「怪奇特集!! あなたの知らない世界」という番組が放送されていた。内容は、一般視聴者が体験した怪奇現象や心霊現象を再現したドラマである。それがフィクションだと分かってはいるけど身が竦むほど恐ろしかったのを今でも覚えている。

 

上記のように、「怪」を題材とした娯楽は、人を怖がらせるためだけではなく、他のジャンルでも転用されて、コンテンツ化されることも多い。たとえば、お化けや妖怪は、擬人化とデフォルメを介することで、キャラクターとなる。本来は、恐れを抱かせる存在であるはずだが、物語のなかで愛されるように描くことで、恐れという感情がなくなるのである。

 

また、演芸では、恐怖心を抱かせることで情動が揺さぶられ、他の感情を掻き立てることを目的とすることもある。たとえば、落語では、恐怖を笑いへとすり替えるといったテクニックが用いられることがある。漫才やコントでも、同様の仕方で笑いを取ることがある。いわゆる、緊張の緩和と呼ばれるテクニックとされているが、それは後述するとして、笑いと恐怖はとても連関するものなのである。

 

 

「怪」に纏わる日本の歴史はとても古い。遡れば、民間伝承や神話まで遡行することができ、物語とすることで語り継がれているのである。本来は、不可解なできごとを、神や祟りとして意味付けをすることで、恐怖心をやわらげるといった目的があった。その後、政治や経済のなかでさえ、「怪」は利用されるようになるのである。「怪」は人々に畏怖の念を抱かせることで、それ自体を無意識の内側に封じ込め、事物や出来事にたいして不気味なものという印象を与えることを目的とされるようになったのである。

 

怪は人知の及ばないところで機能しているといえるだろう。だが、近代化されていく過程で、不可解なできごとは解明されていき、情報として整理されるようになる。恐れとして抱いていたものがロジカルに説明されることで、怪としての本来の役割は消滅し、伝承されていく過程で娯楽化されていった性質のみ残ったものが、現在の「怪」なのである。

 

恐怖を扱うコンテンツは、今でさえ人気の娯楽である。恐れを抱かせることを目的としたコンテンツともいえる。それでは、どういう理屈で、ぼくらは恐怖心を体感することを、娯楽として楽しむことができるのだろうか。恐怖は不快な感情を抱かせるものであり、可能であれば避けたい現象ですらある。それであっても、ぼくらは恐怖を欲望し、味わいたいと考えてしまうのである。

 

当然のことであるが、ぼくらはホラー(恐怖を扱うコンテンツ)をフィクションだと知りつつ、恐れを抱いてしまう。それは一体なぜなのか。怖がらせられるという状況下で、それらを待ち構えていたとしても、戦々恐々してしまい、頭ではわかっているはずなのに、結局「怪」にたいして不安にさせられてしまうのである。

 

 

恐怖の哲学、中核的関係主題について

 

では、「怪」に恐れを抱いてしまう仕組みはどのようなものであるのか。注目すべき点はそのからくりである。そこで、戸田山和久氏の著書「恐怖の哲学」を参考に、「怪」のからくりを解き明かしていきたいと思う。本書では、ホラーの仕組みを分析することで、恐怖を構成している要素をさまざまな観点から分析し、それらをすべて結びつけて再編することで、新たな「恐怖のモデル」を提案している。それでは本書を参照しながら説明しようと思う。

 

一般的に、「恐怖」は情動の一部の感情であるとされている。情動には、喜び、悲しみ、怒りなどの感情も含まれているが、それらと比較して、恐怖には志向性(ある対象に向かう意志)がはっきりしていると説明する。志向性があるということは、意志が向けられている対象を、知覚によって認知するということである。その結果、その対象は、ある一定の基準によって判断され、評価されることになる。その評価こそが、恐怖を判断するために必要な鍵となっているというのである。

 

ここで説明されている評価とはいったいどういうことか。

 

その概念を理解するためには、まず、中核的関係主題という考え方を知っておく必要がある。中核的関係主題とは、主体とそれをとりまく状況の関係を、主体の利害としてまとめあげた総体といえる。

 

たとえば 、不安の中核的関係主題は 、不確実な 、存在への脅威に直面していること 、恐怖の中核的関係主題は 、差し迫った具体的で圧倒的な物理的危険に直面していること 、嫉妬のそれは 、他人がもっているものを欲していること 、とされている 。 

 

上記は、さまざまな情動の観点から中核的関係主題を説明したものである。ようするに、中核的関係主題とは、それが自身にとって有意義なものであるか否かという状況との関係のことだといえる。そして、それが自身にとっての脅威であると表象すれば、それこそが、その状況を評価するということなのである。

 

つまり、自分に脅威が迫っているという中核的関係主題を表象することが恐怖心を抱いている状態なのである。表象とは、対象を認識する際に、抽象的な概念として、頭の中に思い浮かべるイメージのようなものだといっていいだろう。ぼくたちは、その表象にたいして恐れを抱いてしまうということである。

 

 

身体化された評価理論について

 

この理論は、ジェシー・プリンツが提唱した評価理論である。そして、プリンツはもうひとつ重要な点を指摘している。それは、その評価を決定づけるのは、身体的な反応だというのである。いわゆる、プリンツの提案した「身体化された評価理論」というものであり、戸田山は以下のように説明する。

 

プリンツは情動を、身体的反応をモニターするものとみなす。中核的関係主題に対応するようにパターン化された身体的反応をレジスタすることで、情動は評価をしている。評価はラザルスらのように、概念的な思考によってなされるのではない。身体的反応を通じてなされる。だから、「身体化された」評価理論なのである。

 

身体的反応とは、毒グモを見たり (知覚 ) 、幽霊を思い浮かべたり (想起 ) 、自分が崖から転落することを予想したりしたときに、ゾッとしたり 、鳥肌が立ったり 、ドキドキしたり 、手に汗をかいたりする身体に生じる反応である。これは、ソマティック反応と呼ばれるものである。ようするに、知覚によって得られた外部からの刺激が、感覚や五感を通じていく過程で決定される評価ということである。

 

身体的な反応と情動は限りなく近いところで結び付けられている。それは、上記で説明したような順で展開されていくのだろうが、相互作用のなかで評価されているといっても過言ではない。戸田山は、以下のようにまとめている。

 

恐怖は表象である。アラコワイキャーの場合、恐怖は次のような構造をしている。怖いものの知覚によって身体的反応が引き起こされる。その反応は、これは脅威でっせという評価でもある。その身体的反応をモニターし、自分に脅威が迫っているという中核的関係主題を表象するのが恐怖だ。

 

そもそも情動が何のためにあるかといえば、意思決定を促して、適切な行為を生み出すためにある。自身と外部状況との関係性のなかで、脅威・危険を判断し、次の行動を意思するためである。ホラーは、その動物的反応をうまく利用したコンテンツなのである。

 

 

今回は、恐怖を感じるまでの、プロセスを解説してみた。次回はさらに踏み込んで、もともとの疑問である、それが作りものだとわかっていたとしても、恐怖を感じてしまうからくりについて考えてみようと思う。そして、最終的には、恐怖と笑いの関係性を検討したいと思う。以上。

渋谷で開催されている「アーッ!!ト叫ぶアート展」に行ってきました。

 

とても素晴らしかったです。

 

作品の中にユーモアを取り入れつつ、各作品固有のバカバカしさに笑っちゃいました。

 

ぼくにとって芸術というものは、人間の領域を拡張するためことであったり、人間自体の概念をアップデートすることであったり、実存を掛けた闘いであったり、情動に訴えかける何かを感じさせるもの。

 

ほっこりするような小さな驚きから、感嘆するような大きな驚きまで、ジャンルにとらわれないたくさんのアートを観ることができました。

 

 

今回一番印象に残っているのは、大月壮さんの『こっちに向かってやって来るAh!!rt』です。

 

どの作品にも倉本さんの解説のようなツッコミが一言あるのですが、「どんな気持ちで向かって来とんねん!」と同じように思わずツッコんでしまいました。隣で見ていた人も、友人らしき人とケタケタ笑いながら、ツッコミを入れていました。そのツッコミがまた的を射ていて、それなりに面白かったです。

 

この作品のテーマはアホな走り方を集めた映像作品です。日本編とカンボジア編があり、双方の感性の違いやアホの表現の仕方を比較しながら観ると、全然仕方が違うなと感じました。

 

また、撮影しているカメラに向かってアホな走り方で向かってくるのですが、それをスローモーションにしているのがまたよかったです。狂気性を助長し、肉体の流動性を感じられ、それはサイケなヤバさに尽きるでしょう。

 

作品の順番としては、日本編が流れ、その後カンボジア編が流れる。ぼくはカンボジア編から観賞し、その後続けて日本編を観ました。

 

カンボジア編はとてもキラキラしていて、アホの走り方に衒い外連味がなく、澄み切ったバカバカしさに、図らずも情動が揺さぶられました。なんでぼくはこのバカバカしさにウルッときているんだろうと、ユーモアと限りなく近いところに位置する情動の距離感を、ぼくは改めて感じました。

 

逆に日本編はとても不安になりました。やってることは面白い。だけど、それは笑いではなく、狂気性として感じられました。やってることはカンボジアの人と同じなのかもしれませんが、同じ日本人としての距離感の近さから、ぼくのイメージ内でウィットの幅が広がらなかったのかもしれません。不自然さすら感じたりしました。

 

なぜ、カンボジア編では感動し、日本編としては可笑しみとして消化されずに不安に駆られてしまったのか。それは優位理論が関係しているかもしれません。優位理論とは、比較する対象よりも優位に立つことで、優越感としての嘲りからくる笑いです。

 

日本とカンボジアを無意識のレベルで比較し、そのように感じている可能性があります。そして、それはそれで可笑しみを感じてしまっていたならば、そんなぼく自身が寂しいです。だが、ここからは否定させていいただきますが、そんな気持ちが少なからぬあるという一方、なんにもとらわれずに自由に表現している彼らにぼくはすごく羨ましさを感じました。本来の笑いが、情動に訴えかけたり、身体に訴えかけるものであってほしいですし、それが原始的な笑いであったとしても、現代のお笑いのように窮屈であってはならないと思うのです。それこそが笑いの本願だと思うのです。

 

作品自体を否定しているような文章になってしまいましたが、この作品から訴えかけてくるエネルギーにはいろいろ考えさせられました。欲張るなら、他の国の人の変な走り方も観てみたいです。各国比較して何らかの規則性が見つかりそうだし、世代別でも何か発見があるかもしれません。かげながら期待しております。

 

 

今回のテーマである「驚き」は、笑いと密接に関係性があります。いわゆる驚き理論と呼ばれるものですが、ぼくたちが想定できる範囲を超え、その想定の最大値との距離感の差が、情動の揺さぶりを与え、笑いとなりうる可能性のある理論です。どの作品にも感じられ、人間として、芸術性がアップデートされた気がしました。

 

仕事に忙殺される毎日で、アーッ!!ト叫びたいけど、発狂を抑える日々です。ストレス発散できました。

 

以上。

 

 

以下の作品も細かくて、良かったです。

 

去年の3月に『中動態の世界 意志と責任の考古学』が発売された。一年と少し前になるが、発売日に職場の近くの書店に足を運び、昼食を取らずに読み耽ったことを、今でも覚えている。

 

國分さんの世界に初めて触れたのは、『暇と退屈の倫理学』という哲学書である。その名の通り、本書は、暇と退屈を様々な学問を引用しながら考察した一冊である。この本に魅了されて、ぼくは哲学を独学で学び、今となっては趣味となっている。同書の文庫版(新版)では、「傷と運命」というタイトルの付録が追加されているのだが、そのきっかけとなった講義にも参加するほどの熱の入れようだった。

 

それ以来、國分さんの本は必ずチェックしている。『中動態の世界』は、テーマとしては難しい部類の哲学書ではあるのだが、まるでミステリー(エンターテイメント)を読み進めていくような展開の仕方で、ぼくらを中動態の世界へと導いてくれるのである。

 

 

それでは簡単にではあるが、今回のテーマである『中動態の世界』説明しようと思う。

 

そもそも本書を読むまで、ぼくは中動態という言葉すら知らなかった。タイトルである中動態とは、能動態でもなく、また受動態でもない、古典ギリシア語等に存在したもうひとつの「態」のことである。

 

能動態と受動態については、学生時代に習ったことがあるからなんとなく理解できる。能動態とは、主体的に働きかけることであり、受動態とは、その作用を受けることとされている。行為を判別する際、ぼくらは何気なく能動と受動に分けて、それらを判断しようとする。その対立的な関係性の中で、双方を認識し、構文を組み立てることを学んできた。

 

だが、中動態は、それらのどちらでもなく、その中間領域に存在する「態」とされているのである。本書で説明されているように、中動態という「態」は、近代社会が形成される過程で消滅してしまい、言語体系の発展の過程で失われてしまっている。現代のぼくらには、失われてしまった「態」を取り戻すことはとても困難なことのように思われるのである。

 

本書では、フランスの言語学者であるバンヴェニストの研究に着目し、中動態の概念を理解するための手がかりとして紹介している。バンヴェニストは、言語学の観点から、主語と動詞の関係に着目することで、中動態の理解を深めた。

 

どういうことかというと、能動態では、主語を起点として外側に完結する動詞であり、中動態では、主語がその場に留まるような状態にある動詞だと説明する。以下が双方をカテゴリ分けしまとめたものである。

 

能動態は、在る、行く、流れる、食べる、飲む、与える、風が吹く、流れるなど。

 

一方、中動態は、生まれる、死ぬ、寝ている、座っている、耐え忍ぶ、気にかける、話す、心が動揺するなど。

 

上記で双方の態を説明しているように、能動態としての動詞は、主体の自発性が見受けられる。一方、中動態としての動詞は、主体の内発的な揺らぎのように感じられるのである。本書では、そこには意志が深く関係していると説明する。どういうことかというと、中動態という概念が消滅してしまったように、それ以前において、意志という概念自体が存在しなかったというのである。

 

ぼくらの世界では、意志という概念は当たり前のものとして認識されているが、近代以前の世界では、意志という概念は存在せず、近代になるにつれてい獲得した概念だと説明されている。要するに、意志というのは、テキストの外側で存在はしていたが、近代に必要な言語が精査され、体系化されていく過程で、「意志」や「責任」といった概念が生まれたとされているのである。

 

ポストモダンの社会に生きるぼくらにとって、それらが存在しない社会を理解することはとても難解なことである。完全個人主義になりつつある社会に生きるぼくらにとって、意志をもってなにかを行うことであったり、いわゆる決断することは、避けて通ることができない道である。だが、社会にアップデートされる前の、共同体であれば、それはもしかしたら必要なかったのかなとも思ったりするのである。

 

 

「中動態の世界」は、ぼくらが当たり前だと思っている概念に気づきを与え、太古の昔に存在した態を現代で再利用することで、現代の不確かなものでさえ、違う解釈をもって理解できるのではというヒントですら与えてくれたと思う。

 

そこで、ぼくは可笑しみに絡めて中動態という概念を考えてみたいと思っている。それは、上記で中動態の動詞をカテゴリ分けしているが、その中に「可笑しみ、笑い」が含まれていても遜色ないのではと思うからである。それは以前ブログで紹介したお笑い観という概念がまさに中動態をもってお説明することで、より深く理解いただけると思ったからである。

 

 改めてお笑い観について説明させていただくが、お笑い観とは、ある事象を認識した際に、可笑しみとして機能する解釈項を通して、可笑しみを構築する脳内の装置のことである。

 

 どういうことかというと、何かを認識した際に、ぼくらはなんらかの刺激を受ける。その刺激は、その時点で可笑しみを含んでいることもあれば、可笑しみを含んでいない場合もあるのだが、ぼくらはその刺激を何らかの仕方で消費しようと試みる。その際に、お笑い観が機能した状態であれば、その刺激は可笑しみへと変換されうる可能性を秘めているのである。

 

これは、面白い=笑うという簡単な図式ではない。誰か(芸人など)が面白いことをするからぼくらはそれに対して笑うのではなく、その行為を面白いと解釈したからこそ、ぼくらは可笑しみを得ることができるのである。要するに、ぼくらは笑うという行為自体を、受け身として認識しているが、実際は、刺激(可笑しみの可能性を秘めた)を受けた後、それを可笑しみへと解釈することで、笑うという行為(もしくは可笑しみを得る)が発動されるのである。

 

一見ややこしい内容であるが、中動態の概念を用いれば、より理解いただけると思う。つまり、ここでいう「する」「される」の関係は、「可笑しみと解釈しようとする状態」と「可笑しみの可能性を秘めた刺激を受けている状態」に分けられる。そして、双方を行き来している状態を、ぼくはお笑い観(=お笑い感覚)と表現し、可笑しみに駆られている状態であると認識している。

 

その「する」と「される」の中間領域にこそ、笑いを構築(変換)する場が存在しているのだと思う。訴えかけられている状態とそれを解釈しようと試みている状態が、揺らぎを経て、可笑しみを獲得していくのである。

 

 

可笑しみに駆られている状態(=笑う過程)などと生意気なことを書いてしまったのだが、これはあくまでも、ぼく個人の解釈であり、可能であれば國分さんに一読いただき、正否を確認してほしいかぎり。ぼくは、中動態の世界を読みながら、これは笑いを解釈するために書かれた本だ!と勝手にトキメキながら読んだのだが、中動態という一見馴染みのない概念は、日常生活の中で、存在している可能性がある。ぼくたちはいまさえ中動態の世界の中で生きているのだろう。

 

以上。

 

 

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