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センテンスサワー

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いつからだろうか、これほどまでに監視される社会となったのは。他人の揚げ足を取り合い、メタレベルで批判をし合う。特に、影響力のある人は、SNSのような大衆メディアで批評的な発言をしようものなら、様々なところから狙い撃ちされてしまう。それがお笑い芸人となれば、なおさらである。風刺として、ある事柄を笑いにして発言しようものなら、炎上してしまうだろう。

 

芸人が差別を笑いにしていた時代は終わったのかもしれない。滑稽に茶化すという行為は、人を傷つける可能性があり、笑いとならなければ、ただの暴力以外の何物でもないからである。それは、言葉自体が、受け取った瞬間に機能するものだからである。ぼくはこのブログで散々書いてきたが、笑いも同様で、笑いとは、それを受け取った人がどのように解釈するかというものが本質だからである。ぼくはそれを笑いの消費と呼ぶ。差別を利用した笑いに可笑しみを感じて消費すればいいのだが、大衆の中にはそれで傷つく人が少なからずいるのである。

 

 

現在は、人が人を監視する社会であるのだが、もともと人を管理していたのは、国家という大きな概念である。なぜ、国家は人を管理しなければいけなかったのか。その点については、哲学者のトマス・ホッブズの考え方を参照し、話を進めていきたいと思う。

 

トマス・ホッブズは、人間は自然状態(=他者を脅かす可能性のある存在)では、戦争状態や闘争状態であるため、絶対的な権力を持った国家による支配が必要だと説いた。そして、その危険な状態を回避するためにも、ひとまず社会契約を結び、国家に見張ってもらうことが重要というのである。そうすることで、万人の万人に対する闘争を回避することができ、監視下の中でという条件付きではあるが、共生と平和を維持できるのである。

 

その状態についてホッブズは、旧約聖書に出てくる怪獣になぞらえて、リヴァイアサンと称した。人間の技術の発展は、最終的には人間自体をも創造しうると仮定し、その一つとして、国家(=リヴァイアサン)という人工人間的存在を創造するだろうと考えたのである。

 

国家の歴史は古いようで、たかだか400年前に作られた概念なのである。太古の昔から国家という概念はあるような気がするのだが、近代になって、共同体が社会としてアップデートされて、必要悪として誕生したというのがぼくの認識である。

 

そのような経緯を経て、現在の国家に至るまで国を維持するために連綿と受け継がれている。人工人間として機能しているリヴァイアサンは、現在は、人と人の相互監視の中で、一般意志として蠢いているように思う。そしてそれは、IT技術の発展によって、人工知能としての養分を取り入れつつある。リヴァイアサンは、人工知能を備えた人間的存在として、総体としての意志を獲得しようとしているように思うのである。

 

それはSNS上での話でない。日常生活の中でさえぼくらは、他者に配慮しながらコミュニケーションしなければならないのである。つまりそれは相関主義的な考え方といえる。相関主義とは、主観よりも、他者(=複数の他者)の考え方を優先して物事を考えることを重要とする考え方である。まさにポストモダンに最適化された思想だといえる。

 

もはやぼくらは関係性の中でしか思考することができず、ぼくにとってなにが重要であるかを問うのではなく、ぼくらにとってなにが重要であるかを問う必要があるのである。これまでは、「お前のものは俺のもの」という考え方でさえ、ひとつの思考法として認識されていたが、今後は通用することはないと断言できる。相関主義的に言いかえると、「お前のものはみんなのもの」でしかないのである。

 

思想界ですらそのような結論に至る中で、ぼくらの社会自体が相関主義的になることは必然であると思う。SNSの台頭により、相互監視(相互干渉)し合いながら、ぼくらは規律や道徳に重きを置いていくしかないのである。人工知能を備えたリヴァイアサンとは、コンプライアンスであり、はたまた、SNS上で蔓延る不特定多数のペルソナなのかもしれない。

 

 

今後、ぼくらはリヴァイアサンを抜きにして何かを語ることは許されない。すべては、相関の中で快い何かを提供することしかできないのである。表現の自由はどうなるのだろうか。他者の目を気にしながら、何かを発信するとなると、誰にも気に障らないであろう、細い細い道を進むしか方法はない。そこに刺激はあるのか。ぼくらの深淵に目を向けた気に触れる作品は、今後誕生するのか。

 

ぼくはその相関の隙間を縫って、いや、主観と客観の境界線を導き出し、表現していく必要があるのだ。それではその境界とはどこにあるのか。これまでずっと抱き続けてきた答えのない問である。

 

以前、差別とそうでない言葉の境界線について考察し、それを嘲りという笑いの仕方をベースに考えてみた。当時は、差別自体を笑いで乗り越えることができると本気で信じていた。だが、今となっては、無謀すぎたと思っている。もはやそれを笑いにすることはできない。自虐ですら笑いとなりえない可能性すらあるのである。

 

しょうがい者、LGBT、外国人など、これまではその対象として、差別されてきた過去がある。だが、今後はさらに細分化されていくことが予想でき、ブスやデブなどの言葉でさえ、人を傷つける可能性のある言葉として、使用禁止用語となる可能性すらある。現代の文脈では、そこを疎かにして表現することはもはや難しいと思うのである。笑いだけではなく、政治、文学、哲学でさえ、それは同じである。

 

笑いについては代替案として、笑いの初期化することの重要性を検討してみた。それは、日本のお笑いは、政治や文学などの文脈にそれほど依存していないため、人を傷つけることなく提供できるというものである。それはそれで間違いではないが、境界線を導き出しているとは言えない。ぼくが考察したいのは、やはり、人が傷つかない嘲りとしての笑いの境界についてである。

 

嘲りとしての笑いは、日本の演芸ではよく見受けられる笑いのパターンである。落語では、キチガイを笑いにすることがよくある。それは笑いものにするという文脈の外側で、彼らを笑いで包摂する役割でもあったようだ。哲学者のフーコは、著書『狂気の歴史』の中で日本の文化を取り上げ、西洋社会では狂人を排除することが当たり前とされている最中、唯一日本の文化は、狂人に対して寛容であると指摘している。

 

日本の芸能の歴史の中で狂人に対しての位置づけはとても重要で、遡れば、狂人を演じることで神との対話を可能とする宗教的儀式としての役割がはじまりである。そこから、狂人を演じることで、風刺として、当時の権力や支配体制を痛烈に批判し、告発することを目的としていたのである。

 

落語の中では、日常の中に狂気性を帯びた存在を演じることで、日常を非日常化するという役割があり、その異常性を可笑しみに変えているのである。排除するのではなく、社会の中に包摂することで、ときに新しい倫理が生まれ、新しい芸術が生まれるのである。他国からしてみれば、当時の日本社会は異常性に満ち溢れた共同体として機能していたのだと思う。

 

現代の日本社会は、人を傷つけないための言葉が溢れかえり、人を傷つけてしまう言葉は排除するという方向にある。それは相関主義的に考えると仕方がないことであることは承知であるが、ぼくとしてはコンプレックスを芸術性を帯びた何かで表現し、繋がり合うことを目指したいと思う。

 

お笑い芸人は、コンプレックスを武器に笑いを創造することがよくある。コンプレックスを笑いに変え、笑いとして消費するのである。その笑い声は嘲笑としての笑いではなく、気にしなくてもいいよ、という概念のアップデートを促すことがあると思う。ワイドナショーで松本人志が乙武洋匡をイジるのもそれを目的としているように思う。如何に、固着した観念を新しい考え方にするか。それはとても重要だと思う。封じ込めるのではなく、開くことで繋がることのほうが、ぼくは気持ちいいと思う。だが、不快な感情がどこか知らないところで生成されているということも紛れもない事実なのである。

 

 

古典のSFの中では、ユートピアとディストピアがよく描かれている。ユートピアはあらゆる文化が交わり、あらゆる関係性を超えて人々(それ以外)も共生し合うことである。一方、ディストピアは、あらゆる技術的な発展の末、監視される社会のことを指す。昔のSF作家はあらゆる未来を創造し、思弁的にユートピアを夢想したり、ディストピアを懸念していただろう。とても残念なことではあるが、ぼくらが生きる社会は後者である。ディストピアとされる社会である。細分化されていく境界線を踏まないように生きる社会である。

 

すべての人がという前提で物事を考えるのはもはや不可能である。閉じるしかない。ディストピアの中に小さなユートピアを構築していくしかない。だが、それでいいのか。本当に、それでいいのか。

 

境界の鐘が鳴り響く。ぼくはやはり境界線に興味がある。ギリギリのラインの中で、人々があらゆる解釈をし、喜怒哀楽を抱いたとしても、そこから生まれるものがあると思うからである。他者との違いの中で生まれる距離感こそ、クリエイティブをしていく中でとても重要なことだと思う。ぼくはそれを最も重要視している。境界線については、また別の仕方で考えていきたいと思っている。境界の鐘がガンガン鳴っている今だからこそできることがあるはずである。

 

以上。

 

 

 

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ぼくの数少ない統計で申し訳ないんだけど、絵の上手な人は決まって記憶力がいいと思う。絵を書くことが好きな人や、絵が上手な人に決まって聞いている。あながち間違っていないとは思うけど、だからどうしたという話でもある。

 

ちなみにではあるが、ぼくは絵を書くことが苦手である。書くことは好きだけど、書いても書いても上達せず、見よう見まねで、好きなアーティストの真似をするのがやっとで、一向に上達しない。

 

なぜ、絵を書けないか自分なりに考えてみたら、二つのことが分かった。一つ目は、頭でイメージしたものをそのまま書くことができない。二つ目は、そもそも頭の中に絵を思い描くことができないということだ。要するに、一つ目は、技術的なことで、二つ目は、センスのことである。

 

一つ目は、訓練を積むことで上達する可能性があるのだけど、二つ目は厄介である。なぜなら、頭の中に絵を描こうとしても、そのイメージには霧がかったように、うっすらとしか見えないのである。絵の得意な人に話を聞くと、彼らはイメージをクリアに思い描くことができ、ピンチアウトのような仕方で、拡大縮小したり、あらゆる方向から眺めることさえできるそうなのである。

 

それを聞いたときは、愕然とした。絵を書くことを、諦めるしかないと思った。

 

 

いわゆる、視覚優位性という能力である。映像思考であったり、映像記憶であったり、または同時処理に優れているとされる資質である。画家や建築家によく見受けられ、アーティストとしての条件といっても過言でない。

 

そのような優れた目を持つことは、絵を書くことや、アーティストにとってとても重要な資質なのだと思う。脳内を覗くための視力。ぼくは勝手に第三の目をと名付けた。それさえあれば、ぼくも絵を描かけるのにと思った。名付け親なのに、ぼくはその目を持っていないのである。

 

絵を書くことができれば、頭の中にあるイメージをぽこっと取り出すことができる。それができれば創作の幅が広がるのだろう。言葉にできないもどかしさを、彼らは表現できてしまうのが、ぼくはとても羨ましい。群盲象を評すという寓話があるが、ある意味、ぼくの創造性は、部分対象の比較でしか、それを全体として見ることができないのだと思う。イメージなので見えないのは当たり前であるが、その一部のイメージに触れることで、穴埋め的にぼくは想像することしかできないのである。

 

第三の目があれば、それさえあれば、といつも思う。悔しくて悔しくて、いつも泣いている。泣きわめいている。第三の目から零れ落ちる涙は、ぼくの涙とは違うのだろうなと思う。しょっぱいのか、色彩豊かなのか、沸騰しているのか、定かではない。ぼくにはそれを見ることができないのである。

革命が聴きたかった。

そして小山田壮平に会いたかった。

それに突き動かされて、ここ数ヶ月生きてきた。だから生きてこれたのだ。


彼の歌声は言うまでもなく素晴らしかった。

話すように歌い、戯れるように奏でる彼に、ぼくはもはや虜になった。

少年の歌声と呼ばれる小山田壮平の声は、ぼくにいつまでも青春を与えてくれる。

それは喜びのようであり、怒りのようでもあり、哀しみのようでもあり、それらをおり混ぜながら楽しそうに歌っている。


ぼくは、カネコアヤノのファンでもある。

小柄な彼女の力強い歌声は、旋律を日常に落とし込み、日々の生活をリリカルに表現する。

幽玄の彼方に微睡みながら涅槃の境地にぼくは吸い込まれる。

言祝ぐように歌い、時にあちゃらかに振る舞い、外連味のない彼女のことが、ぼくは好きだ。


アンコールには、ふたりで応えてくれた。andymoriのPeace。メインはカネコアヤノ。言うまでもなく、感動した。

音楽っていい。

すばらしい。

こんな儚い世界に真実があるとは、夢にも思わなかった。

また、いつか、会いに行きます。


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