センテンスサワー -18ページ目

センテンスサワー

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以前から気になっていた作品で、神や信仰をテーマにした本作は、社会告発アニメとして位置づけられ、世界中で話題となった衝撃作である。単館で短い期間のみの上映だったため見逃してしまっていたのだが、近くのTUTAYAで在庫があると知り、早速レンタルした次第である。

 

監督は、韓国ソウル出身のアニメ界でとても有名なヨン・サンホ氏。本作が公開されたのは、2013年と少し前の作品ではあるが、テーマがテーマだけに、流行り廃りの枠組みにとらわれなず、今だからこそ観るべき作品だとすら思っている。触れないわけにはいかないが、オウム真理教の死刑執行のニュースがメディアを独占し、改めて平成の大事件を考えずにはいられない。

 

ぼくらは、何らかの条件で、何らかの信仰を持つ可能性を秘めていると思う。それは人間が生存の確率をあげていく過程で組み込まれていった手段なのだとは思うが、信仰するという行為自体は、ときに人を救い、ときに生きることの道しるべとなり、人生を豊かにしてくれるものである。だが、その方向性をひと度間違ってしまうと、信仰に身を委ねる人を扇動し、見るだに恐ろしい事態へと変貌を遂げてしまう可能性があるのである。

 

 

本作は、上記でいうと間違いなく後者にあたる。物語の舞台は、ダム建設のため水没予定地となっている村である。拠り所の欠けた村人は、図らずも新興宗教におぼれていくことになる。そのような状況の最中、村の厄介者とされている主人公が村に戻ってきて、その異常性に気が付き、陰謀を阻止しようと奮闘するというのが、物語の筋である。

 

この物語の根幹にあるのは、言うまでもないが、ダム建設のため村が水没してしまうということである。それが、村の人々を不安にさせ、拠り所を求めようとして、信仰に身を委ねることになるのである。

 

つまり、ダム建設で村自体が消滅することで、それは同時に共同体の解体を意味するのである。このような小さな共同体にとって、故郷やそれを維持するための「場」というものはとても重要であり、繋がりを機能させている役割がある。それが無くなるということは、繋がりだけでなく、生活を含めたライフスタイル(=大きな物語)ですら、機能しなくなってしまうのである。

 

話は変わるが、先日『万引き家族』を観てきたのだが、テーマは違えどとても似たように共同体としての問題と思えた。どういうことかというと、万引き家族のテーマはもちろん「家族」であるとは思うのだが、ぼくはその関係性は家族という定義で捉えることが難しいように思えて、あれはどちらかというと最小単位の共同体としてしか機能していないのではないかと思っている。

 

話を進める上で、ぼくなりの家族の定義をはっきりさせておくと、家族とは幻想の共有でしかないと思っている。その幻想を維持するのが、血縁関係なのか、思い出なのか、愛(=哀れみ)なのか、はたまは戸籍などのルールによるのか。ぼくの定義から考えると、万引き家族はその定義からは逸脱しているように思えるのだ。彼らの繋がりを支えているのは、利害関係で結び付けられた関係でしかないように思えるのである。

 

だが、是枝裕和のうまいなぁと感じたのは、中盤で、安藤サクラ演じる信代が母親としての母性愛(=無償の愛)を獲得していく過程である。あの迫真の演技と、親子のようなスキンシップは、とても感動したというのは余談だが、とても素晴らしかった。

 

のだが、後半で、城桧吏演じる祥太が捕まってしまったことで、家族は夜逃げを企て、図らずもそのタイミングで捕まってしまうのだが、それは同時に「場」の解体を意味するのである。彼らは、段階を経て家族になり得た可能性があった。しかし、「場」が解体されたことで、それらの関係性が機能することがなくなり、万引き家族(=買い物客のふりをする家族)でしかなかったのである。

 

 

再度話を戻すが、「場」というものが共同体を維持するためにとても重要であることは認識いただけたかと思う。繰り返すが、ダム建設は「場」の消滅し、それは同時に共同体の解体を意味するのである。そのため、人々は不安定になり、宗教に身を委ね、邪教に対して盲信してしまうのである。

 

未来がみえないと、ぼくらは浅はかな判断でワンチャンに賭けてしまう弱い生き物である。オウム真理教のようなわけのわからないものに、なぜ、人々は熱狂し、エリートや高学歴の人でさえ、入信してしまうのか、とても大きな謎であるが、以前それについては『松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫』の中で取り上げた。

 

つまり、一つでも飛び抜けた気質(=能力や才能)があれば、全体を見ずに、一部だけ見て、それを全てだと思い込み、熱心になってしまうのである。そうすると、一部以外でさえ、輝きはじめて、悪いことですら、常識として分かってはいるだろうが、それすらも意味のある事と都合よく解釈し、思考停止させてしまうのである。

 

『我は神なり』では、たった一人だけ、正気な状態のため、陰謀を阻止しようとするのだが、彼はオオカミ少年のような形で誰からも信じてもらえず、自身の正義を信じて奮闘するのである。彼は、ある意味、常識の欠けた存在であるが、常識の外側で、自身の正義を持っている。それが正しい正義か、否かは分からないが、ぼくが重要なことだと思った。

 

 

現在では、法令遵守、社会的規範などの遵守にぼくたちは翻弄されている。そしてそれに飼い慣らされた人々も増えてきているように思う。社会に媚び、SNSに媚び、自分にすら媚びる。決断することを辞めて、正義を自身の内側に求めるのではなく、その外側に結論を委託する。この状態は、「場」の解体に等しく、誰もが何かに盲信してしまう恐れがあるのではと勘ぐってしまう。

 

宗教に夢中になるのも悪かないが、夢中になれる何か特別なものを見つけてほしい。あなたにしかない、固有なものを見つけることが、人生を豊かにしてくれるとぼくは思う。

休日はもっぱらお気に入りの本屋に出かけることがおおい。

 

最近は、井の頭線沿いにあるまちに引っ越してきたため、吉祥寺駅の中にあるある啓文堂書店に通っている。

 

そこの本屋が本当にセンスがよく、購買意欲をそそるような作品を揃えていて、外連味のないポップに新たな気づきを得て、ついつい買ってしまう。

 

他の本屋にはない魅力として、個人的に偉いなと感心してしまうところは、”売れる本”ではなく、”売りたい本”を売っている点である。

 

潔いというか、バカ正直というか、その心意気にぼくは胸を打たれるのである。

 

それは、本を買いに来た客を信頼しているからこそ出来る芸当だろう。

 

書店員が面白いと感じた作品を、同じように共感し、手にとってもらえると信頼しているのである。

 

つまり、本屋のレベルと読み手のレベルが限りなく近いということである。

 

おそらくであるが、吉祥寺の読者のレベルが高いからこそ、客を信頼し、売りたい本を売ることができるのだと思う。

 

 

レベルという言葉をあえて、”偏差値”という言葉に置き換えて話を進めたいと思う。

 

話は変わるが、ぼくの地元は、愛媛の南の方の片田舎である。

 

実家から本屋に行くのに車で二十分ほどかかり、その本屋の品揃えはとても悪い。

 

岩波書店の本など一冊もないし、基本ベストセラー本を中心に売られているのみ。

 

客は客で、雑誌だとか、漫画だとか、買っているように思う。

 

それこそが、本屋の偏差値ということである。

 

地元の本好きは、決まってアマゾンで本を買っているという話を聞いた。

 

とてもさみしい話である。

 

それでは、出会いがないではないか。

 

目が眩むほどのトキメキ、赤い実が弾けるあの感覚、それはジャケ買いであっても別に構わない。

 

売らん哉の精神で売られている本など、他者の欲望という宿痾に侵された大衆の疑似餌でしかない。

 

出会い系のような仕方(検索の結果)で本に出会うのではなく、お見合いのような仕方(策略的)で本に出会うのではなく、自由恋愛のような形で本に出会いたいわけです。

 

 

吉祥寺の啓文堂書店のように、街の本屋には欲しくなる本がたくさんある。

 

暇な時は、知的な刺激を求めて、夏休みに読む一冊を探しに出かけてみてはいかがでしょうか。

 

あなたに話しかけてくる、いや、訴えかけてくる本が必ずあるはずです。

原作を読み始めた頃、ちょうど映画化が決定し、併せてキャストが発表された。大泉洋と小松菜奈のダブル主演。ぼくは原作を読むのをやめて、映画の公開を待つことにした。

 

公開されてすぐ劇場に足を運んだ。周りは女子高生やらカップルやらで、場違い感を感じながらも、そんなことはお構いなし。一番見やすいど真ん中に陣取り、最高の位置で鑑賞することができた。

 

 

この映画は、小松菜奈演じる主人公の女子高生のあきらが、大泉洋演じる冴えないバイト先の店長に想いを寄せる純情恋愛物語である。また夢を追いかける二人の青春物語でもある。

 

主人公のあきらは陸上で活躍する選手だったが、練習中に大ケガをしてしまい陸上の夢を絶たれてしまう。そんなある日、偶然立ち寄ったファミレスで雨宿りをしていたとき、落ち込んだ彼女を見かねて、店長は一杯のコーヒーを差し出す。そんな店長の優しさに触れて、図らずもあきらは恋に落ちしてしまうのである。

 

 

店長とあきらの年の差は28歳もある。常識の範囲で、互いの恋愛対象に当てはまるかというと首をかしげざるおえない。そもそも未成年者と成人男性という時点で大問題である。保護者に訴えられて、検挙されちゃう可能性すらあるのだ。

 

だが、それでも好きになってしまうのが人間である。そして、好きになってしまったら止められないのもまた人間である。

 

 

その後、あきらはファミレスでアルバイトとして働きはじめる。働くようになって、以前にも増して想いは募るようになり、不慣れながらも彼女なりに店長にアプローチするのだが、店長はあきらの好意にまったく気がつかない。むしろ、クールなあきらの態度に嫌われてるんじゃないとすら思っているのである。

 

物語の中盤、気持ちが抑えきれなくなり、あきらは店長に告白することになる。そのシーンがとても印象的だった。小松菜奈と大泉洋の迫真の演技も見どころである。

 

「店長好きです!」

 

「なんで俺なんか好きになるんだよ。他にもいい男なんてやまほどいるだろ」

 

「好きに理由は必要ですか?」と感情のままあきらは迫る。

 

「普通は理由なんていらないけど、君がぼくを好きになるのに理由は必要だよ」と諭すように店長はいう。

 

その言葉はとても印象的だった。まさにその通りである。

 

ここでの理由とは、店長自身を納得させるための理由ではなく、誰もが納得する客観的な理由である。もし仮に両思いになったとしても、二人が付き合うためには周りを説得するための理由が必要なのである。それは、未成年者と成人男性が付き合うために、必要な条件なのである。

 

 

その後も二人は交流を深めながら、よりいっそう互いを意識し合うようになる。あきらのひたむきな気持ちに店長も少しづつ心を開きはじめ、次第に二人の距離は縮まっていく。だが、あきら自身は陸上の夢をきっぱりとあきらめ切れずに、悩んでいるようだった。復帰までの道のりは険しく、復帰できたとしても前のように走れるかはわからない。様々な悩みはつきまとう。

 

そんなあきらのことを店長は気にかけていたが、反面、羨ましく思っていた。かつて店長は小説家を志していた。だが、思うような結果が得られず、半ば諦めている状態であった。あきらの陸上への思い、葛藤を知っているだけに、店長自身も夢について向き合いはじめるようになる。

 

相反する二人の夢を比較するとまた面白い。

 

あきらの夢とは、陸上選手として新たな記録を作ることである。それは肉体的な制限と時間的な制限が存在する。一言でいうとすれば、選手生命といいかえることができる。その制限の中で、あきらは夢を追いかけるか否か決断しなければならず、そこが見どころでもある。

 

一方、店長の夢とは、小説家になることである。あきらの夢には様々な制限が存在したが、店長の夢にはこれといって制限はない。むしろ生きている限りだらだら続けられるし、作品ができてしまえば、死後でさえ小説家になれる可能性すらあるのである。

 

その非対称性が重要なポイントであり、それを知ることで、この物語の深淵に触れることができるのである。つまり、あきらの夢(およびキャラ、存在「女子高生」)は有限であるため、キャラクターとして輝いているのだ。彼女の一挙手一投足に、ぼくらは心を動かさせるのである。

 

反対に、店長の夢(およびキャラ、存在「中年」)は無限の状態にあり、彼の存在自体は、日々の反復を連想してしまい、彼に対して彼じゃなければならない何かをぼくたちは見出すことができないのである。

 

だが、ここで面白いのが、有限の存在が、無限(反復であり、複数的)の存在に対して何かを見出したため、店長は有限の存在に見出された何かとして、有限としての価値を帯びることになるのである。

 

この物語の設定はすごくわかりやすいように思われるが、キャラクターの構成やその関係性はとても巧みに計算されている。

 

 

 

感想

 

いつからだろうか。大人になるにつれて、なにかにつけ自分を正当化するための理由ばかり探すようになってしまった。逃げるための理由、働くための理由、続ける理由、人を好きになる理由など。理由ばかりを探し、気がつかないうちにそれに対して疲れ果てているように思う。

 

店長の煮え切らない態度は、今のぼくにすごく重なるところがある。本当はやりたいことであっても、過去の自分を引っ張り出しては、言い訳ばかりする。あきらのように好きなものは好きだと言えない退屈な大人になってしまったようだ。

 

あきらは店長を好きになった理由を考えていない。好きな理由を探すよりも、店長の好きなところを嬉々として探しているようにすら感じられる。この直感を信じることや直感を疑わないことが、ぼくにはとても大切なことのように思うのだ。

 

誰かを好きになる理由なんて本当にどうだっていい。たまたま出会い、憐れみを感じ、結ばれたいと思っただけである。そこに深い理由だったり、運命だったり、きっかけを探すのは野暮である。誰かを好きになった理由を、合理的に考えたり、計算したりした瞬間に、なにか大切なものを失ってしまうような気さえする。

 

遥か昔、哲学者のプラトンはイデアという概念を提唱した。現実の世界は不完全なため、イデア界の完全な本質(イデア)に迫ることで現実に見ている物や事を認識できるという考え方である。この考え方は早々にアリストテレスに「理想論だ」と論駁されてしまうらしいのだが、理由を探す行為自体が、まるでイデアを探し求めているようにすら、ぼくには感じてしまうのである。

 

人を好きになる理由なんて結局無責任でいい。無責任で十分必要条件を満たしていると思う。その人に対して、その人にしか感じられない固有性を見いだせたなら、それでいいではないか。

 

ぼくにとってその人にしか感じられない何か。ぼくにとってその人にしか見いだせない何か。他の人にはない、ぼくにとってのその人にしかない固有な何か。言語化すらできていない固有な何かを、上手に表現することなど、ぼくは不可能なことだと思うのである。

 

ようするに、固有なものに対して、好きな理由を求めることは、とても難しいことなのである。固有性の束に、その花束に、ぼくたちは恋しているだけなのである。間違っても、理由なんか求めちゃいけない、野暮だ。

 

 

作品自体は、とても素晴らしい内容だった。ぼくは今年で32歳になるのだが、図らずも、遥か昔の青春時代とかいうやつを思い出してしまった。あの頃のぼくは、何を見ても、何を聴いても、何を食べても感動したし、「今」という時間と向き合い、その希少性を一番自覚していた時期だと思う。

 

今のぼくは、結局店長と同じように、だらだらと決断を先送りにし、今という瞬間を薄く薄く引きのばしながら、くよくよ生きているだけ。ワールドカップはキラキラしすぎてぼくは見れないよ。以上。