センテンスサワー -19ページ目

センテンスサワー

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1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫が自決した日である。説明する必要などないかと思うが、三島由紀夫は戦後の日本文学会を牽引し、耽美主義を代表する作家である。彼の表現に対する美への追求はストイックかつ妥協を許さず、完全主義者としても有名である。彼の思想や美学は、後世の作家に影響を与え、半世紀たった今でも読みつがれている。

 

45歳という若さで三島由紀夫はこの世を去るのだが、その動機については不明とされている。だが、当時の三島は創作活動に対して限界を感じ始めたと言われている。それは自身の評価と世間の評価のずれに不安になったのか、それとも後続の作家に恐れをいただいたのか、才能が枯渇してしまったのか、定かではない。

 

創作活動をする者にとって45歳という年齢は苦しい時期なのかもしれない。成熟を遂げて、あらゆるしがらみに翻弄され、その業界すらも背負って創作活動をしなければならないのである。そこにはとてつもないプレッシャーがあり、個人で好きなことをしていた時とは明らかに異なるだろう。

 

松本人志がネット上で批判され始めた時期は四十代頃である。同時期、彼は自身のラジオ番組で、テレビというメディアの限界と、大衆(視聴者)の劣化に対して嘆いていた。その後、テレビというメディアでの創作活動を捨て、映画という媒体に注力しはじめることになる。

 

それは三島の選択した動機とすごく重なる。松本は自身の能力の限界を感じたのではなく、彼自身の能力を評価してくれる人に対して限界を感じたのだ。そして、テレビというプラットフォームを捨て、日本の外へ目を向けることで、活躍の場を見出そうとしたのである。

 

さて、三島由紀夫が自決した年齢のとき、松本人志にとってなにがあったか。それは検索すると出てくることであるが、彼は結婚し、子供を授かった。三島の選択とは異なり、松本は自決という道を選ばず、家庭を持つという選択をしたのである。それらは相反するように思われるが、限りなくその出発点は似たような性質を兼ね備えていると思っていると思っている。それをこれから解き明かしていこうと思う。

 

 

まず、指摘したい点は、彼を崇拝していた信者たちの抱いていた幻想についてである。それはこれまでのお笑い論で繰り返し述べてきたことであるが、松本人志がカリスマ性を獲得していく過程で、並行して彼に対する幻想が信者の中で成長していったのである。

 

90年代から松本人志が熱狂されはじめた理由は、その幻想があったからである。幻想という言葉はあまりにも馴染みないため、あえてこの言葉を「信頼」と言い換えたいと思う。ぼくたち松本人志の作品に期待し、彼のどんなネタをしたとしても受け止めようとした。つまり、信頼関係(もしくは共犯関係)のようなものができあがっていたのである。

 

この信頼(幻想)を獲得していく過程については、以前ブログで書いたので省略させていただくが、ぼくたちは一体何を根拠として松本人志を信頼するようになったのか。彼のどこに魅力を感じたのだろうか。

 

それは彼の原風景でもあるのだろうが、その原風景から形成された彼自身の生き様ではないだろうか。笑いを尊び、笑いを追求し、人生自体を笑いに捧げた彼の生き様に、ぼくたちは惚れたのである。

 

大きな物語について以前ブログで書いたが、松本人志には語られるべき数々の物語(生き様)がある。そして、彼の作り出す笑いの中にはその物語の断片が含まれているのである。ネタだけを消費するのではなく、その奥の方に潜む深淵(生き様)に目を向け、彼の笑いの理解者であることを求めたのである。

 

なにかに対して松本人志が笑うと、ぼくたち信者は、そのなにかに対して深い意味を汲み取ろうと試みる。だが、そこには意味などなく、結局理解すらできず、笑うという行為をする(しなければならない)のである。

 

2000年代前半にお笑い第五世代が作り出したネタ見せブームが起こった。数々のネタが量産され、数々のキャラクターが生まれた。だが、それらは面白いだけのネタでしかなかった。そこにぼくたちは深い何かを求めてないし、そこに生き様を汲み取ろうとすらしなかった。

 

それはつまり即席で作られたキャラクターでしかないからである。2000年代のお笑いブームでは他の芸人と差別化する必要があったなめ、奇天烈なキャラを作り出さなければならなかった。そういう売れることを目的としたキャラ作りが至るところで見受けられた。

 

反対に、松本人志というキャラクターは、彼の生き様から抽出されていった特徴のデフォルメといえる。そしてそれを作り出したのは、紛れもなく松本人志の信者たち(ファン)である。とどのつまりぼくたち信者は、図らずも松本人志の虚像を生み出し、それを信仰するようになったのである。

 

 

ここらで今回のテーマである笑いの神に触れたい。そもそも神とは一体何者なのか。日本に住んでいると無神教の人も多いし、神という概念に触れる機会などそうそうない。そして、「笑いの神が死んだ」とはどういうことなのか。その点に触れていきたいと思う。

 

まず、神とは、超越的な存在者と言い換えることができる。超越的とは、ぼくたちが触れることのできない外側の世界のことである。ぼくたちの認識の外側で機能し、それらは人間の精神の拠り所でもある。現在のような平和な世の中で、神という存在はあまりにも胡散臭く、むしろ平和を脅かす権化とすら感じられるのかもしれない。だが、近代までの人類は、神を必要とした。神を疑いすらしなかった。

 

そこに一石を投じたのが、ニーチェである。彼は自著の中で「神は死んだ」という当時としてはセンセーショナルなことを言ってしまったのである。当時は、神を否定することなどご法度で、処刑にされる可能性すらあった。みんな薄々は気がついているけれど、それを口にすることはいけないことだという暗黙の了解があったのである。

 

だが、ぼくが想定している神は、ニーチェのそれとはまた違う。ぼくの想定する神(笑いの神)は、どちらかというと、常人には成しえないようなすぐれた能力を有し、他から神聖視される人、というカリスマに近い意味合いがある。松本人志=神という位置付けは、カリスマや奇人と限りなく呼応する。今回のテーマで伝えたかったことは、その神に対する幻想が消滅し、彼が常人になってしまったということである。

 

なぜ、幻想が消滅してしまったのか。それは、彼の生き様に変化が訪れたことが関係している。

 

ポストモダン以前の社会では、一般的なライフスタイルが存在した。それは大きな物語とも言われているのだが、いい大学に行き、いい会社に入ります、いい嫁をもらい、子供を授り、一軒家を建てるという人生の理想的なライフスタイルのことである。だが、その大きな物語と呼ばれるものは、ポストモダン後に崩壊してしまい、当たり前だったことが当たり前ではなくなってしまった。そのため、ぼくたちの社会では目標とする事や物がなくなり、拠り所とする生き方がなくなったのである。

 

村上龍はその状況をうまく言い得たといえる。その言葉とは「ぼくたちの社会はなんでもあるが希望だけがない」という内容であると。ぼくたちの生きる社会には希望だけがない。そのため、ぼくたちは、虚構を拠り所を必要としてしまい、希望のない現実から目をそらそうとばかりするのである。

 

以前指摘しているが、松本人志はオタク第一世代であり、松本自身も語っている通り、結構なオタクといえる。そして松本の創作の拠り所は、虚構である。松本人志に対する幻想が消滅した理由は、松本人志自身が拠り所としての虚構を捨て、ポストモダン以前のライフスタイルに身を置いたからである。

 

ぼくたちは松本人志に人間としてのリアル(人間味)を感じてしまい、その結果、幻想が消滅し、幻滅すらしてしまったのである。

 

松本人志は結婚しないと誰もが思っていたし、子供すら作らないだろうと思っていた。この思い込みこそ、ぼくたち信者の拠り所であり、その生き様に惚れていた理由だろう。そこには松本人志というお笑い芸人の生き様があり、たくさんの信者が熱狂するほどの力があったのである。

 

見方を変えると、笑いの神は死んだのではなく、自ら自決するとこで違う仕方で笑いを追求しようとしているのかもしれない。それは、前回のブログでしてきした、初期化する事と関係している。幻想にとらわれず、真っさらな状態で笑いを追求することを望んでいるのかもしれない。彼は、積み上げたものを破壊し、自らを初期化する道を選び、次の時代の消費者に向けて挑戦しているのである。

 

 

 

松本人志論は今回で最後である。ここ数年このタイトルに突き動かされながら考え抜いてきた。なんとなく思いつきも含めて、まとまったのではないかと思っている。

 

これはあくまでもぼくの個人的な意見であり、松本信者が何を思い、何を抱いていたのかはわからない。このブログの内容はあくまでも一つの提案に過ぎず、可能であれば議論を重ね、深めていきたいと思っている。

 

今回のテーマでは最終回であるが、違う切り口から笑いについて書きたいことは山ほどある。

 

いつになるかはわからないが、まとまり次第、公開しようと思う。ということで以上。

 

 

これまでの連載のまとめです、読んでください。感想お待ちしております。

 

笑いについて お笑い観①

笑いについて 演芸にまつわる笑いの歴史②

笑いについて お笑いブームとお笑いメディア史③

お笑い第五世代 大量供給・大量消費について④

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 ネタのイージー革命について⑥

お笑い第五世代 動物化するポストモダンの笑いについて⑦

お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧

お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨

お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩

松本人志論 松本信者として⑪

松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫

松本人志論 松本人志と狂気性⑬

松本人志論 松本人志とパトグラフィ⑭

松本人志論 松本人志と創造力⑮

松本人志論 松本人志と共同幻想⑯

松本人志論 松本人志とグロテスクリアリズム⑰

松本人志論 ドキュメンタル⑱

松本人志論 特撮的リアリズム⑲

日本のお笑いは、海外のコメディよりもレベルが高いと言われている。誰が言っているのかというと、決まってお笑い芸人たちだったりするのだが、それはお笑い芸人の単なるエゴなのではなく、ちゃんとした理由がある。

 

そしてそれが、今回のドキュメンタルシーズン5を観て、半信半疑だったものが確信に変わったと思っている。それはつまりこういうことである。日本のお笑いがレベルが高いとされているゆえんは、あらゆる条件を取っ払い、純粋にお笑いを追求している点である。

 

当たり前といえば当たり前なのだけど、これが肝だと思っている。どういうことかというと、それは海外のコメディを引き合いに出すとわかりやすいと思う。海外で評価されている笑いは、一般的に批評的だったり、政治批判であったり、差別的なことであったり、風刺要素の強いネタが特徴的である。

 

それはつまり、社会や人などの関係性の中で生まれる笑いであり、コミュニケーションの中で成立する笑いだといえる。

 

この点に関しては、むしろ日本のほうが閉鎖的ではないのかという批判的意見も出てくるとは思っているのだが、それはあくまでもバラエティ番組の中で展開しているバラエティ芸であって、日本の一部で展開している高度な笑いには該当しないと思っている。

 

その点に関しては、以前、茂木健一郎が以下のように日本のお笑い芸人を揶揄したことがある。

 

「上下関係や空気を読んだ笑いに終止し、権力者に批評の目を向けた笑いは皆無」

 

「日本の『お笑い芸人』のメジャーだとか、大物とか言われている人たちは、国際水準のコメディアンとはかけ離れているし、本当に『終わっている』」

 

と、結構強烈な批判だった。だが、あえてこの点について反論させていただくと、国際水準のコメディアンが目指している方向性と、日本の芸人が目指している高度な笑いは違う方向性を向いているということである。

 

どういうことかというと、国際水準のコメディアンが目指している笑いというのは、文脈に依存した笑いだといえる。それは、笑いの理論であてはめると、優越理論を目的とした構造である。優越理論とは、他人との比較で優位な立場に立った際に獲得する優越感からくる笑いのことである。国際水準のコメディアンは、如何にして自身よりも立場が上位の人の弱点を見つけ出し、それをネタとして成立させるかということを目指している。如何にマウントを取るか、如何にメタレベルで批判できるかという実践である。

 

その本質をついているネタが、「王様は裸だ!」という童話の批判的な笑いであるだろう。それは関係性の中で生まれるツッコミとしての笑いであるといいかえることができる。つまり、あくまでもそれは、王様に依存して生まれた二次的な副産物としての笑いであり、解釈可能性の細いネタでしかない。

 

再度繰り返すが、日本の芸人が目指しているのは、あらゆる条件を取っ払い、追求した純粋な笑いである。そのためには、あらゆる関係性を無にし、あらゆる条件を均一にするところからはじめなければならない。要するに、如何に初期化することができるか、ということが必要なのである。

 

ドキュメンタルでは、笑いの条件の初期化に限りなく成功している番組だといえる。だが、それはあくまでも限りなくであり、上下関係や芸人同士の関係性、そして少なからずルールも存在する。

 

しかし、ここまで初期化された状態で笑いを実践している番組が他にあっただろうか。断言させていただくが、ない絶対にない。

 

「密室笑わせ合いサバイバル」番組と謳っているように、芸人自体が得意とする芸や、用意したネタや道具が無効化し、その場その場で臨機応変に笑いを生み出さなければいけないのである。

 

 

今回の優勝者であるハリウッドザコシショウは、このサバイバルゲームで最も向いている芸人であると思っている。それは彼の笑いがどの文脈にも依存していない独自の笑いだからである。彼は、初期化された秩序のない状態で力を発揮できる稀有な存在である。それは空気を読まない天才でもあるといえるが、どこでも通用する笑いであるともいえるだろう。それは、老若男女、人種すらも超える可能性のある笑いだといえる。

 

くっきー論で同様のことを書いたが、それは破壊的な笑いだといえる。破壊的な笑いとは、、パターン化された笑い(身体に訴えかける笑い)を無効化し、キャラクター性や世界観を武器にした笑いといえる。比類なきキャラクターや奇妙奇天烈な世界観には、笑いの法則性を逸脱したとしても、許容されるパワーがある。とくに圧倒的なキャラクター性があれば、もはやボケてもボケていなくても、行動や言動、そして空気すら笑いに変えてしまうのである。まさにグロテスクリアリズム的笑いなのである。

 

併せて、準優勝者である千原ジュニアについても取り上げたいと思う。対象的に千原ジュニアは、初期化された状態で積み重なっていく条件を読み取り、それらを複合的に組み合わせながら、パターンを見つけて笑いを生み出したといえる。それはとてもクールで彼のらしさが出てとてもよかった。苦手だといっていたが、彼なりの仕方で笑いをとる設定を構築するうまさが際立っていただろう。

 

 

さて、再度話を戻すが、日本の笑いのレベルが高いと言われている点は、もうすでに理解していただけたのではないだろうか。条件を無効化し、初期化すること。そうすることで、純粋に笑いだけを求められることができ、もしかするとそこには、普遍的な笑いを追求できるのではと期待してしまう。

 

もう一度繰り返すが、国際水準のコメディアンは、何らかの関係性(政治的、実存的、環境的)を利用することで笑いに変換するという試みを実践しており、それは再利用不可能な笑いといえる。それは、その条件を理解している人でなければ、笑いとならないという依存関係すら生まれてしまうのである。

 

つまり、国際水準のコメディアンの笑い(ネタ)は、時代を超えることができない、窮屈で退屈な笑いといえる。

 

だが、上記で取り上げたハリウッドザコシショウの笑いは、もしかすると、一万年後の子供がケラケラと笑ってしまう可能性すら感じられる。それは、ある意味、幼稚さ(文脈にも依存していない笑い)の笑いといえることができ、それこそ普遍性のある笑いなのかもしれない。

 

普遍性のある笑いの研究をぼくは諦めようと思っていたのだが、今回のドキュメンタルシーズン5を観て、少しだけ、ほんの少しだけ、普遍的な笑いを見つけることができるのではと思っている。

 

一万年後、どこの国かも星かもわからない人々がザコシショウの笑いを観てケタケタと腹を抱えて笑っていることをぼくは願う。そのためにもドキュメンタルひいては、笑いの動画がその頃まで残るためにぼくらは頑張らなければならない。

 

ぼくは芸人ではないため、彼らのサポートを全力でしたいと思っている。

 

 

 

さてさて、今回のドキュメンタルシーズン5は、個人的に傑作だったと思っている。前回までのドキュメンタルでは、過激さだけに笑いが展開されてしまい、もう旨味はなくなってしまったのだろうかと懸念していたが、それを超えてきてくれてとても感動した。松本人志、キャスト、構成作家、スタッフが優秀すぎる。ということで、次回のドキュメンタルも楽しみにしている。以上。

昨年からお笑いについて書いているのだが、構想の段階から含めると四年ほどになる。上京する前からなんとなく考えはじめていて、こういった形でまとまるとは思ってもみなかった。

 

当初は、ブログの一つのネタとして面白いかもしれないという理由だけで、「笑の神は死んだ」というタイトルで思いの丈を綴ってみた。そして、書いている間にアイディアが降りてきて、違うアプローチができるかもしれないという気持ちが芽生えたのである。

 

それから土日を利用して資料を集めた。ぼくとしては、松本人志論を書くにあたって、松本人志の笑いの本質であったり、普遍的な笑いとは、という大きなテーマに挑戦したかった。だが、そのテーマはぼくには重たすぎた。専門家でもないぼくが踏み込んではいけない領域だと気が付くまでに相当時間を要してしまった。これは誤算だった。

 

その失敗が功を奏してか、笑いに関しての知識と知見を少なからず手に入れることが出来たかと思う。古典的な笑いの理論から、最先端の笑いの理論に至るまで、あらゆる分野の専門家が独自の切り口で笑いを考察し、日々、笑いの理論が体系化されているのである。特に、文学者や哲学者、そして心理学者(精神分析学者)などの考え方はとても参考になった。

 

日本に目を向けると、笑いに対する効用的な本はたくさんあるのだが、それほど分析している人はいない。哲学者であれば柄谷行人が少し書いているくらいだったし、柳田 國男が「笑の本願」という神と笑い(伝統芸能としての笑い)について書いているくらいだった。

 

上記で学んだことは、少なからず松本人志論に反映されているのだが、結局、普遍的な笑いの本質を捉えることはできなかった。むしろ、文献を読み解こうとすればするほど、笑いに普遍性などないことがわかり、ボードレールが述べているように、メタレベルの視点に立つことの重要性がなによりも重要だと思い知らされるのみ。

 

つまり解釈次第ですべての事象が笑いへと変わるということなのである。それは以前、「お笑い観 笑いについて①」というブログで、ぼくなりの答えを出そうと試みた。内容については一読いただきたいと思うが、それについてはまだまだ考え抜く必要があり、今後の大きなテーマだと思っている。

 

そこでぼくが目を向けたのは、笑いの消費者(松本信者)についてである。笑いの発信者ではなく、受信者に目を向けることで、その本質に迫ることができると思ったのである。それはあながち間違っていなかったと思っている。彼らが解釈し、それを消費することで笑いという効用が生まれるのである。

 

宗教(神自体)というものは、すべて受身的立場にある人々が作り出した幻想である。その幻想を共有している人々の妄想に過ぎず、それらを取り巻く人々が作り出したに過ぎない。松本人志を神と位置づけて、論を展開したのは、そういったカラクリがある。

 

笑いの神は死んだ」というブログでは、その点に触れることはなかった。そもそもその時点では、なにも思いついていなかった。ただ、ニーチェ的に書いてみたかっただけである。

 

一般的によく使われる笑いの神とは、「偶発的にアクシデントが発生した時に爆笑が起こる現象のことを指す」ときの存在であり、上記で取り上げている神とは少しニュアンスが違う。その点は目をつぶっていただき、次回のブログを読んでいただければと思う。

 

最後の松本人志論のテーマは、「笑いの神は死んだ」の続編となる。なるたけ、納得いただけるものにしたいと思っているので、公開はしばらく先だと思っているのだが、夏までには公開したいと思っている。

 

 

さて、次回のブログだが、松本人志論の公開までに、これまでに書いたお笑い論のまとめを書こうと思う。それも分かりやすく。というのも、これまでのお笑い論では、かなりの長文となってしまい、読者の方が読みにくいのではないかという反省がある。加えて、最近の読者の傾向として、スマホユーザーが五割以上を超えるため、その点を考慮して書いていかなければとも思っている。

 

お笑い論は、全部で19記事ほどある。それをカテゴリごとに分けて、分かりやすく解説していきたいと思う。以上。