センテンスサワー -20ページ目

センテンスサワー

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四年前に四国から上京してきた。東京に来ること自体、学生時代に修学旅行で来たきりで、改めて人の多さやビルの高さにとても驚いた。

上京して来た理由はいくつかあるのだが、学生時代から付き合っていた彼女に振られたことが一番の理由かもしれない。

結婚し、婿養子になる予定だったんだけど、互いに都合があわず、疎遠になり、自然消滅しかけたタイミングで、「好きな人ができた」てきなことを言われて、別れることになった。

辛かった。とても辛かったけど、それがエネルギーとなり、ぼくを成長させてくれたから文句を言うつもりはないが、やっぱり腹は立つ。


四国から夜行バスで上京して、はじめは浅草橋のシェアハウスに住んだ。家賃は3万ほどでとても安くて悪かなかったんだけど、住人の民度の低さが異常で、とても住める環境ではないと思った。

当時、シェアハウスといえば、新しいライフサイクルのひとつとして人気であった。テラスハウスなどの男女の出会いの場としても機能していたし、リア充を体現しているような感じでもあった。

また、起業家の家入氏の試みにもとても関心があったし、新しいコミュニティとはどのようなものなのかとか、またそこの場がどのように人を結びつけ、機能していくのか、など、当時のぼくはとても関心があった。

だが、いざ、自分がそこに身を置き生活してみると、予想と理想とは程遠いもので、ただ人が寝るだけの巣窟であった。台所とシャワーとトイレが共有スペースなんだけど、そこはゴミが散らかり、誰も片付けない。そこは、やりたい放題の臭い場でしかなかった。

金がないから仕方がない。収入も、貯金もないけれど、どうにかここから逃げださなければと思った。


仕事が決まったら退去しようと思って転職活動を頑張った。未経験の業界だったため弱気になっていたのだが、すぐに内定をいただくことになった。もちろん即決して、翌週から入社することになった。

懸念点はいろいろあった。前職では求人広告の営業をしていたため、その会社の事情もなんとなくわかったし、未経験を採用する時点でその会社の様子はわかった。

だが、今回の転職の理由は、技術を身につけることと、お金を貯めること。すでに腹を決めていたし、修行僧みたいにしゃかりきに働くとも決めていた。

入社して二ヶ月ほどでそのシェアハウスを出ることにした。寂しさは微塵もなく、次への期待で胸が踊っていた。お金がないから、次もシェアハウスと決めていた。まだ、一人暮らしするには早い。そもそも東京で一人暮らしという発想自体、当時のぼくにはなかった。


ちょうど四年前の今頃である。カバン二つというありえない少なさの荷物だけ抱えて、ぼくは次のシェアハウスに移った。

一度下見はした。前回のシェアハウスとは違い、少しだけ家賃をあげたため、前回ほど酷くはなかった。むしろ、リノベーションした一軒家の外観がテラスハウスっぽいと胸が踊って、熱くなった。四国の田舎もんが、涅槃の思想に見切りをつけ、資本主義を肯定した瞬間でもあった。

ぼくは、これまでの人生でお笑い以外に承認を求めようと思ったことは一度もない。お笑いだけがぼくを承認し、包摂してくれたと思っている。だから、お笑いに、命の恩人に、恩返しをしたいというのがぼくの人生のすべてだと思っていた。

だが、だ。資本主義がすべての世の中で、本当にそれでいいのか?という悪魔の囁きが聞こえ始めた瞬間だった。

悪魔はぼくに囁き、「お笑いは捨てろ!お笑いから解放されて、好きなことをしろ!」と繰り返した。

ビートたけしが育った町にぼくはやってきた。足立区のシェアハウスである。荒川では、作られたライフスタイルに踊らされた休日のサラリーマンがみんなが身につけているトレーニングウェアを着こなしみんなと同じようにランニングしている。子供はとりあえずみんなと同じように野球をし、みんなと同じようにサッカーをしている。ホームレスですらみんなと同じように空き缶を拾い、みんなと同じようにダンボールを集めている。

資本主義の社会に片足を突っ込んだぼくは、この人たちと勝負しなければならないのかと絶望した。勝ち目がないと思った。でも、言葉にできないが、欲望が発露し始めていることを感じ取り、彼らがやっていることが楽しそうだと図らずも思ってしまっていた。




とりあえず、実話です。
次回も同じような感じで書こうと思います。
お笑い論もまとまったら書こうと思います。
忙しくて書けないという、社会人の言い訳を使って、弁解だけしておこう。
以上。

お笑い論を書いているのだが、それはお笑いの取り方を学ぶための技術書というわけではなく、ましてやこれを読むことで読者の笑いのレベルが向上するというわけでもない。どちらかというと、批評としての分析に近いものだと思っている。

 

お笑い批評というと、ネタの批評であったり、芸人自体に焦点を当てた批評であったりする。そしてそれらは批判的な文章が多いように思う。お笑い芸人にとって、彼らはあまりいい印象を抱かれていないのが事実だろう。よく聞かれる主張として、「ネタが出来ないのにネタを批評するな」という言い分である。つまり、自分自身よりも面白くない人が、面白いことを語ることができるのか、ということである。

 

それについては「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの言葉を想起せざるおえない。そうすると、お笑い芸人以外の人がお笑いを語る権利などなく、沈黙せざるおえないということである。それではその権利自体はどのような条件で得ることができるのだろうか。お笑い芸人であったとしても、アマチュアもいるし、事務所に所属しているが売れてない芸人もいる。アマチュアだけど賞レースで活躍している人もいるし、一年目だけど売れている若手の芸人もいる。ネタができればいいのか、そのネタがウケていればいいのか、回数として何回ウケれば権利を得られるのか、など。最低限の権利に値する条件を考え出す切りがないだろう。

 

それらを踏まえて検討すると、お笑いを語れる条件など設定する事自体が不可能のように思う。そこで二つの選択肢を提案したいと思うのだが、一つは、芸人に配慮しながら批評をするということ。もう一つは、芸人の批判を気にせずに好きなことを批評をするということである。重要な点は、配慮の設定する加減であるが、それはとても難しいことである。それを設定すると、本来主張したいことの濃度が薄まってしまい大事なことが伝われなくなる可能性がある。

 

ぼくとしては、その点はどうしても回避したい。言論の自由の中で最大限の表現を追求したいし、批判すらも愛であると受け取られるような仕方で批評していきたいと思う。それは、批評家と呼ばれようと、ブロガーと呼ばれようと、肩書はなんでもいい。現代のお笑いが文章として後年に残り、語り継がれることの一翼を担うことができれば十分役割を果たしたと思うのだ。

 

 

さて、上記のことを踏まえながら、ぼく自身がこれまで書いてきたお笑い論を簡単に説明したいと思う。ぼくの主張が他と違う点は、ネタや芸人に目を向けているのではなく、お笑いの消費者を中心に論理を展開していることである。それは、「お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩」の中で説明しているので、一読していただきたいと思う。そして、それを前提に話を進めていくと、普遍的な笑いの追求を破棄することが、ぼくのお笑い論の出発点でもあるだろう。

 

ぼくが想定する普遍的な笑いの定義は、どのような状況下であっても、それ自体に対して可笑しみを感じてしまうということである。漠然たるイメージの中ではあるが、笑いを創造する中で普遍的な笑いを追求することは誰もが挑戦したいテーマだと思う。だが、それ自体がなんらかの条件でなければ成立しないのではないのか、ということが松本人志論の主な主張である。簡単にいうとそれは面白いということを強制することで成立していた笑いということなのである。だが、お笑い自体が空気による強制ということも重要な点でもあるし、その点は慎重に議論すべき点である。

 

さて、再度、消費者自体に話を戻すが、消費者自体がどのように笑いを可笑しみとして解釈し、消費するのかということである。上記の普遍的な笑いの定義を違う角度から言いかえると、笑いは多様の見方で多様に解釈されうるということである。それは、可笑しみとして解釈されないという点も含まれうるということでもある。その解釈というのは、強制されない限り、好きなように解釈していいし、様々な消費の仕方が存在する。つまり、誰もが面白くはないことであったとしても、たった一人の人がそれ自体に可笑しみを感じた時点で、それは面白い可能性を秘めていた現象なのである。

 

それは他者から強制されることではなく、自身が面白いと感じた時点で笑いと認識していいということである。これは、最近話題のマルクスガブリエルの新実在論によって援用することで、一定の理解は得られるのではないだろうか。その新実在論の本質的な主張は、物理的に対象が存在するという統計的な存在論の解釈だけではなく、個人の「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在するというものである。

 

それを笑いに関連させるとこういうことである。ある個人が、ある事象を面白いと解釈した場合に、それは面白いという判断なのである。それは逆も言えて、ぼくが面白くないと解釈した場合に、それは面白くないという判断でもある。つまり、他者の判断に依存することなく、個人の判断が笑いとしての実在を成立させることが可能なのである。

 

だが、その判断はあくまでも個人的な主張であり、それについて重要なことは、それらの主張の総和自体である。どういうことかというと、ある事象に対するそれらの固有の判断は、複数の判断が競い合うことで、メタレベルにおいての優位性に立つことが重要だからである。そのメタレベルの総和の判断がその場の空気を作り出すといっても過言ではない。そして、その競い合いの結果は、暴力的に決定されてしまう。それは、メタ的な意思決定の総和としての判断によるからである。最もメタレベルに位置付けられた意思(笑い)の総和が、その事象に対して面白いと判断された結論とされるのである。

 

つまりは、消費者の判断(メタ的な意思決定の総和)に委ねられるということなのである。生産者が作り出した笑いであったとしても、その生産者自体に優位性を高めるための根拠づけがなければ、メタ的な強度がないとされてしまうのである。マウントの取り合いといえばそれまででもあるのだが、それはとても複雑なことであるし、様々な学問の援用がなければ説明ができないように思う。今後の展開として、笑いの総和に目を向けることがとても重要だと思っているし、その総和を共同体やプラットフォームと絡めて提案できればと考えている。

 

 

さて、この辺りで締めくくろうと思うのだが、ぼく自身はお笑い芸人ではないため、お笑い批評をすることができない。芸人の方からすれば、その権利がない存在として認識されると思う。だが、ぼくは消費者としての笑いという点に目を向けることで、芸人自体が純粋なお笑い消費者となれない隙間を利用し、自由にお笑いを批評していきたいと思っている。ウィトゲンシュタイン的に言いかえると、芸人は消費者の笑いの消費の仕方について「語りえぬものについては沈黙しなければならない」のである。

 

芸人自体も消費者であるというアクロバティックな解釈も可能であるが、純粋な消費者だからこそ語れることもあるだろうし、一定の距離感の中で語れることもあると思っている。芸人ではない視点で、また哲学者でもなく、社会学者でもない、どこにも所属していない存在だからこそ、それらをつなぎ合わせて広い視点で解釈ができることもあるだろうと思う。

 

そして、いずれ、エンジニアとしての視点を組み込むことで、さらなる展開を論じられたらと思っている。

 

とりあえず、以上。

最近、こればっかり聴いている。ALというロックバンドの『NOW PLAYING』というアルバムの中に入っている曲である。

 

YouTubeを徘徊中に、たまたま出会ったんだけど、衝撃だった。最初に飛び込んできたのは、「ハンアコンタ」という謎の文字。それを脳内で検索している内に曲が流れはじめて、その言葉を理解できぬままとうとう曲は終わってしまい、そのときにはすでに虜になっていた。

 

メロディーラインがとてもキャッチーでどこか懐かしく、それでいて瑞々しくも感じる。彼らはぼくよりも少し年齢が上なんだけど、大志を抱き続けている感じ。すごく自然体で音楽を楽しんでいて、野趣あふれる音楽がとても魅力である。

 

元andymoriというバンドの主力メンバーで組まれていて、そこにシンガーソングライターの長澤が加わったそうだ。元andymori自体もとても評価されていたようで、天才と評される小山田壮平の率いていた伝説のバンドだったようだ。言うまでもないが、andymoriの曲も鼓膜に染み込ませるほど聴いている。

 

また、くるりのボーカルの岸田繁が絶賛しているようだ。Twitterで彼らの事をつぶやき自らファンであることを公言しているほど。どんだけすげえんだよ、ってツッコミを入れたくなるほど、調べれば調べるほど、すごいバンドだと、認識してしまう。

 

 

さて、タイトルである「ハンアンコタ」とは、どういう意味か。これはどうやら造語のようで、友達の子供の名前「ハンナ、アンナ、コタロウ」からとって、「ハンアンコタ」という文字を連ねたようである。

 

「ハンアンコタ」という意味のない響きしかない言葉だけど、メロディーに包まれたことで、素敵な響きを帯び、ぼくにとってかけがえのない言葉となってしまった。

 

しばらく聞き続けると思うのだが、この気持が冷め止まない内にライブにでも行って、彼らの音楽を体に、脳内に、記憶に、人生に、刻み込みたい。

 

3分ほど暇な時間があれば一度、彼らの音楽を視聴してほしい。過ぎ去った青春が偽物だったと、改めて気がつけると思う。ぼくは少なからずそう感じた。

 

 

 

 

 

 

 

Sweetie 大きくなったら何になるの

 

ねえいつか大人になったら何処に行くの

 

きっと君は未来が好きなはずだから

 

うつむかないでBaby 君のために

 

 

 

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