センテンスサワー -21ページ目

センテンスサワー

気の向くままに書き綴るのでよろしくお願いします。
感想もお待ちしております!!

タイトルは、さておき、半年ほど前から定期的にブログを書くようになった。というのも、四年ほど前から本格的にお笑いについて考えていて、自分なりのアプローチができたらなとずっと思っていた。自身の体験として語れる知見から、第5世代が作り出したお笑いブームを新たな見方と解釈で提案したいというのが、そもそもの動機であり、そこからの発展として、「松本人志論」を書くことになった次第である。

 

このブログで儲けようなどとは売らん哉まったくもって思ってはなく、ただこのブログを見て、楽しんでもらえたらと思っているくらいである。ただ、専門家の目にとまり、このブログからなにかヒントでも感じていただければ、それはそれで感慨深いとは思っていたりする。

 

少なからず、コンテンツがたまることで読者が増え、PVも少しづつ増えてきた。ただ、ぼくのブログで一番読まれている記事は、ずっと同じで「ブスとデブはなぜ差別用語ではないのか」というものである。なぜ、この記事がこれほどまでに関心があり、いや、この記事というよりもテーマとキーワードに関心があるのだろうが、不思議でしょうがないというのが本音である。

 

世の中の関心とは不思議なもので、暴力性すら感じられるし、また哀れみに満ちているともいえる。検索している時点で無意識とは言い切れないのだが、なにかを知ろうと気持ちが動くということは、理性的ではない何かが衝動的に働きかけているからなのだろう。

 

例えば、最近ブログで最も注目を集めるテーマは、闘病日記であろう。基本ランキングの上位に独占しているし、生々しければ生々しいほど、バズる可能性を秘めているのである。演出しようと思えばいくらでもできるし、ユーザーにしてみれば、嘘か真かなど関係がなく、新聞の事故記事を眺める程度の関心しかないのが事実である。フィクションであっても、ノンフィクションであっても関係はなく、泣きにいくために映画を観に行く人とまったくもって同じ構造で動いているのではないだろうか。

 

失恋ソングが売れる理由として、不幸や悲しみは共感しやすいという性質を備えており、それはいい意味でも悪い意味でもビジネスとなってしまうのが現状なのである。憐れみは消費しやすいコンテンツであるし、今後もヒットするための条件であることは間違いないだろう。

 

 

併せて、注目すべきなのは、これはブログのみならず、ネットで人気者になりたければ、ネコをコンテンツとして使うべきである。ネコ市場は大変賑わいを見せており、インスタでも、ツイッターでも、ネコの画像や動画が溢れており、まさに招き猫的な状態となっている。トップに君臨していた犬など、もはや見る機会が減っていることは言うまでもなく、負け犬の遠吠えすら聞こえてこないしまつ。チワワちゃん、いったいぜんたいどこへ行っちゃったんだろうね。

 

さて、そこで提案したいのが、それらの強力なコンテンツをかけ合わせて、猫の闘病日記を書けばいいのではないだろうか。機会があれば、ぼく自身で書いてみたいのだが、お笑い論を進めていくだけでも手一杯なので、やめておくことにする。内容は、皆様の豊かな想像力におまかせするとして、そのうち猫の闘病日記てきなブログが出てくるのだろうと、密かに期待している。

 

 

さて、くだらないことを書いてしまい、その後悔の念を抱きながら締めくくろうとしているのだが、結論としては、ヒットするものだけが面白いものだとは限らないということ。私自身、Web系のエンジニアとして働いているため、PVを増やそうと思えば可能だとは思うが、それにこだわらず本当に書きたいことや、伝えておきたいことをこれからも書いていこうと思っている。読者は限定してしまうと思うのだが、どこにも存在しないお笑い論をこれからも書いていきたいと思っているし、新しい解釈でお笑いを分析し、提案していきたいと思っている。

 

現在の反省点としては、意欲があるうちに書かなければならないというプレッシャーから勢いだけで書いてしまい、誤字脱字や脈絡の無さも見受けられる文章となっていることである。改めて機会を設けて校正すべきだと思うが、次回で最後の松本論を書き上げるまでは、それに神経を注ぎたいと思っている。

 

以上。

今年の3月31日に、めちゃめちゃイケてるが最終回となる。フジテレビ系列の土曜8時という『オレたちひょうきん族』の作り上げた伝説の枠を、1996年10月19日から2018年3月31日までの約24年間も続けてきた平成を代表するバラエティー番組である。

 

正式タイトルは『めちゃ²イケてるッ! - What A COOL we are!-』という。当時のぼくはとてもクールだと思っていた。毎週土曜日が待ち遠しく、休み明けに友達とめちゃイケの話をしたり、コントや企画をマネをしてよく遊んでいた。ぼくが小学生の低学年の頃にスタートし、当時は何が面白いか分からない状態で観ていたが、間違いなくぼくら世代にとってのお笑いの教科書のような番組でもある。

 

いつ頃からだろうか。めちゃイケが打ち切りという噂が流れ始め、ネット上で騒がれ始めたのは。それは2000年代に入り、お笑い第5世代が台頭してきた時期と重なる。新たな可能性に満ち溢れた若手が台頭してくるなか、いつしか彼らも中堅となり、以前のような笑いのとり方だけでは通用しなくなったのである。

 

そんな最中、極楽とんぼの山本が不祥事を起こし、岡村隆史の長期休養となってしまった。それらが致命的だったことは言うまでもないが、拍車をかけるように存続の危機がまことしやかに囁かれるようになった。番組改編期が近づくと、決まって視聴率の低下が指摘され、アンチから批判的な声が聞こえるようになってきたのである。

 

 

番組が始まった当初は、上の世代(ビッグ3、お笑い第三世代)がテレビ市場を独占し、下の世代は膠着状態であった。そこに割って入るように、お笑い第四世代(ゴールデンエイジ)の代表として、彼らは彗星の如く現れたのである。それこそ「新しい波」として彼らが抜擢されたのも、上の世代を簒奪するかも知れないという期待感があったからだと思う。

 

80年代から90年代にかけての笑いは、言うまでもないが、大きな資本の流れの中で新しいことにチャレンジすることができた時代だといえる。その最後の世代であり、最後の番組がめちゃイケだということを、ぼくたちは認識して置かなければならない。

 

今後の笑いは、小さな資本で最小公倍数で為せる笑いを求め、ポリティカル・コレクトネスを意識しながらミニマムな笑いで満足しなければならない時代なのである。人間が許容できるギリギリのラインを攻めることができる時代は終焉し、人間の限界に位置する芸術領域の笑いは、もはや存在しないのである。野心なき笑いの時代に、ぼくたちは突入し始めたということである。

 

 

さてさて、めちゃイケ論を展開していこうと思う。

 

めちゃイケという番組を一言でいうと、ノンフィクション的ということである。ノンフィクション的というのはどういうことかというと、メンバーの日常生活に密着し、”真実(ありのまま)”に焦点を当て、笑いを見出そうという試みていることである。

 

具体的な説明をする前に、当時の時代背景を説明する必要があるだろう。90年代は、ごっつええ感じや、他のコント番組などの、作り込まれた笑いというものが流行していた。作り込まれた笑いとは、完成された高度な笑いであり、また芸術的な笑いと言い換えることができるだろう。それらは、一定の評価はされたものの、やはり複雑で難解な笑いであったため、拒否反応を示していた人がいることも事実である。排他的な笑いとでもいおうか、分かる者だけが分かればいいという、感じでもあった。

 

そして、その反動として、ありのままを見せる笑いが誕生していくのである。例えば、電波少年であったり、ロンドンハーツであったり、めちゃイケであったりする。それらが、たまたまだと思うが、同時多発的に生まれ、受け入れられていったのである。ロケ番組であったり、私生活の暴露であったり、ドキュメンタリー性であったり、ドッキリ企画であったり、とてもシンプルで分かりやすい笑いは、老若男女に受け入れられることになったのである。

 

さて、改めてめちゃイケに焦点を当てて話を進めていくと、様々なノンフィクション的な企画が存在する。シリーズ企画では、岡村オファーがきましたシリーズ、ヨモギダ少年愚連隊、矢部オファーシリーズ、中居&ナイナイの日本一周お見合いの旅、濱口優のドッキリ企画などがある。実生活に迫った企画では、加藤浩次夫妻の出産、有野晋哉夫妻の結婚式など。また、極楽とんぼの山本が不祥事を起こした時や、岡村隆史が精神的に参っていた時も、その危機的状況をどのように打開するかという事自体を企画化することもあった。

 

それらの番組を観たことがある人ならば理解してくれると思うが、めちゃイケのそれらの企画ではバラエティーの域を超えた”感動”が存在する。岡村オファーがきましたシリーズでは、無謀な企画にもかかわらず、ひたむきに練習する姿に胸を打ち、努力に裏打ちされた圧倒的なパフォーマンスに図らずも感動してしまうのである。そして、その感動の中には笑いが組み込まれており、感動の振り幅の分だけ、笑いが生まれるのである。

 

これは、緊張と緩和というお笑いの基本的な仕方で説明できる。緊張とは、張り詰められた空気の状態のことであり、緩和とは、その緊張した状態が解き放たれることである。その一連の行為によって、人は快楽を得られるとされている。

 

例えば、葬式などの笑ってはならない張り詰めた空気の中、ふいに、誰かがおならをした瞬間に、空気が和やかになることで、笑いが生まれることがあるだろう。緊張した状態はそれほど笑いが生まれやすく、緩和した瞬間に、せき止められた感情が吹き出してしまうのである。

 

哲学者のイマヌエル・カントは、16世紀の時点で緊張と緩和の原理を説明した最初の人である。カントの言葉で、緊張の緩和とされているが、「笑いとは張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である」と説明している。

 

併せて、心理学者のフロイトも参照しておきたいが、フロイトの考え方では、快感原則という言葉がそれにとても近いように思う。不快を避け、快を求めようとする傾向をさし、リビドーによって緊張が高められた状態は不快であり、これを解消することで快感を得ることができるというものである。

 

要するに、笑いを生み出すためには、緊張状態をどのようにして限界まで維持し、どのような形で解放するかということがとても重要なことなのである。めちゃイケでは、その緊張状態(=ネタフリ)を感動を生み出す過程で作り上げており、感動(=解放)という位置づけで笑いを生み出しているのである。

 

ぼくは、めちゃイケが作り出す笑いを、感動の笑いだと思っている。これは案外あるようでなかった笑いの仕方ではないだろうか。更に付け加えると、めちゃイケの場合、緊張状態を作り出すために、時間をかけて撮影していることである。それは、何週間、何ヶ月、何年にも及ぶことがある。そこがめちゃイケの強みであるといえるだろう。年月を経て程良く味わいが生まれてくる古酒のように、めちゃイケは、長い期間を経て、笑いを成熟されることに成功した類まれない番組だったのである。

 

 

そんなめちゃイケも今週最終回となる。5時間半の特番らしい。毎週土曜日を楽しみにしていただけにとても寂しい限りである。

 

だが、めちゃイケを甘く観てはいけない。なにかがあるだろう。ぼくたちを最後まで楽しませてくれるに違いない。

 

そして、24年間続いた番組が最終回となる。感動的な回となるに決っている。見方を変えると、24年間分のネタフリ(緊張状態)が、解放するということである。

 

観るしかない。以上。

以前ブログで、松本人志がオタク第一世代であることを説明した。あまり知られていないかもしれないが、松本人志は結構なオタク気質の持ち主である。ゲーマーであることは公言しており、その他にもアニメやマンガ、そして特撮好きとして知られている。

 

彼のコントや映画などでは、特撮技術を利用したパロディーネタが多い。例えば、ごっつええ感じでは、怪獣コント、レンジャイもの、アホアホマンなどが有名である。また、映画『大日本人』では、CGを有効的に使用した特殊効果撮影技術を効果的に取り入れていた。戦闘シーンは、とても臨場感があり、終盤での展開を含めて、特撮の世界観を上手く表現していたと思う。

 

松本人志が特撮に魅了されはじめたのは、子供の頃だと語っている。特に、特撮が盛り上がりはじめた初期の特撮の影響を受けているといえる。ブームのきっかけを作った番組は、ウルトラシリーズ(1966年〜)仮面ライダーシリーズ(1971年〜)スーパー戦隊シリーズ(1975年〜)などある。その他にも、マイナーな特撮はいくつも放送されていたようだ。

 

ここで、特撮について説明しておこう。特撮とは、特殊撮影技術(Special Effects;SFX)を指す略称である。またはSFXが多用された映画やテレビ番組などの映像作品を指す総称とされている。怪獣映画、ヒーローもの、SF映画、パニック映画、戦争映画などに多用されており、現在では、エンターテイメント性の強い映画では基本的に使用されている。

 

そのため特撮という言葉は、アナログ的な手法からデジタル技術を利用したCGなどの手法までを含めて、幅広い言葉として使われているようだ。先ほども言及したが、松本人志はアナログ的な手法から最新の技法までを自らの作品に応用し、表現の幅を広げる試みを実践しているといえる。特撮に関しての感度がとても高いといえる。

 

松本人志だけではなく、オタク第一世代で特撮を愛好している人はとても多い。例えば、エヴァンゲリオンやシン・ゴジラの監督である庵野秀明は特撮マニアとして有名である。ウルトラシリーズ(空想特撮シリーズ)に熱中していたようだ。『巨神兵東京に現わる』では、短編作品にもかかわらず、斬新な特撮技術を駆使し、素晴らしい作品に仕上がっていたのを覚えている。

 

 

特撮的リアリズムについて

 

さて、そろそろタイトルである特撮的リアリズムについて触れておこう。特撮的リアリズムとは、以前説明した自然主義的リアリズムとアニメ・マンガ的リアリズムの考え方を応用した造語である。その説明をする前に、改めて自然主義的リアリズムとアニメ・マンガ的リアリズムの概念を説明しておこう。

 

自然主義的リアリズムとは、現実を拠り所として写生した作品と定義されており、まんが・アニメ的リアリズムとは、アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を拠り所として写生した作品と定義されている。共に、日本の批評家である大塚英志が提案した概念である。

 

上記の創作技法の拠り所を応用し、提案したいのが特撮的リアリズムである。説明するまでもないかもしれないが、特撮的リアリズムとは、特撮の世界観を拠り所として、作品を創作することである。ある意味、特撮自体も虚構という捉え方もできるため、アニメ・マンガ・特撮的リアリズムとしてもいいかもしれない。

 

ただ、アニメ・マンガ的リアリズムと異なる点は、実写という自然主義により近い表現技法ということである。そのため、立ち位置としては、自然主義的リアリズム、特撮的リアリズム、アニメ・マンガ的リアリズムという並びが正確だろう。虚構ではあるが、その拠り所としているのはリアルな世界観であり、特撮的リアリズムこそ、身体を使った表現を行う上で、とても重要であるといえるだろう。

 

ごっつええ感じのコントでは、特撮的な世界観を拠り所として、それをパロディ化することで成功している。松本人志は、特撮のあるあるを抽出し、パターン化することで、それらをネタとして表現できたのである。それらの特撮のあるあるネタのパターンは、今でも若手に利用されており、特撮的な世界観のネタは、スタンダードなネタのパターンとすらなりつつあるのである。

 

 

今後、CGの技術が進化していくことで、松本人志の表現するネタの幅はさらに広がりを見せることは間違いない。それは特撮的リアリズム的な世界観であるが、よりアニメ・マンガ的リアリズムに近い世界観で表現することが可能となり、松本人志が描きたい世界観をより忠実に表現できるようになると思っている。

 

以上。

 

 

 

 

これまでのまとめ一覧。

 

笑いについて お笑い観①

笑いについて 演芸にまつわる笑いの歴史②

笑いについて お笑いブームとお笑いメディア史③

お笑い第五世代 大量供給・大量消費について④

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 ネタのイージー革命について⑥

お笑い第五世代 動物化するポストモダンの笑いについて⑦

お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧

お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨

お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩

松本人志論 松本信者として⑪

松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫

松本人志論 松本人志と狂気性⑬

松本人志論 松本人志とパトグラフィ⑭

松本人志論 松本人志と創造力⑮

松本人志論 松本人志と共同幻想⑯

松本人志論 松本人志とグロテスクリアリズム⑰

松本人志論 ドキュメンタル⑱