改めて、松本人志の笑いについて考えてみたい。前回までのブログでは、90年代に松本人志が作り出した笑いの現象を分析してみた。
当時の松本人志は、圧倒的な実力とセンスでお笑い界の頂点に君臨し、新しい笑いを量産し続けていた。その笑いを成立させた一つの要因として、幻想というモノが関係してくる。だが、その幻想によって、可笑しみとしての認識だけではなく、それ以上の効果を及ぼすことになる。それは、本来の笑いの域を超えた、超越的な笑いを生み出すことを可能にしたのである。
前回までのブログで、その幻想の原因を明らかにした。それはあくまでも笑いを消費する者が、笑いを消費するプロセスで発生する現象である。そのため、今回注目すべきは、松本人志の笑いであり、松本人志の作り出す笑いの本質についてである。
そもそも、笑いを作り出すという過程とは、どのような経緯を必要とするのか。松本人志は、数々の新しい笑いを生み出してきた。その新しい笑いは、松本人志が、頭のなかで何かを面白がり、それをネタとして生産した瞬間のことである。可笑しみの対象ではない何かが、可笑しみのネタとして変わるタイミングを分析することで、松本人志の新しい笑いについて考察してみたいと思っている。
新しい笑いという言葉では誤解をまねく恐れがあるので、言い方を変えて、新しく解釈された笑い(=再定義された笑い)という表現で進めていきたいと思っている。なぜ、そのような言い方をしなければならないかというと、笑いとは、ある対象を新たな解釈を加えることで、可笑しみへと再定義されるものだからである。
そこでその点を詳しく説明するために、哲学者パースの記号論を参照したいと思う。人間が事物や現象を認知する際に、それを理解するためのプロセスをたどらなければならない。それを「セミオーシス」というのだが、石田英敬の著書『現代思想の教科書』で以下のように説明している。
「対象」を認知するのは「記号」を通してであるが、その「記号」はそれを解釈するもうひとつ別の記号作用の項としての「解釈項」を通してしか意味を持たない。
平たく言えば、ある対象を見たときに、それを解釈するために言葉(記号)としてそれを認知することで、その言葉から連想される他の記号を通して解釈されるという作用のことである。関連する記号の相互作用によって、連鎖的に、また連想ゲームのような仕方で、対象を認識することができるのである。
この考え方を応用してみようと思うのだが、ある対象を認識した際に、笑いへと変換する解釈項というものが存在すると思っている。その解釈の仕方が、いわゆるお笑いのセンスというように言われていると思うのだが、その対象が面白く認識されるか否かは、その解釈項のセンスに委ねられているといえるだろう。
以前、お笑い観という概念を提示したが、まさに解釈項の作用ととても近いといえる。それは、ある意味では、ブラックボックスのような役割を果たし、ある対象がそこを通過することで、可笑しみのある対象として姿を変えることが可能となるのである。
ツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)
千葉雅也のユーモアの定義は、その概念を説明する上で、大変役に立つ内容である。千葉雅也の著書『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、アイロニーとユーモアを以下のように定義し、説明している。
思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)がある。前者は根拠を疑って真理を目指す。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化する。
ツッコミをアイロニーとしての観点から捉え直し、またボケをユーモアとしての観点から捉え直した面白い考え方である。
上記の説明によるツッコミとは、ある観点から独断的な判断で、訂正、批判、否定をする行為者であるといえる。千葉によると、アイロニーに必要なのは、決断することであり、絶対的な根拠付であると説明する。
いっぽう、ユーモアとは、あらゆる見方を可能にし、先ほど説明した新たな解釈を加えて再定義する仕方だといえるだろう。
そして千葉雅也は、ツッコミとアイロニーの双方の状態を以下のように説明している。
事実上私たちの言語使用では 、ユ ーモアは過剰化せず 、ある見方が仮固定されている 。それを可能にする条件は 、私たちひとりひとりの個性 =特異性としての 「享楽的こだわり 」である 。享楽的こだわりが 、ユ ーモアを切断する 。
上記で説明している、私たちひとりひとりの個性 =特異性としての 「享楽的こだわり 」こそが、その人の持つ笑いとしての感性の幅であり、笑いの解釈項の強さだといえる。
90年代の松本人志は、他者の視点(=アイロニーとしての観点)を気にすることがなく、享楽的こだわりの中で自由に笑いを創造していたといえるだろう。松本人志が独断的な判断で可笑しみを感じることを生み出し、多様な見方で笑いへと解釈することができたのである。
異化について
上記で説明した新たな解釈を加えるという点から、異化という考え方についても着目しておきたいと思っている。この言葉は、ロシア語の訳語とされたもので、ロシア・フォルマリズムで使われていた用語とされている。基本的には、文学で使用される言葉でありながら、芸術的なものを説明する場合でも、しばしば用いられている。
さて、異化という言葉は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法である。また、知覚の「自動化」を避けるためのものとされている。大江健三郎は異化という言葉を以下のようにして説明している。
ありふれた事物を、見慣れぬ、不思議なものに感じさせる。そのようにして、その言葉を洗い流し、そこに眼をとどめさせる。それが「異化」の作用である。
言外に位置する抽象的で概念的な言葉を、具体的な艶めかしい実在的な言葉として異化する作用すらある、と説明している内容である。
異化という言葉は、新たな解釈を加えることで、これまで共有されていた価値観や概念をアップデートする作用があるといえるのである。
例えば、松本人志は新しい言葉を作り出したことでも評価されている。それは以下のような言葉である。
イタイ(頭が悪いこと)、イラっとする 、SかMか、噛む、噛んだ、からみやすい、からみにくい、逆に~、逆切れ、グダグダ、さむい(さぶい)、残念な、すべる、どや顔、へこむ、ヘタレ、ヨゴれ芸人、パンチが効いてる(個性的なルックスの人に対して)、カブってる、テンション、リアクション、天然、きつい、空気を読む、ダメだし (人にたいして)、気持ち悪い。
一例であるが、上記の言葉は、既存の言葉とオリジナルな言葉が混在してはいるが、新たな解釈を加えられた異化された言葉だといえる。
それは言葉だけではない。松本人志は、既存概念であったり、社会規範であったり、不条理な事柄に対して一石を投じる破壊者でもある。彼の異化された言葉は、世間に反響を与え、価値観の相対化すら変化させてしまうパワーがあるのである。
まさにトリックスターのような存在である。トリックスターとは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。生き様や滑稽な振る舞いに、民衆は可笑しみを見いだし、新しい知恵を得ることができるのである。
大江健三郎は自著の「新しい文学のために」の中で、トリックスターを取り上げて、山口昌男の定義を以下のように参照している。
道化=トリックスター的知性は、一つの現実のみに執着することの不毛さを知らせるはずである。一つの現実に拘泥することを強いるのが、「首尾一貫性」の行きつくところであるとすれば、それを否定するのは、さまざまな「現実」を同時に生き、それらの間を自由に往還し、世界をして、その隠れた相貌を絶えず顕在化させることによって、よりダイナミックな宇宙論的次元を開発する精神の技術であるとも言えよう。
90年代の松本人志は、まさに現代のトリックスターとしての役割を果たしていたのではないだろうか。笑いを通して、社会に新たな見方を提供していた唯一無二の存在だといえる。
だが、世間が共有している常識に対して一石を投じると、時に炎上してしまい、価値観のおしつけとして、その言葉の奥にある意味を考えもせずに、批判されてしまうことが多々ある。現在のネット文化は、目立つ者を批判し、排除するという空間ができあがっているといえるだろう。
何度も繰り返すが、90年代の松本人志は、特別な幻想を共有されていたため、言葉の奥にある意味を深いものであると感じ取られるような存在だったのである。
ナンシー関の考察
さらにそこから敷衍して、ナンシー関のダウンタウンのコラムを参照したいと思う。ナンシー関のテレビやタレントを中心とした批評家であり、コラムニストとして活躍していた。松本人志が「今お笑いの批評ができるのはナンシーさんとみうらじゅんだけ」と発言したことでも有名である。
上記の内容を深める上でも、ナンシー関の分析はとても的確であるといえる。以下の文章は、自身のコラムの中でダウンタウンを評論しているものである。
ダウンタウンは、ある意味で「庶民感覚」が欠落している部分がある。この庶民感覚というのは、普段この言葉が表すところの金銭感覚や生活習慣に関する慣用句としての意味のそれではなく、文字通りの「様々な事象に対する世間一般の平均的な感情」を指す。
世間からチヤホヤされているものに対して、それをおとしめるような事を口にするという「裸の王様」式のレトリックは、すでにお笑いの常套手段となっている。しかし、それには「みんなも薄々そう思っている」という絶対条件がつく。が、ダウンタウンの場合、その絶対条件を無視する場合が往々にしてあるのだ。
このものさしの設定位置こそ、俗に「感性」などと呼ばれる生来の能力なのだろう。ダウンタウンの設定位置は、高い。飛び抜けて高いと思う。それは、彼らから感じられる「(お笑い能力の)地肩の強さ」の根拠でもある。そして、この「地肩の強さ」が、お笑いの全てだと私は思う。「掛け合い」や「間(ま)」のテクニックによる「うまい漫才」の絶妙や、「あるあるある」で共感の確認をするだけみたいなお笑いに、もう魅力はない。
ダウンタウンおよび松本人志の笑いについて、「庶民感覚」の欠落という言葉で的確に捉えて、まさに言いえて妙といえる。それは、大衆に迎合することなく、松本人志自身が感じた感情を素直に言葉にし、その笑いとなる境界線を見極めて、ネタが成立させるプロセスを説明しているのである。
それを見誤ってしまうと、それは笑いとして昇華されず、ただの悪口となってしまう可能性がある。その絶妙な加減こそ、ナンシー関のいうところの、ものさしの設定位置であり、笑いに変えることのできる(お笑い能力の)地肩の強さでもあるのである。それらの能力が世間から評価されているからこそ、トリックスターとして振る舞うことができ、笑いとして消費されることが可能となっているのである。
グロテスクリアリズムについて
ロシアの哲学者ミハイル・バフチンは、そのような笑いの仕方をグロテスクリアリズムという言葉で、表現している。グロテスクリアリズムとは、手が届かないほどの高尚な存在を批判することで、落とし込めようとする行為である。上記の文章でナンシー関が説明している「裸の王様」など、まさにグロテスクリアリズムとしての滑稽要素のある物語といえるだろう。
ロシア文化学者の桑野隆は、著書「バフチン<対話>そして<解放の笑い>」にて、グロテスクリアリズムについて、以下のように説明している。
グロテスク・リアリズムの主要な特質は、格下げ・下落であって、高位なもの、精神的、理想的、抽象的なものをすべて物質的・肉体的次元へと移行させることである。この大地と肉の次元は切り離し難い一つの統一体となっている。
松本人志の批判性のある発言や、漫才やコントなどの作り込まれた作品には、グロテスクリアリズムとしての性質を感じさせる。それは、笑いという現象が可能にすることであるが、特別なモノ(崇高な存在など)であったとしても、笑いの解釈項を通して認識することで、新たな解釈が与えられてしまい、可笑しみのある別のモノとして認識されてしまうのである。
しかし、言い方を変えると、松本の笑いは他者に委ねた笑いであるといえる。それは、受け手の笑いを認識するレベルによって解釈の仕方が違うため、笑いの質が異なるからである。
以前、2000年代のお笑いブームについて解説した。それは、笑いが単純化し、共有済みの笑い(=インストールされた笑い)を提供することで、均一的な笑いを受け手が消費できるというものである。90年代の松本人志の笑いとの明確な違いはその点にあるといえるだろう。
それは閉ざされた世界の笑いであり、解釈の幅があまりにも狭い窮屈な笑いであるといえる。その笑いの行き着く先は、バフチンの以下の言葉で説明することができるだろう。
真理が開かれるのは、対等な複数の意識が対話的に交通し合う過程においてである。しかもそれは部分的にしか開かれない。究極の問題をめぐるこの対話は、真理を考え、もとむる人類が存するかぎり、おわり、完結することはありえない。対話の終焉は、人類の死にひとしかろう。すべての問題が解決されたならば、人類にはもはやそれ以上生存してゆくための刺激がなくなるであろう。
注目すべきは、後半部分である。バフチンは対話という概念をとても重要視している。対話とは、話者と他者の関係であり、コミュニケーションのことである。また、創作者(生産者)と消費者の関係から生まれる消費行動といいかえてもいいだろう。そして、対話の終焉は人類の死に等しい、といわれているように、2000年代のモノローグとしての対話のない笑いは、いずれ終焉してしまう恐れがある可能性があるのである。
松本人志の笑いは、対話を通して創出される笑いであり、他者の解釈は更新し続けながら、開かれた状態であり続けるといえるだろう。共有された状態の幻想の中で、終わりなきカーニバル(=祝祭)が繰り広げられるのである。それは過剰な笑いの氾濫のような状態であるといえるが、松本人志の望む世界観なのかもしれない。
以上。
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