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センテンスサワー

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今、野爆のくっきーが爆発的に売れているらしい。いわゆるくっきーブームが来ているようなのだ。90年代大阪で活躍していた時代からの彼らを知っているだけに、それが不思議でしょうがない。

 

以前から、玄人やお笑いマニアに好まれてはいたが、くっきーのネタはとても独創的で、一癖も二癖もある歪な芸風である。とても大衆に受け入れられるような分かりやすいネタではない、と思っていた。

 

現在売れている理由として、インスタで投稿している顔マネであったり、めちゃめちゃイケてるなどの番組で披露したキャラクターであったり、他に類をみない芸風が受け入れられたのだと思う。音楽・絵画・小道具製作などは、もはやアートの領域に踏み込んだ常軌を逸した笑いだといえるだろう。

 

 

野性爆弾とくっきーについて

 

説明する必要はないかもしれないが、改めて野性爆弾ないしくっきーに解説しよう。

 

所属は、よしもとクリエイティブ・エージェンシー。結成年1994年、大阪NSC13期生。同期は、次長課長、ブラックマヨネーズ、徳井義実、シャンプーハットがいる。

 

後期二丁目劇場から初期のbase吉本で活躍していた世代といえる。ぼくが学生時代に吉本の劇場に通っていた当時は、うめだ花月という劇場でコントをしていた印象がある。ウケているとかという次元ではなく、彼らがネタをしている最中は、異様な雰囲気を醸し出し、前衛的なアートを鑑賞しているようないい意味で静けさがあった。※(もちろんウケまくりです)

 

その後、野爆として迷走している時期もあったようだが、2000年代の後半頃から、やりすぎコージーなどの吉本中心の番組に出演し、東京を視野に入れた活動を進めていく。その後、めちゃめちゃイケてるを皮切りにして、全国ネットやネット配信番組に進出することになったのである。

 

 

また、松本人志との関係性についても指摘しておきたい。大阪時代から玄人芸人から高い評価を獲得していたのだが、その中でも松本人志からの評価が著しい。ドキュメンタルなどの彼の番組に多々出演し、お気に入りだといっても過言ではないだろう。

 

以前、放送室というラジオ番組で、松本人志がブラックマヨネーズの漫才を絶賛し、ブラマヨの笑いは松本人志の影響を受けておらず、松本の発想にはない違う切り口からの笑いのためとても面白いと語っていた。その放送は、ブラマヨがM-1グランプリで優勝した直後の放送で、新しいスタイルの漫才であったり、新しい笑い(新しい解釈の笑い)というものの重要性を力説していた。

 

同様に、松本人志がくっきーの笑いを評価する点もそこにあるのではないだろうか。くっきーの笑いは、ぼくらがなんとなく共有している笑いのルールや流行を前提とせず、彼が彼自身の中で育てあげた笑いといえる。それは、90年代の松本人志が挑戦していたように、限りなく答えのない笑いを求める孤独な作業なのである。

 

 

文系的笑いとしてのキャラクター性

 

以前ブログで、理系的笑いと文系的笑いを提案した。理系的な笑いとは、反証可能性のある笑いと定義し、文系的笑いとは、反証不可能な笑いのことであると定義した。

 

くっきーの笑いは、その定義どおり、反証不可能な笑いであると思うし、文系的な笑いであるといえる。つまりそれは、パターン化ができず、むしろ弁証法的に笑いを再構築し、はたまた積み上げてきたものを破壊する笑いとも言えるだろう。

 

つまり、パターン化された笑い(身体に訴えかける笑い)ではなく、キャラクター性や世界観を武器にした笑いといえる。比類なきキャラクターや奇妙奇天烈な世界観には、笑いの法則性を逸脱したとしても、許容されるパワーがある。とくに圧倒的なキャラクター性があれば、もはやボケてもボケていなくても、行動や言動、そして空気すら笑いに変えてしまうのである。

 

最近ブログでよく使うワードで恐縮であるが、くっきーは、グロテスクリアリズム的世界観を作り出すことに成功しているといえる。

 

 

キャラクター性で作り出す笑いには、それを芸術的な観点から評価され、笑いとして認知されることが必要である。そのためには、それなりのカリスマ性であったり、パトロンや影響力のある人から見出されることが重要である。くっきーの場合は、それが玄人芸人からの評価であったり、松本人志から認められることで、その条件を満たしているといえる。

 

以前ブログで説明したカリスマ性について説明した。カリスマとは、高い専門性と固有のオリジナリティを兼ね備え、オーラを纏い、大衆を魅了し、支持者を扇動するような人物を指すのだが、くっきーの場合は、上記で言う固有のオリジナリティが最も該当し、芸術性の高い笑いの資質が飛び抜けているといえる。

 

加えて、カリスマ性を獲得するためには、周りからの評価が重要である。それはすでに説明済みであるが、その分野において評価されている人からの評価であったり、彼を支持する人を獲得することが重要といえる。

 

それは言いかえると信者といってもいい。パトロンや影響力のある存在に見出されてこそ、価値を発揮することができ、大衆から一定の評価を得られやすいくなるという現象でもある。

 

ある意味、信者ビジネスともいえる。信者というと、とても気になる表現であるのだが、彼に魅了され、彼に価値を見出そうとする試みは、信仰心と何ら変わりないものであるからである。

 

 

狂気的エログロナンセンス的

 

ぼくは、以前から狂気性と笑いの関係性について注目している。それは、松本人志論の中で繰り返し説明しているため、是非一度読んで頂きたい。

 

くっきーの笑いは、意味に置き換えることが不可能でもあり、まさに狂気的であるといえる。その意味不明な何かに対して、ぼくらは魅了され、そこに価値や意味を見出そうと試みるが失敗し、倒錯な嗜好を獲得することしかできない。

 

エロティックであり、グロテスクでもあり、そしてナンセンスである。まさに現代のエログロナンセンスといえるだろう。昭和初期に起こった芸術的な運動が、平成の後期に再び再来したのである。元号が変われど、その活動が続いていくことを願う。

 

 

思いもよらぬ角度から攻め込まれた笑いは、もはやアートとして世界展開(参考記事:野性爆弾・くっきー、世界進出へ第一歩)が始まっている。もちろん笑いとしてのアートである。

 

基本笑いはハイコンテクストで共有されているものであるが、くっきーの笑いはハイコンテクストに依存することなく成立しているもののため、世界から受け入れられる可能性が秘められている。アートとしてではなく、いずれ笑いとして、世界で単独ライブとかになれば、それはそれで楽しみである。

 

くっきーブームはまだ始まったばかりであるが、重要なことはブームが去った後だと思っている。彼に対する共有された幻想が雲散霧消し、彼の本質としての笑いだけが引き算された状態で彼がどのように評価されていくか、ぼくはその点に最も注目している。

 

現在は、無双状態に突入し、すべてが笑いになってしまうスタータイムであるから、それはそれで横の幅を広げつつ、ファンを獲得し、彼独自のエログロナンセンスな笑いを追求して欲しいと願っている。

 

くっきーが世間に知られることは大変嬉しいことなのだが、少しだけ寂しく思う。

 

 

 

参考記事

 

理系的笑いと文系的笑い

松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫

松本人志論 松本人志と狂気性⑬

松本人志論 松本人志とグロテスクリアリズム⑰

松本人志論 ドキュメンタル⑱

今朝、散歩をしていましたら、路地の軒先に綺麗な彼岸花が咲いていました。お墓参りはお済みですか?

 

さて、貴方ならと思い、ご案内を申し上げます。100万円をご用意の上、お集まり頂けませんでしょうか。

 

ドキュメンタルを開催させて頂きます。優勝賞金1000万円をご用意させて頂いております。もちろん参加は自由です。参加の意志をお持ちの方には追って集合日時、場所をご案内差し上げます。ご返事をお待ちしております。

 

実りの秋、皆さんにもいいことがありますように。

 

松本人志。

 

 

という謎めいた出だしで、ドキュメンタルは幕を開ける。

 

ドキュメンタルとは、松本人志発案による「密室笑わせ合いサバイバル」番組である。

 

毎回10人の芸人たちが自腹の参加費100万円を手に、芸人のプライドをかけて笑わせ合う。最後まで笑わなかった勝利者には賞金1000万円が贈呈される。

 

挑戦者は、番組サイドが独断で決めているようで、毎回予想だにしない挑戦者が登場する。

 

M-1グランプリやキングオブコントなどの賞レースでは、少なからず参加条件があるが、ドキュメンタルには、現状そのような参加に必要な条件というものはない。芸歴、年齢、性別、表現に至る全てが自由となっている。

 

なんらかの条件のなかで芸人を順位付けることは論理上可能である。それは、笑いのスタイル(漫才、コント、漫談など)を限定する場合もあれば、年齢に制限を設ける場合もある。また、審査員などの笑いの専門家に評価付を委ねる場合もある。

 

だが、ドキュメンタルでは、そのような制限も条件もない中で、挑戦者自体が、参加者であり、審査員でもあるのだ。まさに、生きるか死ぬかのサバイバルゲームだと言っていいだろう。

 

決まったルールが設けられている場合、回を重ねるごとにノウハウが蓄積されていき、そのルールの中で、戦略などがパターン化されていく。例えば、M-1であれば、手数を増やし、畳み掛ける漫才が有利といわれている。そのようなやり方ができあがってしまったら、もはや出来レースを見守るだけの退屈なゲームになってしまうだろう。

 

ドキュメンタルは、賞レースの枠にとらわれない、ある意味、逸脱した環境を作り出すことに成功し、芸人の本来の状態で競い合う姿をみられる番組だといえる。まさに戦略無きバトルなのである。

 

 

カオスとグロテスクリアリズム

 

「カオスが作りたかった」と松本人志は語る。事実、これまでのドキュメンタルでは、笑いと狂気の境界線を攻めているように思う。

 

以前、ブログでグロテスクリアリズムについて書いた。グロテスクリアリズムとは、手が届かないほどの高尚な存在を批判することで、落とし込めようとする行為である。

 

ドキュメンタルのなかで松本人志が生み出そうとしている世界観こそ、グロテスクリアリズム的な世界観であるといえるだろう。笑いを肯定的にとらえ、崇高な存在を格下げし、エロティシズムや官能的表現、そして大地へと引きずり込むのである。それらは、すべての対象を笑いへと姿を変えてしまうのである。そのような状態こそ、グロテスクリアリズム的だといえるだろう。

 

経済学用語に、マネーロンダリングという言葉がある。資金洗浄を意味するその言葉は、犯罪によって得られた収益金の出所などを隠蔽して、あたかも正当な手段で得た資金と見せかけることで、一般市場で使っても身元がばれないようにする行為である。

 

その言葉にならって、お笑いロンダリングという言葉を提案したい。それは、ある対象にこびりついている概念を洗浄することで、新しく解釈された笑いへと生成されることが可能となるからである。

 

ドキュメンタルのような、カーニバル(=祝祭)としての場では、お笑いロンダリングとなる環境が整っているのは自明である。それは、常に面白いとは何かと思考し、可笑しみを見出そうと試みているからこそ、可能となるのである。

 

 

肯定的空気感と否定的空気感

 

これは壮大な実験である、と松本人志は語っている。その言葉が意味するように、松本人志ですら、予測不可能な状態なのだと思う。ネタが仕上がっていたとしても、テクニカルな技術があったとしても、空気が良くなかったら、笑いとはなりえないからである。

 

上記で説明しているように、グロテスクリアリズムにおいては可笑しみが生まれやすい環境だといえる。今後、そのような状況を、肯定的空気感という言葉で表現したいと思う。逆に、空気が重いという状況を否定的空気感とする。

 

ドキュメンタルの中でも、肯定的空気感と否定的空気感は、いつどの瞬間にどちらに傾くのか分からない。予測不可能な状態なのである。

 

舞台では、技術さえあれば空気を作ることができ、ベテランの落語家であれば、その日の客の反応を見ることで、空気をチューニングするようである。それは、演者と観客という関係性があるため、一方的な空気感を押しつけることが可能だからだ。

 

だが、ドキュメンタルでは、挑戦者同士の試合(=やりあい)であり、彼らは演者であり、また観客でもある。そのため、秩序なき状態=カオスが生まれやすいのである。

 

 

過激さとアートの境界線

 

ドキュメンタルにたいする評価は、賛否あるとは思うのだが、それでも現状は成功していると思っている。他に類を見ない作品でもあるし、Amazonプライムビデオという条件のいい環境で、好き勝手できるというメリットがあるといえる。

 

だが、懸念点としては、回を重ねるごとに、過激さが増しているということがあげられる。

 

性器を出したり、アナルの早見せをしたり、包皮の中に食品サンプルを入れたり、挙句の果てに、小便をしたりと。

 

この調子でいくと、さらに過激な下ネタが跋扈し、可笑しみよりも過激さを優先した笑いを追求していくことになるのではないだろうか。

 

過激さに対するバランスはとても難しいように思う。制御不能の領域だともいえる。グロテスクリアリズムは、それらも凌駕し、肯定的に笑いへと落とし込むものなのではあるが、グロテスクリアリズム的状態の限界点というものがどこらへんに位置しているのか、判断はとても難しいと思うのだ。

 

松本人志は、それを見越してか、以下のように説明する。

 

下ネタではない。アートである。芸術を理解してくれないと。下ネタで笑っているのではない。だってエロビデオを観ても笑わないでしょ。

 

その通りである。この言葉が意味するように、受け手がどれだけ理解できるかが問題である。

 

だが、そのためには演者と観客との信頼関係がないと成立しないと思っている。受け手が演者を信頼し、委ねているからこそ、笑いとして受け入れられると思う。それが瓦解している状態であれば、芸術=崇高なものだと認識すらされないのである。少なからず笑いにしなければならない。それは、グロテスクリアリズムを維持するためにも重要だし、それを利用するならば、あえて言うが義務なのかもしれない。

 

それができなければ、芸人自体の評価が下がり、笑い自体が格下げされてしまうだろう。

 

諸刃の剣である過激さは、それほど慎重に扱わなければならないものであるし、ドキュメンタルの明暗を握っていると言っても過言ではない。

 

 

箱庭的世界観について

 

最後になるが、ドキュメンタルの素晴らしい点は、箱庭的世界観であること。これに尽きる。

 

箱庭の中で、踊り狂う挑戦者と、その外から見守る管理者という構図が、とても面白いと思っている。ある意味、松本人志は神としての立ち位置で、面白いか否かを判断し、ルールや成否ですら彼の手中にあるのである。

 

松本人志=神という位置づけは、ぼくが一番大好きな方向性であるし、今後も期待したいところである。新しい笑いの可能性は、教祖的な要素がなければもはやありえないと思うし、笑いをアート(芸術)と位置づけたいのならば、そうせざるおえないのである。

 

信者にとってその状態の笑いは、脳からよだれが出るほどの快楽であり、貪りたいと思っている。今後、ドキュメンタルがどのような方向に進んでいくか定かではないが、注目していきたいと思っている。

改めて、松本人志の笑いについて考えてみたい。前回までのブログでは、90年代に松本人志が作り出した笑いの現象を分析してみた。

 

当時の松本人志は、圧倒的な実力とセンスでお笑い界の頂点に君臨し、新しい笑いを量産し続けていた。その笑いを成立させた一つの要因として、幻想というモノが関係してくる。だが、その幻想によって、可笑しみとしての認識だけではなく、それ以上の効果を及ぼすことになる。それは、本来の笑いの域を超えた、超越的な笑いを生み出すことを可能にしたのである。

 

前回までのブログで、その幻想の原因を明らかにした。それはあくまでも笑いを消費する者が、笑いを消費するプロセスで発生する現象である。そのため、今回注目すべきは、松本人志の笑いであり、松本人志の作り出す笑いの本質についてである。

 

そもそも、笑いを作り出すという過程とは、どのような経緯を必要とするのか。松本人志は、数々の新しい笑いを生み出してきた。その新しい笑いは、松本人志が、頭のなかで何かを面白がり、それをネタとして生産した瞬間のことである。可笑しみの対象ではない何かが、可笑しみのネタとして変わるタイミングを分析することで、松本人志の新しい笑いについて考察してみたいと思っている。

 

新しい笑いという言葉では誤解をまねく恐れがあるので、言い方を変えて、新しく解釈された笑い(=再定義された笑い)という表現で進めていきたいと思っている。なぜ、そのような言い方をしなければならないかというと、笑いとは、ある対象を新たな解釈を加えることで、可笑しみへと再定義されるものだからである。

 

 

そこでその点を詳しく説明するために、哲学者パースの記号論を参照したいと思う。人間が事物や現象を認知する際に、それを理解するためのプロセスをたどらなければならない。それを「セミオーシス」というのだが、石田英敬の著書『現代思想の教科書』で以下のように説明している。

 

「対象」を認知するのは「記号」を通してであるが、その「記号」はそれを解釈するもうひとつ別の記号作用の項としての「解釈項」を通してしか意味を持たない。

 

平たく言えば、ある対象を見たときに、それを解釈するために言葉(記号)としてそれを認知することで、その言葉から連想される他の記号を通して解釈されるという作用のことである。関連する記号の相互作用によって、連鎖的に、また連想ゲームのような仕方で、対象を認識することができるのである。

 

この考え方を応用してみようと思うのだが、ある対象を認識した際に、笑いへと変換する解釈項というものが存在すると思っている。その解釈の仕方が、いわゆるお笑いのセンスというように言われていると思うのだが、その対象が面白く認識されるか否かは、その解釈項のセンスに委ねられているといえるだろう。

 

以前、お笑い観という概念を提示したが、まさに解釈項の作用ととても近いといえる。それは、ある意味では、ブラックボックスのような役割を果たし、ある対象がそこを通過することで、可笑しみのある対象として姿を変えることが可能となるのである。

 

 

ツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)

 

千葉雅也のユーモアの定義は、その概念を説明する上で、大変役に立つ内容である。千葉雅也の著書『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、アイロニーとユーモアを以下のように定義し、説明している。

 

思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)がある。前者は根拠を疑って真理を目指す。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化する。

 

ツッコミをアイロニーとしての観点から捉え直し、またボケをユーモアとしての観点から捉え直した面白い考え方である。

 

上記の説明によるツッコミとは、ある観点から独断的な判断で、訂正、批判、否定をする行為者であるといえる。千葉によると、アイロニーに必要なのは、決断することであり、絶対的な根拠付であると説明する。

 

いっぽう、ユーモアとは、あらゆる見方を可能にし、先ほど説明した新たな解釈を加えて再定義する仕方だといえるだろう。

 

そして千葉雅也は、ツッコミとアイロニーの双方の状態を以下のように説明している。

 

事実上私たちの言語使用では 、ユ ーモアは過剰化せず 、ある見方が仮固定されている 。それを可能にする条件は 、私たちひとりひとりの個性 =特異性としての 「享楽的こだわり 」である 。享楽的こだわりが 、ユ ーモアを切断する 。

 

上記で説明している、私たちひとりひとりの個性 =特異性としての 「享楽的こだわり 」こそが、その人の持つ笑いとしての感性の幅であり、笑いの解釈項の強さだといえる。

 

90年代の松本人志は、他者の視点(=アイロニーとしての観点)を気にすることがなく、享楽的こだわりの中で自由に笑いを創造していたといえるだろう。松本人志が独断的な判断で可笑しみを感じることを生み出し、多様な見方で笑いへと解釈することができたのである。

 

 

異化について

 

上記で説明した新たな解釈を加えるという点から、異化という考え方についても着目しておきたいと思っている。この言葉は、ロシア語の訳語とされたもので、ロシア・フォルマリズムで使われていた用語とされている。基本的には、文学で使用される言葉でありながら、芸術的なものを説明する場合でも、しばしば用いられている。

 

さて、異化という言葉は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法である。また、知覚の「自動化」を避けるためのものとされている。大江健三郎は異化という言葉を以下のようにして説明している。

 

ありふれた事物を、見慣れぬ、不思議なものに感じさせる。そのようにして、その言葉を洗い流し、そこに眼をとどめさせる。それが「異化」の作用である。

 

言外に位置する抽象的で概念的な言葉を、具体的な艶めかしい実在的な言葉として異化する作用すらある、と説明している内容である。

 

異化という言葉は、新たな解釈を加えることで、これまで共有されていた価値観や概念をアップデートする作用があるといえるのである。

 

例えば、松本人志は新しい言葉を作り出したことでも評価されている。それは以下のような言葉である。

 

イタイ(頭が悪いこと)、イラっとする 、SかMか、噛む、噛んだ、からみやすい、からみにくい、逆に~、逆切れ、グダグダ、さむい(さぶい)、残念な、すべる、どや顔、へこむ、ヘタレ、ヨゴれ芸人、パンチが効いてる(個性的なルックスの人に対して)、カブってる、テンション、リアクション、天然、きつい、空気を読む、ダメだし (人にたいして)、気持ち悪い。

 

一例であるが、上記の言葉は、既存の言葉とオリジナルな言葉が混在してはいるが、新たな解釈を加えられた異化された言葉だといえる。

 

それは言葉だけではない。松本人志は、既存概念であったり、社会規範であったり、不条理な事柄に対して一石を投じる破壊者でもある。彼の異化された言葉は、世間に反響を与え、価値観の相対化すら変化させてしまうパワーがあるのである。

 

まさにトリックスターのような存在である。トリックスターとは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。生き様や滑稽な振る舞いに、民衆は可笑しみを見いだし、新しい知恵を得ることができるのである。

 

大江健三郎は自著の「新しい文学のために」の中で、トリックスターを取り上げて、山口昌男の定義を以下のように参照している。

 

道化=トリックスター的知性は、一つの現実のみに執着することの不毛さを知らせるはずである。一つの現実に拘泥することを強いるのが、「首尾一貫性」の行きつくところであるとすれば、それを否定するのは、さまざまな「現実」を同時に生き、それらの間を自由に往還し、世界をして、その隠れた相貌を絶えず顕在化させることによって、よりダイナミックな宇宙論的次元を開発する精神の技術であるとも言えよう。

 

90年代の松本人志は、まさに現代のトリックスターとしての役割を果たしていたのではないだろうか。笑いを通して、社会に新たな見方を提供していた唯一無二の存在だといえる。

 

だが、世間が共有している常識に対して一石を投じると、時に炎上してしまい、価値観のおしつけとして、その言葉の奥にある意味を考えもせずに、批判されてしまうことが多々ある。現在のネット文化は、目立つ者を批判し、排除するという空間ができあがっているといえるだろう。

 

何度も繰り返すが、90年代の松本人志は、特別な幻想を共有されていたため、言葉の奥にある意味を深いものであると感じ取られるような存在だったのである。

 

 

ナンシー関の考察

 

さらにそこから敷衍して、ナンシー関のダウンタウンのコラムを参照したいと思う。ナンシー関のテレビやタレントを中心とした批評家であり、コラムニストとして活躍していた。松本人志が「今お笑いの批評ができるのはナンシーさんとみうらじゅんだけ」と発言したことでも有名である。

 

上記の内容を深める上でも、ナンシー関の分析はとても的確であるといえる。以下の文章は、自身のコラムの中でダウンタウンを評論しているものである。

 

ダウンタウンは、ある意味で「庶民感覚」が欠落している部分がある。この庶民感覚というのは、普段この言葉が表すところの金銭感覚や生活習慣に関する慣用句としての意味のそれではなく、文字通りの「様々な事象に対する世間一般の平均的な感情」を指す。

 

世間からチヤホヤされているものに対して、それをおとしめるような事を口にするという「裸の王様」式のレトリックは、すでにお笑いの常套手段となっている。しかし、それには「みんなも薄々そう思っている」という絶対条件がつく。が、ダウンタウンの場合、その絶対条件を無視する場合が往々にしてあるのだ。

 

このものさしの設定位置こそ、俗に「感性」などと呼ばれる生来の能力なのだろう。ダウンタウンの設定位置は、高い。飛び抜けて高いと思う。それは、彼らから感じられる「(お笑い能力の)地肩の強さ」の根拠でもある。そして、この「地肩の強さ」が、お笑いの全てだと私は思う。「掛け合い」や「間(ま)」のテクニックによる「うまい漫才」の絶妙や、「あるあるある」で共感の確認をするだけみたいなお笑いに、もう魅力はない。

 

ダウンタウンおよび松本人志の笑いについて、「庶民感覚」の欠落という言葉で的確に捉えて、まさに言いえて妙といえる。それは、大衆に迎合することなく、松本人志自身が感じた感情を素直に言葉にし、その笑いとなる境界線を見極めて、ネタが成立させるプロセスを説明しているのである。

 

それを見誤ってしまうと、それは笑いとして昇華されず、ただの悪口となってしまう可能性がある。その絶妙な加減こそ、ナンシー関のいうところの、ものさしの設定位置であり、笑いに変えることのできる(お笑い能力の)地肩の強さでもあるのである。それらの能力が世間から評価されているからこそ、トリックスターとして振る舞うことができ、笑いとして消費されることが可能となっているのである。

 

 

グロテスクリアリズムについて

 

ロシアの哲学者ミハイル・バフチンは、そのような笑いの仕方をグロテスクリアリズムという言葉で、表現している。グロテスクリアリズムとは、手が届かないほどの高尚な存在を批判することで、落とし込めようとする行為である。上記の文章でナンシー関が説明している「裸の王様」など、まさにグロテスクリアリズムとしての滑稽要素のある物語といえるだろう。

 

ロシア文化学者の桑野隆は、著書「バフチン<対話>そして<解放の笑い>」にて、グロテスクリアリズムについて、以下のように説明している。

 

グロテスク・リアリズムの主要な特質は、格下げ・下落であって、高位なもの、精神的、理想的、抽象的なものをすべて物質的・肉体的次元へと移行させることである。この大地と肉の次元は切り離し難い一つの統一体となっている。

 

松本人志の批判性のある発言や、漫才やコントなどの作り込まれた作品には、グロテスクリアリズムとしての性質を感じさせる。それは、笑いという現象が可能にすることであるが、特別なモノ(崇高な存在など)であったとしても、笑いの解釈項を通して認識することで、新たな解釈が与えられてしまい、可笑しみのある別のモノとして認識されてしまうのである。

 

しかし、言い方を変えると、松本の笑いは他者に委ねた笑いであるといえる。それは、受け手の笑いを認識するレベルによって解釈の仕方が違うため、笑いの質が異なるからである。

 

以前、2000年代のお笑いブームについて解説した。それは、笑いが単純化し、共有済みの笑い(=インストールされた笑い)を提供することで、均一的な笑いを受け手が消費できるというものである。90年代の松本人志の笑いとの明確な違いはその点にあるといえるだろう。

 

それは閉ざされた世界の笑いであり、解釈の幅があまりにも狭い窮屈な笑いであるといえる。その笑いの行き着く先は、バフチンの以下の言葉で説明することができるだろう。

 

真理が開かれるのは、対等な複数の意識が対話的に交通し合う過程においてである。しかもそれは部分的にしか開かれない。究極の問題をめぐるこの対話は、真理を考え、もとむる人類が存するかぎり、おわり、完結することはありえない。対話の終焉は、人類の死にひとしかろう。すべての問題が解決されたならば、人類にはもはやそれ以上生存してゆくための刺激がなくなるであろう。

 

注目すべきは、後半部分である。バフチンは対話という概念をとても重要視している。対話とは、話者と他者の関係であり、コミュニケーションのことである。また、創作者(生産者)と消費者の関係から生まれる消費行動といいかえてもいいだろう。そして、対話の終焉は人類の死に等しい、といわれているように、2000年代のモノローグとしての対話のない笑いは、いずれ終焉してしまう恐れがある可能性があるのである。

 

松本人志の笑いは、対話を通して創出される笑いであり、他者の解釈は更新し続けながら、開かれた状態であり続けるといえるだろう。共有された状態の幻想の中で、終わりなきカーニバル(=祝祭)が繰り広げられるのである。それは過剰な笑いの氾濫のような状態であるといえるが、松本人志の望む世界観なのかもしれない。

 

以上。

 

 

 

 

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