センテンスサワー -23ページ目

センテンスサワー

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以前ブログで、松本人志がカリスマ性を獲得していくまでの契機について書いた。マックス・ウェーバーのカリスマ論を参照し、いかにして松本人志が神格化されていき、そのためにはどのような条件を満たす必要があったのかということを考察してみた。

 

そこで着目したのが、彼の表現の場であるメディアについてである。メディアとは、舞台、ラジオ、テレビ、本などのコンテンツを提供するための情報の媒体のことである。それらのメディアでの露出が増えることで、段階的にたくさんの消費者を獲得することが可能となり、カリスマ性を獲得するに至ったのである。

 

その後、松本人志の狂気性へと内容を展開し、松本人志自体にその根拠を見出そうと試みた。それが前回までのブログの内容なのだが、今回は、それらの内容を別の観点から掘り下げてみようと思っている。

 

当然のことであるが、カリスマという現象は、カリスマだけでは成立せず、カリスマの取巻きであったり、カリスマを崇拝する信者との関係性の中で生まれるものである。つまり、互いが依存しあっている状態がカリスマが機能しているといえるだろう。そこで着目すべきは、カリスマを成立させるための最も必要な条件である、消費者についてであり、またその関係性について考えてみたいと思う。

 

 

さて、そこで参照したいのが、吉本隆明の『共同幻想論』 (1968) の中で提案された「共同幻想」という概念である。同著では、人間の観念領域を「自己幻想」「対(つい)幻想」「共同幻想」という三つの領域に区分し、個人とその関係性から生まれる幻想について考察している。

 

自己幻想は文学や芸術が扱ってきた個体の観念領域、対幻想は家族や男女関係の観念領域、共同幻想は共同体や国家などの観念領域であると説明している。これらの観念領域を分析することで、吉本隆明は、個人の実存であったり、個人と個人との関係性であったり、個人と共同体との関係性を、幻想という概念を用いて、理解しようと試みたのである。

 

この考え方を松本人志に置き換えてみると次のようになるだろう。自己幻想は、松本人志が笑いを創作する過程に位置づけられる。対幻想は、ダウンタウンというコンビの間で共有されている幻想となる。最後に、共同幻想については、松本人志(シンボルとしての)であったり、松本人志が構築した笑い自体を共有している共同体としての幻想となるだろう。

 

そして、今回提案したい点は、上記の共同幻想が生成された原因を分析し、一つの現象と捉えて考察したいと思っているからである。以前ブログで松本信者について自身の体験を交えて書いてみたが、つまり、彼らが共有している幻想こそ、共同幻想として機能していると考えられる。それは松本信者のみならず、松本人志の取巻きにおいても関連していることである。松本人志を支える集団としての秩序立てであったり、彼への帰属意識を生み出すことに成功しているといえる。

 

そして、それこそが90年代の松本人志の笑いが成立していた一つの条件だといえるだろう。どちらが先であると明確にはいえないが、カリスマ性を獲得してく過程と、共同幻想が生成されていく過程で、双方に影響を与え合いながら、成立していったのである。

 

 

上記でも説明している通り、メディアとの関連性についても注目しておきたい。とくに、テレビというメディア装置が、及ぼした影響力は計り知れない。

 

P.D.マーシャルの『有名人と権力』では、有名人が権力を獲得していく過程で、どのように彼らを支持する共同体(経済・政治・芸術など)が出現し、有名人がどのような位置づけで機能することになったのかというプロセスを考察している。

 

同書では、有名人の概念を以下のように解説し、メディア装置の必要性について説いている。

 

有名人の概念は、意味の安定とコミュニケーションの<システム>として最もよく定義される。システムとして、有名人地位の状態は、現代文化における多様な領域や状態に変換可能なものである。このように、有名人地位の権力は経済・政治・芸術的な共同体において出現し、それらの諸領域で成功を差異化し、それを定義決定するやり方に作用する。有名人地位は、人に、ある種のとりとめのない力を授ける。社会において、有名人は他者についての声であり、合法的に重要な存在であることでメディア・システムに接続されている声である。

 

テレビというメディアは、ネットメディアとは違い双方向性に欠けており、どちらかというと一方的に情報を発信するためのメディアだといえる。マスメディアとして、ポピュリスティック(大衆迎合的)な仕方を得意としており、不特定多数の視聴者を獲得することができるのである。

 

有名人の特性として、視聴者(大衆)から同一化をはかられることがあげられる。同一化とは、憧れの存在に近づきたい、なりたいという願望を、対象のもつ考えや感情・行動・属性を取り入れ、同様の傾向を示すようになる心理的過程とされている。一種の防衛機制でもあるが、これをやりすぎると、自分自身を失ってしまう大変危険なものでもある。特に、社会的に不安定であり、心理状態が不安定なときは、影響を受けやすい状態であるといえる。

 

テレビやマスコミなどのメディア装置は、いっぽう的な情報操作による大衆の画一化につながる恐れがある。それが行き過ぎると、大衆を扇動することになり、メディア装置から暴力装置へと変貌してしまうのである。

 

 

戦争と共同幻想

 

現在では、テレビやラジオなどのメディアは、娯楽要素の強いイメージがあるが、一昔前は、プロパガンダとして大衆に一方的な意図を押しつける目的として利用されていた。とくに戦時中は、アジテーション(=演説)によって、大衆を先導し、政治思想を押し付けていたのである。共同幻想は、そのような状況において、とても厄介な状態だといえるだろう。

 

共同幻想が及ぼす影響は、幻想の共有化だけではなく、同調圧力によって、見えない圧力が働いてしまう。それは、人々の無意識に訴えかける暴力的なやり方だからである。吉本隆明は、戦時中の体験を通して、国家や天皇制イデオロギーによる共同幻想に支配されてしまった現象を読み解こうとしたのである。

 

当時の日本国では、国体や天皇制は、一般的な国民にとって絶対的な権力として機能していた。言論の自由などなく、強制的に彼らを戦争へと向かわせ、国を守るために命をかけて戦わざるおえなかったのである。同調圧力、洗脳、盲信などの暴力的な幻想が作用することで、戦争へと向かわせる空気が漂うことになったのだろう。

 

日本人特有の空気を読むという習慣は、共同幻想という概念と親和性が非常に高く、天皇のような象徴に対して同一化をしやすい特性があるだろう。戦争中のような不安定な状態であればなおさら発生しやすいのかもしれない。

 

松本人志を崇拝し、松本信者として幻想を共有する人々にとって、松本の笑いは暴力的に作用してしまう。それは、松本人志の発言(ボケ)が、特別な言葉として、機能することになるからである。なぜ、彼の言葉を深いものだと感じてしまうのか。他の人が同じようなことを言ったとしても、松本人志が言ったから深いのだろう勝手に決めつけ、深い意味を追い求めてしまう。つまり、その言葉に勝手な解釈を付けることで、特別な意味付けをしまうからである。

 

以前、「放送室」というラジオで放送作家の高須光聖が、当時の松本人志のエピソードとして、ある出版社の人の発言を引用し、以下のように話していた。

 

「これまでいろいろなお笑い芸人を好きになり、その芸人が意味の分からない発言やボケをした場合、面白くないと言っていたが、松本人志さんの場合のみ、それはわたしが理解できていないだけで、本当はすごいことを言ってるのではないか」

 

という内容である。松本人志だから、面白いことをいったに違いないということであり、その笑い自体を理解できなかったとしても、崇高なボケだと解釈しようとするのである。このような根拠なく意味自体を押し付ける現象を、フランスの社会学者であるピエール・ブルデューは、象徴的暴力と説明する。

 

さまざまな意味を押し付け、しかも自らの力の根底にある力関係を隠蔽することによって、それらの意味を正当であるとして押しつけるに至る権力は、そうした力関係の上に、それ固有の力、すなわち固有の象徴的な力を付け加える

 

上記で説明している力関係とは、階級間関係や、上司と部下、そして聖職者と信者などの上下関係や不平等関係のことである。それは、松本人志と松本信者との関係とも符合する。

 

先ほど説明した内容であるが、戦時中に共同幻想が機能した役割は、国民を戦争へと意識を向かわせる効果といえるだろう。いっぽう、90年代に松本信者らが作り出した共同幻想が機能した役割は、松本人志の笑いを絶対的なものだと信じ込み、松本人志の笑いがどんなものであれ、可笑しみを見出そう意識を向かわせる効果といえるのである。

 

松本人志のセンスや実力とは関係のないところで、松本人志に憧れるものや崇拝するものの幻想の中で、それらは勝手に機能してしまい、松本人志という怪物(=共同幻想)が生まれてしまったのである。

 

 

そして我に返る

 

戦争に負けて、国体や天皇に対する幻想は緩やかに解体されはじめる。それは、拠り所としていた根拠自体が失われてしまい、幻想が維持できなくなることで、我に返ることができたのである。

 

2000年代に入り、松本人志の笑いを否定するものが、にわかに現れはじめる。それは以前説明しているが、ネットが普及したことが深く関係している。90年代の時代にもアンチはいたとは思うが、アンチ同士で繋がることができなかったことや、アンチが情報を発信する場が存在しなかったため、公の場に現れることがなかったのであろう。

 

松本人志に対する幻想は、そのような状況の変化によって、解体されていくことになる。併せて指摘しておきたい点は、松本人志が後輩を教育する側に回ったことがあげられる。後輩と番組をはじめたり、M−1などの審査員として、2000年代の松本人志は、次の世代との関わりが顕著になったように思う。

 

それは、幻想で維持されていた松本人志の笑いを、組織として体系化していくことにシフトしたという流れでもある。松本人志の笑いを次の世代に伝えるという最もな作業であるとは思うのだが、それらの行為は、共同幻想の解体とカリスマ性の喪失を同時に意味することになるのである。

 

以前紹介したマックス・ウェーバーのカリスマ論では、カリスマがカリスマ性を失う理由として、指導者になり後継者を指導することと、カリスマの取巻きや支持者の集団を組織化することであると指摘している。

 

上記の指摘はまさに2000年代に松本人志が行ったことと関係しているのは明らかである。松本人志が意識的にそのような方向にシフトしたかどうかは定かではないが、様々な状況が作用し、そのような結果になってしまったのである。

 

だが、松本人志の幻想であったり、カリスマ性は失われてしまったが、松本人志のセンスや技術は以前以上に研ぎ澄まされていると思うし、新しい笑いを追求する姿勢は変わっていないと思う。

 

あえていうならば、現在の松本人志は、90年代の松本人志の笑いを否定することで、笑いを生み出しているという解釈ができるだろう。それは、結婚しないとか、映画を撮らない、といった当時の発言を裏切ったことは、ネタとして指摘されているが、それは90年代の共同幻想のなかで生まれた笑いへの否定といえるだろう。

 

以前、笑いの神は死んだ、という内容のブログを書いたが、笑いの神にとどめの一撃を与えたのは松本人志であるのである。笑いの神は死んだのかもしれないが、笑いの創造主として、松本人志は存在し続けているのである。

 

以上。

 

 

 

 

これまでのまとめ一覧。

 

 

笑いについて お笑い観①

笑いについて 演芸にまつわる笑いの歴史②

笑いについて お笑いブームとお笑いメディア史③

お笑い第五世代 大量供給・大量消費について④

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 ネタのイージー革命について⑥

お笑い第五世代 動物化するポストモダンの笑いについて⑦

お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧

お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨

お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩

松本人志論 松本信者として⑪

松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫

松本人志論 松本人志と狂気性⑬

松本人志論 松本人志とパトグラフィ⑭

松本人志論 松本人志と創造力⑮

 

これまでの議論では、狂気性を考察することで、松本人志のカリスマ性について分析を進めてきた。そして、パトグラフィという考え方を参照することで、論理の飛躍はあるにしろ、そのメカニズムを解き明かさそうと試みたしだいである。

 

しかしながら、上記の内容は、あまりにも抽象的で、説明過多になりすぎたこともあり、松本人志との接続が上手く機能しなかったように思う。それらの曖昧さを払拭するためにも、改めてそれらの前提を見直し、前回までに明らかにしたことを一度まとめて次のテーマである「創造力」へと繋げていこうかと思っている。

 

 

さて、それでは狂気性から話を進めていこうと思う。

 

まず、注目した点は、狂気と歴史の関係性についてである。西洋社会では、もともと狂人に対して寛容であり、包摂すらしていた。それは、狂人という存在が、別の世界から来た特別な存在として、歓迎されていたからである。もう少しかみくだいて説明すると、神の使いとして歓待されることで、尊敬される存在であり、一目を置かれる存在とされていたのである。

 

だが、時代の移ろいとともに、彼らは社会から排除されることになる。その原因については、諸説あるのだが、彼らは「理解不能な」人間として扱われるようになり、監禁され、収容されることになってしまう。その後、狂人は、理性そのものを観察する対象となるのだが、精神分析などの医学が発達、弱者を救済するという社会的な動きがあり、様々な要因が関係したことで、狂人を救うための対策が取られはじめるのである。

 

 

他方、西洋社会と比して、日本社会は、狂人に対して寛容であり、受け入れるための土壌があったと分析されている。それは日本の文化や芸能史と深く関係しているのである。

 

例えば、狂言は、社会風刺や社会批判などを通して、狂いの世界を表現された芸能とされている。表現としての「もの狂い」は、哀れみを抱き、また美しさすら感じてしまうような、情緒に訴えかける力があるのである。彼らの演じる狂気には、れっきとした意味があり、それはときに制度や日常性からの逸脱を意味し、そのような社会への抵抗でもあった。

 

娯楽としての側面だけではなく、少なからず学びの機会があったのである。演芸という表現のフィルターを通すことで、民衆は彼らから肯定的な人間像(狂人)を読み取ることが可能となり、狂人を包摂するための環境が整えられるようになったのである。彼らを嘲笑の対象として笑いが起こっているという側面もあるが、他方では愛されるキャラクターとして可笑しみを提供しているのである。

 

現在の日本の演芸において、狂気性は欠かすことができない要素である。漫才やコントでは、今でもそのような登場人物を演じられているし、狂気性のある設定やネタは、主流とされている。とくに、2000年代のお笑いブームでは、キャラ芸人が生産され、その大半は狂気性を感じられるインパクトの強いキャラクターであった。キャラの差別化の行き着いた先は、過激な狂気性を利用することとなり、消費者に対して誘引効果を高めることになったのである。

 

そして、それはその当時のお笑いブームだけではなく、90年代に松本人志の作り出した笑いでも必要とされたことはいうまでもない。ごっつええ感じというコント番組内では、数々の狂人的なキャラクターが生まれた。キャシィ塚本、トカゲのおっさん、おかん、Mr.BATER、半魚人など。作り込まれた笑い(コント)ではあったが、狂気性のあるキャラクターは予測不可能な笑いの可笑しみがあったのである。突然キレたり、女性のキャラであればヒステリーを起こしたりと、多様な狂気性のあるキャラクターが量産され、多様な仕方で狂気的な笑いが生み出されていたのである。

 

 

そして、その原因を探るためにヒントにしたのが、パトグラフィについてである。それは、天才(および狂気性)の創造性や独創性について、精神医学・心理学の観点から研究する方法である。天才の生涯や生き様を考察し、また彼らの心理や無意識の内部までも、分析の対象とされている。そうすることで、創造性のプロセスであったり、天才の思考パターンなどを解明することができるのである。

 

精神科医である斎藤環氏によると、松本人志の気質は分裂気質であると分析している。分裂気質者には、芸術家の分野で能力を発揮する人が多く、その気質はクリエイティブに向いているといえるだろう。

 

だが、松本人志を分裂気質者であるか否かは、あくまでもメディアを通して判断された一面的な側面でしかないだろう。私生活においての松本人志はどのような気質であるのか、それは定かではない。そして、松本人志が自身のラジオで語っていたように、当時の松本は、世間から求められたキャラクターを演じていたとも語っている。つまり、どこからどこまでが、松本人志の気質であるかそこから分析することは難しいように思う。

 

そのため、分析する対象は、松本人志が演じていたキャラクターやコントなどの作品に限られてしまう。また、バラエティ番組での彼の発言や笑いの仕方にヒントがあるだろう。そして、そこから読み取れるように、彼の作品などには分裂気質者としての狂気性が宿っているといっても過言ではないだろう。

 

再度、斎藤環氏の分析を参照させていただくが、彼は「病因論的ドライブ」という概念を提唱している。病因論的ドライブとは、表現者が狂気性の状態ではなかった場合でも、病理性のある他者(他物)と関係することで、表現者の創造活動に影響を与えてしまうということである。つまり、上記の説明に絡めると、松本人志は、彼の取巻きであったり、視聴者やファンとの関係性の中で、異常性を求められたことで、図らずも病因論的ドライブが発動してしまい、そのため、彼の創造性に影響を与えた可能性があるのである。

 

そして、常に狂気的な状態なのではなく、一時的に狂気性を利用することで、笑いを生み出しているという点がとても重要なのである。常に狂気的な状態では、創作活動などできるはずもなく、一般的な感覚は笑いを作る上でとても必要な要素である。松本人志は、その一般的な感覚と、狂気性を使い分けることで、松本人志の世界観を構築し、笑いに結びつけることで大衆性を獲得していったのである。

 

 

 

創造力について

 

ひと通り説明を終えたところで、今回のテーマである「創造力」へと接続していきたいと思う。そもそも創造力を取り上げた理由については、狂気性と深く関わりがあり、前回のブログで取り上げたパトグラフィに関連させると、パトグラフィとは天才に精神医学的な診断を下すことではなく、狂気と創造性の関連構造を分析するための一つのメソッドであるからである。

 

さて、それでは話を進めていこうと思うのだが、創造力とは一体何を意味するものなのか。一般的には、新しいモノや価値を生み出すための能力とされている。この言葉が使われ始めたのは、1951年とされており、その後(1971年以降)、メディアや宣伝広告の分野で頻繁に出現するようになったそうである。それは、仕事の面でクリエイティブというものが求められるようになり、商業的な需要の高まりでもあったのである。

 

一般的に言葉が浸透する以前に、クリエイティブは一部の人に与えられた資質とされていた。だが、現在では、仕事をする人すべてにそれは求められるようになり、創造力自体の認識が変化しつつあると思う。元来、創造力は特定の人物だけに現れる霊的能力であるという考えられていた。そしてそれは、狂気と紙一重の奇妙な人間性だと考えられていたのである。

 

いつしか、普通の人や正気な人でさえ、その特別な能力が求められてしまうそんな時代に変わってしまうのである。それは実際可能なのだろうか。創造力の範囲がどの程度までをさすのかは定かではないが、簡単なモノから複雑なモノ、浅いモノから深いモノ、それらの程度もあると思うが、世の中や社会、仕事の領域にまで、あらゆるモノや事象が細分化されていることもあり、狭い分野においてであれば、小さなクリエイティブであったとしても、機能する可能性は開かれているのかもしれない。

 

 

創造的な退行

 

それでは創造力の過程であったり、どういった経緯でそれが生まれるのか。

 

それについて、精神分析学の創始者であるフロイトは、防衛機制という考え方を提唱し、創造性の契機について分析を試みている。防衛機制とは、抑圧、退行、反動形成などの、受け入れがたい状況、または潜在的な危険な状況に晒された時に、それによる不安を軽減しようとする無意識的な心理的メカニズムである。そして、自我と超自我が本能的衝動をコントロールし、それらを操作することで、夢や妄想などを芸術的な作品として、生み出すことができるのである。

 

そこで、注目したいのが、創造的退行という考え方である。上記で取り上げている「退行」とは、困難な状況や情緒不安定なときに、行動が発達上の初期の状態に戻ること。つまり、現実逃避してしまった結果、幼い状態まで戻ってしまう状態のことである。

 

創造的退行は、その状態が、短期的・一時的な点が特徴であり、その状態を上手く利用することで、子供の頃のような、自由な発想や考え方を獲得することができ、創造的な作品を生み出すことができるとされているのである。

 

以前、松本人志は任天堂のゲームプロデューサーである宮本茂との対談で、如何に幼稚な作品を作るかということの重要性を語っていた。彼は何かを生み出すだけではなく、例えば宮本茂の生み出した作品に求めてしまう条件についても、適度な幼稚さについて示唆している。「如何に幼稚さを取り入れるか、いい意味で幼稚であることが重要です」と繰り返し、松本は語っていた。

 

さまざまなことを学び、経験することで、幼稚さを取り戻すことは難しくなり、その幼稚さを取り入れることがとても重要となってくる。ピカソの絵は子供でも書けそうだ、と誰もが思ったことがあると思う。だが、絵の書き方を学び、技術を積み上げた中で、あの破壊的とも入れる作風を誰もができるわけではない。それは、ピカソの創造的退行からきたインスピレーションであり、芸術家としての戦略的な手法なのである。

 

 

さて、それでは、創造的退行の状態について簡単に説明しようと思う。そのために、必要なのは、無意識と前意識という考え方である。

 

無意識とは、心のなかの「意識でない」領域のことを指す。そして、可動性のエネルギーであり、エスと呼ばれる一次過程とされている。

 

前意識とは、通常は意識に昇らないが、努力すれば意識化できる記憶等が、貯蔵されていると考えられる無意識の中の一部の領域である。そして、拘束されたエネルギーであり、自我と呼ばれる二次過程とされている。

 

ローレンス・キュビーは、無意識の抑圧された混沌とした状態では創造性は発揮されず、前意識の自由で豊かな活動性のみが創造性を生み出すと説明している。そして、日常的な意識的な状態化から開放され、潜在意識の中に入り込み、無意識によって生じる歪曲と妨害から、前意識によって顕在化することが必要としている。前意識体型は、意識体型と無意識体型の両側から圧迫を受けているため、この前意識の強化、つまり創造的退行の状態が重要となるのである。

 

 

妄想について

 

上記にて、創造的退行の状態の重要性について説いたが、その状態で最も重要なのは、妄想であると思う。空想的創造力といってもいいが、妄想の方がより、取り憑かれている狂気的な感じがするため、妄想という括りで考えていきたいと思う。そして、狂気性や分裂気質ととても深い関わりのあるテーマでもあるのである。

 

「フロイトはこう考えた。すべては夢であると。そして人はみな狂人である。言いかえれば、人はみな妄想的なのである」

 

精神分析家のラカンは、上記のように妄想について考察している。狂気と正気は表裏一体であることは以前ブログで説明した。同様に、上記の言葉は、ぼくたちが妄想的であり、また狂人ですらあると言及している。先ほど取り上げた内容と重なるが、ラカン曰く、「妄想において、無意識は意識のなかで直接的に表現される」と考えられている。これは前意識においての働きと意味する点は同じである。妄想と前意識との関係はとても重要だと思う。

 

そもそも妄想とは、その文化において共有されない誤った確信のこと、とされているが、一般的には、いかがわしい考えや空想を表すことがおおい。さまざまな精神疾患を伴うことで生じる場合と、健常者においても、断眠や感覚遮断など特殊な状況に置かれると一時的に妄想が生じることもあるそうである。また、妄想の種類もたくさんあり、知ってるものも、知らないものも含めると以下のようになる。

 

注察妄想、 恋愛妄想・被愛妄想(エロトマニア) 、罪業妄想 、貧困妄想、宗教妄想、誇大妄想、嫉妬妄想、被害妄想、盗害妄想など。また、あまり知られていないところで、不死妄想、Capgras妄想、被毒妄想、恋愛妄想、血統妄想。

 

これらの妄想は、上記で説明したように精神疾患を伴うことで、生じる場合がおおいようであるが、創作過程においては、とても重要な要素であり、そのイマジネーションが作品となりうるのである。

 

たびたび参照させていただいて大変恐縮であるが、精神分析家の斎藤環氏は、ヤスパースの「妄想」の考え方を自著の「文脈病」で取り上げ以下のように説明している。

 

周知のようにヤスパースは「妄想」を「妄想様観念」と「真性妄想」とに分類した。「妄想様観念」は意味論的な分析が可能であり、本論の文脈では「ファンタジー」と読み替えることもできる。ファンタジーはしばしばナルシシズムに起源があり、それらは相互に補強しあう位置関係におかれる。いっぽう「真性妄想」はもちろん分裂病の妄想である。その意味論的な解読は、必ずといっていいほど頓挫する。こちらはむしろ「現実的なもの」に起源を持ち、しばしばナルシシズムを内側から食い破り、ときには破壊するようにして発展する。

 

上記の説明からも分かるように、妄想様観念とは、妄想の原因に突き止められるほどの状態である。いっぽう、真性妄想とは、妄想の原因すら分からず、意味的な関連がわからない妄想の状態とされている。

 

ぼくたちが思春期によく経験するような妄想は、妄想様観念の方である。恋愛であったり、変態的なことであったり、夢のような将来のことであったり、ぼくたちは図らずも妄想してしまいがちである。それらは、アニメや漫画などの中二病的な作品に投影されることもおおく、青春を舞台にした作品において切っても切れないないテーマである。

 

いっぽう、真性妄想は、分裂気質との関連が着目されており、狂気的な表現をする上では、欠かせない仕方である。濃度の高い妄想でもある。シュールレアリスムやキュビズムなどの前衛的な作品においては、真性妄想における意味としての関連がない、文脈すら破壊された表現方法はとても重要である。

 

そして、松本人志の表現は、どちらかというと、真性妄想的な表現が注目されていたといえる。90年代の松本人志は、シュール性の高いネタがおおく、笑いの幅を広げ、新しい笑いへの解釈を日々探求し、挑戦的な試みがされていたと思う。笑いのない笑いをテーマとした「頭頭」という作品や、寸止め海峡(仮題)という伝説のライブなど、松本人志の真性妄想的な発想は、笑いの可能性を高めたといっても過言ではないだろう。

 

 

最後に

 

さてさて、創造力については以上となる。今回のテーマはカリスマ論とあまり関係のないように思われるが、派生的に必要な要素であるとは思っている。次回は、カリスマ論の締めくくりである、最後の内容になる。これで、次回で松本人志論を語る上で必要な要素は出揃うと思うので、引き続き、進めていきたいと思う。

 

以上。

 

 

 

 

これまでのまとめ一覧。

 

 

笑いについて お笑い観①

笑いについて 演芸にまつわる笑いの歴史②

笑いについて お笑いブームとお笑いメディア史③

お笑い第五世代 大量供給・大量消費について④

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 ネタのイージー革命について⑥

お笑い第五世代 動物化するポストモダンの笑いについて⑦

お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧

お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨

お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩

松本人志論 松本信者として⑪

松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫

松本人志論 松本人志と狂気性⑬

松本人志論 松本人志とパトグラフィ⑭

 

前回のブログでは、狂気性とその歴史について考えてみた。今回は、その狂気性の原因について掘り下げてみようと思う。そこで、参考にしたい概念が、パトグラフィ(また病跡学ともいう)である。

 

パトグラフィは、天才の創造性や独創性について、精神医学・心理学の観点から研究する方法とされている。天才の生涯や生き様を考察し、また彼ら自身が気が付くことがない心理や無意識の内部までも、考察することを目的としている。そうすることで、創造性のプロセスであったり、天才の思考パターンなどを分析することができるのである。

 

天才と狂気性の関係性は、古代ギリシャ・ローマ時代から論じられており、創造性を分析するうえで欠かせないテーマの一つであった。時代や文化の移り変わりの中で、注目される「狂気の型(神聖な病、エクスタシー、メランコリーなど)」は違っていたようであるが、20世紀前半において注目されたものこそ、分裂病なのである。

 

それは、近代精神医学の発展と深く関係しており、ドイツの精神医学者であるメビウスは、パトグラフィという言葉を創始し、定義したことで知られている。また、パトグラフィの基礎をつくったことで有名である。メビウスは、天才の生涯の中で精神障害のもつ位置であったり、意味を問う試みを実践したのである。

 

 

そして併せて注目したいのが、ドイツの医学者であり、精神科医でもあるクレッチマーである。彼は、ヒトの気質について研究することで、天才と狂気の関係性を解き明かさそうと試みている。

 

クレッチマーが重要としたのは、精神病であったり、その中でもとくに「精神病質的中間状態」に着目している。精神病質的中間状態とは、正常な状態からの変異としての精神病ではなく、正常者と精神病者との中間段階の状態のことである。クレッチマーは、中間段階に位置する状態であったり、正気と狂気のゆらぎの状態に、重要性を見出そうとしたのである。

 

そして、クレッチマーは、体質と気質を分析することで、天才の創造性の方向性を類型化し、体系化している。彼の提案する分類の仕方に気質分類というものがある。気質分類とは、パーソナリティの中心は気質であると考え、体型と気質を結びつけることで、分裂気質、循環気質、粘着気質の3つに分類される。

 

  • 分裂気質(細長型) - 静か、控えめ、真面目。(敏感性と鈍感性)
  • 循環気質(肥満型) - 社交的、親切、温厚。
  • 粘着気質(筋骨型) - きちょうめん、熱中しやすい、頑固、興奮しやすい。

 

上記で紹介した気質分類はあくまでも体質と気質の関係性から、性格を類型化したものである。その中で、天才を分析する中で必要な気質は、分裂気質と循環気質とされている。天才としての必要な要素は、さらに以下のように説明されている。

 

循環気質とは、現実主義者、ユーモア作家、写実的に記載する経験家と説明している。性格的には、陽気で活動的とされているが、躁うつ病気質でもあるそうだ。

 

一方、分裂気質とは、激情家、ロマンチスト、形式作家、精確な理論家、体系的学者、形而上学者と説明している。性格的には、非社交的・控えめ・きまじめで、感情が極端に敏感だったり、逆にひどく鈍感でもあるそうである。

 

上記の気質を比較することで、それぞれの特徴が浮かび上がってくる。そして、同じ天才という括りであったとしても、それぞれに該当する分野は次のように違ってくる。循環気質者の天才には、政治・技術・自然科学などの分野が多い。一方、分裂気質者の天才には、人文科学・芸術の分野が多いとされる。

 

その点を踏まえて、今回注目すべきなのは、やはり分裂気質者に関してである。その領分においては、笑いは芸術の一分野であると見なすことができるだろう。その理由としては、以下のように説明されている。

 

分裂気質者のもつ”現実超出性”によるとみるか、分裂性格の内部に存在する矛盾・対立・分裂などの「両価性」にもとづく<葛藤>に求めるかは、病気と性格のいずれを重視するかによるであろう。

 

このようにやや難しく説明されているが、現実を超出するとは、現実を超えるという経験であったり、人間を超越するということである。そして、両価性にもとづく葛藤とは、相反する感情を同時に持った状態であり、アンビバレンスに苦しむ様ということである。

 

分裂気質者のこうした苦しみにも感じられる状態が、創作表現に向かうことで、新たな作品を生み出すことになるのである。

 

 

病因論的ドライブについて

 

精神科医である斎藤環氏は、ブルータスでの松本人志の特集で、「性格傾向全体で判断すると、松本人志は分裂気質である」とし、以下のように分析している。

 

必ずしも対人能力が低くはないにもかかわらず、松本はしばしば単独行動を好み、親密な友人も限られている。加えて彼の集団主義への嫌悪も徹底している。大人になることを兵隊アリになぞらえ、野球をそのファンの集団志向ゆえに嫌い、自分というものがない若者の行動に腹を立てる。人からの指図を忌み嫌い、最高の評価以外のものは受け入れず、いかなる「賞」にも関心がない。

 

物事の自明性を根底から疑い、世界観そのものに揺さぶりをかけるような発想の数々は、ほとんど哲学者の営みに近い。まさに分裂気質者の面目躍如である。

 

斎藤環氏は、松本人志の狂気性であったり、笑いの本質について、分裂気質が関係していると説明しているが、それはあくまでもメディアを通して知ることができる松本人志の気質である。つまり、上記で斎藤環氏が説明したのは、あくまでも表面的なものであって、それらはパフォーマンスとしての芸風に関してである。ただ、90年代の松本人志に限っては、上記の指摘はとても的確であり、ぼくらが勝手に作り上げる松本人志のイメージを上手く抽出していると思っている。

 

以前、放送室というラジオで松本人志が語っていたのだが、当時の松本は「松本人志を演じていた」と自身を分析している。それは、周りの芸人であったり、取巻き、および松本人志を崇拝する信者たちが、勝手に作り上げたイメージであり、「期待に応えていた」という彼の言葉をそのまま受け取ると、やはり、あえて松本人志というキャラクターを演じていたのである。

 

それでは、現在の松本人志はどうだろうか。最近では、コメンテーターとしても活躍しており、活躍の幅を広げ、お茶の間の代弁者として認知されていると思う。当時の松本人志を知っている世代としては、これまで抱いていた松本人志のイメージとはかけ離れたキャラクターであり、今の松本人志には狂気性を感じることはない。松本人志を演じる必要性がなくなったということなのだろうが、もしくは、大衆から求められなくなったということなのかもしれないが、誇張も虚飾すらない、等身大の松本人志の姿なのかもしれない。

 

つまりはこういうことである。松本人志が松本人志自身を演じていた時期は、狂気性や分裂気質者としてのパフォーマンスが求められており、彼自身が無意識にそれをやったのか否かは定かではないが、そのように表現せざるおえなかったのである。そして、それ自体が作用し、彼自身を神格化することになり、カリスマとして機能していくことになったのである。つまり、彼の取巻きであったり、視聴者やファンなどの期待に応えていく中で、発動してしまった産物だといえるだろう。

 

斎藤環氏は自著「文脈病」の中で、「病因論的ドライブ」という概念を提唱している。それ自体は、宮本忠雄氏の「エピパトグラフィー」の方向性を発展した考え方であるとし、以下のように説明している。

 

作家とパートナーという関係性にとどまらず、作家と作品、作家と家族、作家と社会、そうしたさまざまな領域における多様な関係性に注目すること。そしてこれらの関係性が、一種の病理性をはらみつつ創造の動因となるとき、そこに「病因論的ドライブ」の作動がみてとれるはずだ。

 

病因論的ドライブとは、表現者が狂気性の状態ではなかった場合でも、病理性のある他者(他物)と関係することで、表現者の創造活動に影響を与えてしまうということである。上記で説明した内容に絡めて説明すると、松本人志は、彼の取巻きであったり、視聴者やファンとの関係性の中で、病因論的ドライブが発動してしまったということである。そのため、彼の創造性に少なからず影響を与えたのである。

 

上記は、あくまでも、メディアを通して認知された松本人志のイメージにおいての狂気性である。要するにキャラクター性に及ぼした影響の原因についての考察である。だが、それだけで松本人志という芸人を分かった気になるのは、時期尚早であるだろう。というのも、彼をキャラ芸人という観点だけで考察するのは困難であり、最も注目すべき点は、彼のネタ自体だと思っている。

 

彼を分析する上で、彼の作り込まれたコントや、起承転結と整合的なオチのある漫才は、分析の欠かせない対象である。そして、松本人志は彼の番組の構成作家としても活躍している。つまり、ブレインとしての松本人志こそ分析すべき対象であり、また松本人志の本質に近づけると思っている。

 

これまでは、松本人志のキャラクター性やその狂気性にスポットライトをあててきたのだが、ブレインとしての松本人志について考えてみようと思う。企画会議やネタ作りの際に、狂気的であっては、創作活動が捗るはずもない。その点で重要とされ、また笑い必要な要素とされるのは、一般的な感覚であろう。

 

 

笑いというのは、一般的な常識や共感性が、とても大切だとされており、これまで考察してきた、狂気性や分裂気質は少なからず相反する性質を備えている。それだけでは大衆に向けての笑いを生み出すことができないからである。

 

一般的(大衆としての)な感覚というものは、笑いを生み出す上でとても重要な要素であり、その感覚とのズレ(差異)が笑いへと変化するため、それを理解していないと、意味不明な笑いとして処理されてしまう可能性があるからである。

 

離れすぎたら、シュールや不条理と見なされ、近すぎると、ベタと見なされる。それが笑いにとって必要な距離感覚なのである。常識人であること、常識人として振る舞うこと、そして常識を知っていることは、笑いの表現者として重要な要素なのである。

 

言いかえると、松本人志は最低限の常識を備えつつ、狂気性を利用することで、松本人志の世界観を作り上げていたのだと思う。

 

 

そこで注目しておきたいのは、斎藤環が同書(「文脈病」)の中で、吉田戦車という漫画家を分析した吉田戦車論を提唱しており、その中で指摘された「健常者の表現が分裂病化する」という点である。以下がその内容である。

 

吉田は漫画作家としての職業感覚のみを拠り所として、みずからの病理によることなく、分裂病の言語危機的様相を漫画表現として洗練し、計算ずくで笑いに結びつけ、一定の大衆性すら獲得してしまったのである。

 

松本人志と吉田戦車の作品について、しばしば類似性を指摘されているが、上記の説明からも分かるように、彼らの作品の拠り所とする狂気性への可笑しみの場所はとても似ていると思う。常識を逸脱した世界観や設定の妙は、シュールや不条理という言葉で片付けられがちであるが、それらは上記を踏まえて作り込まれた笑いの仕方なのである。

 

改めて繰り返すが、松本人志と吉田戦車は一定の一般的な感覚を備えているからこそ、狂気性を感じさせる作品を生み出すことができるのである。斎藤環氏が、病因論的ドライブと称したように、病理性に依存することなく、彼らは作品を生み出すことができる稀有な存在なのである。

 

それは、以前ブログで取り上げたオタク第一世代が関係しているのかもしれない。それは創作の拠り所とする世界観が「虚構」という内容なのであるが、彼らは共にオタク第一世代であり、一ヶ月違いに生まれた同世代である。彼らの作風が似てしまうのも、影響を受けてきた作品が同じこともあるだろうし、新しい仕方で笑いを生み出しているため、そのように感じられるだけなのだと思う。

 

彼らが影響を受けた作品の中には、狂気性をテーマとしたものもあっただろう。それらの狂気性のある世界観(=虚構)を彼らが創作の拠り所としていたからこそ、彼らはその時代において新しい価値観の作品を生み出すことができたのである。

 

 

最後に

 

パトグラフィは、分かるようで分からないようなややこしい概念であるが、天才を俯瞰して考察する上では、とても参考になる考え方である。パトグラフィの説明は以上となるが、関連して注目しておきたいのが、妄想についてである。妄想はクリエイティブにとって必要な要素であり、改めて考察してみたいと思う。

 

年を明けてから、大みそかに放送されたガキの使いの「黒塗り」の問題で、ネット上で議論が交わされているが、大変世知辛い世の中になったなと思う。笑いの文脈に差別としての意図がなかったとしても、それを差別だといった時点でそれは差別の文脈で語られるようになり、差別と認識していなかった人ですら、そのように感じてしまうようになる。

 

ぼくたちが生きる社会は、もはや表層にしか興味がなく、表層で機能する事柄にしか興味を抱かず、喜怒哀楽の僅かな感情だけで世界を認識し、感じることしかできなくなったんだと、しみじみ感じてしまう。

 

以上。

 

 

 

これまでのまとめ一覧。

 

 

笑いについて お笑い観①

笑いについて 演芸にまつわる笑いの歴史②

笑いについて お笑いブームとお笑いメディア史③

お笑い第五世代 大量供給・大量消費について④

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 ネタのイージー革命について⑥

お笑い第五世代 動物化するポストモダンの笑いについて⑦

お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧

お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨

お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩

松本人志論 松本信者として⑪

松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫

松本人志論 松本人志と狂気性⑬