以前ブログで、松本人志がカリスマ性を獲得していくまでの契機について書いた。マックス・ウェーバーのカリスマ論を参照し、いかにして松本人志が神格化されていき、そのためにはどのような条件を満たす必要があったのかということを考察してみた。
そこで着目したのが、彼の表現の場であるメディアについてである。メディアとは、舞台、ラジオ、テレビ、本などのコンテンツを提供するための情報の媒体のことである。それらのメディアでの露出が増えることで、段階的にたくさんの消費者を獲得することが可能となり、カリスマ性を獲得するに至ったのである。
その後、松本人志の狂気性へと内容を展開し、松本人志自体にその根拠を見出そうと試みた。それが前回までのブログの内容なのだが、今回は、それらの内容を別の観点から掘り下げてみようと思っている。
当然のことであるが、カリスマという現象は、カリスマだけでは成立せず、カリスマの取巻きであったり、カリスマを崇拝する信者との関係性の中で生まれるものである。つまり、互いが依存しあっている状態がカリスマが機能しているといえるだろう。そこで着目すべきは、カリスマを成立させるための最も必要な条件である、消費者についてであり、またその関係性について考えてみたいと思う。
さて、そこで参照したいのが、吉本隆明の『共同幻想論』 (1968) の中で提案された「共同幻想」という概念である。同著では、人間の観念領域を「自己幻想」「対(つい)幻想」「共同幻想」という三つの領域に区分し、個人とその関係性から生まれる幻想について考察している。
自己幻想は文学や芸術が扱ってきた個体の観念領域、対幻想は家族や男女関係の観念領域、共同幻想は共同体や国家などの観念領域であると説明している。これらの観念領域を分析することで、吉本隆明は、個人の実存であったり、個人と個人との関係性であったり、個人と共同体との関係性を、幻想という概念を用いて、理解しようと試みたのである。
この考え方を松本人志に置き換えてみると次のようになるだろう。自己幻想は、松本人志が笑いを創作する過程に位置づけられる。対幻想は、ダウンタウンというコンビの間で共有されている幻想となる。最後に、共同幻想については、松本人志(シンボルとしての)であったり、松本人志が構築した笑い自体を共有している共同体としての幻想となるだろう。
そして、今回提案したい点は、上記の共同幻想が生成された原因を分析し、一つの現象と捉えて考察したいと思っているからである。以前ブログで松本信者について自身の体験を交えて書いてみたが、つまり、彼らが共有している幻想こそ、共同幻想として機能していると考えられる。それは松本信者のみならず、松本人志の取巻きにおいても関連していることである。松本人志を支える集団としての秩序立てであったり、彼への帰属意識を生み出すことに成功しているといえる。
そして、それこそが90年代の松本人志の笑いが成立していた一つの条件だといえるだろう。どちらが先であると明確にはいえないが、カリスマ性を獲得してく過程と、共同幻想が生成されていく過程で、双方に影響を与え合いながら、成立していったのである。
上記でも説明している通り、メディアとの関連性についても注目しておきたい。とくに、テレビというメディア装置が、及ぼした影響力は計り知れない。
P.D.マーシャルの『有名人と権力』では、有名人が権力を獲得していく過程で、どのように彼らを支持する共同体(経済・政治・芸術など)が出現し、有名人がどのような位置づけで機能することになったのかというプロセスを考察している。
同書では、有名人の概念を以下のように解説し、メディア装置の必要性について説いている。
有名人の概念は、意味の安定とコミュニケーションの<システム>として最もよく定義される。システムとして、有名人地位の状態は、現代文化における多様な領域や状態に変換可能なものである。このように、有名人地位の権力は経済・政治・芸術的な共同体において出現し、それらの諸領域で成功を差異化し、それを定義決定するやり方に作用する。有名人地位は、人に、ある種のとりとめのない力を授ける。社会において、有名人は他者についての声であり、合法的に重要な存在であることでメディア・システムに接続されている声である。
テレビというメディアは、ネットメディアとは違い双方向性に欠けており、どちらかというと一方的に情報を発信するためのメディアだといえる。マスメディアとして、ポピュリスティック(大衆迎合的)な仕方を得意としており、不特定多数の視聴者を獲得することができるのである。
有名人の特性として、視聴者(大衆)から同一化をはかられることがあげられる。同一化とは、憧れの存在に近づきたい、なりたいという願望を、対象のもつ考えや感情・行動・属性を取り入れ、同様の傾向を示すようになる心理的過程とされている。一種の防衛機制でもあるが、これをやりすぎると、自分自身を失ってしまう大変危険なものでもある。特に、社会的に不安定であり、心理状態が不安定なときは、影響を受けやすい状態であるといえる。
テレビやマスコミなどのメディア装置は、いっぽう的な情報操作による大衆の画一化につながる恐れがある。それが行き過ぎると、大衆を扇動することになり、メディア装置から暴力装置へと変貌してしまうのである。
戦争と共同幻想
現在では、テレビやラジオなどのメディアは、娯楽要素の強いイメージがあるが、一昔前は、プロパガンダとして大衆に一方的な意図を押しつける目的として利用されていた。とくに戦時中は、アジテーション(=演説)によって、大衆を先導し、政治思想を押し付けていたのである。共同幻想は、そのような状況において、とても厄介な状態だといえるだろう。
共同幻想が及ぼす影響は、幻想の共有化だけではなく、同調圧力によって、見えない圧力が働いてしまう。それは、人々の無意識に訴えかける暴力的なやり方だからである。吉本隆明は、戦時中の体験を通して、国家や天皇制イデオロギーによる共同幻想に支配されてしまった現象を読み解こうとしたのである。
当時の日本国では、国体や天皇制は、一般的な国民にとって絶対的な権力として機能していた。言論の自由などなく、強制的に彼らを戦争へと向かわせ、国を守るために命をかけて戦わざるおえなかったのである。同調圧力、洗脳、盲信などの暴力的な幻想が作用することで、戦争へと向かわせる空気が漂うことになったのだろう。
日本人特有の空気を読むという習慣は、共同幻想という概念と親和性が非常に高く、天皇のような象徴に対して同一化をしやすい特性があるだろう。戦争中のような不安定な状態であればなおさら発生しやすいのかもしれない。
松本人志を崇拝し、松本信者として幻想を共有する人々にとって、松本の笑いは暴力的に作用してしまう。それは、松本人志の発言(ボケ)が、特別な言葉として、機能することになるからである。なぜ、彼の言葉を深いものだと感じてしまうのか。他の人が同じようなことを言ったとしても、松本人志が言ったから深いのだろう勝手に決めつけ、深い意味を追い求めてしまう。つまり、その言葉に勝手な解釈を付けることで、特別な意味付けをしまうからである。
以前、「放送室」というラジオで放送作家の高須光聖が、当時の松本人志のエピソードとして、ある出版社の人の発言を引用し、以下のように話していた。
「これまでいろいろなお笑い芸人を好きになり、その芸人が意味の分からない発言やボケをした場合、面白くないと言っていたが、松本人志さんの場合のみ、それはわたしが理解できていないだけで、本当はすごいことを言ってるのではないか」
という内容である。松本人志だから、面白いことをいったに違いないということであり、その笑い自体を理解できなかったとしても、崇高なボケだと解釈しようとするのである。このような根拠なく意味自体を押し付ける現象を、フランスの社会学者であるピエール・ブルデューは、象徴的暴力と説明する。
さまざまな意味を押し付け、しかも自らの力の根底にある力関係を隠蔽することによって、それらの意味を正当であるとして押しつけるに至る権力は、そうした力関係の上に、それ固有の力、すなわち固有の象徴的な力を付け加える
上記で説明している力関係とは、階級間関係や、上司と部下、そして聖職者と信者などの上下関係や不平等関係のことである。それは、松本人志と松本信者との関係とも符合する。
先ほど説明した内容であるが、戦時中に共同幻想が機能した役割は、国民を戦争へと意識を向かわせる効果といえるだろう。いっぽう、90年代に松本信者らが作り出した共同幻想が機能した役割は、松本人志の笑いを絶対的なものだと信じ込み、松本人志の笑いがどんなものであれ、可笑しみを見出そう意識を向かわせる効果といえるのである。
松本人志のセンスや実力とは関係のないところで、松本人志に憧れるものや崇拝するものの幻想の中で、それらは勝手に機能してしまい、松本人志という怪物(=共同幻想)が生まれてしまったのである。
そして我に返る
戦争に負けて、国体や天皇に対する幻想は緩やかに解体されはじめる。それは、拠り所としていた根拠自体が失われてしまい、幻想が維持できなくなることで、我に返ることができたのである。
2000年代に入り、松本人志の笑いを否定するものが、にわかに現れはじめる。それは以前説明しているが、ネットが普及したことが深く関係している。90年代の時代にもアンチはいたとは思うが、アンチ同士で繋がることができなかったことや、アンチが情報を発信する場が存在しなかったため、公の場に現れることがなかったのであろう。
松本人志に対する幻想は、そのような状況の変化によって、解体されていくことになる。併せて指摘しておきたい点は、松本人志が後輩を教育する側に回ったことがあげられる。後輩と番組をはじめたり、M−1などの審査員として、2000年代の松本人志は、次の世代との関わりが顕著になったように思う。
それは、幻想で維持されていた松本人志の笑いを、組織として体系化していくことにシフトしたという流れでもある。松本人志の笑いを次の世代に伝えるという最もな作業であるとは思うのだが、それらの行為は、共同幻想の解体とカリスマ性の喪失を同時に意味することになるのである。
以前紹介したマックス・ウェーバーのカリスマ論では、カリスマがカリスマ性を失う理由として、指導者になり後継者を指導することと、カリスマの取巻きや支持者の集団を組織化することであると指摘している。
上記の指摘はまさに2000年代に松本人志が行ったことと関係しているのは明らかである。松本人志が意識的にそのような方向にシフトしたかどうかは定かではないが、様々な状況が作用し、そのような結果になってしまったのである。
だが、松本人志の幻想であったり、カリスマ性は失われてしまったが、松本人志のセンスや技術は以前以上に研ぎ澄まされていると思うし、新しい笑いを追求する姿勢は変わっていないと思う。
あえていうならば、現在の松本人志は、90年代の松本人志の笑いを否定することで、笑いを生み出しているという解釈ができるだろう。それは、結婚しないとか、映画を撮らない、といった当時の発言を裏切ったことは、ネタとして指摘されているが、それは90年代の共同幻想のなかで生まれた笑いへの否定といえるだろう。
以前、笑いの神は死んだ、という内容のブログを書いたが、笑いの神にとどめの一撃を与えたのは松本人志であるのである。笑いの神は死んだのかもしれないが、笑いの創造主として、松本人志は存在し続けているのである。
以上。
これまでのまとめ一覧。
お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧
お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨