構想四年の集大成 | センテンスサワー

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昨年からお笑いについて書いているのだが、構想の段階から含めると四年ほどになる。上京する前からなんとなく考えはじめていて、こういった形でまとまるとは思ってもみなかった。

 

当初は、ブログの一つのネタとして面白いかもしれないという理由だけで、「笑の神は死んだ」というタイトルで思いの丈を綴ってみた。そして、書いている間にアイディアが降りてきて、違うアプローチができるかもしれないという気持ちが芽生えたのである。

 

それから土日を利用して資料を集めた。ぼくとしては、松本人志論を書くにあたって、松本人志の笑いの本質であったり、普遍的な笑いとは、という大きなテーマに挑戦したかった。だが、そのテーマはぼくには重たすぎた。専門家でもないぼくが踏み込んではいけない領域だと気が付くまでに相当時間を要してしまった。これは誤算だった。

 

その失敗が功を奏してか、笑いに関しての知識と知見を少なからず手に入れることが出来たかと思う。古典的な笑いの理論から、最先端の笑いの理論に至るまで、あらゆる分野の専門家が独自の切り口で笑いを考察し、日々、笑いの理論が体系化されているのである。特に、文学者や哲学者、そして心理学者(精神分析学者)などの考え方はとても参考になった。

 

日本に目を向けると、笑いに対する効用的な本はたくさんあるのだが、それほど分析している人はいない。哲学者であれば柄谷行人が少し書いているくらいだったし、柳田 國男が「笑の本願」という神と笑い(伝統芸能としての笑い)について書いているくらいだった。

 

上記で学んだことは、少なからず松本人志論に反映されているのだが、結局、普遍的な笑いの本質を捉えることはできなかった。むしろ、文献を読み解こうとすればするほど、笑いに普遍性などないことがわかり、ボードレールが述べているように、メタレベルの視点に立つことの重要性がなによりも重要だと思い知らされるのみ。

 

つまり解釈次第ですべての事象が笑いへと変わるということなのである。それは以前、「お笑い観 笑いについて①」というブログで、ぼくなりの答えを出そうと試みた。内容については一読いただきたいと思うが、それについてはまだまだ考え抜く必要があり、今後の大きなテーマだと思っている。

 

そこでぼくが目を向けたのは、笑いの消費者(松本信者)についてである。笑いの発信者ではなく、受信者に目を向けることで、その本質に迫ることができると思ったのである。それはあながち間違っていなかったと思っている。彼らが解釈し、それを消費することで笑いという効用が生まれるのである。

 

宗教(神自体)というものは、すべて受身的立場にある人々が作り出した幻想である。その幻想を共有している人々の妄想に過ぎず、それらを取り巻く人々が作り出したに過ぎない。松本人志を神と位置づけて、論を展開したのは、そういったカラクリがある。

 

笑いの神は死んだ」というブログでは、その点に触れることはなかった。そもそもその時点では、なにも思いついていなかった。ただ、ニーチェ的に書いてみたかっただけである。

 

一般的によく使われる笑いの神とは、「偶発的にアクシデントが発生した時に爆笑が起こる現象のことを指す」ときの存在であり、上記で取り上げている神とは少しニュアンスが違う。その点は目をつぶっていただき、次回のブログを読んでいただければと思う。

 

最後の松本人志論のテーマは、「笑いの神は死んだ」の続編となる。なるたけ、納得いただけるものにしたいと思っているので、公開はしばらく先だと思っているのだが、夏までには公開したいと思っている。

 

 

さて、次回のブログだが、松本人志論の公開までに、これまでに書いたお笑い論のまとめを書こうと思う。それも分かりやすく。というのも、これまでのお笑い論では、かなりの長文となってしまい、読者の方が読みにくいのではないかという反省がある。加えて、最近の読者の傾向として、スマホユーザーが五割以上を超えるため、その点を考慮して書いていかなければとも思っている。

 

お笑い論は、全部で19記事ほどある。それをカテゴリごとに分けて、分かりやすく解説していきたいと思う。以上。