以前から気になっていた作品で、神や信仰をテーマにした本作は、社会告発アニメとして位置づけられ、世界中で話題となった衝撃作である。単館で短い期間のみの上映だったため見逃してしまっていたのだが、近くのTUTAYAで在庫があると知り、早速レンタルした次第である。
監督は、韓国ソウル出身のアニメ界でとても有名なヨン・サンホ氏。本作が公開されたのは、2013年と少し前の作品ではあるが、テーマがテーマだけに、流行り廃りの枠組みにとらわれなず、今だからこそ観るべき作品だとすら思っている。触れないわけにはいかないが、オウム真理教の死刑執行のニュースがメディアを独占し、改めて平成の大事件を考えずにはいられない。
ぼくらは、何らかの条件で、何らかの信仰を持つ可能性を秘めていると思う。それは人間が生存の確率をあげていく過程で組み込まれていった手段なのだとは思うが、信仰するという行為自体は、ときに人を救い、ときに生きることの道しるべとなり、人生を豊かにしてくれるものである。だが、その方向性をひと度間違ってしまうと、信仰に身を委ねる人を扇動し、見るだに恐ろしい事態へと変貌を遂げてしまう可能性があるのである。
本作は、上記でいうと間違いなく後者にあたる。物語の舞台は、ダム建設のため水没予定地となっている村である。拠り所の欠けた村人は、図らずも新興宗教におぼれていくことになる。そのような状況の最中、村の厄介者とされている主人公が村に戻ってきて、その異常性に気が付き、陰謀を阻止しようと奮闘するというのが、物語の筋である。
この物語の根幹にあるのは、言うまでもないが、ダム建設のため村が水没してしまうということである。それが、村の人々を不安にさせ、拠り所を求めようとして、信仰に身を委ねることになるのである。
つまり、ダム建設で村自体が消滅することで、それは同時に共同体の解体を意味するのである。このような小さな共同体にとって、故郷やそれを維持するための「場」というものはとても重要であり、繋がりを機能させている役割がある。それが無くなるということは、繋がりだけでなく、生活を含めたライフスタイル(=大きな物語)ですら、機能しなくなってしまうのである。
話は変わるが、先日『万引き家族』を観てきたのだが、テーマは違えどとても似たように共同体としての問題と思えた。どういうことかというと、万引き家族のテーマはもちろん「家族」であるとは思うのだが、ぼくはその関係性は家族という定義で捉えることが難しいように思えて、あれはどちらかというと最小単位の共同体としてしか機能していないのではないかと思っている。
話を進める上で、ぼくなりの家族の定義をはっきりさせておくと、家族とは幻想の共有でしかないと思っている。その幻想を維持するのが、血縁関係なのか、思い出なのか、愛(=哀れみ)なのか、はたまは戸籍などのルールによるのか。ぼくの定義から考えると、万引き家族はその定義からは逸脱しているように思えるのだ。彼らの繋がりを支えているのは、利害関係で結び付けられた関係でしかないように思えるのである。
だが、是枝裕和のうまいなぁと感じたのは、中盤で、安藤サクラ演じる信代が母親としての母性愛(=無償の愛)を獲得していく過程である。あの迫真の演技と、親子のようなスキンシップは、とても感動したというのは余談だが、とても素晴らしかった。
のだが、後半で、城桧吏演じる祥太が捕まってしまったことで、家族は夜逃げを企て、図らずもそのタイミングで捕まってしまうのだが、それは同時に「場」の解体を意味するのである。彼らは、段階を経て家族になり得た可能性があった。しかし、「場」が解体されたことで、それらの関係性が機能することがなくなり、万引き家族(=買い物客のふりをする家族)でしかなかったのである。
再度話を戻すが、「場」というものが共同体を維持するためにとても重要であることは認識いただけたかと思う。繰り返すが、ダム建設は「場」の消滅し、それは同時に共同体の解体を意味するのである。そのため、人々は不安定になり、宗教に身を委ね、邪教に対して盲信してしまうのである。
未来がみえないと、ぼくらは浅はかな判断でワンチャンに賭けてしまう弱い生き物である。オウム真理教のようなわけのわからないものに、なぜ、人々は熱狂し、エリートや高学歴の人でさえ、入信してしまうのか、とても大きな謎であるが、以前それについては『松本人志論 松本人志とカリスマ性⑫』の中で取り上げた。
つまり、一つでも飛び抜けた気質(=能力や才能)があれば、全体を見ずに、一部だけ見て、それを全てだと思い込み、熱心になってしまうのである。そうすると、一部以外でさえ、輝きはじめて、悪いことですら、常識として分かってはいるだろうが、それすらも意味のある事と都合よく解釈し、思考停止させてしまうのである。
『我は神なり』では、たった一人だけ、正気な状態のため、陰謀を阻止しようとするのだが、彼はオオカミ少年のような形で誰からも信じてもらえず、自身の正義を信じて奮闘するのである。彼は、ある意味、常識の欠けた存在であるが、常識の外側で、自身の正義を持っている。それが正しい正義か、否かは分からないが、ぼくが重要なことだと思った。
現在では、法令遵守、社会的規範などの遵守にぼくたちは翻弄されている。そしてそれに飼い慣らされた人々も増えてきているように思う。社会に媚び、SNSに媚び、自分にすら媚びる。決断することを辞めて、正義を自身の内側に求めるのではなく、その外側に結論を委託する。この状態は、「場」の解体に等しく、誰もが何かに盲信してしまう恐れがあるのではと勘ぐってしまう。
宗教に夢中になるのも悪かないが、夢中になれる何か特別なものを見つけてほしい。あなたにしかない、固有なものを見つけることが、人生を豊かにしてくれるとぼくは思う。