渋谷にはたくさんのホームレスが生活している。いや、それは生活しているとは言えないのかもしれない。ただ、そこにいるだけ。
物乞いをする人もいるし、徘徊している人もいるし、ガラクタを集めている人もいる。彼らは、自己主張せず、たんたんと死なない工夫をしながら、ただ生きているのである。
そんな彼らに、ぼくを含めて、誰も手を差し伸べたりしない。なんとかしてあげたいと、一瞬だけ思うときもあるが、それは憐れみと化す前に消えてしまうのである。
ぼくらは、他者に憐れみを抱くことで、手助けしてやりたい、なんとかしてあげたいと思う。それが、社会を形成するうえで、とても大切なことなのである。
福沢諭吉は、当時、社会という概念が存在しないなかで、ソーシャルという言葉を人間交際と訳した。人と人の交わり、それこそが社会の本質であると。
ぼくらは、社会という用意されたプラットフォームが既に存在していて、その一部として、世間があり、社交が機能していると思っているが、実際は逆である。あくまでも社会は、人々が共生していくうえで、名付けられた総称にすぎないのである。
だが、現在の世の中は、憐れみの向くべき方向性が異なり始めているようにおもう。他者に向けて抱くものが、自己に対して抱いているように思われるのだ。
どういうことかというと、上記で説明しているように、他者に対して憐れみを抱くことは、利他的に人々に働きかけることになり、より良い社会を形成するうえで、とても重要なのである。
いっぽう、自身に対して憐れみを抱くようになると、嫉妬であったり、疎外されているようにすら感じてしまうのである。自分のほうがかわいそう。なぜ、ぼくがこんな目に合わなければならないのだ。社会は不公平だ。と、様々な自己弁護論を展開し、挙句の果ては、他者を否定するようになってしまう。その行き過ぎた例がヘイトスピーチのようなものである。
SNSは、ひねくれた憐れみを可視化したようなものだ。他者への嫉妬を、自身への憐れみに置き換え、それを悟られないように「いいね」ボタンを押下する。そんなもの「核のボタン」と同じである。
社会が多様化していくなかで、相関的(相関主義)にものごとを考えることは必要不可欠である。相関的に考えるとは、ぼくにとっての正義とはなにかと判断するのではなく、ぼくと複数の他者にとっての正義とはなにかと判断することである。つまり、利己的に正義を計ろうとしても、いずれそれらはコンフリクトを起こしてしまうため、利他的な行動を起こすことが必要とされるのである。
家なき人が、己を奮起させて、現状を変えようと思い立つ見込みなどないだろう。誰かが、手を差し伸べないといけない。だが、自身にたいして憐れみを抱いてしまうようになってしまったぼくらには、とうてい無理な話である。情けない話であるが、そんな余裕などない。自業自得だろと心のどこかで思っていたりする。
残された道はただひとつ。社会の中心で愛を叫ぶしかない。誰もが振り向き、誰もが立ち止まり、誰もが手を差し伸べてくれるような、そんな愛の言葉を。