「予定通り死ななくて先生に申し訳ない・・」
お笑いではなく、真面目に心からこんなことが言えるのは世界中でむー母しかいないだろうな、たぶん・・
「私はどっちでもよいけど先生はバツが悪く困るでしょ?」
検査結果が出て末期肺腺癌、延命処置不能の余命宣告を一緒に聞いた時も驚きもせず堂々としていた。
神妙な顔で話をする医師と看護師に92歳のむー母は・・
「そんな深刻な顔しなくても、これだけ生きれば十分だから気を使わなくていいわよ~~」
「ねえ たかし」 と、同意を求めるので
「おう そうじゃ母ちゃん 十分に生き過ぎとる」
先生は、二人して笑う不気味な親子を交互に見ていた。
むー母の笑いは、お笑い楽観系と言う性格上仕方ない。
信用されていなかったお野人は、やっと親孝行が出来る嬉しさの笑い。
何しろむー母が尊敬する日赤の医者がギブアップしたおかげ横丁で、出番が回って来たのだ。
親不孝ばかりで親孝行など一度もしたことがないお野人には人生最良の日だった。
だいたい親孝行が何かわからんのだからしょうがない。
むー母は何も望まんし・・社会に出てから、旅行も、服買ったことも、レストランへ連れて行ったこともない。
ヤマハ時代に渡した延べ数百万のお金は1円も使わず野人の為に郵便局へ。 おかしな話だが、高齢の母を一人息子の野人はまったく扶養していない。
「扶養家族はお前でしょ」が口癖で、「直木賞見習いなさいよ」と野人本にも90歳過ぎてもケチばかり付けていた。
当然、末期肺がんの短期完全復元に確信を持っていた。
ステージ4で余命2か月だったが、それだけ余命があれば十分じゃい・・とお野人高笑い
生命エネルギー論・復元理論を公開してすぐ、実験第一号はむー母。
詳細は省くが、余命2か月が4か月で復元。
1週間で肺に水が1リットル以上溜まるこの段階で治った前例もなく、常識では考えられないと首を傾げる医師に対して言った言葉が冒頭の「申し訳ない」という言葉だ。
宣告時も完治時も言うことがお笑い系だな。
しかしどちらも本人は心からそう思っている。
もうすぐ死ぬとわかった時の喪失感と、助かった時の喜びの感情がまったく見られない。
意識は淡々麺で、どちらも自分のことよりも相手への気遣いが深い。 究極の悟りとも言える思いやりだな。
まあ、野人が幼少の頃より変わっていない。
喧嘩で相手に怪我させると烈火のごとく怒ったが、その逆は同情も心配もしない。
「あんたは丈夫だから問題ないでしょ」
落ちて頭を打って失神、救急車で何度か運ばれたが無傷だった。
むー母は何度かもう駄目かと思ったらしい。
「絶対に相手の頭をポカリスエットとやっちゃ駄目よ!」
それが口癖で、周年海や山で血を流したが赤チンも包帯も使わずツバ付けて終わり。
いくら相手が悪いと言っても関係なく、言い分は通用しない。
我が子を身びいきする一般的な親とは随分違うな。
母は別れの記念品持参でサークル仲間に別れの挨拶、数か月後に復帰の挨拶をした。
野人の命令で、冒頭の言葉を復帰の挨拶で渋々使ったが、友人達は涙を浮かべて笑った。
その事を母は帰ってからぶりぶり怒っていた。
「人が真面目に話しているのに何であんなに笑うのかねえ・・」
完治の翌年の夏、母は老衰・自然死で自宅で93歳で生を終えたが最後までボケなかった。
亡くなる数週間前まで寝床でも野人の教育に励んでいた
それまでの数十年間も・・
「国語力が足りない」とか「デリカシーがない」とか。
そして野人を扶養家族と呼び、必ずお小遣い1万円を野人に渡す。そんな覇気のあるバアさん、他にはいないだろうな。
野人は常に「ハイ ハイ!」と素直に教えを受け止めた。
人生の前半は言うこと聞かなかったが、後半は素直に教えを受け止めた。 普通は逆なのだろうが。
物とは無縁、それが最大の親孝行だったかもしれんな。
最後まで視点と思考能力が鋭く、感心するほど参考になった。
天然記念物みたいなむー母だったが、野人の守護とお特訓が使命であり、その為に生きたとしか思えないな。
最後の言葉は「あ~面白かった 子供の頃からビックリの連続 お前は人を退屈させない」・・だった。
あまりに面白いので「むー母最強列伝」を60編以上書いたが、アクセス数やコメントなど、野人よりはるかに読者に人気があった。
ちょいとご挨拶の墓参りして・・お礼言ってくるか
木の幹になれと短歌に託した野人への遺言も守っている。
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