自由と言う言葉ほど日常的に使われる言葉はなく、自由な解釈で使われる言葉はない。
トランプのジョーカーのような魔力を持つ言葉だな。
哲学者はじめ多くの人が自由について語っているが、どう語ろうがこれも自由。 答が出ないのだから永遠に続くのだろう。
野人が物理的に答えられるものではないが、自由に語ってみるかな。
ドイツの哲学者ヘーゲルは次のように語っている。
「本能のままに生きている動物と違って人間は必ず自由に生きたいと思う。 人類の歴史はこの自由を求める歴史」
「どう生きても自由だと言われると、かえってどう生きていいのかわからなくなってしまう」
「自由の名のもとに繰り広げられる苛烈な競争は、深刻な格差を招き、時に平等を破棄する」
「自由はもはや最高の価値ではなくなり、むしろ私達を苦しめるものですらある」
これは「自由の中の不自由」と言えるな。
そして「不自由の中の自由」を求めるしかなくなる。
自由とは難儀なものだが、自分で答えを出すしかないもの。
誰もがそうであるように、野人も自由に生きたいと思いながら生きている。
物理的に考えれば「自由の中の不自由」もあれば「不自由の中の自由」も確かにある。 群れで生きる以上野生動物にもルールはある。
社会の仕組みや法に「不自由」さを感じることはたまにあるが、意識は常に「自由の中の自由」だ。
やるべきことは山積みされ、頂上が見えないほどだが不自由とも思わずまったく気にならない。
頼まれた仕事や義務でもなく、自分で選んだ道だからだ。
文句を言うものでもない。
政治であれ、仕事であれ、宗教であれ、自由に好きな道を選べる。
それで十分ではなかろうか、いやなら自由に変えることも修正も出来る。
選んだ道が思うように行かなければ不平不満も出て悩むこともある。
その道を歩き続けるのも、放棄するのも自由。
放棄出来なければ苦しみ、不自由さを感じる。
物理的には好きな道を選べるのだから、その時点で最高の自由は掴めている。
その道が不自由と思うなら、それは心の問題になる。
人間に限りない欲望、願望がある限り「不自由」は消えないだろう。
これらを消し去れば不自由も消え去る。
日本人はすべて「自由」を得ている。
日本が気に入らなければ住む国を自由に選べる。
世界にはそれすら出来ない「不自由の中の不自由」しか道がない人は大勢いる。
たいした「悩みも迷いも苦しみ」もない野人が言えることは、それらの解消法くらいだろう。
なぜそのような悩み迷いなどが生じるのか。
思うようにならないからであり、なぜならないのか。
努力して頑張っても考えた通りにならないと言うことは判断の過ち..。
事故などその他不可抗力もあるが大半は自身の問題。
現実の判断は物理であり、答えが出ないのは方程式、つまり手法を間違えた時。 それを修正しない限り解決解消することはない。
仕事や人付き合いなど迷い苦しみの範囲は広いが、最も大きなものは健康問題だろう。 心身機能が保てなければ自由もままならない。
数多くの答えを求めて奔走するより、個々の方程式・手法が正しいかどうか、理にかなっているかどうかの物理的判断が先決だと思うが・・
理想の家を描いて、理想の船を設計、実行に移し作っても、構造計算を間違えばその家は崩壊するし船も沈む。
現実の物理的・数学的問題に、早い話、結論を求める人は構造計算が苦手。 聞いて、読んで、覚えようとする人も同じようなもの。
構造計算に当たるものが方程式・手法であり、理解出来なければ正しいかどうかの判断も出来ず、いくら情報を集めて学ぼうが役には立たない。
結論だけを求める学びには利点も欠点もある。
川や谷に橋がない時代は「急がば回れ」だが、物理を基盤とする文明は橋を作り「急がば跨げる」ようになった。
これらは深く考えずとも恩恵は受けられるが、自ら選んだ道の川や谷には自ら橋を架けなければならない。
それには何が必要か、重要かは言うまでもないだろう。
早い話や素晴らしい言葉や納得がいく言葉ではなく、自ら橋が作れなければ橋は架けられない。
病不調などの問題は、文明が安全な橋を架けるまで待つか、渡れないなら自分で作って架けるか、そのどちらかだな。
橋を架けるには病不調の原因がわからなければ架けようがなく、わかれば橋など必要ないこともわかる。
これまでの学び方を変え、思考の起点と順路を見直すことが解決の近道。
自由について野人から言えることはそれくらいだな。
扶養家族 多過ぎるな・・
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