先生は御大会式において「名字即には聞名の名字と解了の名字の二義があり、名字凡身の御本仏は解了の名字即である」事を指導下さいました。
すなわち
「聞名の名字というのは初めて仏法を耳にするというごく初信の位である。
解了の名字というのは『総勘文抄』にあるごとく、名字凡身のまま『一切の法は皆是仏法なり』と通達解了する。
『之を名字即と為す。名字即の位より即身成仏す』とあるのがそれである。
大聖人様はこの解了の名字即の位において、凡夫身のままで南無妙法蓮華経という生命の極理を証得され、順逆二縁の衆生に下種の化導をあそばす。
これを『名字凡身の御本仏』と申し上げるのである」と。
池田大作一党は当然聞名の名字と解了の名字の違いを知っておきながら、世間に阿って大聖人様を凡夫視して貶めているのであります。
これ甚だしき摧尊入卑・大謗法であります。
では、大聖人様が久遠元初の自受用身の御再誕であると何ゆえ知り奉る事ができるのか改めて示します。
まず道理ですが、日寛上人は「是れ行位全同のゆえ」と御指南であります。
すなわち、その御修行も、また名字即という仏法上の位も、久遠元初の自受用身と大聖人様とは全く同じであるから、日蓮大聖人即久遠元初の自受用身なのであります。
次に文証ですが『本因妙抄』には
「釈尊名字即の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の位に移せり」
と仰せになっておられます。
ここに仰せの釈尊とはインド出現の釈尊ではなく、久遠五百塵点劫の当初の釈尊、すなわち、久遠元初の自受用身の事であります。
この自受用身は三十二相などで身を飾っておらず、名字即の位、凡夫身のお姿でその御修行は三大秘法であります。
また、末法御出現の大聖人様は三十二相など付けぬ名字凡夫のお姿であり、その御修行は三大秘法であります。
このように、行も位も全同、すなわち、久遠元初の自受用身の御振る舞いをそのまま末法に再現し給うたのが日蓮大聖人であられるのであります。
さらに『百六箇抄』には
「今日蓮が修行は、久遠名字の位を芥爾計りも違わざるなり」
「大聖人の御修行は久遠元初名字即の釈尊の振る舞いといささかも違わぬ」と仰せられる。すなわち、久遠元初の再現なのであります。
そして、竜の口法難の1年8ヶ月後に著わされた『義浄房御書』にはこう仰せられております。
「寿量品の自我偈に曰く『一心に仏を見奉らんと欲して、自ら身命も惜しまず云々』
日蓮が己心の仏果を此の文によって顕わすなり。
其の故は、寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり。秘すべし、秘すべし。
乃至、無作の三身の仏果を成就せん事は、恐らくは天台・伝教にも超へ、竜樹・迦葉にも勝れたり」
何とも重大なる御文であります。
「三大秘法成就」また「無作の三身の仏果を成就」と仰せられております。
無作の三身とは久遠元初の自受用身の事。
これを成就せりとは竜の口においてついに御本仏の大境界を証得せられたという御宣言であります。
以上のごとく、日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身の御再誕であられる事を深く拝し奉るべきであります。
令和6年 2月24日 2月度 総幹部会 浅井会長指導