そして、今般いけだいさくいっとう日蓮にちれんだいしょうにんおん元初がんじょじゅゆうじんまっぽうしゅほんぶつにてましますことをも否定したことはこれまでにべた通りであります。
 いけだいさくいっとうきょうがく要綱ようこうの巻末の注釈にこのように記しました。
 「日蓮にちれん正宗しょうしゅうの教義では『ほんぶつ』という表現には『日蓮にちれんだいしょうにんが根本の仏であり、おん実成じつじょうしゃくそんもそのげんすいしゃくである』という元意があるが、そうがっかいでは『まっぽうという現在において、現実に人々を救う教えを説いた仏』という意味でだいしょうにんを『まっぽうほんぶつ』と尊称そんしょうする」と。
 つまり『インドのしゃくそんから仏教は始まる』とおもっている世間におもねって、五百塵点劫をさかのぼこと倍上数ばいじょうしゅ久々くく遠々おんのんおん元初がんじょにおける最初の仏であるおん元初がんじょじゅゆうじんを本仏とするそのしゅの化導を隠し、日蓮にちれんだいしょうにんが三世十方の諸仏の根源の一仏であるおん元初がんじょじゅゆうじんまっぽうしゅほんぶつにてましますことを否定したのであります。
 昭和39年に発刊されたそうがっかい発行いけだいさく監修の『仏教哲学大辞典』には「おん元初がんじょじゅゆうじんいっさい仏法ぶっぽうの本源のほんぶつである。そして、他の諸仏はその迹仏である」として日蓮にちれんだいしょうにんを「おん元初がんじょじゅゆうじん再誕さいたん」と記しているのですから、自家じか撞着どうちゃくはなはだしい限りであります。
 さらに、今般のきょうがく要綱ようこうにおいていけだいさくいっとうまっぽうしゅほんぶつにてまします日蓮にちれんだいしょうにんことを何と熟脱の迹仏であるしゃくそんと同列以下、いや、おそれ多くもぼんとすらみなしているのであります。
 同書には、だいしょうにんさまのお立場についてこうしるしてあります。
 「日蓮にちれんだいしょうにんは単にしゃくそんからたくされた南無なむみょうほうれんきょうを弘めるさつであるにとどまらず、仏と同じ権能けんのうを有してまっぽういっさいしゅじょうを救う教えを説いた教主きょうしゅである」と。
 「さつである」にとどまらず「仏と同じ権能けんのうを有して」とは何というい草でしょうか。
 そしておそれ多くもこのようにもしるしております。
 「だいしょうにんは『せんしょう』に日蓮にちれんぼんなり』べ『けんぶつらい』に日蓮にちれんみょうぼんおおせられるなど自身がぼんであることを強調されている。
 まさに、だいしょうにんぼん成仏じょうぶつせんの道を現実にひらかれたのである」と。
 この文書にあるぼんということの解説を巻末の注釈では「普通の人間」「煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界で生死を繰り返す者」と説明せつめいしているのであります。
 要は「だいしょうにんさまは普通の人間という意味でのぼんで、ぼん成仏じょうぶつの先駆、ぼん成仏じょうぶつの道を現実にひらいただいしょうにんを範として私達一人一人もまたぼんとして成仏じょうぶつを目指す」などとしているのです。まったくもっていたくちふさがりませんでした。
 きょうがく要綱ようこうのこのくだりについて、創価大学のある名誉教授はこうってのけました。
 「この視点は『日蓮にちれんの人間化』とも評価できる」「日蓮にちれんも『おん元初がんじょぶつ再誕さいたん』とか『じょうぎょうさつ再誕さいたん』などと神秘化せず」と。
 これいけだいさくいっとうの本音をいみじくもい表したものといえます。
 まさに言語道断、じゃきょうという他に表わすことが見つかりません。


令和6年 2月24日 2月度 総幹部会 浅井会長指導

令和6年 2月26日 2月度 男子部班長会 行成総男子部長指導