それから、しんごんしゅうほんにおけるがん弘法こうぼうでしょう。
 これは、和歌わかやまけんとう、それを本山ほんざんとして最初にひらいた男でありまするが、このしんごん弘法こうぼう誑惑おうわく(たばかり)というのはまことにはげしいものがあったんですね。
 「弘仁こうにん9年の春、くにじゅうだいやくびょうがはやった。
 その時に自分がとうをした所、ちゅう大日輪だいにちりん太陽たいよう)が出てきた」というでたらめをった。
 そして「路上に多くいるやくびょうでもって死に絶えた者がたちまちにせいをしてそこら中にたたずんだ」などというでたらめなことった。
 だいしょうにんさまが「弘仁こうにん9年の春、春はつきある。そのつきのうちの何月なんがつ何日なんにちなのか。
 そして、ちゅう日輪にちりんが出たというけれども、果たしてそのことが記録に残っているのか。れきじょうにあるのか」ということを尋ねて「でたらめをいうものではない」ということおおせになっておられる。
 あるいは、さんのたばかりというのがあるんです。
 弘法こうぼうちゅうごくべんきょうに行ったことがある。
 帰りにほんに帰ってくる船の上からさんというぶつの一つでありまするが、それをほんの方に船の上から投げた。雲の中にはいって見えなくなった。
 そして「将来自分が入定にゅうじょうの所に必ずこのさんがあるであろう」とってこうさんを掘った所がそのさんが出てきた。これもたばかりであります。
 だいしょうにんさまは「前もって人に埋めさせた物であろう」とおおせになっておられる。
 あるいは、ある時「面門めんもんにわかにひらいてしゃぶつとなる」といって「自分のけんひらいて大日だいにち法身ほっしんしゃぶつに自分がなったんだ」などというでたらめをっている。
 「これも謀書ぼうしょはかこと)である」とだいしょうにんおおせになって「面門めんもん」というのはけんと書くべきところ口をうんですね。
 ですから、口がひらいたということでありまするが、このような一つのことはありない。
 謀書ぼうしょなるゆえにかかるあやまりがあるからだいしょうにんおおせになっておられまするが、このように「自分が仏身ぶっしんを現じた」なんていう嘘をつく。
 しゃくそんは「仏滅ぶつめつ第六天だいろくてんおうがあるいは仏の形を現じてこの我がきょうぼうする。我が仏法を壊滅かいめつする」ということを予言しているわけでありまするが、ここに、弘法こうぼう誑惑おうわくを見てだいしょうにんさま仏説ぶっせつまことならば、弘法こうぼうてんにあらずや」仏説ぶっせつがまことならば、弘法こうぼう第六天だいろくてんおうではないか」ということおおせになっておられるわけであります。


平成25年 4月7日 浅井先生指導