しょうほっだいもくしょう』にたまわく
 ただ法門ほうもんをもてじゃしょうただすべし、こん通力つうりきとにはよるべからず。



 『しょうほっだいもくしょう』というしょは、だいしょうにんさま御年おんとし39歳の文応ぶんのう元年がんねんの5月に著わされたしょであります。
 で、この2ヶ月後にだいしょうにんさまは『りっしょう安国あんこくろん』のかんぎょうをあそばされた。
 ですから、この『しょうほっだいもくしょう』はづうしょきょうしょであります。
 で、日興にっこうしょうにんは十大部の中にこのしょを含めておられます。

 このしょしゅは当時ほんこくちゅうの者がとなえておった弥陀みだねんぶつ、これを対象として破折せられて「じょうぶつ大法だいほうであるきょうの題目をとなえよ」ということをお勧めくだされたしょであります。
 づうの初期でありまするから、法門ほうもんの上からえば権実ごんじつ相対そうたいということを終始お説きあそばしたしょであります。
 で只今ただいま拝読はいどくしょはその『しょうほっだいもくしょう』の最後の結びの一節いっせつですね。それが只今ただいまもんであります。

 「ただ法門ほうもんをもてじゃしょうただすべし、こん通力つうりきとにはよるべからず」

 「しょしゅうのリーダー達がいろんなことうが、それらのリーダー達が正しいか間違っているか、そのことを判断はんだんするじゅんはひとえに法門ほうもんによるのだ」とおおせになっておる。
 そして「決してその者が智恵ちえ才覚さいかくがあるとか、通力つうりきがあるとかないとか、そのようなことじゅんとしてはいけない」ということおおせあそばすわけであります。
 ということは、ねんぶつしんごんぜんしゅうりっしゅうを問わずじゃしゅうの坊主達は必ず諸々の通力つうりき通力つうりきというのはちょうのうりょくですね)とこういうようなことをやる。
 みんなデタラメなインチキなのでありまするが、中には魔と感応かんのうして通力つうりきなんか実際持つものがあるんですね。
 いろんなことい当てたり「あんたの先祖はどうのこうの」とか、あるいはりょうかんごときは雨を降らせるのうりょくすらも持っておった。
 しかし、こんなことじょうぶつとは関係かんけいないんです。
 そういうようなこと通力つうりきちょうのうりょく)というんですね。
 これらをもって人々をたぶらかして自分のみょうを求めるというのがそれぞれのじゃきょうがんたちであります。


平成25年 4月7日 浅井先生指導