例えば、ねんぶつちゅうごくにおけるがん善導ぜんどうと申しました。
 この者は「自分はぶつしんだ」などということをみんなにたばかって「自分の口から仏が出てくるんだ」というようなことをたばかっておった。
 これがいわゆるでたらめた通力つうりきであってそれでたばかるんですね。
 法門ほうもんの上から見るならば何か。法門ほうもんをもてじゃしょうただすべし」というのはこういうことなんですね。
 「その者のこときょうもんしょうがあるか」「仏説ぶっせつもとづいてっているか」これをじゅんとしなさい。
 これが法門ほうもんをもてじゃしょうただすべし」ということなのです。
 通力つうりきがあるかどうかそんなこと関係かんけいない。
 ですから、善導ぜんどうがそのような「自分はぶつしんだ」とでたらめを言おうと、っていること法門ほうもんから見るならば彼はきょう以前の四十余年のけん真実しんじつ方便ほうべんの経に含まれるきょうとうをもって「これがおうじょうの法なんだ」「きょうなどはせんちゅういつといって千人がしゅぎょうしてもいちにんとしてじょうぶつする者はない」とった。これが謗法ほうぼうなんですよ。
 これが法門ほうもんをもてじゃしょうただすべし」というんです。


平成25年 4月7日 浅井先生指導