だい聖人しょうにんさまはこの本門ほんもん戒壇かいだんだい本尊ほんぞんにゅうめつ近き弘安5年9月に日興にっこう上人しょうにんに付嘱して本門ほんもんづう大導だいどうに任じ給い、同時に広宣こうせん流布るふあかつき国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅう遺命ゆいめいをあそばされましたた。
 その明らかなる文証が『いち期弘ごぐほう嘱書ぞくしょ』であります。

 さて、だい聖人しょうにんにゅうめつ後、日興にっこう上人しょうにん本門ほんもんづうの大導師として実に51年の長き渡ってどうをあそばされた。
 そのかん、門下のづうは北は東北から南は四国・九州に至るまでおどろくべきこうはんに及んでおります。
 どうしてそんな北は東北から南は四国・九州に至るまで交通こうつうかんもない中に様々な苦労に遭いながら歩いて行かれたのか。
 その先陣に立たれたのが若き日目にちもく上人しょうにんであられた。
 同時に、国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅう遺命ゆいめいほうじて、実に、この51年間に42度に渡るこっかんぎょうも成されたのであります。
 これらを拝見するに、日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにん御時おんときにはまさに広宣こうせん流布るふ朝夕あさゆうちかし」との大情熱だいじょうねつがたぎっていたのであります。
 そして、この51年間に日興にっこう上人しょうにん日蓮にちれんだい聖人しょうにん仏法ぶっぽう末法まっぽう万年まんねんに正しく伝わるようにと『富士ふじ一蹟いっせきもん存知ぞんじのこと』『にんしょしょう』『日興にっこう上人しょうにん遺誡ゆいかい置文おきぶみじゅうろっじょう等々とうとうの多くの御指南を留め置きくだされました。
 ゆえに、私達は日興にっこう上人しょうにんがこの51年間に引いてくださったどうの上をそのまままっすぐに進めば必ず広宣こうせん流布るふに至るんです。

 ここに、本日は日興にっこう上人しょうにんにゅうめつの直前に広宣こうせん流布るふこうあんぜんのために曲がらないようにと留め置かれた『日興にっこう上人しょうにん遺誡ゆいかい置文おきぶみ』を拝します。
 この置文おきぶみは、日興にっこう上人しょうにんせんわずか二十数日前にお手を取ってとどめられたんですね。
 このゆいかいは二十六箇条に渡っておりまするが、本日は時に当たって重要な5箇条だけを拝読はいどくいたしました。
 まず冒頭の第一条だいいちじょう

 「りゅういささかもせんづうせざること

 この第一条だいいちじょう「富士大石寺の教義は、いささかも先師日蓮にちれんだい聖人しょうにんづうたがう所はない」という重大なせんげんであります。
 日蓮にちれんだい聖人しょうにんの御づうの所詮はさんだいほうに尽きる。
 さんだいほうとは本門ほんもんの本尊と本門ほんもんの題目と本門ほんもん戒壇かいだんであります。
 このさんだいほう一分いちぶんの誤りもなくだい聖人しょうにんさまおおせのままに伝えているのは日興にっこう上人しょうにんの富士大石寺以外にはないんです。
 今国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅう遺命ゆいめいに違背して敵対てきたいおちいってしまった正系門家の中で、顕正会だけが日興にっこう上人しょうにんこころのままに「富士大石寺」の名を冠して広宣こうせん流布るふに戦えることは何とも有難ありがたいと私はおもっております。


令和5年 2月7日 日興上人御報恩勤行会 浅井先生指導