さて、日興上人が初めて大聖人様に遭い奉ったのは、岩本実相寺で学問の修行をしておられた正嘉2年の13歳の時であります。
この岩本実相寺は天台宗の寺で、当時一切経(釈迦仏が説いた一切の経典)を集めてある。
一切経を収蔵していた事によって日本有数の大寺院であります。この寺を大聖人様が訪れ給うた。何のためか。
それは『立正安国論』を著わし給う準備として改めて一切経を閲覧するためです。
そして、経蔵におこもりになられたんですね。
この時、御給仕申し上げたのが13歳の日興上人であられた。
で、日興上人は大聖人様の御尊容と謦咳に接するや、たちまち久遠元初以来の宿縁薫発して自ら願い出て大聖人様の御弟子になられた。
以来、寸時も御側を離れる事なく仕え奉り、日蓮大聖人様の一代御化導を助けまいらせたのであります。
まさに、日蓮大聖人と日興上人とは久遠元初以来の師弟であられる。
この師弟不二の御境界を「唯佛與佛」「唯我與我」と申し上げるのであります。
日興上人が御弟子になられた2年後の文応元年、大聖人様はいよいよ『立正安国論』をもって鎌倉幕府を諌暁あそばされました。
それより、大聖人様の御身には法難が波のごとくに押し寄せた。
ことに、これ念仏・真言・禅・律等の邪宗の坊主どもが大聖人様を怨嫉して国家権力者と民衆を煽動して大聖人を殺害せんとした事から起きてきた法難であります。
この大法難打ち続く中で、大聖人様は大慈大悲の御化導を進め給うたのであります。
そして、日興上人は影の身に沿うがごとく、寸時も大聖人様の御側を離れず、一代御化導を助けまいらせたのであります。
以下、まず日蓮大聖人の御化導の大綱を拝し奉りたいと思っております。
『立正安国論』奏進の翌月、もう法難が始まったんですね。
念仏宗の暴徒数千人が真夜中に大聖人様を殺害せんとして松葉ヶ谷の草庵を取り囲んで襲ったんですね。
この襲撃だけでも凡夫ならば殺害されて当然であります。
だが、不思議にも大聖人様はこの大難を逃れ給うた。
さらに、その翌年の弘長元年には「松葉ヶ谷の襲撃で生き延びたのがけしからん」と何ともいえない理不尽な道理をもって今度は国家権力による伊豆流罪が行われたんですね。
それというのは、実は松葉ヶ谷の法難は北条重時という幕府の実力者が陰で煽動してこれをやらせたんです。
それが、大聖人様が難を逃れ給うた事で「それがけしからん」と言って今度は重時自身が自分の息子で執権をしておった北条長時に命じて伊豆流罪という事を行わせたわけであります。
この伊豆流罪では日興上人は進んで御供申し上げ、常随給仕の誠を尽くされた。
そして、その傍らに日興上人は付近を折伏されたんですね。
熱海の真言宗の僧侶でもって金剛院行満という僧侶がおった。
日興上人はこれを折伏して帰伏せしめ、大聖人様に拝謁せしめておられるんです。
この時、日興上人はわずか16歳ですよ。若年とはいえ日興上人は血気盛んな壮年の真言宗の僧侶を恐れ入らされる御気魄があられたに違いない。
さらに、伊豆御流罪の翌年文永元年に小松原の剣難が起きた。
房州の地頭・東条景信が数百人の軍勢を率いて小松原で待ち伏せし、大聖人様を殺害せんとしたのであります。
これは本格的な計画殺人ですね。御一行を狙ってまず矢が雨のごとく降り注いだ。
その中、東条景信は馬を躍らせて大聖人に近づくや大刀を振り下ろした。
その凶刃は大聖人様の頭に四寸(12㎝)の傷を負わせ奉った。
さらに、左の御手も打ち折られ、まさに、御命も危うしと見えた。本当に危うい大難を負われたんです。
だが、不思議にも大聖人様はこの大難をも乗り越え給うた。
まさに、法難の連続ですね。恐れ多い事であります。
令和5年 2月7日 日興上人御報恩勤行会 浅井先生指導