佐渡さどざいは2年と6ヶ月ですね。時の執権北条ほうじょう時宗ときむねが「このざい讒言ざんげんによるものだ」ということに気が付いて、だい聖人しょうにんさま鎌倉かまくらに帰したてまつった。
 それというのも、だい聖人しょうにんさまが『立正りっしょう安国論あんこくろん』にげんされていた界叛逆かいほんぎゃく国侵逼こくしんぴつがいよいよじつとして現われてきたんです。
 すなわち、界叛逆かいほんぎゃく北条ほうじょう一門の中から謀叛が起きて内戦となってしまった。
 また、国侵逼こくしんぴつ頻々ひんぴんだいもうこくから国書こくしょが到来し、その侵略の近いことさっせられた。
 界叛逆かいほんぎゃくじつとなった上は、国侵逼こくしんぴつも必ず起こるであろう。これが、北条ほうじょう時宗ときむねもっとも恐怖するところであった。
 ここに、北条ほうじょう時宗ときむねに改悔の心が起きて、だい聖人しょうにんさま鎌倉かまくらに帰したてまつった。
 そしてこの時、北条ほうじょう時宗ときむねだい聖人しょうにんさまただちにばく殿中でんちゅうに招いたんです。
 そして、へいの左衛さえもんをしておうかがいをさせているんです。何というおうかがいか。
 すなわち「もうはいつ頃襲来しゅうらいするのでありましょうか」このことへいの左衛さえもんに問わしめているんです。
 だい聖人しょうにんさまおごそかにおおせられた。

 「経文きょうもんにはいつとはそうらわねども、てん御気みけしきいかすくなからずきゅうえてそうろう、よもとしごしそうらわじ」

 「経文にはいつとは書かれていない。しかし、諸天しょてんの様子はいかり少なからず。国侵逼こくしんぴつは近いと見える。余も今年を過ぎることはないであろう」とこう断言だんげんあそばされたんです。

 この時、今年はわずか8ヵ月しか残っていない。その8か月の間を過ぎることはないであろうとの重大な断言だんげんであります。
 そして、これを最後のかんぎょうとしてだい聖人しょうにんさま鎌倉かまくらを去って、日興にっこう上人しょうにんのお勧めによって身延に入山あそばされたのであります。
 そして、入山されたその年「よもとしごしそうらわじ」との断言だんげんすんぶんたがわず、秋10月にだいもうは2万5千の大軍たいぐんをもって日本にっぽん襲来しゅうらいした。これが、第1回のもう襲来しゅうらいであります。


令和5年 2月7日 日興上人御報恩勤行会 浅井先生指導