そして、この小松原の剣難の4年後の文永5年の1月18日、いよいよ大蒙古国から国書が到来した。
その国書の内容というのは「属国となって朝貢しなければ、武力を用いて日本を侵略する」とこういう内容であります。
これ、9か年前の『立正安国論』に御予言された他国侵逼がいよいよ事実となってきたのであります。
ここに大聖人様は日本国を救うべく「公場対決をして仏法の邪正を一挙に決せん」とこの年の10月11日に『十一通申状』を送付あそばされたのであります。
その宛先は、為政者としては時の執権北条時宗と幕府の最高権力者平左衛門以下4人、諸宗の代表としては律宗の良観、禅宗の道隆以下7人。
その『十一通申状』の内容は、為政者に対しては「諸宗の僧侶を召し合わせて公場対決をせしめよ」という事を促し給うた。
そして、諸宗の代表に対しては「対決には必ず応ずるように」とこう迫り給うたものであります。
ここに、諸宗の高僧達は追い詰められたんですね。
彼らは日頃民衆を騙して欺いて、生き仏のごとく崇めさせていたが、日蓮大聖人と公場対決などできるはずがないんです。
彼らの眼中には仏法の邪正も成仏もない。
ただ守るべきは己の地位と利権だけ、恐れるのは己の正体が露見する事だけだった。
ここに、彼らは『日蓮大聖人を殺害する以外に自分達が生き延びる道はない』とこう思い定めて、邪宗の坊主達が一結して国家権力者に讒言して「何とか頸を切ってほしい」という事を願い出たんです。
そして、この讒言を取り上げたのが幕府内で兵馬の権を握る実力者平左衛門であった。
彼は前々から念仏・真言を深く信じて良観とも深く心を通じておったんです。
かくて、絶体絶命の国家権力による死刑である竜の口の大法難が巻き起こったのであります。
時は文永8年9月12日の深夜、子丑の刻、大聖人様は泰然自若として頸の座に座し給うた。
太刀取りの依智の三郎がその傍らに立つ。
そして、大刀一閃まさに振り下ろされんとした時、思議を絶する事が起きた。
その状況は、大聖人様御自身が次のごとく記し留め給うておられます。
「江の島の方より月のごとく光りたる物、まりのやうにて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る。
十二日の夜の明けぐれ、人の面も見えざりしが、物の光月夜のやうにて人々の面も皆見ゆ。
太刀取り眼眩みて倒れ伏し、兵者ども怖じ恐れ、興さめて一町ばかりはせのき、あるいは馬より降りて畏まり、あるいは馬の上にてうずくまれる者もあり」
とこう仰せですね。
突如として、暗闇の中から巨大な月のような光り物が出現したんです。
その光がいかに強烈であったか。太刀取りの依智の三郎は目が眩んでその場に倒れ伏してしまった。
大勢の兵士達は恐怖のあまり一町(約100m)ばかり逃げ出した。
馬上の武士達もあるいは馬から降りてかしこまり、あるいは馬上でうずくまってしまった。
一人砂浜に坐し給うは大聖人ただ御一人。大聖人様は大高声で叫ばれた。
「いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ、近く打ち寄れや、打ち寄れや」
逃げ惑う兵士達に対して大聖人様が「このように『大きな咎がある』と言って召し捕った罪人ではないか。なぜそのような罪人から離れてみんな遠のくのか。早く近寄れや」とこう仰せになられた。
だが、一人として近寄る者はない。大聖人様は再び叫ばれた。
「夜明けば、いかに、いかに、頸切るべくは急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」
「もし頸を切るなら早く切れ、夜が明けたならば見苦しいであろう」と死刑を催促し給うたんです。
だが、声を発する者もない。響くは凛凛たる大聖人の御声のみ。
眼に映るは月の光に照らされ輝く大聖人様の御尊容のみ。
まさに、国家権力がただ一人の大聖人様の御頸を切る事ができず、その絶大威徳の前にひれ伏してしまったのであります。
かかる思議を絶する荘厳・崇高・威厳に満ちた光景が人類史上のどこにあったか。
この大現証こそ、日蓮大聖人が立宗以来の不惜身命の御修行ここに成就し、名字凡夫の御身の当体がそのまま久遠元初の自受用身となり給うた御尊容であられる。
令和5年 2月7日 日興上人御報恩勤行会 浅井先生指導