こんにちは。

 

皆さんはカトリックについて、どんなことが思い浮かびますか。ローマ教皇を頂点とするキリスト教会だとか、世界一の信徒数を誇る教会だとか言う人もいると思います。

しかし、カトリックは、聖書に反する教義を唱えており、主イエス・キリストの教えに従っていない偽教会です。今回は、そのカトリック教会が如何にして成立したのか、その経緯の歴史を説明していきます。

 

一、カトリックとは

二、カトリック成立の過程

三、ローマ教皇権の確立

 

一、カトリックとは

そもそも、「カトリック」の語源は、ギリシア語の「カトリケー(καθολική:普遍的、世界的)」の形容詞「カトリコス(καθολικος)」に由来しており、ラテン語では、「カトリクス(Catholicus)」と表記されています。この言葉は、成文化されて現在まで伝わるものとしては「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と「使徒信条」に根拠があって、前者ではラテン語「unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam」(唯一の、聖なる、普遍の、使徒的な教会と言う意味)、後者ではラテン語「sanctam Ecclesiam catholicam聖なる普遍の教会と言う意味)と記されています。しかし、真の聖書福音と預言のミカエル氏が解説されたように、カトリックは偽使徒パウロの反キリスト教義と古代バビロンとローマ帝国領内で信仰された太陽神崇拝が融合して成立した聖書とは無関係の異教です。これから、カトリックの成立過程について説明していきます。

 

二、カトリック成立の過程

初期のキリスト教では神の律法と主イエスと十二使徒の教えを固守するエルサレム教会に対して、信仰に行いは不要として、律法を遵守する必要は無いと唱える偽使徒パウロの派閥とに分かれていました。主イエスとは面識の無いパウロは、十二使徒の筆頭・ペトロに会っただけで他の使徒とは何も交流は無く、彼らの知らないところで使徒と自称して、独自の派閥を作って律法廃止論の原点になる偽教義を吹聴していたのです。

使徒ペトロが「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。」(ペトロの手紙二 三章十五節~十六節 新共同訳)と言ったように、パウロ書簡を盲信及び曲解することの危険性を唱えて警告しています。ペトロはパウロのことを主イエスの御名を広めることに貢献しているから、信仰の兄弟と渋々認めていましたが、使徒とは認めていないのです。真の聖書福音と預言のミカエル氏は過去記事「パウロは偽使徒」、連載記事「偽使徒パウロの反キリスト教義」(全七章)、「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」でパウロ書簡に書かれた反キリスト教義の解説も交えて、パウロは神に選ばれていない、悪魔に選ばれた反キリストであると論証しました。長い文章を読むのが苦手な方はミカエル氏の第六回動画(BitChute)をご覧下さい。

 

話が逸れましたが、本題のカトリックの成立過程を話していきます。


三百十三年、ローマ皇帝・コンスタンティヌス一世が発布したミラノ勅令でローマ帝国領内でキリスト教が公認されたことは、偽キリスト教会のパウロ教が拡大するきっかけとなりました。当時のキリスト者の間では神の律法と主イエスの御言葉を遵守するエルサレム教会の教えを固守する派閥と、偽使徒パウロの偽福音を基盤に太陽神崇拝の教義を取り入れるパウロ教の派閥に分かれていました。

三百二十一年に太陽神崇拝者のコンスタンティヌス一世が日曜休業令を制定して、本来は平日である日曜日を「主日」として休日としました。これがきっかけで、この世では週の第一日目にあたる日曜日が休日という習慣が確立されたのです。安息日について詳しくはミカエル氏の記事「安息日の重要性とモーセの律法」が参考になりますので、是非ともご覧下さい。

 

ニカイア公会議で主イエスが遵守するように命じられた過越祭も廃止されました。キリスト教公認以前にエフェソやガラテヤなど偽使徒パウロの偽福音に惑わされなかった小アジアの教会は神の律法に従って、ニサンの月の十四日を過越祭として祝っていました。一方で、ローマなどパウロ教が浸透した西方の教会では主イエスが復活した日曜日を重視して、復活の日である「ニサンの月の十四日の後の最初の日曜日」に祝う習慣を確立していました。

百五十四年以降、度々神の律法を遵守する小アジアの教会とパウロの教えを重視するローマの教会の間で過越祭の論争が起こっていました。このように、律法遵守か律法廃止かで東西の教会は対立していたのが分かります。ローマ教会のヴィクトル(ローマ教皇と呼ばれている)は日曜日に復活祭を祝わない者に対しては破門を辞さない強硬な姿勢で臨んで、神の律法通りの祝祭日の過越祭の廃止の先頭に立っていました。さらに、異邦人のキリスト者であるエイレナイオスはヴィクトルのそのような姿勢を批判する一方で、東西教会の調停に立ち、小アジアの教会に日曜日に復活祭を祝うように求めました。その結果、伝統的に神の律法を遵守してきたごく少数派を除いて、小アジアの教会の大半は西方教会と協調して、律法廃止論に傾倒していくことになりました。そして、三百二十五年のニカイア公会議で全教会が復活祭を同じ日曜日に祝うことが決議されて、神の律法で規定された過越祭は廃止されることになりました。

その後、神の律法を固守する信徒は異端者として迫害されることになりました。人里離れた山奥や砂漠で信仰を守り通した真のキリスト者はいましたが、やがてその数は減っていきました。

 

マタイによる福音書五章十節~十二節 新共同訳

義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 

マタイによる福音書十章十六節~三十九節 新共同訳

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 

これらの聖句から真のキリスト者たる者は大多数の人々から憎まれて迫害される運命だと言うことが分かります。時には家族の間でも分裂が生じて、迫害する側の仲間になることもあります。

拙者は改憲問題やコロナ犯罪で考えが不一致となって、以前は仲が良かった人との関係が終わることを嘆いていました。しかし、そんな考えでは神への愛を培うことはできませんし、キリスト道を最期まで歩み通すことはできないと実感します。恐れを引きずっていると命が懸かる大艱難の時には自己愛故に主イエスのことを「知らない」と言ってしまい、神に見限られてしまうものです。これは使徒ペトロが主イエスに鶏が鳴く前に三度知らないと言うことを予告されて、ペトロを始めとする十二使徒達は自己陶酔に陥ってか、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ二十六章三十三節~三十五節、マルコ十四章二十九節~三十一節、ルカ二十二章三十一節~三十四節、ヨハネ十三章三十六節~三十八節参照)と否定しましたが、いざとなるとペトロは三度知らないと言ってしまった教訓(マタイ二十六章六十九節~七十五節、マルコ十四章六十六節~七十二節、ルカ二十二章五十六節~六十二節、ヨハネ十八章十五節~十八節、二十五節~二十七節参照)からも学ぶべきです。ペトロが三度主イエスを否認しても信仰を失わなかったのは、彼を含めた十二使徒達が信仰を失わないように主イエスが事前に祈られた事もあると思いますが、ペトロ自身が高慢になっていたことに気がついて悔い改めたのも一つだと思います。主イエスはヨハネによる福音書二十一章十五節〜十九節で三度自身を愛しているかペトロに問い、ペトロは肯定しました。三度自身を否認した罪を帳消しにしたことの表れかと思います。

臆病者は黙示録二十一章八節の通り地獄行きです。ペトロの失敗を教訓に肉体は殺せても魂を滅ぼすことの出来ない人間ではなく、肉体も魂も滅ぼせる神を畏れるべきです。

 

三、ローマ教皇権の確立

次に、カトリックの首領たるローマ教皇が政治的・宗教的な権力を握った過程について説明していきます。

ローマ教皇権の確立について、旧約時代に預言者ダニエルを通して主なる神は預言されていました。詳しくはミカエル氏の記事「ダニエル書7章の預言と反キリスト」が参考になります。

 

ダニエル書七章一節~七節の聖句から、獅子に象徴されるバビロン、熊に象徴されるメディア・ペルシア、豹に象徴されるギリシア・マケドニア、そして、十本の角を持つ第四の獣に象徴されるローマ帝国といった、古代の歴史に名を残した世界帝国の興亡が預言されています。神の御言葉は必ず成就するもので、ダニエル書が書かれた紀元前五百五十三年の時点で主なる神は世界の歴史を如何に動かすか、予め御計画を立てられてその通りにされていたということです。

 

ダニエル書七章二十四節~二十五節 新共同訳

十の角はこの国に立つ十人の王

そのあとにもう一人の王が立つ。

彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。

彼はいと高き方に敵対して語り

いと高き方の聖者らを悩ます。

彼は時と法を変えようとたくらむ。

聖者らは彼の手に渡され

一時期、二時期、半時期がたつ。

 

ローマ教皇権の確立の過程について、ミカエル氏の記事も交えて説明します。

上記のとおり、小さな角は、ローマ帝国分裂後に出現した他の王とは異なると書かれています。それは政治上の国王ではないという意味です。このことから宗教上の王であるローマ教皇であることを裏付けます。ダニエル書7:8の三本と7:25での三人の王は同じです。これについては、ローマ教皇との関連性を考えてください。歴史を見れば、上述したように、西ローマ帝国から分裂し、493年にヘルリイ、534年にヴァンダル、538年に東ゴートの3つがローマカトリックに敵対したため、ローマ教皇と癒着した東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによって攻め滅ぼされたのです。この事実からも、小さな角がローマ教皇であることがお分かりいただけたと思います。そして、ダニエル書7:25のとおり、ローマ教皇は、最高位の方である神に敵対し、時と法を変えました。この点は、過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で説明済のとおり、安息日を勝手に変更しました。聖者、即ち、真のクリスチャンたちはローマ教皇のせいで苦境に立たされ、中世時代のとおり、不当な宗教裁判にかけられ、あらゆる拷問、残忍な刑罰によって迫害されました。それが、一時期、二時期、半時期の間あったと上記のとおり書かれています。

引用元:真の聖書福音と預言「ダニエル書7章の預言と反キリスト

 

このように、十本の角とはローマ帝国が三百九十五年に東西に分裂して、その他のゲルマン人が建国した諸々の王国が成立したことを意味しており、その後に立つ「もう一人の王」とは、ローマ教皇のことです。「倒された三人の王」は、ローマで異端とされたアリウス派を信仰した王が支配していたヘルライ(オドアケルの王国)、ヴァンダル、東ゴートが、ローマ教皇と癒着していたビザンツ帝国皇帝・ユスティニアヌス一世に滅ぼされたことを意味します。こうして、ローマ教皇は政治的・宗教的に絶大な権力を持ち、ナポレオンに攻め滅ぼされる千七百九十八年までの千二百六十年もの間欧州を実質的に支配したのです。しかし、以下の聖句からローマ教皇は終末の世界を支配する俗悪の王になると預言されています。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 十三章一節〜十八節(ミカエル氏訳)

また、我は一匹の獣が海から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜する名があった。我が見たこの獣は豹のようで、足は熊のようで、口は獅子の口のようであり、はこの獣に、自分の力と座と大きな権威を与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死ぬ程に傷つけられたようだったが、この致命的な傷は癒された。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。そして、人々はこの獣に権威を与えた竜を拝んだ。また、人々はこの獣をも拝んで言う。「誰がこの獣のようか。誰がこの獣と戦うことができようか。」また、この獣には大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、行使する権力が与えられた。更に、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる民族、言葉の違う民、国民に対する権力が与えられた。地に住む者は皆、この獣を拝むであろう。その者らの名は世の創始の時から、屠られた子羊の命の書に記されていない。もし誰でも耳があるなら聞け。もし捕らわれの身となるなら、捕らわれの身となる。もし誰でも剣で殺すなら、必ず剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰がある。また、我は別の獣が地から上って来るのを見た。この獣は、子羊のような二本の角があって、のようにものを言った。そして、この獣は、最初の獣のすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治った最初の獣を拝ませる。そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせる。更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地に住む人々を惑わし、また、剣で傷を負ったが、生き返った先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じる。第二の獣は、獣の像がものを言い、獣の像を拝まない者は誰でも殺させるために、獣の像に霊を与えること許された。また、小さな者にも、大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させる。更に、もしこの刻印、あの獣の名、あるいはその名の数字を持たなければ、誰も物を買うことも、売ることも出来へんようになるためや。ここに知恵がある。人に獣の数字を計算させよ。それは人間の数字だからである。そして、その数字は六百六十六である。

 

では、ミカエル氏のブログと共に解説して参ります。

この箇所が終末の前の様相です。聖書のヨハネの黙示録十三章は非常に重要な預言です。また、ヨハネの黙示録のみを読むだけでは拙者が以下に述べる理由を理解出来ません。旧約聖書のダニエル書も読まなあきません(実際は聖書すべて)。興味本位でかいつまんで読むだけでは理解出来へんように聖書は出来てます。上記引用部分において、赤字で示したところが特に重要な箇所です。また、聖書は常に時系列で書かれているとは限らないことに注意が必要です。「一匹の獣」がローマ教皇を指します。ダニエル書七章八節でいうと、小さな角のことです。ヨハネの黙示録十三章前半部分は過去の史実を示しています。そして、「」がサタン(悪魔)を指します。サタンに従うことでローマ教皇は宗教面だけでなく、政治権力も握ったことは歴史が証明しています。「死ぬ程に傷つけられたようだったが、この致命的な傷は癒された」というのは、千七百九十八年ナポレオンが教皇ピウス六世を捕らえて投獄して教皇の権威が失墜したことで、教皇という存在が無くなって死んだと思われたが、致命的な傷も治ったとあります。これは、千九百二十九年イタリアのムッソリーニが教皇の復活とイタリア国内にバチカン市国をラテラノ条約で認めたことを指します。「四十二か月の間」は、過去の千二百六十年を指します。計算方法は、聖書の他の箇所にあります。民数記十四章三十四節やエゼキエル書四章六節に日を年として計算することが書かれ、一か月を三十日とするのも聖書の原則です。東ゴート王国をローマから駆逐した五百三十八年から上述のとおり教皇制が中断した千七百九十八年までの期間を示します。この期間の間、ローマ教皇は宗教的にも政治的にも絶対的な権力を振るいました。「地に住む者は皆、この獣を拝むであろう。その者らの名は世の創始の時から、屠られた子羊の命の書に記されていない。」というのは、子羊は主イエスを指します。命の書と呼ばれる所に主イエスを信じて神の掟に従って生きた人(天国に入る人)は名前が書かれますが、それ以外の人は皆、獣であるローマ教皇に従うということです。これが今後の新世界秩序ができた時の様相を示します。「聖なる者たちの忍耐と信仰がある」とは、真のキリスト者だけがローマ教皇や政府や一般庶民らの迫害に耐える忍耐と信仰があると言っています。最初からキリスト者ではない人は忍耐する場面が無いし、主イエスの信仰も無いですから問題にならないでしょうが、実は不誠実であり、獣の刻印を安易に受けて地獄行きになります。はじめからローマ教皇やカトリック、正教会、プロテスタント、その他のカルト宗教、偽預言者、偽教師等が吹聴する反聖書的教義を盲信し、ローマ教皇を擁護して従うキリスト者は、偽キリスト者ということになります。当ブログを読んで勉強していても、信仰が薄い者、自分に甘く主イエスが要求される完全な者になれないものは必ず脱落することになります。もう一匹の獣」とは、米国を指します。そして、「この獣は、最初の獣のすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治った最初の獣を拝ませる。」というのは、米国が悪魔のごとく振舞って強権を行使し、地に住む人々にローマ教皇が決めた秩序に従わせるということです。完全に新世界秩序のことを言っています。更に問題なのは、「第二の獣は、獣の像がものを言い、獣の像を拝まない者は誰でも殺させるために、獣の像に霊を与えること許された。」とあり、第二の獣である米国が、ローマ教皇の権威の下で新世界秩序に関する法律や制度を作って全世界に導入し、ローマ教皇が決める秩序に従わせることを強制させ、それを拒否する者を皆殺しにするということです。現に、拙者の過去記事「マイナンバー制度は国民家畜化計画の始まり、そして今後のこと」で紹介したとおり、米国では連邦緊急事態管理庁(FEMA)が創設され、FEMAキャンプと呼ばれる強制収容所、処刑道具、大量の棺桶を用意してます。まさに、これのための準備です。独裁的で理不尽な法律を盾にFEMAがキリスト者と新世界秩序に従わない人々を強制収容して殺すつもりです。

引用元:真の聖書福音と預言「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編

ローマ教皇はフランス皇帝のナポレオンに捕らえられて教皇権が失墜したものの、伊太利亜のムッソリーニのファシスト政権がラテラノ条約でバチカン市国を承認したことで復活したのです。「四十二ヶ月」とは過去の千二百六十年間の支配だけで無く、終末の三年半の世界を支配することをも意味します。将来的にローマ教皇が全世界を支配した時、米国の力を使って真のキリスト者を始め自分に従わない反対派を徹底的に迫害することが預言されているのです。日曜休業などローマ教皇の反聖書的な秩序に従った者は、獣の刻印を押されて滅びが確定してしまい、人面獣心の輩となって、ローマ教皇の命令で真のキリスト者の迫害に加担するでしょう。この時は主イエスは罪を赦す働きを終えられており、全人類の恩恵期間は終了しているために手遅れとなっているのです。

 

皆さん、全人類の救いの恩恵期間が終了する大艱難の幕開けまで本当に残された時間は少ないです。これから先は主イエスが預言された通りに世界各地で戦争や災害などが多発していき、聖書を学ぶことは日増しに難しくなりつつあります。日本も改憲が近づいており、本当に時間は残されていないです。手遅れになる前にキリスト道を歩む人が一人でも出てくれば幸いです。

 

 

 

 

 

最後までご覧頂き有難うございました。