前回の続き
三、キリスト道こそ義(正義)の道
ここまでで、律法遵守の重要性を解説してきましたが、モーセの出エジプトの時代に成文化された神の律法は動物の犠牲制度、石打ちなど死刑執行を伴う司法律法、地上の祭司制度、肉体への割礼など一部を除いて今でも有効だと理解できたかと思います。神の律法について、旧約時代の出エジプトの時代に成文化されたから「モーセの律法」と一括りにしているようですが、恰もモーセが律法の制定者のように聞こえますが、律法は天地創造の時代から存在しますし、律法を制定されたのは主なる神ですから間違っています。
もっとも、天地創造以来ずっと神の律法は存在しており、存在しなかった時代が無い。わざわざ書いてへんが、アダムとエバの時代から安息日の掟はあった。第七日の天地創造の記念として安息日を聖なる休日として制定されて以来ずっと存在してるからや。また、創世記から分かるとおり、アブラハムも神の掟を守ってたし、割礼のみを行ったのではない。また、イスラエル十二部族の内の一部族の祖であり、エジプトの宰相になったヨセフは、姦淫を犯すことが神に対する罪であるとして避けた(創世記三十九章九節参照)ことからも彼らは何が罪かを明確に知ってた。何故か。最初から神の律法や秩序があったからや。つまり、モーセ以前から神の律法や秩序があることの証明や。神と神の律法を憎んで廃止して放縦で居たくてたまらん反キリストのパウロ教信者どもは、モーセの時代から律法が出来たと嘘を言うが、まったく無知も甚だしい。モーセ以前の時代から罪はあり、それは神の法や秩序に反することである。それは口頭で代々伝えられ、正しい人間の間では守られ、モーセの時に成文化しただけのことや。神と共に歩んで死を経験せんかったエノクや大洪水の中生き延びるように選ばれたノアも同じで、彼らは神の掟を守り、神の掟を守らへん多数派の人間は全員滅んだ。このように、神の律法、掟、戒めを守らへん者どもが滅ぼされてきたのが歴史的事実や。この永遠の律法が廃止されたと一世紀を生きたファリサイ派の偽使徒パウロとその仲間らが急に言い出し、それ以後、後世の自称キリスト者であるパウロ教信者どもが偉そうにモーセの律法は全部廃止されてるという大嘘を吹聴し続け、世の諸教会全員がその考えになって主流派にさえなったが、完全に間違いであり、忌まわしいことこの上ない。故に、聖書と主イエスの教えに反して律法の有効性の議論が起こること自体がおかしなことで、大勢の悪魔の子らが神と神が制定しはった律法を憎んでるから、しつこく反抗し、神の法と秩序に対して異議を唱え続けるんや。せやから、ファリサイ派のパウロがキリストの使徒と自称し、キリストの名を悪用してファリサイ派らしい悪魔的な偽教義が世界中で広まり、大勢の罪深い人間どもによって承認されようとも、そないなものを神は真理とは認めへんし、神の民も認めへん。なぜなら、律法遵守を救いの最低条件とするキリストの教義が変更になったという事実は無いし、神も真のキリスト者もその認識で居るため、神の民は当たり前のように神の律法を擁護して守るからや。この世の権力者や大衆がこれを認めなくても、この真実が存在せえへんことにはならへん。なんぼ拒否しようが、逃げて見なかったことにしても、聞かんかったことにしても、すべて現実逃避に過ぎず、無駄な抵抗やということを覚えとき。
ミカエル氏の解説の通り、神の律法は天地創造の時代から存在しています。出エジプト記から申命記までに律法の規定が記録されているのは神が人類と律法の契約を結ぶためにイスラエル民族を人類の代表に選んで、成文化された律法の掟を授けただけです。安息日は第七日に主なる神が天地創造の仕事を終えられた記念として、聖なる休日として神がお定めになったため、それ以来ずっと不変の掟となっています。勿論、安息日に限らず、他の掟も天地創造の時代から存在していました。カインがアベルを殺して、主なる神がカインを罪に定めたのも「殺してはならない」(出エジプト記二十章十三節、申命記五章十七節参照)と言う律法の掟が存在していたからです。死を経験せずに天に引き上げられたエノクと、彼の息子のメトシェラを始めとするノアの時代まで生きて大洪水が起きる前に主なる神の配慮でこの世での一生を終えられた義人達も、大洪水を経験しながらも艱難を耐え抜いたノアと言った義人達も神の掟である律法を遵守していたのです。不法を行い堕落して主なる神に背いたために、主なる神に大洪水を起こされて人類が一旦滅ぼされたように、バベルの塔を建設して世界を一つに纏めて主なる神に逆らったために、主なる神に言語を散らされて民族を離散されたように、同性愛などの神の創造の秩序に反する性行為をしたために、主なる神に火と硫黄を降らされてソドムとゴモラが滅ぼされたように、律法が成文化される以前の創世記の時代も律法が存在していたのです。いつの時代も神の律法に逆らう不法者は滅ぼされることが定められているのです。ここで、聖句を提示します。
旧約聖書 エゼキエル書十八章二十一節~二十九節 拙訳
しかし、もし悪人が、自分が犯した全ての罪から立ち返り、我の全ての戒めを守り、律法に適った正しい行いをするならば、その人は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した全ての過ちは、彼に責められない。彼が為した義の故に、彼は生きる。我が、悪人が死ぬことを望むだろうかと主なる神は言われる。もし彼が自分の道から立ち返るなら、彼は生きないだろうか。しかし、もし義人がその義から離れ、不義を行い、悪人が行う全ての忌まわしい行いに従うなら、その人は生きられるだろうか。その人が行った全ての義は、最早数えられず、その人が犯した背きと、犯した罪によって、その人は死ぬことになる。それなのに、汝等は『主の道は公正ではない』と言う。イスラエルの家よ、よく聞きなさい。我の道は公正ではないのか。それとも、汝等の道が公正ではないのか。義人がその義から離れ、不義を犯すなら、そのために必ず死ぬ。彼が犯した不義のために、必ず死ぬのである。また、悪人が犯した悪から立ち返り、律法に適った正しい行いをするなら、その人は自分の命を救うことになる。彼は自分の犯した全ての罪を省みて、そこから立ち返るからである。そうすれば、彼は確かに生き、死ぬことはない。それなのに、イスラエルの家よ、汝等は『主の道は公正ではない』と言う。イスラエルの家よ、我の道は公正ではないのか。それとも、汝等の道が公正ではないのか。
エゼキエル書の預言にあるように、神の律法を遵守して神に従う主の道こそが正しく、それ以外の教え、即ち、聖書に反する教えは全て間違っています。律法を無視し続けてきた悪人でも自分が過去に犯した律法違犯の罪を悔い改めて、神の律法、掟、戒めを遵守して、正しい行いをするのであれば、神は過去の罪をお赦しになり、その者は滅ぼされることはないです。しかし、今は神の律法を遵守して正しい信仰生活を送っている義人でも途中で翻意して、律法に反する行いで神に背いたら、その者がそれまでに行ってきた正しい行いは神に評価されなくなり、滅びに定められるのです。即ち、どんな義人でも途中で翻意して堕落してしまえば、それまでに行ってきた行いは無に帰してしまうものです。この聖句からも神を信じた瞬間から救いが保証されている訳では無いことが分かります。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。
世の諸教会は、個人の信仰や覚悟の程を見極めようともせず、誰でも受け入れようとする。なぜなら、羊のなりをして狼のように強欲な自称聖職者はより多くの信者に通ってもらい献金目当てやし、中には姦淫目的の者も居る。たとえ金銭や性に関する不祥事が無い所であっても、主イエスの教えやのうて、偽使徒パウロの教義を盲信して絶対視してるようでは論外で、律法を無視したり、日曜礼拝、クリスマスや復活祭(イースター)等の異教カトリックの行事等をやっとる所は全部あかん。せやから、世の諸教会や他のネット教会には救いはまったく無い。牧師といった自称聖職者どもは、教会員それぞれが道を踏み外すとか信仰が薄く罪を犯す等という状況に注意をまったく払っておらず、個別指導する訳でもないし、どうなろうと知ったこっちゃないという姿勢やからね。当の牧師どもが聖書から外れた西洋の習慣に則る世俗的な生き方をし、律法違犯もしており、罪に敏感になれる筈もないから何も役立つことを教えることがでけへんのや。世の神学校等で牧師資格なんか取ってイキって偉そうに間違うた教義を説教をしてるようでは、監督者としては失格なんや。反対に、拙者は教会の監督者として、教会員一人一人に気を配ってるし、叱責も鼓舞もしてる。そこが大きく異なる。教会員の中では働きが少なくてだらけてる人も居り、拙者も悩みは尽きひん。言うておくが、教会に籍を置くだけで救われるんとちゃうからな。勘違いすなや。何処に所属してても、所属するだけで救いが保証されるのではない。各自の歩み次第、努力次第であることは忘れんでもらいたい。受験でも同じやろ。予備校や塾に通ったり、講座を多く受講して大金をつぎ込んだり、参考書代に費やしたとしても志望校に確実に合格する訳ちゃうやろ。結局は、自学自習が物を言うんです。それと一緒。
地上の諸教会は少しでも多くの献金を得るために艱難前携挙説や律法廃止論、信仰義認説など偽使徒パウロの書簡由来の耳触りの良い教えを吹聴して、沢山の人を誰彼構わず無条件で受け入れています。そうして、多くの人々は神を信じた瞬間から救われていると勘違いして、滅びに至る広い道を通っているのが現状です。反対に、真の聖書福音を唱えているミカエル氏の運営する神のイスラエル教会では監督者のミカエル氏が一人一人の教会員に気を配って叱咤激励して、また一人でも多くの人が真の聖書福音を受け入れて救われるように、厳しくも慈愛ある言葉で戒めておられます。勿論、真の聖書福音を知っただけ、神のイスラエル教会に籍を置くだけで救いが保証される訳ではなりません。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ヨハネの黙示録 三章十四節〜十六節 拙訳
ラオディキヤの教会の天使に書き送れ。神の被造物の初めであり、忠実で真実な証人であり、アーメンである方はこう言われる。我は汝の行いを知っている。汝は冷たくもなく、熱くもない。我は汝が冷たいか熱いかであってほしい。それゆえ、汝はぬるま湯のように温かく、冷たくもなく、熱くもないので、我は汝を口から吐き出すであろう。
主イエスは生温い信仰を一番嫌っており、生温い信仰に甘んじた状態が続くと切り捨てられるのです。主イエスは神に忠実でいる熱い信仰か、不信仰でいる冷たい信仰かのどちらかの二択を選んで欲しく、どちらでもない曖昧な状態だと神に忠実であるか否か分からないためです。信仰は無理に持つものでもないですし、また持てるものでもないからです。「何となく」の心がけで信仰することは推奨しませんし、寧ろそうなるくらいならば初めから信仰をしない方がマシです。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ペトロの手紙二 二章二十節~二十一節 拙訳
もし彼らが、主であり救い主であるイエス・キリストを信じることで、この世の汚れから逃れたにも関わらず、再びそれに巻き込まれ、打ち負かされてしまうなら、彼らの末路は初めよりも更に悲惨なものとなります。なぜなら、義の道を知った後で、彼らに与えられた聖なる掟から背を向けるよりは、最初から義の道を認めなかった方が、彼らにとってはましだったからです。
使徒ペトロが書き残したように、主イエス・キリストを救い主と受け入れて、世の汚れからは一旦は逃れたとしても、悔い改めが不十分だったり、神の御心を行う働きを怠って、生温い信仰に甘んじたために世の汚れに打ち負かされてしまうならば、その者の状態は信仰に入る前の状態よりも悪くなります。義の道であるキリスト道を深く知っていながら、途中で翻意して脱落するならば裏切り者として神に厳しく罰せられることになるから、そうなるくらいならば、初めから義の道であるキリスト道を知らない方がマシなのです。これは他の聖句にもあります。
新約聖書 ヘブライ人への手紙六章四節~八節 拙訳
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊に与り、また神の素晴らしい御言葉と来たるべき世の力とを味わった者たちが、もし背き去ったならば、悔い改めによって再び立ち返らせることはできません。なぜなら、彼らは自分たちの手で神の御子を再び十字架につけ、侮辱しているからです。度々降る雨を吸い込み、それを耕す者たちのために適した草を生じさせる地は、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生じさせる地は、非難され、やがて呪われて、終いには焼かれることになります。
ヘブライ人の手紙の著者が書き残したように、一度は主イエスを仲介者に新しい契約を結んで、本格的なキリスト道の信仰の道を歩んでいながら、途中で翻意して律法を無視した放縦な生活に後戻りして堕落したら、悔い改めに立ち返らせることは出来ないです。何故なら、人間の罪の贖いとして十字架の犠牲になられた主イエスを自らの手で改めて十字架にかけて侮辱するという聖霊に対する冒涜と言う赦されない罪を犯しているからです。そうして、その者に神から悪霊が送られて、品性は悪化していき、役に立たない者となって、やがては最後の審判で主イエスに断罪されて地獄行きの宣告をされて滅ぼされることになるのです。余談ですが、「キン肉マン」の登場人物の一人であるアシュラマンは最初は悪魔超人であり、キン肉マン達正義超人の敵でしたが、友情の力に感動して、悪魔超人から足を洗い、正義超人に鞍替えしました。本編終了後、故郷の魔界で結婚し子供を授かり、息子を立派な正義超人に育て上げようと、厳しくも優しく息子の成長を見守り指導を続けていました。その結果、息子は立派な超人として成長しますが、次第に悪魔超人としての残虐性に目覚めていき、ついに実の母を手に掛けてしまいます。アシュラマンは魔界の長としてすぐに息子を処刑しますが、愛する我が子を自らの手で粛清したこと、同時に「悪魔として高い素質を持ちながら、己が正義超人であるが故に彼の命を絶ってしまった」ことから自責の念にかられ、以降は再び悪魔超人として生きようと決意したのです。そうして、続編「キン肉マンⅡ世」の最終章「悪魔の種子編」では悪魔超人軍団の悪魔の種子(デーモンシード)の最後の刺客として、キン肉マンの息子の万太郎達に立ちはだかります。拙者は「キン肉マン」と続編「キン肉マンⅡ世」の漫画本やアニメを見たことがありますが、アニメ化されなかったキン肉マンⅡ世の「悪魔の種子編」は原作で読みましたが、全体的に残虐描写が多く、とても一般の視聴者層には向いてないと感じましたし、放送するとしても深夜枠しかないかと思いました。この時のアシュラマンは前作以上に残虐性を感じましたし、より狂気染みていました。一度は悪魔超人から足を洗い、正義超人に鞍替えしたものの、結局は悪魔超人に逆戻りしてしまうアシュラマンの姿を見ても、上記の二つの聖句を彷彿させますし、一度は洗礼を通して義の道を歩んでも翻意して、堕落した結果、洗礼する前より品性が悪化する脱落したキリスト者の姿と重ね合わせることができます。本当にこれらの聖句から主イエスを信じた瞬間から救いは保証されて、救いを失うことはないと言う教えは嘘だと分かります。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ヨハネの黙示録二章十節 拙訳
汝らが受ける苦難を、何も恐れてはならない。見よ、悪魔は汝らのうちの幾人かを牢屋に投げ込み、試練に遭わせるであろう。汝らは十日間、苦難に遭うことになる。しかし、死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、我は汝に命の冠を与える。
新約聖書 ヨハネの黙示録三章十九節 拙訳
我は愛する者を叱責し、懲らしめる。だから、熱心に努力し、改心しなさい。
主イエスは御自身が愛される神の民を叱責して、懲らしめられます。叱責と戒めは神からの愛の鞭だと受け止めて、日々悔い改めていくことで、キリスト者として成長して、死に至るまで神に忠実でいることで漸く命の冠を与えられて、救いを受けられるのです。叱責と戒めを恐れている皆さん、キリスト道を歩む上で初めから順風満帆な人なんていません。主イエスから直弟子に選ばれた十二使徒ですら、最初は失敗を繰り返してばかりで主イエスに叱責されてばかりでした。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。
使徒ペトロでさえ、聖霊を受ける前、主イエスがエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されて三日目に復活することを予告した時にそれを諌めたら、「我が背後に下がれ、サタン。我が罪へと引き付ける者よ。なぜなら、あんたは神のことを考えず、それらの人間のことを考えてるからや。」(マタイ十六章二十三節拙訳)と主イエスからサタンと呼ばれ、叱責を受けた。また、「我は愛する者たちを皆、懲らしめたり、叱責する。せやから、熱心になり、改心せい。」(黙示録三章十九節拙訳)とも言わはった。これ程、イエス・キリストというお方は厳しいんや。褒めることなんて滅多にせえへん。死んだ後に褒められれば良いと思いなはれ。生きてる間、また不完全な間は怒られ、戒められ続けても何ら不思議は無い。不完全な人間に褒める所なんて無いのが分からんのか。それやのに、現代人は特に甘やかされて育ち、批判や叱責を受けるんを異常に嫌って避ける者が多い。これでは成長は見込める筈もない。せやから、拙者の許にも来ようとせんのやろ。自己愛が強く、悔い改めを拒否してる証拠やで。不完全で劣ってるにも拘らず、何故助言を聞き入れて改善しようとせんのか。それやから愚かさが直らんのや。そないな適切な指導や叱責を嫌う者は、滅び行く愚か者や。
ペトロは主イエスが迫害を受けて殺されて、三日後に復活することを予告した時にそれを戒めたら、「サタン(妨害者、敵対者の意味)」呼ばわりされて叱責されていました。聖霊を受ける前のペトロからすると、主イエスが迫害を受けて殺されに行くことは自殺行為だと目に映ったのかもしれませんが、主イエスは神の御計画に従うことを優先しており、人間の目からすると良いように見えても、神の目からすると悪いものだったら、神の御計画を阻害するサタンなのです。ですから、我々は良かれと思っていることでも、神の御心に適っているか、日々自己点検していかなくてはなりません。主イエスは大層厳しい御方であり、褒めることは基本的にないと思うべきです。我々人間は生きている間は基本的に不完全であり、褒めるべき箇所はないからです。現代では甘やかされた温室育ちの人が多いですが、戒めや叱責を恐れていては成長の見込みもないものです。他者から戒めや叱責を受けている場合はその者はまだ成長の見込みがあることに気づくべきです。戒められるうちが華だと思いましょう。
四、狭い義の道を歩み通すためには
神は愛であると共に正義でもある故に大層厳しいです。そのため、義の道であるキリスト道を歩むことは如何に難しいかが良く分かるでしょう。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 マタイによる福音書七章十三節~十四節 拙訳
狭い門から入りなさい。滅びへと通じる門は広く、その道も広いからである。そこを通る者は多い。命へと通じる門は狭く、その道も狭いからである。それを見つける者は少ない。
主イエスはキリスト道を歩む上で、狭い門から入るように教えています。カトリック、プロテスタントなど地上の諸教会は偽使徒パウロが唱えた律法廃止論や信仰義認説など偽りの教えを説いているため、滅びに至る広い道です。現に地上の諸教会の信徒は世界最大の人口を誇っています。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 マタイによる福音書七章二十一節~二十三節 拙訳
我に向かって「主よ、主よ」と言う者全てが、天の御国に入るわけではない。天におられる我が父の御心を行う者だけが、そこに入るのである。その日、多くの人が我にこう言うだろう。『主よ、主よ、我々はあなたの御名によって預言をし、あなたの御名によって悪霊を追い出し、あなたの御名によって多くの力ある業を行ったではありませんか。』しかし、その時、我は彼らにこう宣言する。『我は汝等を全く知らない。不義を行う者達よ、我から離れ去れ。』
主イエスが仰せのように、口先だけで神を信じる者が全員天国に入れる訳ではありません。神の御心を行う者だけが入るものです。多くの人々は神の御名によって預言したり、奇跡を起こして悪霊を追い出したとか言っても、主イエスからは「全く知らない」と切り捨てられて、滅びに定められるのです。彼らは聖書の御言葉よりも目に見える徴や奇跡を重視して、神の律法も守らないのですから、神に対して不義を行う者として忌まわしい者と目に映るのですから、最後には主イエスに見捨てられるのです。このように、滅びに至る広い道を通る者が大多数です。救いに至る道は如何に険しいものか良く分かります。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。
しかし、ヨハネ一章のことが前にあったのなら、ペトロは一度主イエスから離れた(弟子を辞めた)経緯があった故、主イエスに対して合わせる顔が無いと感じて恥じたため、ペトロが自分は罪深いから離れてくれと言うたのは辻褄が合う。ペトロのように主イエスから選ばれた人であれば、一度弟子から離脱しても、絶対に主を否定せえへんと誓った後で三度も主を否定しても、復帰が許されたが、誰でもそういう訳にはいかへんことは肝に銘じるべきや。古代イスラエル初代王のサウロのように、油を注がれたにも拘らず、ちょっと勝手な真似をしたらすぐに神から見限られ、悪霊に支配され、転落して行った例もあるからや。ヨハネ一章ではペトロとアンデレの方から主イエスに付いて行こうとした。しかし、ヨハネ十五章十六節で主イエスは、弟子たる十二使徒が主イエスを師として選んだんやのうて、主イエスが彼らを選んで(十二使徒に)任命したと言わはったとおり、人間が神の王国での地位や救いについて選ぶ立場になく、神が救うべき人間や地位を選ぶ事実がここからも分かるというもの。過去にした予定説の話もこれと合致する。人間の自由意志という不確かなもん、かつ、被造物の意向なんかで創造主である神の御予定や御意志を変動させられへんからや。せやから、ペトロとアンデレが洗礼者ヨハネの弟子として一緒に居った時にペトロたちから主イエスの方へ来たが、その時は未だ適切な時期ではなく、主イエスから選ぶ形を取るため、一度頓挫したのだろう。「すべての事に定められた時があり、天の下のあらゆる出来事には時がある。」(コヘレト三章一節拙訳)ともあるように、主イエスの弟子になるのに適切な時があったのだろう。人間が思う時機が神の御予定や御意志ではない。かように散々やらかしたペトロも内心は「自分は駄目人間だ…」と何遍も思たやろが、彼は失敗から腐って自暴自棄にならず、懸命に主イエスに従おうとし、諦めへんかったことが捨てられへんかった要因かもしれへん。読者各位もペトロの姿勢を学び、泥臭くても結構であり、失敗しても腐らず、諦めず、きちんとしたキリスト者になるための努力を怠るべきではない。諦めた時点で人生終了やからや。なお、諦めへんという点は、往生際が悪いのと勘違いせんといて欲しい。改善に向けて必死に良い努力を続けて、成長し、実を結ばな、意味が無いからや。単に「信仰を諦めない」、「キリスト者として働きます」等と口先で言うだけとか、内心で勝手に「自分はキリスト者だ」と思い込んでるだけで、実際には成長のために必要な有益な努力をせず、神の律法を守らず、生活様式を変えず、聖書や当ブログの拡散活動もせず、のらりくらりし、遊び呆けてるとか、世俗の仕事や学業等に没頭して信仰のことを蔑ろにし、その他無駄な事をしてるようでは嘘つきでしかなく、意味が無いことに注意や。かような生活態度や行いでは、客観的に見れば諦めてるも同然やからや。諦めてへんと言うには、行いによって証明せな、誰も納得せえへんで。
ミカエル氏の解説の通り、ペトロとアンデレはヨハネ一章にもあるように、一度は洗礼者ヨハネに弟子入りして、そこから主イエスに弟子入りしていた経緯がありました。しかし、一度は主イエスの元から離れて、世俗社会に戻っていました。しかし、主イエスから直々に選ばれることで弟子への復帰が認められました。その後もペトロは何度も失敗を繰り返して、更には主イエスが捕らえられた時に鶏が鳴く前に三度主イエスを否認するまでになりました。他の十二使徒も主イエスを決して裏切らないと誓いましたが、主イエスが捕らえられた途端に臆病さの余りに逃げ出してしまいました。このように、ペトロを始めとする十二使徒は「もう駄目だ…」と何度も思ったのかもしれませんが、それでも自棄になって腐ることもなく、熱心に主イエスに従う努力をされていたと思います。また、ペトロのように一度主イエスの弟子を辞めたり、また主を三度否定しても信仰を失わず、弟子への復帰が認められたのは、主イエスが事前に信仰を失わないように祈られただけでなく、主イエスに直に弟子に選ばれたからこそです。金のために主イエスを裏切って、ファリサイ派の長老と祭司長達に主イエスの身柄を引き渡したイスカリオテのユダのように、神を裏切った者は惨めな最期を遂げるからです。そのため、誰にも適用される訳では無いですし、予め神から救いの対象に選ばれてない者は信仰に招かれた止まりでそうなる可能性も否めません。神の王国での救いは被造物である人間が望めば得られるものではありませんし、神の自由な選びが欠かせないものです。尤も神の救いには人間側が神の憐れみに対して見合った信仰を行いで示せなければ救いが成立しないものですし、あくまで予定であって変更もあり得て、命の書から除名されることもあるのです(詩編六十九編二十九節参照)。しかし、ペトロのように信仰を諦めない姿勢も大事です。我々はペトロのようにどんなに失敗しても腐らず、諦めずに、泥臭くても一人前のキリスト者に成長するための努力を続けるべきです。しかし、「信仰を諦めない」と口先だけで言うのは簡単なことです。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ヤコブの手紙 二章十四節~二十六節 拙訳
兄弟たちよ、人が「信仰がある」と言っても、行いがなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟や姉妹が裸で、日々の糧に事欠いているのに、あなたがたのうちの誰かが、「安心して去りなさい。暖まり、腹を満たしなさい」と言っても、その人に身体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。それと同じように、行いのない信仰は、それ自体、死んでいるのです。しかし、ある人はこう言うかもしれない。「あなたは信仰を持っているが、我には行いがある。あなたの行いによってあなたの信仰を見せてくれ。そうすれば、我は自分の行いによって我が信仰を見せてあげよう。」あなたは、神はただひとりであると信じている。それは良いことだ。悪魔たちもそれを信じ、震え戦いているのだ。しかし、虚しい人よ、行いのない信仰は死んでいるということを、あなたは理解しないのか。我々の父アブラハムは、息子イサクを祭壇の上にささげたとき、行いによって義と認められたのではないのか。信仰がその行いと結びついて働いたことを、あなたは見ないのか。そして、その行いによって信仰は完成されたのである。こうして、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた。彼は神の友と呼ばれた」という聖書の言葉が成就したのである。このように、人は行いによって義と認められるのであり、信仰だけによるのではないことがお分かりでしょう。同様に、娼婦ラハブも、使者たちを迎え入れ、別の道から送り出したとき、行いによって義と認められたのではないのか。何故なら、霊のない体は死んでいるのと同じように、行いのない信仰もまた死んでいるからです。
主の弟ヤコブが書き残したように、行いの伴わない信仰は死んだものです。主の弟ヤコブは偽使徒パウロの信仰に行いは無関係とする偽りの信仰義認説が広まったために、それを是正するべく書き残したように感じます。プロテスタントの創始者で偽使徒パウロの信仰義認説を信奉するルターはヤコブの手紙を「藁の書」と貶して、それを正典から除外しようとしました。結局はヤコブの手紙も正典に残っておりますが、プロテスタント信者が如何に口先だけの信仰で救われるとする偽使徒パウロの偽福音に魅力を感じて、信仰には行いが伴うという主の弟ヤコブの手紙を始めとする十二使徒や直弟子の書簡を耳障りに思っていたかが分かります。口先だけで無く、行いで信仰を示し、日々悔い改めていかなければ、客観的に見ても説得力を欠きますし、神からも評価されないです。ですから、我々は腐らずに義の道であるキリスト道を最期まで歩み通し、真のキリスト者になる努力をするべきではないでしょうか。拙者は何度も失敗を繰り返す度に、「自分はもう駄目かな…」と思う時は何度もあります。それでも、ミカエルさんや信仰の兄弟姉妹は愛ある戒めをくれて、励ましてくれます。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ヨハネによる福音書十三章三十四節~三十五節 拙訳
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。我があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、全ての人はあなたがたが我が弟子であることを知るであろう。
本当に主イエスが定められた新しい掟である信仰の兄弟姉妹との交流は不可欠です。一匹狼のままではどうしても自己満足な信仰にしかならないですし、自分が知らないうちに高慢になってしまう危険もあります。先述したように、人間は生きている間は基本的に不完全ですし、どうしても魔が差して律法違犯の罪を犯してしまうことは珍しくないです。その意味でも正しい教会の監督者や信仰の兄弟姉妹の愛ある戒めと励ましがなければ、自分を矯正することはできませんし(勿論、神の律法と主イエスの教えに照らして自分を律することも大事ですが)、いつしか道を逸れてしまうこともあり得るのです。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ヤコブの手紙五章十九節〜二十節 拙訳
兄弟達よ、もしあなた方のうち誰かが真理から迷い出たとしても、誰かがその人を立ち返らせたなら、その人にこう知らせておきなさい。罪人をその誤った道から立ち返らせた者は、その魂を死から救い、多くの罪を覆うことになります。
主の弟ヤコブが書き残したように、信仰の兄弟姉妹の誰かが道を逸れそうになったら、愛ある戒めで矯正させたら、その者の魂を滅びから救うことになります。正に、エゼキエル書三十三章の見張りの務めと繋がります。主イエスの弟子たる信仰の兄弟姉妹は仲間が道を逸れないためにも、こうした見張りの務めを果たすことが求められています。自分は一人でも信仰できるとか自信満々に言う人はいるのでしょうが、そう思うようでは大間違いです。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ヨハネの手紙一 三章十節〜十八節 拙訳
これによって、神の子達と悪魔の子達とが明らかになる。義を行わない者は誰であれ、神から出た者ではないです。また、兄弟を愛さない者も同様です。あなた方が初めから聞いてきた教えは、互いに愛し合うべきだということです。あの悪者から出たカインのようにしてはならないです。彼は自分の兄弟を殺しました。何故彼を殺したのか。それは、彼自身の行いが悪であり、兄弟の行いが義であったからです。兄弟達よ、世があなた方を憎んでも、驚いてはなりません。我々は、兄弟を愛しているから、死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛さない者は、死の中に留まっているのです。兄弟を憎む者は皆、殺人者です。そして、殺人者のうちには、永遠の命が宿っていないことを、あなた方は知っています。神が我々のためにご自分の命を捨てて下さったことによって、我々は神の愛を知るのです。それ故、我々も兄弟のために命を捨てるべきです。しかし、この世の富を持ちながら、兄弟が困窮しているのを見て、その兄弟に対して憐れみの心を閉ざす者がいるなら、どうして神の愛がその人の中に宿っていると言えるだろうか。我が子達よ、言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実を以て愛し合いましょう。
使徒ヨハネが書き残したように、信仰の兄弟姉妹を愛さない者は神から義と認められません。あのカインも自分が捧げた農作物を神に認められず、弟のアベルが捧げた肥えた初子の羊の捧げ物をお認めになったことに妬みを感じて、アベルを憎むようになり、殺しました。主なる神がカインの捧げ物ではなく、アベルの捧げ物に目を向けた理由について、信仰の兄弟の真氏の記事より引用しつつ、解説していきます。
(一).『<聖書>に出てくる最初の倫理的教訓は、血の供犠こそ<主>がお慶びになる唯一の供犠」だということであり、これを果たしたアベルは寵愛を得たのに対し、穀物を奉納したカインは当然の如くしみったれた笑い種と看過された。』○聖書には神は生け贄を喜ばれず、神の御声に聞き従うこと・自身の罪を認めて心から悔いること・心から神を賛美すること・正義を行うこと・敬神の心と神の知識(神を知ること)・慈善と施しをお喜びになると書かれちょる。よって、「血の供犠こそ<主>がお慶びになる唯一の供犠」というのは嘘。[サムエル記上十五章二十二節、詩編五十編十三節・五十一編十八節から十九節・六十九編三十一節から三十二節、箴言二十一章三節、イザヤ書一章十一節から十七節、エレミヤ書六章二十節、ホセア書六章六節 拙訳、ヘブライ十章六節・十三章十六節 拙訳]○罪の贖いの儀式に血を用いる理由は、血は命であり、罪の報いは死。命である血によってでしか罪を贖うことができないから。過越祭の時に主イエスが罪の無い傷無き子羊として、十字架刑によって御自身を捧げられて聖なる血を流されたのも、全人類の罪を贖うため。[レビ記十七章十一節から十四節、ローマ三章二十五節・六章二十三節 拙訳、コロサイ一章二十節、ヘブライ九章七節から二十八節]○神がカインの捧げ物ではなくアベルの捧げ物の方に目を留められたのは、アベルは「肥えた初子の羊」という、後に制定された律法の規定に適う優れた生贄を、敬神の心と共に捧げたから。[レビ記二十二章十八節から二十三節、申命記十五章十九節、ヘブライ十一章四節]
真氏の解説の通り、アベルの肥えた初子の羊の捧げ物が後にモーセの時代に成文化される律法の動物の犠牲制度の規定に適うものであり、それを神への愛故に捧げたからです。ヤシャルの書によると、カインが捧げた農作物は劣ったものであり、神はカインの捧げ物が悪いから目を向けられなかったとあります。それは当然ですよね。普通、相手から贈り物を渡される時に、質の悪い贈り物だったら喜ばない筈です。それと同じように、神はカインの捧げ物の質が悪かったから目を向けることをしなかったのです。そう考えると、カインはアベルとは正反対に心から神を愛していなかったかもしれません。本当に神を愛していたら、そのように劣った農作物を捧げるようなことはしない筈ですから。本当に使徒ヨハネが書いたように、行いが悪いためにカインは神から目をかけられなかったでしょうし、神への愛の故に立派な捧げ物を捧げたために義とされたアベルを妬ましく思うようになり、殺害に及んだと思います。本当に兄弟姉妹を憎む者はカインのような殺人者ですし、律法に「兄弟を憎んではならない」(レビ記十九章十八節参照)とある通りに律法に違犯している罪人です。こうした罪人には永遠の命が宿ってないのは当然ですし、目に見える兄弟姉妹を愛しなければ目に見えない神を愛することができないです。一人だけの信仰ではどうしても独り善がりになるものですし、神の目からするとただの自己満足にしか映らず、その者を義とされることはないでしょう。何よりも、救いに至るキリスト道は狭き道ですし、受験とは違って一人だけの努力でどうにかなるものではないと思います。やはり、同じ志を持つ信仰の兄弟姉妹との助け合いや励まし合いがなくては狭く険しい義の道であるキリスト道を最期まで歩み通せないと思います。その意味では我々は寄り道せずに真の聖書福音と預言のミカエル氏の運営する神のイスラエル教会を目指すのが現実的だと思います。誰も働くことのできない大艱難時代が目前に迫っている今、我々に残された時間は最早少ないです。読者の皆さん、手遅れになる前に一刻も早く行動されることを推奨します。
皆さん、全人類の救いの恩恵期間が終了する大艱難の幕開けまで本当に残された時間は少ないです。これから先は主イエスが預言された通りに世界各地で戦争や災害などが多発していき、聖書を学ぶことは日増しに難しくなりつつあります。手遅れになる前に聖書の学びに一生懸命励んで、真の聖書福音と預言のミカエル氏のブログ記事を最初から最新記事まで読み進めることを推奨します。
また、ミカエル氏が伝道活動の拠点をアメブロからサブスタックに移行されましたが、それこそ残された時間が少ないことの現れかと思います。御国の福音である真の聖書福音(パウロ教ではない)はいずれ全世界に広がると主イエスが予告されたため、ミカエル氏はその神の御心を行うために海外への発信も行うようになられたと思われます。ミカエル氏の教会入会を志す求道者の方は以下の「大事な告知」に従って、手順を踏んで行動されて下さい。
拙者はミカエル氏の管理する「神のイスラエル教会」参加に向けて活動中の未熟者ですが、この記事を読まれている読者の皆さんも宜しければ共にキリスト道を歩んでいこうではありませんか。
最後までご覧頂き有難うございました。




