こんにちは。

 

今回はキリスト者に必要な任侠について解説していきます。

 

一、任侠とは

二、世の権威に追従するな

三、強きを挫き、弱きを助ける

 

一、任侠とは

皆さんは「任侠」について、どのようにお考えでしょうか。一般的に「任侠」はヤクザなどの反社会勢力を思い起こすかもしれませんが、「任侠」の本来の意味を調べると、反社会勢力とは全くの無関係であることが分かります。ここで、「任侠」の意味を引用しつつ解説していきます。

にん‐きょう〔‐ケフ〕【任×侠/▽仁×侠】
弱い者を助け強い者をくじき、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。おとこ気。「―道」

引用元:任侠(ニンキョウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

「任侠」の本来の意味は弱き者を助けて、強き者を挫く、義のためならば命を惜しまないという善悪の分別や勧善懲悪の意味合いを持っています。日本では任侠を主体とした男の生き方を「任侠道」、またこれを指向する者を「仁侠の徒」と言ってましたが、江戸時代以降、近現代を通して政治が安定して法治主義が隅々まで行き届いて、反乱などもほぼ長続きしない平和の時代が続いたため、任侠の精神は社会の最下層の人間や非合法の輩の間でしか存在できないという状態が存在していました。 戦前の日本の知識人や近年の国内外のヤクザ研究者達の間では、任侠道と武士道は同列のものであり、ヤクザは武士の倫理的継承者であるという言説が広く受け入れられています。杉浦重剛は日本人は生まれながらに大和魂を持つが、その魂が武士に顕れれば武士道、町人に顕れれば侠客道だと述べたという。また、新渡戸稲造は明治三十二年に英文で著した『武士道』の中で、武士道精神は男達(おとこだて)として知られる特定の階級に継承されていると述べています。近年では山浦嘉久が『士道と任侠道』において任侠道と武士道の精神的血縁を説いています。暴政や馬賊などがはびこる半無法地帯の中での庶民の正義という旧支那とは違い、法治国家における無頼の輩が「相互扶助を目的に自己を組織化した」のがヤクザ、所謂「暴力団」です。このような組織は法治国家においても、闇の部分である繁華街、不法移民の潜入や不法就労の仲介、売春、賭博、麻薬、興行、闇金融そして昔なら闇市などの分野で持ちつ持たれつ、あるいは搾取する立場のものとして活動しています。本来の任侠は反権力ではあっても、あくまでも暴政に対する対抗や無法地帯において脅かされる庶民を守る、という本来悪い意味を指す言葉ではなかったが、実際の日本の暴力団の少なからぬ構成員は、一般市民(ヤクザ用語では堅気)に対する暴力行為、恐喝、闇金融による不法な取立て、覚醒剤密売や不法移民に対する人身売買まがいの行為などの任侠と対極に位置する行為を行っているのが実態です。言っておきますが、拙者は決して反社会勢力になることを推奨する意図はございませんし、するつもりもございません。あくまで、「任侠」の本来の意味を解説した上で、真のキリスト者に成長する上で必要なものだと判断して、キリスト者に必要な任侠について解説することに思い至ったまでです。その点は勘違いしないで頂きたいです。

 

二、世の権威に追従するな

キリスト者に必要な任侠について解説する前にその基本を解説していきます。それは、世の権威に追従しないことです。人は一般的に権威ある者に媚び諂う傾向があるかと思います。そして、何ら肩書きの無い弱い人を見下す傾向があると思います。また、権威を持つ者(政府、御用学者、その他社会的地位の高い職に就く者など)は無知な多数派を味方につけて、社会的弱者を見下す傾向があります。一方で、権威ある者は多数派を味方にしていながらも、多数派が敵になることを恐れている傾向があります。ここで、「真の聖書福音と預言」のミカエル氏の記事より文章を引用します。

しかし、権威の失墜は、時間が掛からず、すぐにでも起こり得る。せやから、「権力者に従わねばならない」という意識が強い間だけ、権力は維持される。しかし、ある時に目が覚め、もはや為政者とは認めへんとか、敬わへんと決めたなら、途端にあからさまに従わなくなり、排除さえするものです。せやから、権力者は自らの権威や権力や地位を失うのを恐れており、それ故に庶民を洗脳し、支持を確保し、時に強引に無理やり従わせることさえする。幕末も同じで、ペリー来航以後の江戸幕府の弱腰外交を見て、多くの人々が徳川将軍に権威を感じなくなり、従わなくなる者が増えて世直しを目指して倒幕へと傾いたように。もっとも、これは悪しき西洋かぶれと英国による間接植民地支配の始まりであった明治維新を肯定してるんやのうて、権威の維持と崩壊について言うてる。過去の歴史と同じように、現代の悪徳政府に対する態度や大富豪の支配層に対する庶民の態度も同じことが言え、彼らの言う事におとなしく聞き従うから、世の権威は権力を持ち続けられるんや。しかし、人々が従わなくなったら、その権力は失われる。せやから、庶民が明治維新以来続いてる偽りの権威を信じて従うのをやめれば、世は動くやろし、簡単に変えられる。

引用元:エリヤを信じひんのなら滅びる | 真の聖書福音と預言

ミカエル氏の解説通り、権威の失墜は簡単なものです。多数派が権力者に従わないとならないと制御されているうちが権力者が安泰でいられるものです。もし、多数派が目覚めて、権力者に従わなくなり、その権力者を引きずり下ろすようなことがあれば、一瞬にして権威は崩壊するものです。だから、権力者は常に自分達が正しいと大衆を洗脳しており、自分達を支持する多数派を形成しており、時には強権的な手法で従わせることも厭いません。即ち、権力者に従っているから、悪政は終わらないのです。人々が従わなくなれば、悪徳政府を倒すことは出来るのです。ここで、悪徳政府を倒すためのやり方について、「真の聖書福音と預言」のミカエル氏の記事より文章を引用します。

効果がある抗議活動をするなら、他人や政府らが無視でけへん程度の内容や人数でなければならず、国会を包囲して売国議員どもを強制辞職させたり、政策転換や減税等を実施させるまで徹底的に続けないと、中途半端にやっててはまったく意味が無く、無駄に終わるんです。江戸時代までの日本人は悪徳為政者に抗議し、一揆をし、打ちこわし等もやってた。これは日本史の教科書にすら書かれてる事で、現代人が洗脳された家畜民になってるせいで他人事になったんでしょうが、それではあかん。

引用元:真の栄光は艱難を経て得られる | 真の聖書福音と預言

ミカエル氏の解説通り、効果的な抗議活動は他人や政府が無視できないくらいの人数(最低でも十万人以上が必要)をかき集め、国会を包囲して、悪徳議員を無理矢理に辞職させたり、改憲と悪法を撤回させるまで一切の納税を拒否する同盟罷業(ストライキ)を起こして、強引に政策転換に追い込まないとならないです。江戸時代の百姓一揆がそうであるように悪徳為政者に抵抗した歴史があるにも関わらず、日本では千九百六十年の安保闘争や千九百六十年代から千九百七十年代辺りに全盛期を誇った左翼学生運動以来、特に目立った大規模な抗議活動は見られないです。昨今の反政府運動はただ単に「辞めろー」や「戦争反対」などと、文句を言うだけで政府にとっては何ら脅威に感じられないです。このままだと下手したら来年には改憲されてもおかしくないですし、遅くとも二千二十八年夏の参議院選挙で改憲勢力が巻き返していき、二千二十八年後半から二千二十九年前半にかけて改憲される危険性も無きにしも非ずです。そうして、日本は軍国主義に回帰して独裁国家となり、米国と支那がグルになって引き起こした台湾有事に巻き込まれる形で戦争の道を進んで日本は滅びるでしょう。

先日の沖縄県知事選で現職の玉城デニー知事が敗れて、自民党が推薦した新人の古謝玄太が当選しました。古謝氏はこちらのように自民党と癒着している反日カルト宗教団体の統一教会と関係が深いです。統一教会と言えば、安倍政権や高市政権が特に関係が深いと言われていますが、今回の沖縄県知事選で統一教会と関係が深い古謝が当選したことにより、沖縄が戦争に巻き込まれる危険性が高まったと言っても過言では無いでしょう。特に地理的に台湾と沖縄は近いですし、支那が度々領有権を主張している尖閣諸島も沖縄からとても近いですし、将来的に改憲されたら前大戦の沖縄戦のように支那人民解放軍の侵攻をまともに受けることになるでしょう。こちらのように高市早苗が連合国総会の一般演説で敵国条項の削除を求めましたが、これこそ連合国憲章に規定されていた敵国条項が死文化していないことの表れです。しかし、支那とロシアなど反日の周辺国はかねてより敵国条項を援用して敵対しており、何よりも世界最大の反日国家の米国が敵国条項の削除決議に支那とロシア以上に強く反対したため、今でも残っているのが現状です。当然、常任理事国は全て反日国家ですし、敵国条項を削除要請を聞き入れる筈がありません。何故なら、支配層は真正イスラエル民族の末裔が建国した日本を憎んでおり、何が何でも日本を滅ぼしたいからです。世界各国政府は基本的に反日であり、日本を味方する政府は殆どいません。もし、日本が改憲してしまえば、日本が戦争準備をしていると看做して、連合国安全保障理事会の承認なしで世界各国は軍事侵攻が可能となりますし、支那とロシアは待ってましたとばかりに日本に宣戦布告するでしょう。支那が沖縄など西日本を占領して、ロシアが北海道に上陸して占領する形で、前大戦では主なる神の憐れみによって実現しなかった本土決戦が行われて、日本は分割統治されて滅びることになるでしょう。一度改憲されたら、自由と人権と平和は失われて、二度と戻ってくることはないです。手遅れになる前に十万人以上の大人数で改憲に反対しなければならないです。

世の権威とは政府や学者信仰などに限らず、聖書においても権威付けされたものがあるため、気を付けなければならないことがあります。それは、パウロが使徒であることと、今の聖書の正典は六十六巻であることを無謬と思うことです。ここで、「真の聖書福音と預言」のミカエル氏の記事を参照しつつ解説します。

拙者が散々宣べ伝えてきたことやが、世の権威を盲信することの危険性は聖書にも及ぶ。過去、律法擁護派のキリスト者が居なくなるか著しく少数派になった後、パウロ派の異邦人が多く占めた状態で正典を決める会議をして、パウロ書簡を新約聖書の約半数を占めさせる位にまで組み込んだ事実を忘れるな。十二使徒(ペトロやヨハネ)の書いたもんは少ないし、後ろの方に配置され、目立たなくさせられ、ヤコブの手紙もユダの手紙も最後の方に置かれとる。わざとやろ、あれ。なるべく読者の注目を引かんように、最初から通読しようとする人が、途中で挫折して辿り着かへんようにしてるようにしか思えへん。福音書が主イエスのことを重点的に載せてるさかい、最初なんは当たり前としても、パウロ書簡を中核に持ってくるあたりが、悪意を感じる。あの並べ方もね。書かれた時系列で並べてる訳でもないしな。なのに、あの並べ方をするんには理由がある筈やろ。こういうことも多くの人は考えへんのや。思考停止しとってな。それで、今ある聖書を権威あるもんとして、疑うな、疑問を差し挟むなって感じやろ、世の諸教会らは。いつまでもこないな姿勢ではあかんよ、一生。「福音の三要素を信じれば救われる。救いを失うことはない。行いも関係無い。」とずっと懲りずに寝言を言うとけ。救われへんから。

引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 三 | 真の聖書福音と預言

ミカエル氏の解説通り、十二使徒と彼らから直接教えを受けた人が世を去り、律法を擁護する真のキリスト者が少数派になった後にパウロ派の流れを汲む異邦人が多数派となり、正典を決める会議で今の新約聖書の正典をパウロ書簡が大半を占有することになりました。主イエスと面識が無く、公生涯を見聞きしたことの無い偽使徒パウロの書簡が正典の大半を占めて、十二使徒や主イエスの直弟子達の書簡がパウロ書簡より後に配置されて、目立たないようにされているのは意図的に感じます。福音書に関しても、パウロの腹心のルカが書いた福音書があり、マタイ、マルコ、ヨハネが書いた福音書を比較すると食い違っている部分がありますから、多少の間違いはあるように感じます。ルカによる福音書が他の福音書と食い違っている部分について、詳しくは信仰の兄弟の栄助氏の過去記事「偽使徒パウロ一派 ルカの書物の罠 | 真理は聖書にある」、「ルカによる福音書の考察と聖書通読について | 真理は聖書にある」を参照して下さると幸いです。使徒言行録もルカが書いた書物である故に、最初は真正使徒の活動が記録されていますが、途中からパウロの伝道旅行が中心に記録されており、恰もパウロの伝記物どころか、パウロの武勇伝のような内容になっているのが現状です。使徒言行録の後半部分に関しては一世紀当時の様子を知るためや、パウロが反キリストである証拠を調べると言った目的が無い限りは特段読む必要は無いと思います。それから、十三巻ものパウロ書簡に繋がりますし、パウロ書簡を読むと聖書を通読している人からすると、「今まで律法遵守の重要性が書かれていたけど、パウロがそう言ってるなら守らなくて良いか…」と言った具合で間違った教えに誤誘導される人が増えるように感じます。聖書全体を読み通しても、律法に否定的な文言があるのはパウロ書簡のみです。パウロ書簡こそが本来ならば外典どころか偽典扱いされて然るべきです。ここで、今ある聖書の正典が編纂された経緯について、「真の聖書福音と預言」のミカエル氏の記事を参照しつつ解説します。

偽使徒パウロの福音がこの世において強固なものとなったんは、西暦三百二十五年のニカイア公会議の後や。これは太陽神崇拝者であるローマ皇帝コンスタンティヌスが関与した故に、「公会議」と呼ばれる。当該会議以前は、イエス・キリストの福音と偽使徒パウロの偽福音は、三百年近くの間は一緒に並び立つことがなく、一つの書物にまとめられることがなかった。一世紀のユダヤ人やユダヤ人キリスト者にとっても、「聖書」とは古代ヘブライ語や古代アラム語で書かれたモーセ五書、詩編、預言者の書等でしかなく、異邦人の言語である古代ギリシア語で書かれたものに権威を感じひんかったし、「聖書」とは認めへんかった。今ある旧約聖書の書物群と拙者が過去記事「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」で指摘したように幾らか外された古代ヘブライ語で書かれ、他の書物の存在を言及されたものや、ユダの手紙でも軽く言及があったとおり、改ざん前のエノク書(現在市販されるエノク書は一部改ざんの疑いが濃厚ではあるが…)等といった書物がほんまもんの「聖書」として在るべき形であり、それに加えてイエス・キリストについて述べられた福音書と十二使徒の書簡に限るべきであり、十三人目という本来居る筈もない偽使徒パウロの書簡を聖書として扱うべきではないし、聖書の正典として載せるべきでもない。しかし、西暦三百二十五年にニカイア公会議において、アタナシウスという者が「御子イエスは被造物」と主張したアリウス派を退け、イエスを神と認め、ローマ皇帝コンスタンティヌスが支持し、権威を得た。西暦三百六十七年、アタナシウスは、聖書の正典化の編纂に関わり、今ある新約聖書二十七巻が正典であると大枠を固めた。そして、西暦三百九十三年のヒッポ会議で、新約聖書二十七巻を「正典」と認定し、その四年後の西暦三百九十七年に行われた第三回カルタゴ会議で、再び新約聖書「正典」を今ある二十七巻と再確認の決定をした。このように、パウロ狂信者である異邦人たちが権威付けのために聖書の正典とそれ以外の外典や偽典という区分をすることを思いついて実行した。ローマ人をはじめとする異邦人の反キリストたちは、反ユダヤ主義であり、今でいう旧約聖書を蔑ろにし、「異邦人の使徒」(ローマ十一章十三節拙訳)と自称した偽使徒パウロの偽福音を重視して信奉しており、何としても自分たちが信じる偽福音が書かれたパウロ書簡を聖書に組み込んで「聖書の正典」と権威付けし、世の中に広めようと画策した。結果、それが成功し、多くの自称キリスト者を輩出し、多くの自称キリスト者たちはパウロをキリストの使徒と誤信し、パウロ教の聖書を崇拝してる。しかし、拙者はパウロ書簡のすべてを聖書の正典から外すべきであると思ってるし、底本も受け入れられた原典(TR底本)を翻訳して普及させるべきと考える。過去記事「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」で紹介したジュネーブ聖書は正しい底本に則るが、その英訳は完璧ではない。欽定訳聖書(KJV)もジュネーブ聖書を参考に作られたが、誤訳がある。現代で普及する多くの言語の聖書はすべて改訂版(RV底本)という偽りの物に基づいて翻訳されてるさかい、盲信してはあかん。まして、パウロ書簡は信用に値せえへん。もし聖書の再編纂をするなら、拙者の意見を反映させるべきであろう。そうせえへんのなら、今後新しい翻訳の聖書を出版したとしても何の益にもならへん。今ある物も偽りの底本を基に訳され、誤訳が多いし、欠落もあるしで、まったく不十分であるからや。

引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 五 | 真の聖書福音と預言

ミカエル氏の解説通り、偽使徒パウロの教義が権威付けされたきっかけはニカイア公会議でパウロ教の流れを汲むアタナシウス派が正統派と認定されたことです。それまでは主イエスの教えと偽使徒パウロの教えは共に並び立つことはなく、一つの書物に纏められていなかったです。根は太陽神崇拝者のローマ皇帝コンスタンティヌス一世の後ろ盾を得たアタナシウスは聖書の正典の編纂に関与して、今ある新約聖書をパウロ書簡を含めた二十七巻を正典だと大枠を固め、後のヒッポ会議、第三回カルタゴ会議を経て、新約聖書の正典は二十七巻で固定されました。今ある聖書の正典が編纂された経緯を見ると、十二使徒を始め主イエスの直弟子達が編纂した訳では無く、偽使徒パウロとその派閥の流れを汲む異邦人により編纂されたため、本来の聖書の教えは歪められていることが分かります。そうして、パウロ書簡の教えに騙されて、多くの人が滅びに至る広い道を歩むことになりました。その意味でもパウロ書簡を権威付けした地上の諸教会は罪深いものです。ここで、聖句を提示します。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録十八章四節~五節 拙訳

また、天から別の声が聞こえてきた。「我が民よ、彼女から離れ去れ。そうすれば、彼女の罪に加担することもなく、彼女の災いを受けることもない。彼女の罪は天にまで達し、神は彼女の不義を覚えておられるからである。」

 

主イエスと十二使徒の教えを守らない地上の教会から離れないことに救いはありませんし、地上の教会に籍を置いて信仰を続けるようでは、地上の教会の罪に加担することになります。少しでも地上の教会の教えに違和感を感じられた方は、手遅れになる前に地上の諸教会から離れて悔い改めることを推奨します。

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三、強きを挫き、弱きを助ける

さて、「任侠」の根幹について、聖書を交えつつ解説していきます。「強きを挫き、弱きを助ける」です。意味は弱い者を救い、横暴な者を懲らしめるということです。これは江戸時代の日本からある成句です。初出は天保十二年(千八百四十一年)の松亭金水 『花筺』より「弱きを佐(たす)け強きを挫(ひし)ぐ」です。侠客とも言う男伊達とは、弱きを助け強きを挫く者であり、命を捨てても信義を重んじる任侠の徒です。歌舞伎の演目の主役にたびたび選ばれている侠客は弱きを助け強きを挫くことを主義としており、侠客というのは職業ではなく、人の種類を意味する言葉でした。幸田露伴によるとこのような種類の人の職業は三つの種類に分けられ、武士の横暴に対抗した気概のある町人、口入、ヤクザの三つでした。この三つはいずれも歌舞伎の演目となっており、我が身を省みず義理と名誉と人のために一肌脱いでいました。このような精神こそ、キリスト者に必要不可欠だと言えます。ここで、聖句を提示します。

 

旧約聖書 出エジプト記二章十一節~十五節 拙訳

その頃、モーセが成長すると、彼は同胞達のところへ出向き、彼らが負わされている重荷を見守った。また、あるエジプト人が、同胞であるヘブライ人を殴打しているのを見た。彼は周囲を見回したが、誰もいないことを確かめると、そのエジプト人を殺し、砂の中に隠した。翌日、再び外に出ると、見よ、二人のヘブライ人が争っていた。そこでモーセは、悪事を働いていた方に言った。「何故、あなたの同胞を打つのか。」すると、その人は答えた。「誰があなたを権威者とし、我々の裁き人としたのか。あのエジプト人を殺したように、我をも殺そうというのか。」モーセは恐れをなして言った。「どうやら、このことは知れ渡ってしまったようだ。」さて、ファラオはこのことを聞き、モーセを殺そうとした。そこでモーセはファラオから逃れ、ミディアンの地に住み、ある井戸の辺に座っていた。

 

エジプトの王宮で育ったモーセは奴隷になっている同胞のイスラエル民族を虐げるエジプト人を殺しました。本来は律法で禁じられている殺人を肯定する意図はありませんが、モーセは奴隷として酷使されてきたイスラエル民族を助けるためにエジプト人を殺しました。これは「強きを挫き、弱きを助ける」に通じると思います。しかし、モーセがエジプト人を殺した話が知れ渡っているからか、ファラオに命を狙われそうになってエジプトを脱出しました。ヤシャルの書に記録されたモーセの話ですが、生まれた後にファラオの娘に育てられた話は出エジプト記にある通りです。モーセが生まれてから三年後のある日、ファラオの宴で幼いモーセがファラオの頭から王冠を取ったため、ファラオに対する不敬と見做されます。ファラオは縞瑪瑙と燃える炭をファラオの御前に持ち出させて、少年モーセが縞瑪瑙か燃える炭のどちらかを取らせることで、ファラオに対する不敬が故意か過失かで処遇を判断します。しかし、神の計らいでモーセは燃える炭を取り、それを口に入れたため、過失と認められて、殺されずに済みました。しかし、その結果として、モーセは唇の一部と舌の一部が火傷して、口と舌が重くなりました。エジプトの王宮で育ったモーセですが、イスラエル民族の労働が過酷になりつつあるため、ファラオに週に一日の休みを与えるよう懇願した結果、七日目は仕事をしないように命令されました。これこそ、神の律法で重要な掟の安息日だと思います。成人したモーセがエジプト人を打ち殺してエジプトからクシュ(現在のスーダン辺り)に逃れて、クシュの王として四十年間善政を敷きましたが、モーセを嫌った王族の陰謀で排除されますが、モーセを愛していた民に守られて安全にクシュを去りました。そうして、ミディアンでレウエルと出会って、経緯を話します。レウエルはクシュの人の心を掴むためにモーセを捕らえて十年間も牢屋に閉じ込めました。牢屋にいる間、レウエルの娘のツィポラはモーセにパンと水を与え続けました。十年後、レウエルがモーセの様子を見に行くと、モーセが生きていることを確かめたため、牢屋から解放して、娘をモーセに与えます。それからはミディアンでレウエルとツィポラと共に羊飼いとして暮らしますが、八十歳の頃に預言者として召命されます。ヤシャルの書に記録されているモーセの経歴を見ると、かなり波乱の人生を送っていると思いましたし、その意味でもモーセを模範としつつ、泥臭くても真のキリスト者に成長する努力をするべきだと痛感します。ここで、聖句を提示します。

 

旧約聖書 出エジプト記七章一節~六節 拙訳

そこで、主はモーセに言われた。「見よ、我は汝をファラオに対するの神の代わりとし、汝の兄弟アロンを汝の預言者とする。汝は、我が命じたことを全て語りなさい。そして、汝の兄弟アロンはファラオに語りかけ、イスラエルの民をその地から去らせるようにさせなさい。しかし、我はファラオの心を頑なにし、エジプトの地で我が奇跡と不思議を数多く行おう。ファラオは汝等に耳を傾けないであろう。そうして、我がエジプトに手を下し、大いなる裁きによって、我が軍勢、即ち我が民であるイスラエルの子らをエジプトの地から導き出すためである。我がエジプトに手を下し、イスラエルの民を彼らの間から導き出す時、エジプト人は、我が主であることを知るであろう。そこで、モーセとアロンは、主が命じられた通りにした。正にその通りにした。


預言者に召命されたモーセはイスラエル民族をエジプトの奴隷生活から解放するためにファラオと交渉しました。しかし、神から予めファラオの心を頑なにすると言われていたため、ファラオが頑なにモーセの要求を聞き入れないことを承知していました。それも、神が十の災いをエジプトに下すためです。そうして、神が災いをエジプトに降り注ぎ、最後の災いである初子を殺す災いが下されて、過越祭を守り行ったイスラエル民族以外のエジプト全土の初子が神に打たれて殺されて、ファラオはイスラエル民族がエジプトを去ることを認めました。ヤシャルの書によると、十の災いがエジプトに下された後にモーセと育ての親の王女が会話をしたことが記録されました。モーセを育てた王女は「私があなたに施した善行への報いが、これなのですか。私はあなたを育て、手厚く世話をしてきたのに、あなたは私と私の父の家にこの災いを齎したのですか。」と言いました。モーセは王女に「主は確かに十の災いをエジプトに齎されました。そのどれか一つでも、あなたに災いが及びましたか。どれか一つでもあなたに影響を与えましたか。」と問いかけると、彼女は「いいえ」と答えました。モーセは「あなたは母にとっての長子ですが、死ぬことはありません。エジプトの地で、あなたに災いが及ぶこともありません。」と言うと、王女は「私の兄である王や、その家族、そして臣下達が、エジプトの全ての長子達と共に、この災いの中で長子を失っているのを見るのに、私に何の益があるというのですか。」と返しました。モーセは「確かに、あなたの兄とその家族、そして臣下達、即ちエジプトの諸氏族は、主の御言葉に耳を傾けませんでした。それ故、この災いが彼らに降りかかったのです。」と返しました。モーセと育ての親の王女のやり取りから見ても、エジプトのファラオを始め多くの人々は主なる神に聞き従わなかったことが分かりますし、その報いで主に打たれたことが分かります。このように、主なる神はエジプトで奴隷にされているイスラエル民族を救うために、モーセを預言者として遣わして、イスラエル民族を奴隷として虐げてきたエジプトに十の災いを下して、エジプトを懲らしめられたことから、主なる神は愛と正義を重んじられる故に強きを挫き、弱きを助ける御方でもあられることが分かります。これは他の聖句にもあります。

 

旧約聖書 列王記上十七章八節~二十四節 拙訳

すると、主の御言葉が彼に臨み、こう言われた。「立ち上がって、シドンにあるサレプタへ行き、そこに留まりなさい。我はそこにいる一人の寡婦に、汝を養うよう命じておいた。」そこでエリヤは立ち上がり、サレプタへ向かった。町の門に着くと、見よ、そこに一人の寡婦が薪を集めていた。エリヤは彼女を呼び止めて言った。「どうか、器に少しの水を汲んで、我に飲ませて欲しい。」寡婦が水を汲みに行こうとした時、エリヤは彼女を呼び止めて言った。「どうか、手にあるパンを一切れ、我に貰えないか。」すると、彼女は言った。「あなたの神、主が生きておられる限り、私にはパンはありません。ただ、甕の中に一握りの小麦粉と、壺の中に少しの油があるだけです。今、私は薪を少し集めて、家に戻り、それを調理して、私と息子で食べてから死ぬつもりなのです。」エリヤは彼女に言った。「恐れることはない。さあ、あなたが言った通りにしなさい。ただ、まずその材料で小さなパンを一つ作って、我に持ってきて下さい。それから、あなたとあなたの息子のために作って下さい。」イスラエルの神、主はこう言われる。『主が地に雨を降らせられる時まで、その壺の中の小麦粉は尽きず、その瓶の中の油も減ることはない。』そこで彼女は行って、エリヤの言った通りにした。そして彼女は食べ、エリヤも彼女の家族も、暫くの間、食べ続けた。主がエリヤを通して語られた御言葉どおり、粉の壺は尽きず、油の瓶も枯れることはなかった。その後、その家の女主人の息子が病気になり、その病はひどく、息も絶え絶えになった。そこで、彼女はエリヤに言った。「神の人よ、私とあなたと何の関係があるのですか。私の罪を責めるために、私のところに来られたのですか。」そして彼は彼女に言った、「あなたの息子を私に渡して下さい」。彼はその子を彼女の懐から抱き上げ、自分が滞在していた部屋へと運び上げ、自分のベッドの上に寝かせた。それからエリヤは主を呼び求めて言った、「主、我が神よ。我が共に暮らしているこの寡婦に対しても、その息子を死なせることによって罰を下されたのですか」。そして、彼は三度、その子の上に身を伸ばし、主に呼び求めて言った。「主、我が神よ、どうかこの子の魂を彼の中に戻して下さい。」すると、主はエリヤの声を聞き入れ、その子の魂が彼の中に戻り、彼は生き返った。エリヤはその子を連れて、部屋から家の中へ下り、母に手渡して言った。「見よ、あなたの息子は生きている。」すると、その女はエリヤに言った。「今、あなたが神の人であり、あなたの口にある主の御言葉が真実であることを知りました。」

 

預言者エリヤは神の御命令に従い、シドンのサレプタに行き、寡婦の元で暮らしました。寡婦の息子が病気になり、息も絶え絶えになると、寡婦はエリヤに対して疑いを抱くようになっていたものの、エリヤが主に祈り求めて、寡婦の息子が死なないよう主にお願いすると、主はエリヤの祈りを聞き入れて、息子は死なずに済みました。寡婦は漸くエリヤが神の人(主なる神に仕える預言者)だと気づき、主なる神の御言葉が真実だと確信するようになりました。エリヤは神の御命令で社会的弱者と言える寡婦の元で暮らして、主に依り頼んで生活に困窮している寡婦の息子を救いました。これは弱きを助ける精神だと言えます。強きを挫く精神について、次の聖句があります。

 

旧約聖書 列王記上十八章一節~四十節 拙訳

それから何日か後、第三年に、主の御言葉がエリヤに臨んで言われた。「行って、アハブの前に姿を現せ。そうすれば、我は地に雨を降らせる。」そこでエリヤはアハブの前に姿を現しに行った。その頃、サマリアには大飢饉が起きていた。アハブは、自分の家の執事であるオバドヤを呼び出した。オバドヤは神を深く畏れていた。イゼベルが主の預言者達を滅ぼしたとき、オバドヤは百人の預言者を連れ出し、五十人ずつ洞窟に隠して、パンと水で養ったからである。アハブはオバドヤに言った。「国中を巡り、全ての泉と川を調べてこい。馬やラバを生かしておくための草が見つかるかもしれない。そうでなければ、この国から家畜が絶えてしまうからだ。」そこで、二人は国を分け合って巡ることにした。アハブは一人で一方へ、オバドヤは一人で別の方へと向かった。オバドヤが道を進んでいると、見よ、エリヤが彼に会った。彼はエリヤだと気づくと、顔を地面につけて平伏し、「あなたはエリヤ様ではありませんか」と言った。エリヤは彼に答えて言った。「そうだ。行って、あなたの主君に告げよ。『エリヤがここにいる』と。」彼は言った。「我が何の罪を犯したというのですか。何故、あなたの僕をアハブの手に渡して、我を殺そうとするのですか。あなたの神、主が生きておられる限り、我が主があなたを探し求めて使者を遣わさなかった国や王国は一つもありません。そして、『彼はここにはいない』と言われるたびに、主は、もしあなたを見つけられなかったならば、その国や王国に対して誓いを立てられました。それなのに今、あなたは『行って、あなたの主君にこう告げなさい。「エリヤはここにいる」』と仰るのです。我があなたのもとを離れると、主の御霊があなたを、我が知らないどこかに連れ去られるでしょう。ですから、我が戻ってアハブに告げた時、もし彼があなたを見つけられなければ、彼は我を殺すでしょう。しかし、我はあなたの僕として、若い頃から主を畏れてきました。イゼベルが主の預言者達を殺した時、我が何をしたか、主の預言者達百人を五十人ずつ洞窟に隠し、パンと水で養ったことは、我が主君にも伝えられてはいないでしょうか。それなのに今、あなたは『行って、あなたの主君に告げよ。「エリヤはここにいる」と』と言われます。そうすれば、彼は我を殺すでしょう。」エリヤは言った。「我が仕える万軍の主が生きておられるように、我は今日、必ずその人の前に現れる。」そこでオバドヤはアハブに会いに行き、そのことを告げた。するとアハブはエリヤに会いに出かけた。アハブはエリヤを見ると、彼に言った。「お前はイスラエルを悩ませている者か。」エリヤは答えて言った。「我がイスラエルを悩ませたのではない。あなたとあなたの父の家こそが、主の戒めを捨て、バアルに従ったのだ。それ故、今、使者を送り、イスラエルの民全てをカルメル山に集めさせ、またバアルの預言者四百五十人と、イゼベルの食卓に与る森の神々の預言者四百人を、我のところに集めさせなさい。」そこで、アハブはイスラエルの民全てに使者を送り、預言者達をカルメル山に集めた。エリヤは民全員の前に進み出て、言った。「いつまで二つの意見の間で迷い続けるのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」しかし、民は彼に一言も答えなかった。そこでエリヤは民に言った。「主の預言者は、我ただ一人しか残っていない。しかし、バアルの預言者は四百五十人もいる。それ故、彼らに雄牛を二頭用意させ、そのうちの一頭を彼らに選ばせて、それを切り分け、薪の上に載せ、しかし火は下には置かせないで欲しい。我はもう一頭の雄牛を準備し、それを薪の上に載せ、火は下には置かない。それから、あなた方はあなた方の神の御名を呼び求め、我は主の御名を呼び求めよう。そして、火をもって答えられる神こそが、真の神である。」すると、民は皆答えて言った。「その通りです。」そこでエリヤはバアルの預言者達に言った。「あなた方は人数が多いので、まず一頭の雄牛を選んで準備し、あなた方の神々の名を呼び求めなさい。但し、火は下には置くな。」そこで彼らは、与えられた一頭の雄牛を取り、それを整え、朝から正午までバアルの名を呼び求めて、「バアルよ、我々に聞き届けて下さい」と言った。しかし、声もなければ、答える者もいなかった。そこで彼らは、築かれた祭壇の上で飛び跳ねた。正午になると、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で叫べ。彼は神なのだから。今、話しているか、敵を追っているか、旅の途中か、あるいは眠っているのかもしれない。目を覚まさせなければならない。」そこで彼らは大声で叫び、いつものように、刃物や槍で自分の体を切りつけ、血が彼らの上に噴き出すまで続けた。正午を過ぎ、彼らが夕の生贄を捧げる時まで預言し続けたが、声もなければ、答える者も、気にかける者も一人もいなかった。そこでエリヤは全ての民に言った。「我のところに来なさい。」すると、全ての民が彼のところに来た。彼は、壊されていた主の祭壇を修復した。エリヤは、ヤコブの子らの部族の数に従って十二個の石を取った。主はヤコブに、「イスラエル」と名付けよと告げられたのである。そして、その石を持って主の御名による祭壇を築き、祭壇の周囲に、種二メトラ分が入るほどの大きさの溝を掘った。彼は薪を整え、雄牛を切り分け、それを薪の上に載せた。そして言った。「水を四つの樽に満たし、それを全焼の生贄と薪の上に注ぎなさい。」また言った。「もう一度そうしなさい。」彼らは二度目もそうした。彼は言った。「三度目もそうしなさい。」彼らは三度目もそうした。すると、水は祭壇の周囲を流れ、彼は水路にも水を満たした。そして、彼らが夕の生贄を捧げようとした時、預言者エリヤが現れて言った。「アブラハム、イサク、そしてイスラエルの神、主よ。今日、あなたがイスラエルの神であり、我があなたの僕であり、これら全てのことをあなたの命令に従って行ったことを、この民に知らしめて下さい。主よ、我の声を聞いて下さい。我の声を聞いて下さい。そして、この民に、あなたが主なる神であり、ついに彼らの心を再びあなたの方へと向け直して下さったことを知らせて下さい。」すると、主の火が降りてきて、全焼の生贄と、薪と、石と、土を焼き尽くし、溝にあった水までも飲み干した。民は皆、それを見て、顔を地に伏せて言った。「主こそ神である。主こそ神である。」エリヤは彼らに言った。「バアルの預言者達を捕らえよ。一人も逃がしてはならない。」彼らは彼らを捕らえ、エリヤは彼らをキション川に連れて行き、そこで彼らを殺した。

 

北イスラエルのサマリアで飢饉が起きた時にアハブの執事のオバドヤが全ての泉と川を調べた時にエリヤと出会いました。オバドヤはもともと神を畏れており、イゼベルが主が遣わした本物の預言者を迫害して殺した時に、百人の預言者を連れ出して五十人ずつ洞窟に隠して、こっそりと養っていたのです。エリヤからアハブを呼んでくるよう頼まれても、主の預言者を助けたことがバレたらアハブに殺されるんじゃ無いかと恐れていましたが、エリヤが「神が生きておられるように、今日アハブの前に姿を現す」と励まされたため、アハブをエリヤの元に呼び寄せました。エリヤはアハブに北イスラエルの民を全員とバアルや異教の神々の預言者を全てカルメル山に集めるように命じます。そうして、バアルの預言者達とエリヤはカルメル山に祭壇を築いて、それぞれの神に祈ったところ、バアルからは何の答えも無く、エリヤが信じる創造主なる神のみが天から火を降らせるという奇跡をなしました。直後にエリヤはバアルの預言者を捕えるよう指示を出し、バアルの預言者たちは捕えられて処刑されました。こうして、エリヤの働きは当時の北イスラエルで権威のお墨付きを得て多数派となっていたバアル信仰を打破する「強きを挫く」精神を体現しました。このように、エリヤは真の神である主を畏れ、多数派に媚びず、強き(権威)を挫くことで人々を正しい信仰へと導いたのです。エリヤは生きたまま天に引き上げられましたが、エリヤと似た働きを行い、正しい信仰に導く預言者が現れることが以下の聖句で預言されています。

 

旧約聖書 マラキ書三章二十三節~二十四節 拙訳

見よ、大いなる恐るべき主の日が来る前に、我は預言者エリヤを汝等のもとに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。そうしなければ、我が来て、呪いをもって地を撃つことになるからだ。

 

主なる神はマラキ書の預言を通じて、エリヤの働きをする預言者が遣わされることを予告されています。それも、主イエスの初臨前とキリスト再臨前に二度遣わされることが予告されています。主イエスの初臨前のエリヤの働きを行った預言者は以下の聖句の通りです。

 

新約聖書 マタイによる福音書十一章七節~十五節 拙訳

ヨハネの弟子達が立ち去ると、イエスは群衆に向かって、ヨハネについて語り始められた。「あなた方は、荒野に出て何を見ようとしたのか。風に揺れる葦か。では、何を見ようとして出たのか。柔らかい衣を纏った人か。見よ、柔らかい衣を纏っている者達は、王の宮殿にいるのだ。では、何を見に荒野へ出かけたのか。預言者か。そう、あなた方に言っておく。預言者以上の者だ。この者こそ、こう書かれている者である。『見よ、我は汝の前に我の使者を遣わし、汝の道を汝の前に整えさせる。』まことに、あなた方に言っておく。女から生まれた者の中で、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の御国で最も小さい者でさえ、彼よりは偉大である。また、洗礼者ヨハネの時代から今に至るまで、天の御国は力ずくで攻められ、力ある者たちがそれを奪い取っている。全ての預言者と律法は、ヨハネについて預言していたからである。もしあなたがたが受け入れるなら、この人こそ、来るべきエリヤである。聞く耳のある者は、聞くがよい。

 

主イエスは主の道を整えた洗礼者ヨハネのことを、来るべきエリヤだと断言されました。洗礼者ヨハネ自身はエリヤの働きをする者か問われたら否定していました(ヨハネ一章二十一節参照)。これは人間が被造物である故に自分が何者であるか断言することが出来ないからです。主イエスは神であられるため、何でもご存じである故に、洗礼者ヨハネを「エリヤのは働きをする者」と断言されました。そうして、主イエスの直弟子達は漸く洗礼者ヨハネがエリヤの働きをする者と気づくことが出来ました。キリスト再臨前に遣わされるエリヤの働きをする者も同じです。ここで、「真の聖書福音と預言」のミカエル氏の記事を参照します。

主イエスの初臨前にエリヤの働きをした洗礼者ヨハネの特徴は、男性である(生まれつきの性であり、性転換や男装によって男と偽装する者を除く)、世の諸教会や諸教派に属さへん、世俗権力に与せえへん、多くの所有財産を持たへん、金持ちではない、世の悪に染まらぬ世捨て人、奇跡等と目に見える業をせずそれによって人々を惑わさへん、パウロ教信者ではない、神の律法を守って擁護する、他人の律法違犯(不法行為)を咎める、主イエスを証しする、自分の栄光を求めへん、聖書(パウロ書簡を除く)から外れた教えをせえへん、他者に先立って分け隔てなく多くの人々に向けて悔い改めを説く男や。せやから、既にエリヤらしき活動をしてる人より後で真似て同じ事を言う人といった二番煎じ以降は該当せえへん。それらの特徴をすべて満たす男がキリストの再臨前のエリヤであると、まともな人間なら理解出来る筈や。一つでも欠けていれば、それはエリヤではない。女は対象外、不信仰者や異教徒らは論外、ファリサイ派の偽使徒パウロ教信者どもも論外、権力者も論外、金持ちも論外、社会的地位や名誉を持って世の友になってる者も論外、神の律法を守らぬ者や擁護もせえへん者も論外、主イエスの御名を出さへん者や聖書に書かれてるキリストの教えから逸脱する者も論外、夢や幻や不思議体験を聖書の御言葉よりも優先してる者も論外、自分大好き人間で自分語りや自慢をする者も論外、先駆者やのうて誰かから教えを見聞きし、人の真似をして二番煎じなだけやのに自分大好きで自分の功績かのように振る舞い、自分の許に人を集めようとする(散らす行いをする)者も違う。
また、終末時代は、過去記事「聖書の終末預言 一」で言うたとおり、不法(神の律法に反する行い)が増大し、偽預言者も増え、多くの人々を惑わし、過去記事「聖書の終末預言 二」で言うたとおり、偽メシアや偽預言者が大きなしるしと奇跡を起こして選民をも出来れば惑わそうとするからや。せやから、エリヤは誰かと吟味する際は、上記の要件にすべて該当するかが重要であり、目に見える奇跡に決して惑わされるな、そんな事は悪魔でも出来るさかい、奇跡やしるしなんかで人を判断するなと拙者は何遍も言うたやろ。せやから。この警告を忘れんなや。
せやから、エリヤにはなろうと思って簡単になれるものではないと上述の要件から明らかやが、エリヤぶった偽り者に注意しなはれ。言うておくが、エリヤたる男は終末時代にはただ一人だけが該当するのであり、複数人居るんやないで。上記の過去記事でも述べたとおり、一世紀当時では洗礼者ヨハネ一人だけがエリヤであり、十二使徒ですらエリヤではなく、他のキリスト者もそうではなかった。主イエスは、洗礼者ヨハネを「来るべきエリヤ」、「預言者以上の者」と評しはり、同じく終末時代のエリヤもその辺の世俗社会にどっぷり浸かってる役立たずのにわか信者な訳がない。エリヤは神から与えられる特別な役割であり、人間自身が「自分がエリヤになりたい」と望んでなれるものではない。神に主権があり、人間には無いと言うたやろ。洗礼者ヨハネ自身も、エリヤになりたいと思て生まれてきた訳やないし、それを意識して生活してた訳やない。神から予め仕組まれ、そのようになったんや。すべては神の御予定と御意志に基づく。せやから、人間自身が「よし、エリヤになろう」と意気込んでなろうとしても、それを果たせへんやろし、エリヤではないとも言える。なぜなら、それはその人間自身の醜い欲から出たものやからで、神の御意志や予定から外れてるからや。

引用元:エリヤを信じひんのなら滅びる | 真の聖書福音と預言

ミカエル氏の解説通り、キリスト初臨前にエリヤの働きをした洗礼者ヨハネの特徴に当てはまっている者こそがキリスト再臨前にエリヤの働きをする者の特徴です。即ち、エリヤの働きをする預言者はキリスト初臨前もキリスト再臨前も同じと言うことです。キリスト再臨が近付いているこの終末時代は主イエスが予告された通り、あらゆる偽預言者が現れて、多くの人々を惑わしますが、神が遣わす正しい預言者が誰であるかは上記のミカエル氏の解説をお読みになれば判断できると思います。終末に遣わされた預言者だと自称する者に限って、嘘を言ってますし、偽預言者だと分かります。聖書を複数回通読して、人を見る目を養えていれば、「真の聖書福音と預言」の筆者のミカエル氏以外に考えられないと思います。ミカエル氏は主を畏れ、強き者(世の権威)に媚びず、弱き者だろうと強き者だろうと分け隔てせずに隣人愛を以て接しておられる御方だと断言できます。世の支配層は二千三十年を目処に新世界秩序という名の世界統一政府を確立させることを企んでいます。その時には全人類の恩恵期間は終了します。主イエスが選ばれた神の民のために期間が縮められることを言及されていますが、獣であるローマ教皇が終末の約三年半弱を支配すると預言されていることを鑑みると、大艱難時代の期間は約三年半弱です(マタイ二十四章二十二節、黙示録十三章五節)。キリスト再臨が二千三十一年頃に起きることを仮定しても、早くても来年か再来年頃には到来してもおかしくないです。(参照元:千年王国の真実 後編 | 真の聖書福音と預言)それだけ、我々人類に残された時間は少ないです。二千三十年に新世界秩序が完成すると言われますが、あくまでも支配層にとっては目安であるため、もっと早まる可能性もあります。手遅れになる前に聖書を複数回通読して、真理を知って、キリスト道を歩まれることを推奨します。


皆さん、全人類の救いの恩恵期間が終了する大艱難の幕開けまで本当に残された時間は少ないです。これから先は主イエスが預言された通りに世界各地で戦争や災害などが多発していき、聖書を学ぶことは日増しに難しくなりつつあります。手遅れになる前に聖書の学びに一生懸命励んで、真の聖書福音と預言のミカエル氏のブログ記事を最初から最新記事まで読み進めることを推奨します。

 

 

 

また、ミカエル氏が伝道活動の拠点をアメブロからサブスタックに移行されましたが、それこそ残された時間が少ないことの現れかと思います。御国の福音である真の聖書福音(パウロ教ではない)はいずれ全世界に広がると主イエスが予告されたため、ミカエル氏はその神の御心を行うために海外への発信も行うようになられたと思われます。ミカエル氏の教会入会を志す求道者の方は以下の「大事な告知」に従って、手順を踏んで行動されて下さい。

 

 

拙者はミカエル氏の管理する「神のイスラエル教会」参加に向けて活動中の未熟者ですが、この記事を読まれている読者の皆さんも宜しければ共にキリスト道を歩んでいこうではありませんか。

 

最後までご覧頂き有難うございました。