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印旛沼(2020.1.12)

murabie@自宅です。

約2週間前の旅の報告です。

いつもならそろそろ日帰りスキー三昧に突入する頃合いなのでしょうが、
今年はどうやら記録的雪不足ということらしく、無理に積雪の多いスキー場を
探すよりは、確実に楽しめる近場の旅行に休日を費やそうと考え、
この連休も、千葉県内を旅してみることにしました。
地下鉄東西線経由で西船橋まではついこの間のルートと同じですが、今日は
その先の東葉高速鉄道線内へ初めて直通乗車し、再び地下に潜ったかと
思ったら高架線上にも飛び出して、竹林や雑木林の丘陵もかすめつつ、
丘陵の間に戸建ての民家が密集したり、駅の周りでは巨大な建物が人工的な
街をつくったり、しかし駅の間では所々田畑や不自然に大きい空き地が
見られたりする車窓をつかの間楽しみ、終点はまた地下駅となった
東葉勝田台駅まで。地下駅もそうだし、小さいロータリーの周りに巨大な
建物がひしめく駅前にも無機的な新しい街の雰囲気があふれるのだけど、
それでも京成線の改札周りにはどことなく素朴な雰囲気が感じられました。
そして京成線の勝田台駅から普通列車に乗り、小さい民家と同じ高さから
素朴な住宅街の雰囲気を感じさせてくれる風景や、明らかに近くに
ニュータウンがあるはずのユーカリが丘駅付近でさえ、線路の周りの
大きな建物の気配を強く感じることもない風景の中を進みました。

降り立った京成臼井駅はいくつかの店舗が入る大きくて綺麗な新しそうな
駅で、さっきの勝田台ほどではないにしろ、駅前にも大きい建物が集まる
新しそうな街が広がります。
駐輪場が運営しているレンタサイクルを借り受けて駅をあとにし、
線路沿いに自転車を進めると、街を囲む丘陵の方に向かって線路から
分岐するように電線が伸びていて、もしかしたら廃線跡かもと思って
電線の方に寄り道してみたら、素朴な住宅街の中に変電所が塀に囲まれて
佇んでいたりなんていうこともありました。

踏切を渡り、あまり幅が広いわけではない国道に沿って自転車を進めると
沿道に集まる素朴な商店や民家の後ろに宿内公園となるらしい丘陵が
控えていたり、また国道から分岐していく同じような雰囲気の県道沿いには
今度は臼井城址となるらしい丘陵もそびえていたりして、歩き旅なら寄り道
してしまいたくなる雰囲気の静かな街となっていましたが、今日はとにかく
自転車を先に進めていきました。
印旛沼で採れるということなのか、川魚を扱っていることを前面に出している
商店や飲食店も時々姿を見せる県道を進んでいくと、
道沿いに舟戸の渡し跡という石碑が現れ、道はその先の印旛沼に架かる
舟戸大橋へと続いていきました。

舟戸大橋からは、所々晴れ間の覗く空が大きく広がる下、所々に小舟や
何かが養殖されていると思われる細い柱や網を所々に浮かべながら、
遠巻きに陸地に囲まれながらも穏やかに、広大に広がる印旛沼の水面を
のんびりと眺めることができました。
橋のたもとには貸しボート屋のような施設もあり、掘り込まれた湖岸に
小さい舟がいくつか係留されていたり、また堤防で囲まれる湖岸の外側
には小さい公園も整備され、その周辺には、通ってきた道を包む丘陵の
足元の街並までの間を敷き詰めるような、広大な田んぼが広がります。

西印旛沼の湖岸に沿うように、県道指定されている自転車道が伸びていて、
沼の南東岸を反時計回りになぞるような道へと進んでいきましたが、
沼を囲む堤防の外側を伸びるような感じで、さっきの橋の上からのように
湖面を雄大に眺められるような所はそう多くはなく、むしろ道を囲む桜並木の
隙間に広がる沼の外側の田園風景の方が広々しているような道を進みます。
所々万葉集の時代からの景観地の跡を表す案内板が建っていたり、時には
排水機場が物々しい建物とともに水路との接点を造成したりしていましたが、
そのような所の周辺や、所々現れる金属製のベンチ状のオブジェが佇む所や、
そうでないなんでもない所でも、堤防の上に登るという手間を惜しまなければ、
穏やかに大きく広がる湖水面の姿に出会うことができて、
頻繁に自転車を泊めながら湖岸をなぞっていくことになりました。
カミツキガメの警告の看板も立っていたりするのはなんだかなあといった
感じではありましたが。

陸側にはかなり遠くから、風車のような建物が見えていましたが、
やがて道は印旛沼に流れ込む水路をなぞるようにして、沼の本体から
離れる方向に曲がっていき、コンクリートで固められた丘陵の法面の下に
広大に広がる、チューリップ畑らしいけれど今は何も植わっていない広大な
畑を中心に造成されている佐倉ふるさと広場という公園へと進んでいきます。
丘陵の下には頻繁に京成線の列車が往来しますが、それも遠景となって、
のどかな風景が展開し、そして鹿島川というらしい水路と合流する辺りの
湖面も穏やかに大きく広がります。
水路に架かる竜神橋の上からは、広い穏やかな流れにたくさんのカヌーが
浮かんでいるのを眺めることができました。沼側の橋の欄干には
竜の像が取り付けられていたりもします。

竜神橋を渡り、沼地を押し込むように広がる陸地に沿って引き続き
自転車道を進みます。西印旛沼の真ん中がくびれている部分に
差し掛かって、広々と水面が広がっていたのが、対岸に丘陵の影を
大きく移すような姿へと変わっていきましたが、ふるさと公園の風車も対岸と
なり、湖岸の湿地にアオサギ、シラサギやカモたちが集い、
雲を浮かべながら大きく広がる空の下に引き続き穏やかでのんびりした
湖面の風景が展開します。

陸側も丘陵がすぐ近くに控えるようになって、その上部に何か、鐘のような
ものが設けられた展望台のようなものが垣間見られたり、また雑木林に
囲まれる田園が広がる中にサンセットヒルズなんていう名前のつけられた
新しい綺麗な建物が孤立していて、その近くの湖岸が遊覧船の桟橋となって
いて、穏やかな湖面をしばし大きく眺められるスポットとなっていたりします。
ただ道の風景の基調は引き続き堤防に寄り添われて、水面が大きく広がる
壮快な風景はそう多くは見られないまま、湖岸のラジコン飛行場や
大規模に工事されている堤防の姿にも時々出会いつつ、静かな田園風景が
主となる自転車道を進んでいきました。

湖面が屈曲し、遠くに赤いアーチ状の橋の姿が見られるようになって、
やがて道は、丘陵から下ってきた交通量の多い県道と並走するようになり、
その向こうには印旛沼の東側の広大な田園が広がるようになりました。
孤立する人工的な排水機場の建物と共に水路を迎え入れると、佐倉市から
印西市へと変わっていき、すぐ近くの湖岸に双子公園というこぢんまりした
簡単な園地が現れました。
赤いアーチ状の双子橋が、近くの丘陵の足元に佇んでいるのを見ることが
でき、園地の片隅にはこのあたりで化石が発見されたらしいナウマン象の
像が佇んでいます。
簡単な展望台を載せる小さな築山が佇んでいて、その上へ階段で上れば、
大きく広がる青空の下、丘陵に囲まれて広がる西印旛沼が、広々した
静かな風景を作り出しているのを眺めることができました。

自転車道は赤いアーチの双子橋を渡ると、さらに奥へ広大な田んぼを伴って
のどかな風景を広げる西印旛沼に別れを告げ、丘陵の間に分け入って、
西印旛沼と北印旛沼を結ぶ印旛捷水路に沿って伸びていきます。
もともと入り組む丘陵の足元に屈曲して広がっていた印旛沼の
くびれている部分を干拓する際に、西印旛沼と北印旛沼をショートカット
するように開削された水路であるようです。

豊かな水量の水路はあまり動きもなく穏やかに横たわり、川原のない水路は
所々に紅葉の名残を残す深緑の丘陵に囲まれる、ちょっとした渓谷のような
風情となり、上空を緑と赤のアーチ橋が相次いで大きく跨ぎ越していきます。
水路に面する崖には、水路の開削中にさっきの公園に像があったナウマン象の
化石が発掘された地点を表す標示の姿も見つけることができます。

程なく印旛捷水路と共に自転車道も丘陵を抜けて再び広大な空の下の田園へ
踊り出て、田園を囲む丘陵の足元から伸びてきた成田スカイアクセス線の
高架橋が、前方へさらに続く水路を斜めに水色の鉄橋で大きく跨ぎ越して
いく雄大な風景となりました。
湖岸には甚兵衛渡し跡という標柱が立ち、のどかな里山の雰囲気を強く
呈するようになった自転車道を、周囲の丘陵や田園に近代的な鉄橋が架かる
風景を楽しみながらのんびりと進んでいき、時々スカイライナーが往来する
鉄橋と、並行して架かる交通量の多い幹線道路の橋をくぐってさらに歩みを
進めていくと、道はついに、北印旛沼のほとりへとたどり着きます。

北印旛沼の南端から北端に向かって西岸をなぞって伸びていく自転車道を
たどるように自転車を進めていけば、遠巻きに丘陵に囲まれながら
穏やかに広がる湖面の姿を、ここでは常に眺めつづけながら爽快に
走ることができました。湖面の向こうには、曇ってしまった空のもとに
筑波山の影も姿を見せるようになりました。
湖岸にはヨシが茂る所も多く、所々に何かが養殖されている所を表す細い柱が
点々とする間、たくさんの水鳥達も穏やかな時を過ごし、自転車の接近に
気がつくと一斉に沖へ向かって飛び立って行くけれど、基本的にはあまり
動きのない広大な水辺の風景を、のんびりと楽しんでいくことができました。

沼の外側に広がる田園も、丘陵に囲まれて穏やかに広がり、田んぼの間を
流れてくる川の流れを排水機場で迎え入れる舟戸橋が湖水面の西端となって、
自転車道は北印旛沼の北西岸へと回り込み、湖面の外側には引き続き広大な
田園が広がり、そして湖水面は舟戸橋をも背景とするようになって引き続き
広大に広がり、湖水面の向こうの丘陵の上に大きく広がる空に向かって時折、
おそらく丘陵の向こうにある成田空港から飛び立った飛行機が、
小さく見えながら飛び立っていく様子も頻繁に目にすることができました。

やがて北印旛沼からは利根川へ向かって流れ出す長門川が分岐し、
自転車道は長門川に沿うように方向を変えて、引き続きのどかな里山の
風景の中を進みます。
対岸への距離は近づいたけれど、対岸にも広大に田園が広がっていて、
風景の長閑さは変わらずに引き続いて広がっていきます。
ほどなく、水路上に立ちはだかるように物々しく、酒直水門というらしい
厳つい施設が姿を現してきました。行政的には栄町に入ったようです。

道は引き続き水路に沿って進むのですが、所々砂利ダートとなるようになり、
辺りにも小さい集落や貸しボート乗り場なんていう人工的な施設も現れる
ようになり、ゆったりした水路の対岸も丘陵を近づけて足もとに集落を
広げるようになっていきました。
どんよりするようになった空からはついににわか雨まで降ってくるように
なってしまいましたが、道は工事中の大きい橋を迂回するように集落の
中を通ったり、長門川に合流する川を大きい橋で跨いだり、里山の集落と
豊かな水面を見せる川沿いを行ったりきたりするようになっていきました。

そしてJR成田線の線路を踏切で越えつつ間近に列車の姿にも出会い、
さらに素朴な国道も横断して、田園の集落の中の所々水面を拝める道を
たどっていき、最後に長門川は二手に大きく分かれて、長門川に沿っていた
道は前方に横たわる利根川の堤防の上へと緩やかに上るようになり、
堤防の上へと登り切れば、水路を跨いで孤立するようにして立っていた
四角い印旛水門の足元へとたどり着くことができました。
雨は強くなってしまいましたが、数人の釣り人たちがのんびりとした
時を過ごしている広大な利根川の流れを堤防の上から爽快に眺めつつ、
堤防の上に設けられた小公園の四阿へと移動し、持参した冷たいおにぎりを
お弁当とする優雅な昼食をいただくことができたのでした。

雨の舞う広大な曇り空の下に、大量の水を湛えた利根川は静かに横たわり、
街側を見ればここまで一緒に進んできた長門川が丘陵の足元の田んぼと
集落に寄り添われてゆったりした姿を示しています。
雨が小やみになったのを見計らい、ここを折り返し点として寄り道しながら
スタート地点へ戻る道を歩み始めることにして、差し当たってJR成田線の
安食駅の方へ、国道、県道をたどっていきました。
街道は小高い丘陵に寄り添われ、火災が発生して若干脇を固める住宅街の
路地へと迂回することとなりましたが、市街の中心部へ進んでいくと
思いのほか古い瓦屋根を載せる重厚な木造の商店が集まる、味わいのある
古い街並となっていて、この旅でそういう風景に出会えるとは思って
いなかっただけに、うれしい出会いとなりました。

古い街並を通りすぎた感じのところで県道は線路と交差し、踏切を越えると
新しい建物が集まる街となって、道沿いに安食駅が現れました。
県道に沿うように細長いロータリーを伴い、線路を跨ぐ自由通路には
かわいい絵がペイントされていて、綺麗に整備されているような印象を
受けますが、駅舎自体は小さく素朴で、昼時は無人駅扱いとなるよう
でしたが、折しも空には晴れ間が戻り、明るい穏やかな駅の風景と
なっていました。

安食駅をあとにして引き続き綺麗に整備された県道を進み、道を固める
素朴な住宅街の路地へと自転車を進めると、すぐに道の周りには水路と
田畑が現れ、神社の杜のようなうっそうとした森を避けるように複雑に
分岐する道をたどると、豊かに水を流す長門川の姿と再開することが
できました。
さっき自転車で走った道の対岸に当たるところで、水面の姿を見ながら
川沿いに自転車を進めると、合流する水路を跨いだ橋の姿や、工事中で
厳つい姿を見せながら長門川を跨ぐ橋の姿が、のどかに広がる田園の
中に現れてきました。
そして道の周りも集落を抜けて広大な水田が広がるようになって、
長門川に往路でポイントとなった厳つい酒直水門が架かる姿にも再開
することとなりました。

目論見としては長門川沿いに北印旛沼まで、そしてその先も水辺の道を
進むつもりでいたのですが、地図に記されているこの先の堤防上の道は
どうやら封鎖されているようで、代わりに沼から派生する水路に沿って
広大に広がる田畑の中の道を進むことにしました。
田んぼの向こうに横たわる丘陵はおそらくJR成田線の下総松崎駅方面
と思われましたが、広がる田んぼは広大すぎて、進んでも進んでも風景が
大きく変わることはないような道、足や腰に感じられるようになった痛みや
疲労感が増幅されていく中、さらに自転車を頑張って漕いでいきます。
程なく水路の向こうには北印旛沼を囲む堤防が横たわるようになり、
小さい排水機場も現れ水路が人工的に屈曲するような所もありましたが、
広大な湖水面とは出会うことができないまま、細い水路沿いにひたすら
自転車を進めるしかない道が続きました。

左手の田んぼの周囲を囲む丘には、成田スカイアクセスや大きな道路の
高架橋の姿が再び見られるようになり、また時々成田空港を発着する飛行機が
厚い雲の間に飛び立つのが再び見られるようにもなりました。
またも雨が降り出してしまった中、服を濡らしながらひたすら自転車を
進めて行けば、道はいつまでも田園の中を進むわけでもなく、
屈曲する水路沿いに強制的に進路を曲げられて、結局は交通量の多い
大きな道路に沿う道に合流させられてしまいました。
このあたり北印旛沼の堤防に遊歩道も通されているようでしたが、
至るところに遊歩道は工事中で通行止めという看板が立っている状態でした。
こうして、よりそう田んぼに時々立ち尽くすシラサギやアオサギ、時には
よくよく見れば重量感のある体と黄色い嘴のハクチョウの姿に励まされつつ
スカイアクセス線の線路の足元の幹線道路にそって自転車を進め、
北印旛沼と印旛捷水路が合流する地点へとたどり着き、地図上では一周した
ことになりましたが、ちょっと不完全燃焼気味の東半分でした。

さっきは丘陵を越える印旛捷水路沿いに自転車を進めてきたので、帰りは
遠回りにはなるようでしたが、もともと印旛沼だった干拓地に名残として
残される水面とその先の中央排水路をたどるように自転車を進めることに
しましたが、水面を大きく見渡せるような所はあまり多くないようで、
とりあえずは宗吾街道とも言うらしい、さほど広くないけれど交通量は
けっこう多い国道をたどっていくことになりました。
程なく道沿いには、神社の杜かと思うような、小さいけれど背の高い
松の木達がうっそうとした空間を作る園地が現れました。
水神の森というらしい森の中には松の木達に包まれるように水神様の
小さい祠がまつられ、干拓が進められる前はここが印旛沼の湖岸だったらしく、
さっき標柱だけが見られた対岸へ渡される甚兵衛渡しの渡船場だった
ところだということです。

実際の水面へは周りに広がる田んぼの中に自転車を少し走らせなければ
到達できず、しかも堤防の外側にも水路があり、やはりここでも湖面を
眺めることは困難だったりしましたが、雨粒が落ちてくる中でものどかな
田園風景の中を周回したり、また小さい松原に戻ってその中に佇むお堂の
しっとりとした風情を味わったりするのもまたいい休憩となりました。
お堂は甚兵衛供養堂ということのようで、そばにはいくつかの石碑も静かに
佇みます。江戸へ直訴の旅に出る宗吾をそうだと知りながら渡して
とらわれるよりはと死を選んだという歴史があるようです。
丘陵に寄り添われる細い国道沿いにはいくつか川魚を食べられる飲食店が
あったり、時には養漁場なんかもあったりして家族連れが大量の鯉と
戯れている微笑ましい風景に出会うこともできました。

雑木林の丘陵と広がる田園との間に通された細い国道にそって自転車を
引き続き進めていくと、程なく道が丘陵へ上ろうとした辺りに流れてきた
江川という細い水路と交差します。道端には交易場だったらしい江川河岸の
跡地を示す標柱が立ち、そして久しぶりに見たような気がする
遊歩道のように整備された護岸の間をまっすぐ流れる水路のような川に
沿っていくと、河口に広々とした湖水面を久しぶりに望むことができました。

しかしやはり堤防の上に行くことはできないようで、あまり代わり映えしない
堤防と水路に寄り添われる田んぼの中の道が続きましたが、堤防の上には
排水機場のような大きめの建物の姿が見えてきました。
堤防はそろそろ南限となっているらしい北印旛沼の領域を遮断するように
屈曲して奥へと伸びていましたが、地図上にはっきりと道路として
記されているにもかかわらず、やはり堤防上の道は封鎖されています。
そのかわり堤防の外側には比較的広い調整池のようなものが広がり、
水面に沿うように奥へ進むと、ここから始まる中央排水路に沿うように
伸びる道へと出ることができました。

干拓される前はもともと印旛沼だったことの名残であるらしい水路は
やはり周囲を田園に囲まれて、時々小舟を停泊させながらゆったりと
流れていき、田園の外側を囲む丘陵がのどかな里山の風景を作ります。
時々ラジコン飛行機が曲芸飛行をする風景も見ることができ、丘陵の
向こう側から放送の音声も響いてきたので、さっきいくつか湖岸に見つけた
ラジコン飛行場で何かしら大会でも行われていたのでしょう。
空にも晴れ間が戻ってきて穏やかな風景が広がりますが、太陽の高度は
徐々に下がっていき、空気もまた冷たくなっていきます。

水路沿いの道が途切れた所で水路からは離れて田園のど真ん中をたどる
道へと移り、そして比較的大きな通りと交差したところで一旦田園を
あとにするように進路を直角に折ると、交差してきた大きな県道を
超えた辺りから急激に大きな建物が姿を現して、京成酒々井駅も綺麗な
姿を示しました。
そして踏切を越えていくと裏側にもむしろ綺麗な住宅地が広がって、
丘陵にも寄り添われる葉を落とした銀杏並木の緩やかなカーブをたどって
国道も横断していくと、今度はJRの酒々井駅の周辺にたくさんの民家や
大きなスーパーなどの集まる街並が広がりました。
この街も酒々井という独特の響きの語源となったらしい酒の井やら、
本佐倉城址やら、史跡がいくつか点在する街みたいで、今日はルートの
近くだから立ち寄ったというだけだったのだけど、また別の機会にじっくり
味わってみたいと思える街を見つけることができたような気がしました。

JR酒々井から京成酒々井、そして田んぼの中の大通りへと来た道を戻り、
今度は大きな橋で中央排水路を横断して、干拓地に寄り添っていた丘陵の
足元へと自転車を進めました。
酒々井へ向かって飛び出すように佇む、順天堂大の大きな建物を頭の上に
載せる丘陵に沿い、干拓地の中の道を進めば、同じように広大に田んぼが
広がる風景となるのだけど、丘陵のすぐ下には少しは建物の姿も見られ、
のどかな里山の風情となります。
時には丘陵のすぐ下の、干拓地の縁を走ることもありましたが、基本的には
やはり自転車を進めても大きく風景が変わることのない雄大な田園を
サドルから受ける痛みに耐えながら延々とひた走ることになりました。
そしてやっとの思いで、往路のキーポイントの一つであった双子公園と、
赤いアーチの双子橋の所へと、戻ることができたのでした。

ここからは西印旛沼の北岸に自転車を進めていきます。
やはり堤防上の道は自転車では走りにくいようで、より距離を詰めてきた
丘陵の足元に伸びる、堤防に囲まれた田んぼと丘陵の足元の里山の
風景との間の道を進みます。雲が薄くなって青空も覗くようになった
空には夕焼けも見られるような時間となってしまっていました。
湖面は堤防の向こうにあるようで結局は見られないままでしたが、
その上に広がる大きな空を埋め尽くす雲の間に、幻想的な夕暮れの空が
広がるのを眺めながら、山里にひたすら自転車を進めました。

地図上では北総線の印旛日本医大駅に近いように見えた、西印旛沼が
丘陵の形に合わせるように屈曲する辺りまで進むと、小さい建物を点在
させる集落の奥に、丘陵の上へ登る坂道が雑木林の間へと伸びていました。
斜面上に無理やり作られた平地の畑を路傍に見ながら、自転車を押して
坂道を上って高台に出ても、暫くは夕暮の山里の風景となりましたが、
ほどなく図書館らしい大きな敷地とともに、山深い風景でありながら
幅の広い道路が現れてきて、その対岸には新しい小さい建物が整然と
密集するニュータウンの風景が垣間見られるようになりました。

ニュータウンと丘陵の境目に緩やかな登り坂を伸ばす大通りに沿って
自転車を進めれば、森に囲まれた日本医大の領地や、大型店舗こそ姿を
見せるものの、往来する自動車以外に生活感があまり感じられない
寂しさを誘う、大きいけれど密度の小さい風景が続きました。
とりあえず前方に横たわる丘陵の足元に、鉄道か道路かの高架線のような
人工的な施設が見られた辺りで、ニュータウンの中に伸びる大きな道へと
折れ曲がり、大きな建物の間を縫うように屈曲する大通りをたどって
みました。
道沿いには医科器械歴史資料館なんていう、ちょっと興味をそそられるような
建物なんかも現れたりしたけれど、夕暮れ深まる時間まで開いている
わけでもなさそうで、大きい街のように見られるけれど人通りもほとんど
見られない街の中を進み、灯台だか船だかのようにも見える2つの背の高い
建造物によって構成される、北総線の印旛日本医大駅へとたどり着きました。
線路は掘割の底に大通りと並走するように伸び、夕暮れが深まって暗く
なっていく大きな空のもとに、東京方面へ折り返す列車が留置線に静かに
佇んで、その奥にさらに成田空港へ向かって伸びているようでした。
ドーム状の建物の中の駅舎では、建前上相互乗り入れの接続駅のように
一応都心方面の北総線と成田空港方面の京成線とに券売機は分けられて
いましたが、広大な構内や広大な駅前ロータリーはいずれもひっそりとして、
新しい巨大な建物を持て余し気味の風景が、夕暮れの中に融けかけて
いるようでした。

最後に高台から夜空に変わっていく空のもとに横たわる折り返し列車の
姿を眺め、再び自転車に跨って、より賑やかなニュータウンの中の
たくさんの小さな民家の集まる大通りを進んでからさっきの丘陵に
寄り添われる大通りへと進み、来た道をそのまま戻って森の中の下り坂を
下って西印旛沼沿いの低湿地へと戻る頃には、辺りはだいぶ夜の風情と
なってしまっていました。
前方の夜空に浮かぶ丘陵の影の上に、別のニュータウンの高いビルの
明かりが浮かび上がるのを見ながら自転車を進めると、丘陵の足元の
素朴な里山の集落への入口となるような道沿いに、一本松湧き水という、
小さい谷底に滾々と大量の水が湧き出している所を見つけることが
できました。
地元の人たちが大量のタンクやペットボトルを車に積んで入れ代わり
立ち代わり訪れるところでしたが、人並みの切れ間にちょっとだけ両手で
湧き出す水をいただくと、冷たくなっていく辺りの空気に比べれば
ほんのり温かみを感じるやさしい柔らかい湧水の味を味わうことが
できたのでした。

あとはすっかり暗くなった空のもと、真っ暗な田園の中に伸びる道路に
ひたすら自転車を走らせていき、往路で渡らなかった舟戸橋を今度は
渡って、最後に久しぶりに大きく眺めることができた湖岸に点在する

光の粒を反射する広大な水面の幻想的な姿を楽しんで臼井側へと戻り、

そして川魚屋が点在する細い素朴な大通りを、道幅の割に大量な交通量に

負けずに最後の力を振り絞って自転車を進め、
線路際の住宅街の中へと進んで、すっかり夜の街となってしまった
京成臼井駅へと無事に帰り着くことができたのでした。
指示の通りに誰もいなくなった自転車置き場にレンタサイクルを返し、
京成線の上り列車で帰り道に着けば、もはや車窓からは何も見られない
完全な夜の風景となってしまっていました。

帰りは節約のため京成西船まで京成線経由とし、夜になってなお賑やかさを
示す西船橋の街を横断して地下鉄東西線に乗り継ぎ、そしてついこの間
訪れたばかりの西葛西のラーメン屋にまた寄り道をしていったのでした。
本当なら翌日も別の所にと目論んでいたのだけれど、ちょっと体力を
使いすぎて体中に疲労と痛みが襲ってくる状態となってしまい、
結局翌日は家でおとなしくすることに決めたのでした。
 

名鉄小牧線沿線(2020.1.1)

murabie@自宅です。
1月1日の深夜には帰京していたのですが、最近のパターン通り回復に
とても時間がかかってしまいました。
それでは先日の旅の最終日の報告です。

今日もスタート時点では快晴の爽やかな青空が大きく広がっていました。
今日で今回の旅も最後となり、大荷物を背負って宿をあとにし、いつもよりも
ゆっくりとしたペースで、今日は金色の織田信長像が昨日は着ていなかった
赤いマントを着ていたJR駅を越えて、名鉄駅まで歩いていきました。
今日は最初で最後の名鉄岐阜駅の各務原線ホームからの出発。元旦の朝は
街だけでなく列車もがらがらのスタートでした。

お城を載せる金華山の足元の大きなスーパーと商店をやり過ごし田神を出て、
高架に登って小さい建物の集まる住宅街を見渡し、地平に下りても隙間の多い
住宅街を行き、高田橋の辺りでは岐阜城を載せる金華山の周りの山並みの
足元に広大に田園が広がる風景となりました。新加納からの各務原市の
市街地、新那加からの市民公園や学びの森、そして普通の市街地をやり過ごし
三柿野辺りの川重の厳つい工場、羽場辺りから山の麓に立体感のある広大な
畑の風景が広がり、JRと別れて新鵜沼を過ぎると犬山橋からの犬山城と
日本ラインの風景と、これまでの旅を思い出させてくれる車窓が続きます。
そして赤いお堂の成田山の足元の住宅街を越え、急激に大きな建物が
集まってきた犬山駅で、とりあえず乗ってきた列車は終点となりました。

数日前改札の外側は訪れている駅でしたが、今日は荷物が重かったこともあり
若干の接続の待合室はあったものの、改札を出ずに過ごすことにしました。
4方向に列車が出る駅なので構内も広く線路も多く、そしていろいろな車両に
出会うことができる駅なので、適当に写真でも撮っていればあっという間に
時間が経っていく駅でもあります。
静かで穏やかな雰囲気だったのは、元日の朝早くのせいなのでしょう。

犬山駅からは、地下鉄直通でありながら転換クロスシートという
不思議な感じの名鉄小牧線の列車に乗りこみました。
もちろん車内はだいぶがらがらの状態です。
歩みを進めれば犬山の市街はあっという間に消え失せて、丘陵の足元に
のどかな田園が広大に広がるようになり、しかも高架線に登って、
そんな風景を広々と眺め渡す、長閑な車窓が展開します。そんな所に
信号所があるようで、小休止までしてしまうのですが、信号所を過ぎると
列車はすぐに地平を降り、すき間の田畑の姿も目立つ住宅地を進みます。
後で訪れようと思っている大縣神社最寄りの楽田を過ぎると、車窓には
再びのどかな田園風景が広大に広がります。どうもここが犬山市と小牧市の
境となるらしく、小牧市に入ったのちは住宅地の中を進むようになります。
工場の大きい姿も多くみられるようになって、小牧原駅に差し掛かると、
高速道路とは違うコンクリートの高架橋が合流してきて、列車と並走する
ようになります。どうやら桃花台新交通ピーチライナーの廃線跡らしく、
それにしてはあまりに立派な建造物だなと感心していたところ、
列車は徐々に掘割から地下へと進んでいき、地下鉄の駅のような風情の
小牧駅へと進んでいきます。

ホームだけでなく改札内外も完全に地下鉄の駅である小牧駅には
コインロッカーもあったので、身軽になることができ、ここからが今日の
本格的な旅となります。
エスカレーターで地上に出れば、駅舎にはホテルも入ってビルのように
大きな建物となり、ロータリーの周辺もきれいな大きい建物が集まっている
都会のような風情の駅となっています。片隅には名古屋コーチン発祥の地を
表すかわいい鶏のつがいの像も立っています。
これだけ大きい駅でもやはり元日の午前中は家から出ない人が多いみたいで、
人の姿は疎らです。

そしてやはりきれいに整備された大通りに出ると、道路を跨ぐように
ピーチライナーの高架線が横たわり、自転車置き場の上に折り返しの
ループ線を大きく描いている所を、道路から、そして道路を跨ぐ歩道橋の
上から、いろいろな角度から観察することができます。
駅舎もホテルの建物の裏手のような所に密着するように、高架の下に佇み、
シャッターは固く閉ざされていましたが、駅名を表す表示もそのまま残され、
説明がなければ廃墟だとは思わない人ばかりなのではないかというくらい、
普通の建造物としてたたずむのです。
こんなに立派に作っておきながら廃線になっているな状態だなんて、
普通の人は考えないでしょう。何でそんなことになってしまったのかと……
ホームの姿は歩道橋から見られましたが中の様子はうかがえず、ただ
都会のハトたちが生活の場としているようでした。

線路が地上に出ていないので方向感覚がつかみづらかったのですが、
大通りにでれば小牧城跡の小牧山が、想像より大きな丘陵として街並みの
奥に佇んでいて、メインストリートはその城山を目指すように
伸びていました。
駅前の交差点には巨大な直交する放物線がアーチとして跨り、そして
大通り沿いには大きい建物が並んでいる都会のような風景が少しだけ続き、
駅から離れるにつれ、道沿いに大小さまざまな重厚な瓦屋根のお寺の姿が
集まるようになっていきます。県営名古屋空港も近いのか、上空には
時折旅客機の姿も見ることができます。

鬱蒼とした杜を広げる大きな神社の境内をかすめてさらに大通りを進み、
所々に紅葉の名残を残す森に覆われた小牧山の足元に流れる合瀬川という
らしい小川を渡って、小牧城跡の北東側にある山北橋口へとたどり
着きました。
小高い丘がそびえる足元は、帯曲輪地区ということでおそらくいろいろな
建物があっただろう所のようで、広大な芝生の広場が、丘とさっきの川沿いに
連なる生垣のような土塁に囲まれて、城跡の東側を守るように奥へと広がって
います。荒涼とした広大な領域のなか、南側へ歩みを進めると、
特に土塁や堀で囲まれた広い領域があり、織田信長の館があった所の
可能性があるといった感じの発掘調査の報告書が、そこだけでなく
所々に掲示されています。

近くの高台にはれきしるこまきという新しい建物が建ち、ここから丘の中に
巡らされた遊歩道をたどって、山頂の天守閣跡を目指していきます。
城跡の南側は最近まで中学校があって、その建設によって失われたという
堀と土塁を復元している所らしく、高度を上げていく遊歩道からは物々しい
工事中の領域といかにも人工的に作られたという感じの堤防が横たわって、
外界の街並みとの境界を作っていましたが、初めて来た身からすると、
ここに最近まで中学校があったということの方が信じられないくらいの
大きく手の入っている風景です。

工事中の領域を避けて麓から上ってきた階段道と合流すると、馬場跡と
いうことになる、小さい長方形状の広場が桜の木々に囲まれている所が
現れ、周辺の森の中には千本鳥居の稲荷神社も佇む所となりました。
遊歩道は直接山頂に向かうような階段道もありましたが、ランニングコース
にもなっている勾配の緩やかな道もあり、そちらの方をたどってみることに
しました。

道は所々まだまだ鮮やかな紅葉の名残が示される森の中を伸びていきます。
そして緩やかなカーブを描く所には、地図を見て気になった観音洞という
見どころが現れます。
何か洞窟のようなものがあるのかと想像していたのですが、ちょっと
イメージが違っていて、道が広がった広場のような所の奥の地面に、
ごつごつした岩場が露呈していて、間々乳観音出現霊場という石碑が
立ちます。
昔猟師が子鹿を連れた妊娠した鹿を撃ったら、母鹿は観音像に、
子鹿は石に変わったという言い伝えがあるみたいで、その観音像が、
後で行く予定の間々観音ということらしく。

そして山の中をぐるりと回りこむように伸びる遊歩道を北側に回り込むと
麓からカーブを描きながら登ってきた杉林の道と合流し、林の間から
北側の街並みの姿ものぞくようになり、そして高台には天守閣の建物の
姿も見られるようになって、交差点に立ち尽くす大きなタブノキに
見送られつつ、ここからは階段道を行くことにしました。

階段道は森の中、いくつかのステージ上の区画をかすめながら登り、
森を抜けた所が工事中の天守閣を模している小牧市歴史館の足元でした。
辺りには発掘調査で掘り出された小さい石が集められている区画があり、
そして天守閣を乗せる石垣は部分的に姿を見せる他は、斜面はただの
芝生で覆われるのみとなっていたのですが、ほかの所であまり見ないような
気がするのは、転落石という、かつて石垣の一部だったものが転落した
大きな石がそこいらに散らばっているということでした。
天守閣へはさらに少しだけ階段道を上りますが、発掘調査中の
ビニールシートも痛々しい谷を見下ろし、その向こうには小牧からその周辺に
至るまでの広範囲の街並みが、曇り空の下に広大に広がっているのが
見られるようになってきました。

天守閣の建物は明らかに再建だし、そもそも今日は開館すらしていない
わけですが、足元は街並みの風景を広大に見渡すことのできる素敵な
展望台のような所になって、地元の人々が時折散歩に訪れる素朴な景勝地
といった感じでした。
背景におそらく養老山地や鈴鹿山脈の山影がそびえたち、広大に広がる
平野は、民家も集まりますが高速道路沿いの大きな工場のような
建物たちの姿も目立つ街並みとなります。
そして方角を変えれば市街地に直接寄り添う丘陵に電線が渡されている
様子も見られ、その山並みの背後にはおそらくアルプスの、頂上を白く
した山が横長に広がっているのも見られます。
何かと痛々しい所が多い城跡でしたが、山城らしく素敵な展望に出会えた
嬉しさを感じることができました。

頂上から下山して森の中の階段道を下り、さっきのタブノキの所から
杉林の大きく屈曲する道をゆっくりと下って、北側の搦手口から城跡の
外に出て、道幅は広いけれど時間的なものか至って交通量の少ない道を
横断して、時々古めかしい建物もあるけれど何ということはない住宅地へと
分け入り、その中に一つの区画を占める間々観音という小さなお寺を
訪れました。

さほど広くない境内に種々のお堂がひしめく小さなお寺には、辺りの様子に
比べればそこそこたくさんの人が集まっていて、重厚な瓦屋根の山門を
くぐるといきなり新しい、女性の胸を模った石から人感センサーによって
お乳を模した水が流れ出すオブジェに出迎えられるわけです。
さっきの小牧山の中で関係の深い場所を見つけられたのは実は計算外だった
のですが、ネットで情報を得ていた通りここはお乳の観音様で、
紅葉の名残を残すきれいなコンパクトな境内のあちらこちらにそういう
オブジェがあったり、重厚な本堂と一体化しているお守り処にも、
女性の胸を模った立体的な絵馬やお守りが売られていたりする、
何ともおおらかなお寺です。
初詣の家族連れも多く、そういうのがちょっと恥ずかしいお年頃と思しき
男の子の兄弟も普通にお参りしているのが、ちょっと微笑ましくも
ありました。

間々観音の周辺の素朴な住宅街は、近くを通る幹線道路と高速道路まで
広がり、小牧インターを近くに擁する幹線道路沿い、特に対岸の村中新町
という所には巨大な商業施設も並びますが、対岸でも奥へ進めば、
素朴な住宅街になっていきます。
村中新町から間々本町の素朴な住宅街を適当に彷徨い、また小牧城址の
丘の足元へと舞い戻ってきて、まだ見ていない帯曲輪地区の芝生の広場を
散策したり、それを囲む土塁の一部が削り取られて断面がガラス張りの
建物に覆われて展示されている所を見つけ、土塁が成長していった過程を
学んだりすることができました。
お昼時となって園内にも、そしてここから小牧駅へ戻る大通りにも、
人の往来が若干増えてきたような感じがしてきました。

荷物を小牧駅に預けたまま、地下の小牧駅から犬山行きの列車に乗りこみ、
地上に出て住宅街や工業地帯を北上して、田県神社前駅に降り立ち、
その神社を目指して歩いていきました。
駅の周辺は何でもない住宅街、そして目的地は交通量の多くなりつつある
大通りに面していて、鉄道でも車でも便がいい所にある、鳥居は大きい
けれど境内はコンパクトにまとまっている神社でしたが、駅から歩く人の
流れもでき始め、また大鳥居の前に設けられている駐車場も徐々に
埋まりつつあるような感じになっていました。

田縣神社の大鳥居の内側に並ぶ露天にはたくさんの人が群がっていて、
賑やかな雰囲気となり、そこで売られる食べ物も、どこにでもあるような
ものが多かったのですが、この神社のご神体をモチーフにした、
珍呆参というカステラっぽいお菓子も売られていたりして……
もちろんチョコバナナもあったり。
本殿に詣でる人の列はかなり長く続いていましたが、その裏手に入り込んだ
所に佇む奥宮にも本殿ほどではないもののたくさんの人でにぎわって
いました。奥宮の周りには男性器の形の自然石が奉納されて飾られていたり、
道端に柵の代わりに多数並ぶ角柱の石の上も男性器の形になっていたり、
奥宮の中にもおそらく木製のものが祭られ、軒下には鐘の代わりに
吊り下げられと、たくさんの男性器にたくさんの参拝客が集まっていて、
なんというかおおらかな感じの境内となっていました。
お守り処でもそういう形のものをいくつか見ることができました。

田県神社前駅に戻り、引き続き犬山行きの列車に乗って、住宅地が途切れ
丘陵に囲まれて広大に田園が広がる一駅間を乗車し、楽田駅へ進みます。
ここも駅の周辺は何でもない住宅街でしたが、駅から周囲を囲む丘陵に
向ってまっすぐ道が伸び、その道には渋滞したたくさんの車の列が
できていました。
道の先に大きく横たわる丘の中腹にある大縣神社を目指す車の列であり、
駅から歩いて向かう人は実はあまり多くなかったのですが、現地に近づいて
駐車場が見られるようになると、駐車場から歩いて向かう人の列が徐々に
形成されるようになっていきました。
道は建物の間から田畑ののぞくのどかな緩やかな登り坂になっていき、
やがて大鳥居が現れ、たくさんの人でごった返す賑やかな境内へと進みます。

大縣神社も一見コンパクトな境内に、古めかしい黒っぽい木造の本殿、
丹の色鮮やかな神殿の姫の宮、黄土色の神殿の大黒様恵比寿様が祭られて
いるらしい神殿と、それぞれに行列ができる大きめの神殿が集まり、
境内を囲んでいるかのような急斜面は切り開かれて、梅園となっていて
上ることができるようにもなっていました。

たくさんの人でごった返す領域はこれくらいなのですが、実は境内地は
これらを囲む丘陵の奥にまで続いているようでした。
山から下ってくる渓流のほとりが参道のように固められ、緩やかな坂を
登っていくと、姫岩という天然石が祭られている小さな祠がありました。
要はこの大縣神社はさっきの田縣神社と対を成す神社ということで、
女性が祭られる神様ということになるようなのです。もっとも、おおらかな
雰囲気だった田縣神社とは異なり、こちらの方はこの姫岩くらいなもので、
あけっぴろげの性器に人々が群がるような光景はこちらの方にはないように
感じられます。

そして参道は緩やかな登り坂となってさらに奥へと続いていきました。
道沿いには森に囲まれてたたずみたくさんの錦鯉たちも優雅に泳ぐ
溜池が2つほど見られ、下の方の池は小さいけれど周囲に遊歩道も巡らされて
静かな水辺の雰囲気で心を洗うこともできるようになっています。
そしてさらに奥へ進めば奥宮への鳥居が2つほど立ち、丹の色の2つ目の
鳥居をくぐれば、道は完全に森の中の登山道となっていきます。
うっそうと茂る森の中のしっとりとした静かな、若干滑りそうな道を
ゆっくりゆっくりと登ってたどり着いた奥宮は、森に囲まれた静かな
斜面に小さな祠が鎮座し、背後の斜面の上部に巨大な岩盤が露呈している
だけの所でした。しかしその巨大な岩盤が落ちてこないでそのままの形を
保ち続けているというのもまた神秘的な風景であるように感じられて、
暫し森の中で静かな時を過ごすことができました。

山を下って混雑する領域へと戻り、大鳥居から曇り空の下に若干の街並みの
展望が開けていたのを見てから、混雑する参道を下っていきました。
最も域をそのまま逆にたどる感じで、街並みが開けてくるころには、歩道を
歩く人の姿もみるみる少なく、最終的には全く見られないまでになって
いきました。
次に列車に乗る前に、駅の近くにある楽田城址という史跡を見ていくことに
しました。やはり何でもない住宅街の中の道を進むと、大きな小学校の
敷地に隣接するように、軽く木々で囲まれている、若干土の盛られた
領域があって、石段で上るその上に記念碑だけが残るような所でした。
それなりに由緒のある所のようでしたが、要は隣の小学校に跡地が
ほとんど侵食されてしまって痕跡がほぼなくなってしまったとのことで、
帰り道をたどりながら振り返ると、小学校の敷地に至るまでが若干の
登り勾配になっているような気もしないでもありませんでした。

辺りに若干夕暮れの気配が感じられるようになったころ、楽田駅から
今度は平安通行きの列車に乗って南下し、広大な田園から住宅地、
工業地帯からピーチライナーの高架と同じ道をたどり、また小牧駅へと
たどり着いて、さっきと同じ駅なんだけど日当たり具合がちょっと違って
きたような気がする街へと再び旅立ちました。

街なかで見つけた地図に載っていた上街道という古い道沿いにどうも
史跡が点在しているらしくて興味をひかれ、今日のメインイベントがほぼ
終わった所でもう一度この街に戻ってきたわけです。
小牧城へ向かうメインストリートを進み、お寺の姿が見られるようになった
所で分け入った脇道がその街道となりました。確かに地図にあるように、
屋根神様の乗る街道沿いの商店を見つけることはできましたが、ほかにも
屋根神様はいるはずなのにもしかしたら取り外された後かもしれない領域を
もつ建物になっていたりして、見逃しているのかもしれないけれど、地図上で
あるはずの由緒ある建物を見つけられなかったりもしてしまう道です。

少し進んだ所には岸田家という旧家が、屋根神様を乗せた古めかしい黒い
板壁の建物を示していました。その交差点には近辺にあったはずなんだけれど
痕跡のなくなってしまった代官所跡についての説明版も建てられ、
歴史はある道なんだろうけれどちょっと原型を失いすぎている道なのかも
しれないなと感じることとなりました。
ただ代官所跡にあったとされる福禄寿像が展示されていたことだけが、
昔の面影を伝えてくれるのみでした。

ここから先の道はさらに歴史の痕跡の見られない普通の道となり、時々
古い丸ポストが佇み、まれに秋葉神社などの小さな祠が立ち、
重厚な瓦屋根の山門を持つお寺なんだけどお堂の前には鳥居が立って
狛犬もいるようなものが現れたり、楠の大木がうっそうとした杜を作る
神社の境内へ誘う鳥居が現れたりするくらいでした。
まだまだ続く道だったのかもしれないけれど、東西方向の大通りと
交差した所で東へ折れ、そのまま小牧口駅を目指して歩いていきました。

小牧駅の隣の小牧口駅は、線路が掘割を通っているせいで外界から
線路を見ることができず、何もない所に駅舎だけが立っているので
うっかり見落としそうになってしまうところでした。
構内も周辺も工事中のところが多い小さな駅ですが、ホームには
それなりに列車を待つ人の姿が見られる所でした。
小牧口駅から犬山行きの列車に乗れば、すぐに小牧駅に向かって地下線に
潜ってしまい、暗闇の中を小牧駅まで進むのみ。
そして地上に出て、並走するピーチライナーの高架との分岐点となる
小牧原駅を今日最後の下車駅とすることにしました。

夕暮の雰囲気が刻一刻深まってくる時間で、駅のホームからは頭上で
線路を跨ぐように寄り添ってくるピーチライナーの高架線との間の空から
夕陽が雲間から強いオレンジ色の光を降り注いでくる幻想的な風景が
見られ、この風景に列車が入ってきたらきれいだろうなと思って、
次の列車がやってくるのを待ってみたのですが、その短い時間の間に
夕陽は厚い雲の間に隠れてしまうなんていうこともありました。
高架上のホームから地平の改札外へと出てみると、すぐ近くに並走する
高架の下に、ピーチライナーの小牧原駅だった無機的な色形の建物が
シャッターを下ろして静かに佇んでいました。こちらの方も、小牧原駅と
いう駅名をはっきりと表示したままの、ぱっと見廃墟だとは思えない
たたずまいです。
より高いところまで登って名鉄の線路を跨ぎ越した高架線は、名鉄の
線路とは直交する大通りの上に躍り出て、暗くなっていく曇り空の下、
大通りとともにさらに奥を目指して伸びていきます。

そして素朴な飲食店がわずかに軒を連ねる線路沿いの道を、小牧駅の方向へ
歩み進んでみれば、高度を下げた2つの高架橋を跨ぎ越すように、どこにでも
ありそうな歩道橋が架かっていました。
歩道橋の上に登ってみれば、目の細かいフェンスが視界を妨げていましたが、
それでもピーチライナーの高架線上に建つホームの姿や、そこから坂を下る
ように伸びてくるピーチライナーの線路に落ち葉の堆積が始まっているのを
良く眺めることができました。
外から見る限り死んだ建造物であるようには見えないものでしたが、
落ち葉が取り除かれないのを目の当たりにすると、やはり死んでしまった
線路なのかなあという寂しい気持ちもにじみ出してきます。
なんでこういうことになってしまったのか、有効活用する方法はなんか
ないものなのかといろいろなことを考えながら、並行する線路に元気に
名鉄の列車が往来するのを見送っているうちに、辺りはどんどん夜の
雰囲気へと変わっていったのでした。

こうしてほぼ今日の旅を終えて名鉄小牧線の列車に乗り、一旦小牧駅で
下車して荷物を回収してから、夕方になって発生するようになった小牧駅
折り返しの便に乗りこんでそのまま名古屋市営地下鉄の領域へと進入、
平安通から名城線左回り、そして栄から東山線と、名駅まで直行できない
のは何とかならないものかしらなんて思いながら大荷物の重さに耐え、
そして名古屋駅での最後の夕食は、目論んでいた地下街エスカの中の店が
エスカごと休業という状態だったので、結局いつも名古屋に来た時にお世話に
なっている太閤通り口の飲食店街であんかけスパゲティとしゃれこみ、
あとは最終のこだま号を待つ待合室の時点で晩酌を始めて、車内ではほぼ
ずっと寝て過ごして東京へと帰り着いたのでした。
 

岐阜市街、各務原市(2019.12.31)

murabie@岐阜市です。本年もよろしくお願いいたします。
例によって昨日、大晦日の旅の報告です。

今日はまた雨が上がって、路面こそ濡れていたものの空には大きく青空が
広がり壮快な気分でのスタートとなりました。少なくとも朝の時点では
冷え込みも厳しくなかったような気がします。

岐阜にいられるのもほぼ今日が最後だったのですが、まだ柳ヶ瀬とかに
行ってなかったことを思い出し、急遽予定の最初に組み込んで、
JRの駅をスルーし、きんきらきんの織田信長像の方の金華橋通りを
進むことにしました。
道幅はとても広く、とても大きなビルの集まるオフィス街と言った感じの街
ですが、大晦日でしかもまだ朝早いせいか人通りも少なくひっそりと
静まり返る感じでした。
ビルに入居する繊維織物問屋街も、入口からシャッターを下ろしています。

賑やかそうだけどひっそりと静まり返る寂しい街を、文化センターを経由し
高島屋の建物に向かってまっすぐ進むと、神社の杜が広がる手前に、レンガ
敷きの洋風に綺麗に整備された金(こがね)公園という小公園が
広がりました。園地の片隅には、フェンスで囲まれているけれど中に主は
いない、短くレールの敷かれた空間がありました。もしかしたら駅前に
今いる丸窓電車が少し前まではここにいたのかも知れません。
隣の鬱蒼とした杜に包まれる領域が金神社となるのですが、大鳥居が
今まで見たことのないきんきらきんでした。神殿は丹の色で塗られ、
参道には狛ぎつねもいたので、稲荷神社の系統なのかもしれません。

ここから少し北上し、大通りを横断すれば柳ヶ瀬の領域となります。
大きめの通りからちょっとした路地に至るまでアーケード街となる感じ
でしたが、入り込んだ道は比較的広い劇場通りという道でした。
空いている店はまだ殆どなかったけれど、多分朝早かっただけなんだと
感じられる綺麗さは感じられました。高島屋の前だけは道幅も広くなり、
赤い絨毯まで敷かれていたりしました。

高島屋からもう一区画北に進んだ所で東西方向に交差する通りが
柳ヶ瀬本通りというメインストリート的な存在であるようでした。
外海の大きな通りに囲まれている分には、専門店や飲食店の集まる
ちょっとした商店街といって済まされるのでしょうが、
金華橋通りを渡って西側へ歩みを進めると、ちょっと様相が変わってきます。
アーケード街はアーケード街なんだけど、キャバクラとかフィリピンパブとか
ヌード劇場とかいわゆる大人のための店、そして案外勢力を示している
無料案内所とか、そういった類がアーケード街に並ぶというのも、他では
あんまり聞いたことがないような気がします。
交差する路地にもそういう雰囲気があって、まあそれはどこにでもある
ものだとは思うのですが、ちょっと珍しい風景であるように感じられました。

柳ヶ瀬本通りを戻って東へ進み、バスでも通った長良橋通りを南下しました。
バスからも見られたとおりの文句なく賑やかな通りでした。
徹明町というバス停のある大きな交差点にはドンキが建っていますが、
10年ちょい前まで路面電車が通っていたはずの道、でもそれを想像させる
ものは見つけられないままでした。
南へ下ればバスからも見られた円徳寺というとりあえずお堂はとても大きい
お寺が道沿いに現れます。楽市楽座の発祥の地とかいう史跡案内も
見つけられます。

とりあえず名鉄岐阜駅に戻ってきて、明日使う予定のもしかしたら元が
取れないかもしれないフリー切符を奮発して購入したのち、
今度は名鉄各務原(かかみがはら)線の田神駅へ向かって一駅間を散策して
いくことにしました。
大通りを西に外れれば素朴な街並になり、溝旗公園という、広場に
遊具と樹木が配された小さい公園が現れ、まだ紅葉が残る樹木を見つけたり
しながら奥へ進むと銅ぶきの大きな神殿が大きな青空のも都に静かに佇む
溝旗神社の神域となりました。
そしてさらに西へ進めば、小さくなった建物越しに、小さく見える岐阜城を
ちょこんと頂上に載せる金華山の巨大な丘陵が、いくつかのの丘陵を従えて
快晴の青空の元堂々と美しく聳えるようになりました。
道沿いには大きな工場も現れるようになり、そして引き続き現れる素朴な
市街地の中に、田神駅が現れました。

田神駅はまだ路面電車があった頃、当時の新岐阜駅の電停ではなく鉄道の
駅の方に乗り入れる線が鉄道線と合流していた駅ということを知識として
知っていて、その遺構を見つけられればと思っていたわけです。
ネット情報も参考しながら、あの空地が低床ホームの跡か、線路が分岐
していた跡か、なんていう見当をつけたりしたわけですが、分岐した
路面電車がそのあとたどったルートはちょっとわかりにくく、
一応次の市ノ坪駅があったというパチンコ屋のところまで行ってみて
あそこだけフェンスが新しいから鉄道がなくなってから作られたのかな、
なんて、水路に立つフェンスを見て想像を巡らせることしか
できませんでした。

田神駅から名鉄各務原線の犬山行きの列車に乗り東へ向かいました。
岐阜の街の勢いはすぐに弱まり、基本的には民家をわずかに含むのどかな
田園が、岐阜城を載せる金華山などの山並みに囲まれる風景となりますが、
駅の周辺だけは民家が高密度で現れる感じとなります。
各務原市の市街ということになる新那加以降では基本的には田園は劣勢と
なり、小さい民家の集まる住宅地が主になりますが、特に三柿野辺りでは
いかつい川崎重工の大きな工場に寄り添われる異質の車窓が展開します。
そして、そういうシステムだということを初めて知ったのですが、
毎時4本走っているうちの2本は新那加駅から急行に変わるということで、
一部の駅を通過してしまいます。乗った時点では普通列車という案内
だったので、降りようと思っていた苧ヶ瀬駅に停まらない列車であると
いうことを乗ってから知らされ、仕方なく名電各務原駅で次の列車を
待つことになったわけです。

苧ヶ瀬(おがせ)駅に着くと、住宅街の背後にはだいぶ大きい、
筑波山のように峰を二つ持つ丘が壁のように聳え立ちます。
2つの峰のうち左側の一つはごつごつと、岩盤が露呈している荒々しい
様相ですが、基本的には所々紅葉の名残を残す森林に覆われています。
周囲の道も基本的には素朴な住宅街でしたが、目的のおがせ池へ向かう
ために道を北上すると、左手のやはり丘陵を背景とする風景に
まだ見を残した柿の木が佇み、のどかな田園風景を作ります。
程なく郷戸池という小さい四角い溜池が、双丘の大きな山の足元に
現れます。水量のあまり多くない池でしたが、石垣で囲まれた島のような
所に樹木が密生して森ができているのを見ることができます。
そして丘に囲まれた素朴な道を北上すれば、すぐにおがせ池へと
たどり着きます。

おがせ池は対岸の双丘の丘までの間に大きく広がる農業用の溜池との
ことですが、周回するように遊歩道が巡らされ、南東端には小さい広場の
園地も設けられています。
辺りには北風が強く吹くようになり、空も快晴というわけにはいかず
黒い大きな雲も広がるようになり、天気が崩れた翌日は晴れていても
強風とにわか雨に襲われるという、この旅の最初の方のパターンと
似ていることに気がつきました。
雨は降ってきていませんが風は冷たく、水面にも細かい波がたくさん
立っている状態です。

巡らされている遊歩道を反時計回りに巡ることにしました。
池の南西端から入ったので、まずおがせ公園という芝生の広場へ
進みます。対岸だった大きな丘が壁のように立ちますが、岸辺には
他の所でも見たような木造の焦げ茶色の灯台が穏やかに立ち尽くします。
そして、大きな丘の中腹まで広がる住宅街の足元ともなる遊歩道をのんびり
歩けば、対岸の西側も街並の背後に丘陵が控え、場所によっては一部を
切り刻まれたいような姿を示す丘陵の姿も見ることができます。集落の
中には苧ヶ瀬神社という小さい素朴なお社も静かに佇みます。

池の北東端には八大白龍大神というお社が建ちます。
お社自体は小さい素朴なものですが、岸辺がテラスのようになって水面を
大きく見渡すことができ、そして水の中には大きな鯉がたくさん
住んでいて、家族連れが餌付けをすることもできるようになっていて、
子供が麩やえびせんを投げるとたくさんの大きな鯉たちが脇目も振らずに
襲いかかるような激しい風景が展開するのを、一緒に眺めさせて
もらいました。

道は池の西岸へと回り込み、双丘の丘が大きく聳える山懐に抱かれるように
麓から少し高い所にまで住宅地が広がる様子を眺めて引き続き散策を
続けていきます。
すぐ先には八大龍王総本殿という瓦屋根の真っ赤なお社が建ち、初詣の
準備に取り掛かっているところでした。沖合に石垣で囲まれた島のような
ものが設けられ、黄色い祠も佇んでいます。

ここから岸辺には芝生の広場が広がるようになり、その周辺には比較的
古めかしい木造の民家も多く集まって、素朴な風景を作りますが、
園地が途切れると岸辺にも商店が現れ、最後は遊歩道という感じではない
普通の道となりました。それでも駐車場が現れれば穏やかな水面を広々と
足を止めて眺めることもでき、単なる溜池では済まされない、憩いの場と
なっている大きな池の姿を存分に楽しんで出発点に戻ることができました。

おがせ池をあとにして郷戸池の所まで戻り、苧ヶ瀬駅ではなく隣の各務ヶ原
駅に戻るために、丘陵の足元を回り込むような道へと歩みを進めると、
街並は大通り沿いだけに広がると見え、この道沿いには畑が広大に
広がって、住宅街と丘陵に囲まれるのどかな風景が大きく広がりました。
風が強くて歩きにくかったのですが、各務ヶ原駅が近づくと、手前の丘陵に
隠れて見えなかった、切り刻まれて直線的な模様と大きな色の違う領域を
示す小山の姿も大きく眺めることができるようになりました。

畑を囲む住宅地の中に分け入れば各務ヶ原駅の姿は見られましたが、
駅の入口に入るには、大通りへ迂回する必要がありました。
国道21号に出れば、まさに車にとっての幹線道路といった感じで、
道幅もものすごく広く、交通量もものすごく多く、そして道沿いには
郊外型の巨大な飲食店などが建ち並びますが、さっきの道みたいに
のどかな風景をのんびり楽しむというわけには行かない、どことなく
落ち着かない風景となってしまいます。

JRの駅は各務ヶ原(かがみがはら)、一方ここから大通りとは
直行して伸びはじめる駅前通の店並に隠れるように小さく存在する
名鉄の駅は名電各務原(かかみがはら)と、表記も読み方も異なって
いたりします。
素朴な雰囲気であまり賑やか過ぎない静かな道が暫く伸びていました。

JRの駅に暫くしてやってきた岐阜行きの列車に乗り込んで、大きな建物の
集まる街を抜けると、丘陵に囲まれるのどかな田園の風景が広大に広がる
風景がつかの間車窓に大きく広がりましたが、すぐに川重の大きな厳つい
工場達が車窓を埋め尽くすようになり、次の蘇原駅へと進んでいきます。

ここに来たのは昨日に続いてベトコンラーメンが食えそうなお店がある
という情報を得たからだったので、とりあえずその店を目指して、無人駅
だけれど新しくて綺麗な駅舎をあとにし、駅前通りを北上しました。
道の左手には普通の住宅街、右手には工場が広がる道を、正面の大きな
丘陵に向かうように歩き進むと、東西方向の大通りと交差し、そのまま西へ
歩みを進めて目的地を目指しましたが、情報通りの派手な外観の店は
見つけられましたが、次の営業日は新年の8日だという、予想通りの展開と
なりました。

そのまま、さっきの道と平行な南北方向の道を南下していきました。
これと行って特徴のない、やや広めだけれど交通量も少ない静かな
道を南下し、JR、次いで名鉄の線路を横断すると、とても交通量の多い
国道21号と交差します。
その先には自衛隊の感謝であるらしい大きな集合住宅が集まり、その
隙間に管制塔らしき建物も除かれましたが、飛行場の姿を大きく眺める
ことはこのあたりではできなさそうでした。
国道沿いも空港側には壁が並び、中の大きな建物は見られるけれど、
飛行場の姿をうかがうことはできません。
反対側にだけ大きな飲食店や民家が現れますが、飲食店も今日から休業に
入ってしまっているようでした。

国道を東へ進むと、程なく道沿いは川崎重工の、巨大で様々な形の建造物が
つくる厳つい風景へと変わっていきます。
風は強いままでしたが方角によっては空の青さも復活し、広大な青空の元に
厳つい工場群の姿が明るく広がる風景が展開するようになります。
自衛隊の施設だった国道の右手も川崎重工に変わり、そして国道は名鉄の
線路を跨ぐために高架へ上っていきます。
歩道も工場が入り組むような風景の中で、みかきのこ線橋という、
ひらがなで書かれると可愛らしい名前となる歩道橋となって、
先に高台に上った車道の高さに追いついていき、広大な空の元に
工場や、下る方向には削られた山を背景とする街並、そして建物の間に
はまり込むような名鉄の三柿野駅の姿も大きく捕らえることができました。

三柿野駅をあとに、工場群の間の細い道を北上していくと、道幅が狭いので
少し薄ぐらい感じもしてしまいましたが、JRの線路沿いに出て西の方へ
進むようになると、広大な青空の元に工場群のいろいろな形の建物が
明るく映し出される風景が展開するようになり、工場群に囲まれて広大な
構内を広げるJRの蘇原駅へと戻っていくことができました。

蘇原駅から高山線の列車で一駅西へ向かい、素朴な住宅街の中に大きな
マンションなどが混ざり、桜堤の川を越えて学校の敷地をかすめていって
次の那加駅に降り立ちました。

那加駅も綺麗な駅舎を持つ無人駅でしたが、駅前広場にあたる所を
名鉄の線路が横切っていくような作りになっていました。
駅からまっすぐ伸びる大通りには民家と商店の入り混じる普通の街が
続き、年末で賑わう小さいスーパーなんかもあって、こっちのほうが
各務原市の中心駅に相応しい雰囲気であるような気もしてきます。
東西方向の大通りに交差すると、道を大きなアーチ状の構造物が跨ぎ、
なか21モールという名前を示しますが、賑やかな商店街という感じでは
なく、郵便局など大きな建物が、民家と入り混じるように街道を埋め尽くす
素朴な街並でした。
街の出口にも同じアーチが建ち、その先を南北方向に流れる新境川を
新しい石造りのような立派な橋で渡れば、裸になった桜並木は北の方へ
続いていき、南側の川が流れる方向は素朴な家並みに囲まれ、空が広く
開ける風景となっていました。

そしてその先に、各務原市民公園という大きな園地が広がっていました。
中心部分に広大な芝生の広場が広がり、強い北風で寒さを感じる気温と
なりましたが、たくさんの家族連れが思い思いに遊んでいる微笑ましい
光景が広がり、主に園地の周辺に木々もたくさん植えられ、のんびりと
散策できるような道が通されています。もともと岐阜大学農学部の
敷地だったところに新たに現代的に設計され開設された公園であるとのこと。
広い園地の北西端に名鉄の市民公園前駅がひっそりと佇んでいます。
そして園地の北辺に人工的な大きい姿を示す図書館を見て、北東端を
目指すと、いろいろなパターンで水を吹き出す噴水の広場もあって、
ここもたくさんの人が集まるスポットとなっていました。

ここから名鉄、次いでJRの踏切を越えると、鬱蒼とした森のような
薄暗い雰囲気となり、その先には似たような都市公園である学びの森という
園地が広がっていました。
公園の南端を東西に貫くメインストリートには、裸になってしまった
イチョウの木が街路樹のように規則正しく並びますが、冬ソナストリート
と呼ばれているらしく、冬の間は夜は電飾されるらしいです。
そしてその北側には、こちらも広大な芝生の園地に家族連れや
若者の集団が思い思いに楽しく過ごす風景が展開しました。
さっきのの市民公園と違い、園内に起伏があり、水路も巡らされて、より
立体感を感じられる園地であるように感じられます。
園地の北西側は大きく削られた谷のようになって、街を囲む丘陵の姿が
穏やかに広がります。園地の中に密生する竹林はこのの谷の斜面にも
広がります。そして園地の南側に池が設けられ、ここを源に、
広場を貫いたり遊歩道に添ったりして続く細い水路の水が、谷底で
おそらくもう一度池になってもう一つの水の風景を作っているようでした。
園地の東側には日だまりの丘という高い所も作られていて、さっきの
市民公園とあわせて訪れることで、いろいろなのどかな風景を楽しむことの
できる所となっていました。

学びの森の東南端には各務原市役所前駅という、名鉄の小駅としては
画一的な形ではない立派な構えの駅が立ちます。このあたり駅の間隔が
異様に短く連続するような感じです。
近辺には名前の通りの巨大な建物が佇み、また大きなスーパーや、
なんかすればコンビニなんかもあるロードサイドの雰囲気となりますが、
夜に賑やかになる大人の街の風景も垣間見られる道だったりします。

そして、飛行場通りと名付けられたこの通りをさらに南下していけば、
ようやく各務原飛行場の姿を見ることができました。
とは言ってもフェンスに囲まれ、その外側に水路が通っていたりもするので、
なかなか滑走路の姿を大きく見るというわけには行かないのが残念でした。
広大な敷地は黄色くなった草で一面覆われ、その中に真っ黒い舗装の
滑走路が存在しているようでした。そんな敷地が青空の元、遠くの山並みを
背景として広がり、フェンスの向こうには遠くの街の姿も垣間見られます。
南側の片隅にはおそらく展示用の飛行機が集められている領域も
あるようでした。

日が低くなってきて、北風の勢いも弱まらず寒さを強く感じるように
なった中、各務原市役所前駅に戻って名鉄の列車に乗り、
今度は那加の街並の西側にある新加納駅に降り立ちました。
駅前に土壁で囲まれたポケットパークがあり、蛙の像の乗る道標が立ち、
壁には旧中山道の案内図が示されます。
いわく、鵜沼宿と加納宿の間が間隔が長かったので、ここが立場という
小休所となり、間の宿新加納と呼ばれるようになったとのことで、
鉄道の駅名でよくある加納駅に対して新加納駅ということとは違い、
鉄道なんかができる遥か前から加納宿に対して新加納間の宿という
ことだったのかと、謎が一つ解けたような感じがしました。

刻一刻と辺りが薄暗くなっていく中、旧中山道の散策へと出ました。
駅の付近はどこにでもある街並といった感じでしたが、旧中山道の道と
合流すると、その近くが高札場のあとで、木造の壁のお屋敷のような
建物が道を固めています。
古いお寺への道標に従うと重厚な瓦屋根の建物がこれまた重厚な土壁に
囲まれているところがあり、これも古いお寺かと思ったら実は現役の
病院だったりするちょっと驚きの風景もありました。
道の先には徳川家が宿として使った善休寺が瓦屋根の重厚な境内を示し
初詣の準備としてか、カラフルな旗と、通路沿いに短い竹が並べられた
状態になっていました。
次の少林寺との間には説明にはなかった稲荷神社の祠が立ちますが、
これもまた古めかしい重厚な木造瓦屋根を示します。
隣接する土地は空地となっていて、雲に混じるような夕暮れ空も広がって
いましたが、旗本坪内陣屋というお屋敷のような史跡が工事中でした。
そして少林寺の境内には、大きな観音像の周りに小さい石像がたくさん
佇んでいる風景が静かに広がりました。

旧中山道の本通りに戻ると、ここにもまた、古めかしい瓦屋根の建物が
並ぶいい雰囲気の道を見つけることができました。
近くの交差点には一里塚あとがありましたが、大きめな蛙の像も並んで
立っていたりします。その、この街に蛙の像が多い理由となっているのが、
街道に口を開く日吉神社でした。
どんどん暗くなっていく参道を進むと、初詣の準備が完了したはずが、
しめ縄のかかる竹が倒れて通せんぼになってしまっている奥に
大きくないけれど瓦屋根で重厚で立派な神殿が佇みます。
昔からこのあたりの人たちに親しまれていた神社で、かつては池に
たくさんの蛙がいて、伝承もたくさんあり、げえろまつりなるものも
行われるなど蛙との縁の深い神社ということでした。公共施設と一体化
している境内地の片隅には、水こそないものの瓢箪池が復元されていて、
小さい蛙の像がたくさん、今でも遊んでいるかのように置かれて
いたのでした。

あとはだいぶ夜の雰囲気に変わってしまった街道を、那加駅へ向かって
歩いて戻るだけになりました。旧中山道も今の大通りと一致する
部分には、特に味わい深い街並が洗われることもなく、ただ時折現れる、
巨大な幟で派手に飾り付けられるけれど実態は小さい祠のみみたいな
ものだけが雰囲気を伝える道となっていました。
立ち寄った名鉄の新那加駅は実は地下道に設けられた駅で、JR駅方面にも
出口が設けられていましたが、踏切を渡らずに済むだけで、少し離れた
駐車場の奥のような所に口を開いていたので、知らない人はJR側からは
入口を見つけられないのではないかと心配になりました。

こうしてすっかり夜となった、各務原市の真の中心駅の那加駅から
高山線に乗って岐阜へと戻って行ったのでした。
宿に戻る前に立ち寄った駅構内のスーパーで各務原キムチを見つけ、
若干高めだったけれど奮発し、部屋での晩酌のあてにしてみました。
なんというかいつものキムチよりもマイルドな感じでおいしかったです。
 

荒尾、旧中山道赤坂宿~垂井宿、新垂井駅(2019.12.30)

murabie@岐阜市です。今日も昨日の報告です。

今日はあいにく本降りの雨のスタートとなってしまいました。午後は小降りに
なるものの夕方まで降り続く予報とのことで。
今日は再び大垣方面へ向かうべくJR駅から東海道線の下り列車に乗り込み、
数日前に見た、素朴な住宅街や工業地帯や田園を外苑から取り囲んでいた
金生山や切り刻まれた山や、さらに背後に横たわる山並みの姿が
全く見られない、薄暗い車窓となっていました。

大垣から引き続き、この前慌てて飛び乗ったのと同じ養老鉄道の揖斐行きの
列車に、今日は駅の構造を観察できる余裕を持って乗り込んで、大垣の素朴な
市街地を行く列車に少しだけ身を任せました。
室を出て列車は急カーブを切り、いきなり切り通しのような風景となって
JRのガードをくぐり、並走する崖に遊歩道が通されているのを見て、すぐに
北大垣駅へとたどり着きます。

ホーム1本、一応綺麗な待合室はある北大垣駅をあとに、しとしと雨の
降る中、線路に寄り添ってきた堤防の上に上ってみることにしました。
どうやら笠縫輪中堤防というものだったらしく、堤の上に登れば桜並木が
続いて、北大垣駅と線路と細い水路を堤防の下に見渡すことができ、
そして線路の反対側には素朴な住宅街を見下ろします。

大垣の方へ戻る方向に堤防上の道を南下すると、遊歩道はJRの線路をくぐる
ところで終了となり、近くを流れている杭瀬川に沿う道へと誘われます。
近くに排水機場も設けられていたので水の流れが複雑そうな感じは
ありましたが、川の流れは新しい頑丈そうな無機的な堤防に阻まれて
見ることはできません。
水防施設のある所で堤防の上に登ってみると、確かに2つの川の流れが
合流する所に人工的に複雑な水路が形成されているかのような様相で、
どの流れにも大量の水が流れ、その向こうにJRの線路を背景として
水田が広がるのを眺めることができます。

時折、JR東海の通勤電車だけでなくたまにはひだ号やしらさぎ号なんかも
高速で駆け抜けていく様子を眺めつつ、杭瀬川と菅野川という2つの川が
合流すりゃいいものをいつまでたっても並走しているのを守る、
新しい堤防の上をのんびり散策すると、東西方向の大通りと合流します。
通り沿いには住宅街も発達しますが、橋の上からは大きな曇り空のなかに
金生山の姿がわずかに垣間見られている感じでした。

大通りを西の方へ進みましたが、時々古い建物も現れますが、少なくとも
通り沿いにはさほど味わい深い建物があるわけでもなく、しとしと雨の
降る中ただひたすら移動をするといった感じになってしまいます。
やがて高架の高速道路と、並行する幅の広い大通りと交差すると、
道沿いには郊外型の大きい飲食店などが現れるようになり、
そして交差点から離れるほど、普通の街並には戻るけれど、JRの荒尾駅が
近づいてくると、瓦屋根の建物が増えてきて、銀行なんかも現れはじめて
様相が少し変わってきます。
JR赤坂支線の踏切が近くなってくると、御首(みくび)神社への道標が
現れはじめて、その案内に従うように交差する路地へ歩みを進めると、
宇留生(うるう)小学校の敷地に沿うような道となり、程なく踏切の先に
うっそうとした森を広げる神域が姿を表しました。

踏切の所に、カーブを描く線路に沿うような、ホームと待合室のみの
赤坂支線の荒尾駅が静かに佇み、踏切を越えて神社の神域へと歩みを
進めれば、境内は差ほど広くはないのだけれど高密度に綺麗な神殿が
密集し、初詣の準備もしっかり整って、おどろおどろしい名前を
大きく掲げる幟もたくさんはためく御首神社の境内となりました。
関東で討ち取られた平将門の首が京都に運ばれたのち、その首がまた
関東へ戻るように飛んでいってしまい、関東に戻ってまた反乱を
起こさせないように矢で撃ち落としたらこの地に落ちてきたという伝説が
このおどろおどろしい名前の由来となっているようでした。
神殿の裏山の鬱蒼とした森には古墳も存在するようです。

荒尾駅はすぐ先に東海道線の本線との分岐点のある駅で、この駅を通る
列車は朝夕は上下それぞれ1時間に1本という静かな駅ですが、近くを
通過する本線には頻繁に列車が駆け抜けていきます。
神社側の線路に沿う道を歩むと、本線と支線が分岐して大きく二手に線路が
別れる所に、宇留生公園というただの広場が広がるのみの児童公園が
小さく広がって、往来するいろいろな列車を眺めることができます。
そして駅に一旦戻って反対側の、北東側に広がる新興住宅地を散策すれば
くまの南公園という小さい広場の近くで、まさに本線と支線の分岐する
南荒尾信号所の近くにたどり着くことはできたのですが、道路が線路よりも
やや低いところにあるせいで、まさに線路が分岐している様子を見られる
ところを見つけることは結局できませんでした。

少し早めに荒尾駅に戻って、雨を避けるように小さい待合室に引きこもり、
そしてやってきた美濃赤坂行きの列車に乗り込んで、先日も眺めた田園風景が
雨に濡れている風景を眺め、山がちな風景となって、貨物駅のおかげで
広い構内を広げている美濃赤坂駅へと進みました。
さすがに間近なので、金生山の姿もうっすらシルエットとなって
浮かび上がります。

駅をあとに、今日はなおさらしっとりした雰囲気を示す、瓦屋根の小さい
民家の密集する赤坂の街並の路地へと分け入り、先日は訪れていなかった
お茶屋屋敷あとという、将軍の宿泊地だった所の史跡へと進んでみました。

入る前から鬱蒼とした青竹の竹林が目立っていましたが、古い門から
入場すればそんな薄暗い竹林の中に古い井戸も設けられ、切り倒された
大量の青々した竹が路端にまとめられています。
園内や、園地の周辺にはちょっとした土塁も存在し、土塁の上に登って
園内や周辺の様子を見渡すこともでき、園内の片隅には四角い池や小さい
お社が竹林の中に静かに佇んでいるのを見ることができます。
そして園内にはやはり竹林に囲まれた石垣の上に、なぜだかさほど
古いわけではない木造の建物が、この地の主であることを示すように
静かに佇んでいます。
鬱蒼とした竹林の領域を抜けると、牡丹園の領域が広く取られていて、
わずかに大きな花をつけている株もありましたが、今日のところは
ただ明るい広い敷地を広げているのみといった感じで、さっきの大きな
建物が穏やかに佇む様子が牡丹園側からも美しい風景として眺められる
そんな穏やかな庭となっていました。

園地をあとにして再び赤坂の古い町並みへ出て、旧中山道に復帰し、
今日は街を抜けるように西へと進むことにしていました。
街道沿いに高密度で現れる、古い瓦屋根の木造の、うだつや格子戸の
商店や民家の建物達に見送られて緩やかな坂を上ると、宿場町の出入口の
ような所に兜塚という、首の代わりに兜をとかいう戦国の世の史跡が
佇み、その場所に御使者場跡という石碑のみが佇みます。
そしてここには配線となった貨物線が交差していた踏切の跡もあり、
道路上や道路の北側の道からはレールは剥がされているようでしたが、
南側にはレールもずれながら残っていて、大量の黄色い枯れ草に
埋もれそうになりながらも、しっかり配線跡であることを示すように、
周辺の民家や田畑に囲まれながら、その間を縫うようにカーブを描いて
敷地を確保し、街中にそびえるお勝山という丘陵の足元へ向かって
伸びていました。

このあたりが赤坂宿の末端となるようで、古い建物の現れる頻度は
極端に下がりましたが、道の北側には迫りくる丘陵の表面を埋め尽くす
ようにして、厳つく巨大な石灰の工場が広がるようになりました。
石灰の工場の足元には踏切の跡のような構造も見られ、その周囲に芝生の
ような植物が広がった空地も見られ、きっと少し前までは貨物駅も
あったんだろうなと想像できました。

そして西へ歩みを進めていけば、昼飯(ひるい)大塚古墳という史跡への
新しい道標が現れて、それに誘われて住宅地の中へと歩みを進めてみました。
こんもりと小高い丘を園地の中に擁する小さい公園を横目にして歩むと、
復元された巨大な前方後円墳が広い園地の中に突如として現れ、
埋もれそうな丘といった感じのものを想像していたのを見ごとに
打ち砕かれた感じでした。
公園分の部分の一部のセクターは建造された当時の様子を復元していて、
斜面には岩が敷き詰められ、そしていくつか地面と平行な通路のような
面には埴輪が整然と並べられます。
そして小高い古墳の上には上ることもできて、周辺を囲む瓦屋根の建物の
集まる住宅地や、近辺の石灰岩の工場が白い水蒸気を盛んにあげている
様子、そして若干雲が薄くなってきて見られるようになった山並みの姿が
大きく見渡せるようになっていたのでした。

旧中山道に戻り、時々古い建物、特にこの辺りで時々見られる、妻面の
屋根の下に模様や文字が目印のように示されている建物や、
岐阜大学旧早野家セミナーハウスなんていう古い建物にちょっとした庭園も
併せ持っている領域をかすめたりして、雨が若干弱まってきたなか、
引き続き西へ西へと進みます。
やがて前方にJR東海道線の、地図上では本線から大きくはなれて迂回して
いるように見える上り本線が現れてきた頃、道端には如来寺という
小さいけれど綺麗なお寺が現れます。
難波の海底から回収された如来像が信濃の善光寺へ運ばれる途中、
この地で供養されたとかなんとかいう縁があるお寺らしいのですが、
このあたりの昼飯(ひるい)という地名も、その一行がこの地で昼食を
とったという故事に因んでいるとかなんとかいう説明板が掲示されて
いました。

そして坂を下り、築堤の上に伸びる線路をくぐっていくと、今度は
青墓という集落へと進んでいきます。
相変わらず、時々古い建物が現れるしっとりとした味わいの古い町並みを
のんびり歩き進むことができます。
道から少しはずれた所には粉糠古墳という前方後方墳が小高い丘となって
石垣で囲まれ、街道側は家並みに、反対側は田んぼに囲まれていたのですが、
面白いのは大昔の墓が、現代に至っても墓地として活用されていると
いうことで、小高い丘には自由に登って墓参りができるようになっていて、
丘の上から周囲の町並みや線路の様子を見渡すこともできます。
よく見ると立派な墓石を持たない、朽ちかけた木材が墓標となっている
ようなきわめて小さい、下手したら踏んでしまいそうなお墓も
含まれているようです。

街道を進めば小さいけれど綺麗な白鬚神社、そしてさらに歩みを進めて
大通りと交差する直前までくると圓願寺跡という、ただの空地になって
しまっている史跡が現れます。
空地の片隅の芦竹庵という所には照手姫という、あまり運に恵まれなかった
感じの美人の墓という小篠竹の塚というものが佇みます。
少し離れて大通りの方に進んだ所には、その照手姫が使ったらしい井戸の
跡も、小さな杜に囲まれて佇んでいました。

近くで旧中山道は東西方向の県道と斜めに交差します。引き続き街道を
行くのも面白そうでしたが、行ってみたかった美濃国分寺跡という所へ
行くためには県道の方を行った方がショートカットであるようだったので、
うってかわって広大な田畑のみに囲まれるようになった荒涼とした大通りを
延々と西へ向かって歩いていきました。
遠巻きに丘陵に囲まれるのどかな道を、ほぼ傘の必要はなくなったけれど
引き続きどんよりした空模様の中歩き進むと、程なく北側の丘陵に張り付く
ような巨大なお堂を持つ現役の国分寺の姿が現れ、その足元に広がる広大な
田園の中に、史跡の国分寺跡が現れました。

史跡の国分寺跡には建物は一切残っておらず、ただ敷地の境を表す
細くて浅い堀とそれを直線上になぞる山茶花の生け垣で囲まれた中に、
点在するかつて存在した建物の跡を示す表示だけが点在する、今となっては
全く何もないところ、以前訪れた平城京跡のような雰囲気を持つところです。
北側の現役の国分寺以外に周囲に建物はほとんど見られず、丘陵に囲まれて
ただただ広い土地が広がるのみの、きわめて荒涼とした所でした。

広大な園地を北に抜ければ、壁のような丘陵の足元に現役の国分寺が
佇みます。こちらは少なくともメインの部分は新しい建物となって、あまり
広くない境内地にひしめくように建物が集まります。
そして墓地や、付随するお社等は周辺の斜面にも広がり、階段で斜面上に
登っていけば綺麗なお堂の最上層とほぼ同じ高さになって、周辺に広がる
だだっ広い遺跡やその向こうに小さい建物を集める街道沿いの町並みを
見渡すことができました。

目の前にあったラーメン屋で、ご当地グルメのベトコンラーメンなる、
揚げニンニクが具として含まれているものを昼食としていただき、
引き続き県道を西へ向かいます。
程なく大垣市と垂井町の境界となって、垂井町へ歩みを進めると、
右手の丘陵に囲まれる田んぼの中に、おそらく古墳と思われる小さい
丘が現れ、古墳であることを強調するように石と碑が置かれていたり
しましたが、なんていう名前の古墳なのかがいまいち確認できませんでした。
丘陵の間には東海道上り線が巨大な築堤の上に架線を伴って伸びている
姿を見ることもできます。

そして左手には、国分寺と対になる国分尼寺の跡地があるらしい所の
周りにある古そうな集落が現れ、瓦屋根の建物の集まる路地へと進みました。
集落の中心となるような、平尾御坊願證寺というお寺は、広い境内に
きわめて大きい瓦屋根のお堂が佇む堂々としたお寺で、裏手も立派な土塁を
巡らせて周辺の田園と接していました。
そして隣接するように、近くの威徳寺という小さいお寺の納骨堂が建ち、
その敷地の片隅に、国分尼寺が存在した場所と推定されていることを示す
石碑のみが佇んでいたのでした。

県道に戻ると、北側の丘陵が指のように伸ばしてきた丘を超える上り坂に
指しかかるところでした。とは言ってもただ単にまっすぐ登り、まっすぐ
下るだけで完了する峠越えで、引き続き歩みを進めれば北側の丘に囲まれた
領域には緩やかな登り斜面いっぱいに田園が広がるのどかな風景と
なっていました。
道沿いに現れる建物の頻度も上がっていき、いくつかの道が複雑に交差する
所へと進んでいきます。

学校や農協やコンビニが集まり以下にも要衝といった風情でありながら、
古めかしい瓦屋根の建物の姿も見られる府中という所から、さらに北側の
丘陵の方へ歩みを進め、東海道上り線と交差する地点を目指していきます。
道沿いには古い建物も多く現れますが、あくまでメインは農地といった
感じののどかな道となり、特に南側に農地が広がれば、下り斜面に広大に
農地の広がるのどかな田園の風景となり、谷の向こうにそびえる丘陵も
暑い雲を纏いながら見られるようになって、その中腹には頻繁に新幹線も
往来しているのを見ることができる所でした。

そしてそんなのどかな道が東海道上り線と踏切で交差する地点へと
差し掛かります。安田医院という、このあたりの建物とは大きく雰囲気の
異なる円形の高い建物となります。
病院の反対側はフェンスで囲まれた、草生した領域がありましたが、
踏切に出てみると、確かに線路沿いにはホームが雑草に覆われながらも
現存しているのを確認することができました。
昔から時刻表を見る度に不思議な存在として捉えられいつのまにか
消滅していた新垂井駅の遺構を、とうとう見つけることができたわけです。

フェンスで囲まれていた領域の中には、草に覆われるようにして、
東海自然歩道の案内看板が立っていて、望遠レンズ越しに見ると、
現在地として新垂井駅が記されていましたが、看板の向きから言って、
新垂井駅に降り立った旅人向けの掲示であることは間違いない感じでした。
そして、周辺の集落の路地を分け入ることで、新垂井駅のホームにも
用意に到達することができました。
ホームの両末端部は鬱蒼とした草に覆われていましたが、整備している
人でもいるのか、真ん中辺はさほど草も厚くなく、舗装もむしろ新しい
感じがして、有効長のけっこう長く取られているホームを立ち入れる範囲で
行ったりきたりしながら、ここが本当に駅として営業していた時代のことを
しばし想像にふけることができました。
密度が小さいとは言え集落の中の駅なので、利用者がいなかったわけでは
ないとは思うのですが、上り列車しか来ないという特殊性から融通が
効かせられなかったのかもしれないなと想像しました。

そしてここから垂井駅までも、延々と歩くこととなりました。年末や休日で
なければコミュニティーバスが1時間に1本も存在するところでは
あるのですが、今日のところは自力で頑張るしかありませんでした。
広大に広がる田園を見渡しながら、古い建物の集落の中の、緩やかな
下り坂となった道を府中まで戻り、ここから重厚な瓦屋根の民家ばかりが
集中して立ち並ぶ町並みを南下していきました。
雨はもう降らなくなりましたが、時間的にどんどん薄暗くなっていく
時となり、時とともにしっとりとした風情はさらに強くなっていきます。
白鬚神社に寄り道すると、鬱蒼とした境内の杜の外側に、美濃国府跡という
ここも建物は一切残っていないのだけれど、広場の中に発掘された建物の
跡を示す花壇が並ぶだけの静かなところでした。
それでも久しぶりに田園を見たので、さっきは下界のさらに奥に広がっていた
山並みが近くなり、広がる田畑も狭くなっていたことを
感じることができました。

そして相川という、河原の広い川を赤い橋で渡ると、いよいよ垂井宿の
宿場町へと進んでいくこととなりましたが、辺りはどんどん暗くなり、
中山道と交差している所に立つ南宮神社大鳥居を中心にして、古い建物を
たくさん並べる中山道を西見附まで、そしてまた大鳥居に戻って
行ったん街道からはずれて、神社の庭園のように綺麗に整備された中に
水が湧きだし池に鯉が泳ぐ垂井の泉、そして中山道にもどって
街灯で薄ぼんやりとライトアップされた古い街道の雰囲気をなんとか
味わって相川沿いに戻って東見附跡へ、そしてやはり古い雰囲気を
色濃く残す路地を南下して、古い建物のように作られた大きい垂井駅へ
戻るうちに、辺りは完全に夜となってしまっていました。

そんな形で午前中は雨、午後は曇り空のもと、一日中歩き回った旅を
無事に終えて東海道線で岐阜に戻り、夕食はこれまであまり
巡りあえなかったご当地グルメということで、厳密には岐阜市のものでは
ないのですが鶏ちゃんという鶏肉の味噌炒めをいただきました。
もちろんおいしかったし、やはりここに来たら赤出しのみそ汁でしょうと
いった感じで、満足の夕食でした。
 

国府宮、一宮市、木曽川流域(2019.12.29)

murabie@岐阜市です。今朝も昨日の旅の報告です。

今朝も爽快なまでの晴天のスタートとなりました。
今日は名鉄線で南下し、まずは普通列車しか止まらない木曽川堤駅に
下車してみました。
名前の通り、駅の北端が木曽川の堤防の上にかかり、駅舎は方向別に
堤防の上を横に長く、線路には垂直方向に伸びて、まるで鳥が羽を
広げているかのような形です。

堤防の上の風景は爽快そのものといった感じでした。
快晴の青空は大きく広がり、川面こそ河原の木々に遮られて大きくは
見られませんでしたが、川向こうには先日訪れた笠松の街と川岸の公園が
見渡され、そしてその背景に遠くから遠くまで山並みが連なり、
その中には伊吹山もあれば、頂上を真っ白にした御嶽山の姿もくっきりと
青空に浮かび上がり、吹き抜ける川風も心地好いものでした。
そしてそんな風景を背景として、目の前すぐに出入口を開く赤茶色の鉄橋に、
何度も名鉄の列車が往来し、また崖下の平野との間で緩やかな斜面を
上り下りする様子を、しばしのんびり眺めたのでした。
崖下には建物がそれなりに密集する集落があるようでしたが、そちらに
下る気分にはなれず、結局駅を去るまでずっと堤防上で時を過ごしました。

木曽川堤駅をあとに名鉄線の列車に乗り、堤防下の集落へ下り、
ツインアーチ138というらしい遠くからでも目立つタワー状の建造物や
小さいけれど真っ白い御嶽山の姿を左手にみて、隙間の田畑を多く含む
住宅街を進みます。
新木曽川駅で接続した快特列車に乗り換えると、住宅街だけでなく広大な
田園の中や、大きい工場の建物が集まる領域も進み、一宮が近づくと
高架に登って、都会のように大きな建物の密集する街へと進みます。
一宮を出るとJRや名鉄の支線と別れながら、瓦屋根の民家の集まる町並みを
見渡し、山並みに囲まれたのどかな田園の中へと下っていきます。小さい駅が
現れても広大な農村の風景のままという所もあったりしましたが、国府宮が
近づくと大きなアパートやマンションを多く含む住宅街となっていきます。

国府宮駅で下車し、周辺の見どころを巡ることにしました。
地下改札口から西側に出れば、駅ビルのようなたたずまいの立体駐車場が
大きく佇み、駅前ロータリーにも何やら大きなオブジェが佇む、それなりに
大きな駅であることを感じさせるような風景となりますが、線路と並走する
通りを北側に少し進むだけで、街の勢いはすぐに収まってしまいます。

住宅街の中に、赤染衛門歌碑公園という小公園がありました。
国府宮駅の案内地図で初めて存在を知った史跡ですが、大江匡平という
優秀だった人物と、妻の赤染衛門が詠んで百人一首に収録されている
和歌の碑と、夫婦の家にあって洗濯物を干していたらしい衣かけの松の
子孫が育っているという、さほど広くない公園が、民家の間の畑のとなりに
静かに広がっていました。
他にもいくつか、ここに来て初めて知った史跡がありましたが、見つける
ことができないまま、そのままメインイベントの大國魂神社に向かうことに
しました。

本殿の西側に立つ大鳥居をくぐると、左手にうっそうとした森を抱く神域が
現れ、程なく道沿いに重厚な木造の山門が鎮座します。
境内は左右には広いものの奥行きはさほどではなく、山門を入ればすぐに、
鬱蒼とした森に背後を固められて立派な木造の神殿が現れ、
それら神域のすべてのものが順光を浴び、快晴の青空の元に美しい姿を
示していたのです。
ここは2月に行われる奇祭という国府宮はだか祭の舞台ということで、
山門の周囲には桟敷席の枠組みが設けられていましたし、門前に構える
駄菓子屋は屋上が桟敷席として作られていたりもします。
そして山門から真っすぐ南に伸びる参道は幅が広く取られており、
どんな祭なのかは想像するしかないのですが、裸の男たちが多数群がる
領域になるのかもしれないと思いました。

南へ真っすぐ伸びる道は公園の広場のような広さをもって大通りまで
続き、道の途中には太鼓橋なんかも現れたりします。
そして参道にそう住宅街の中には、中高記念館という、かつて学校として
使われていた、瓦屋根なんだけれどピンク色の板張りの洋館風の建物も
佇んでいたのでした。

国府宮駅から岐阜行きの普通列車に乗り込み、来た道を戻るように、
広大な田園が広がる長閑な風景の中を進み、高架に登って一宮の町並みを
見渡せば、その向こうに白い御嶽山の姿を見ることもできました。

とりあえず名鉄一宮駅で列車を降り、駅構内の仕組みをまずは研究してみる
ことにしました。
支線として奇妙な形でこの駅に乗り入れる名鉄尾西線は、運行系統がこの駅で
完全に分断され、しかも1番線を半分ずつ使って北半分に玉ノ井行き、
南半分に津島行きの列車が発着するというなかなかアクロバティックな
使い方がされているようだったり、改札口を出て自由通路に出れば、
基本的にはJRと駅名は違うのだけれどほぼ同一の駅として、それでも
境界線を境に装飾の類は全く変わっていたり、名鉄の名鉄一宮駅側は
名鉄百貨店の駅ビルが立つけれど周辺はいかにも裏口といった感じの、
確かに道幅は広いけれどだだっ広くて賑わいには欠ける雰囲気だったのに
対し、JRの尾張一宮駅側には大きくて立派な公共施設を巻き込んだ駅舎が
建ち、駅前のメインストリートも道の真ん中やロータリーにオブジェが
配置されて、大きな都市であるかのように作られていました。

本町通りというアーケード街は薄暗い感じがしてしまいましたが、
外に出れば快晴の青空の元、真清田(ますみだ)神社の神域が大きく
現れました。駅名の元になった、尾張の国の一の宮ということらしいです。
大鳥居をくぐり、太鼓橋を横目に見て、すでに新春の飾り付けができている
重厚な木造の山門をくぐって境内に入ると、快晴の青空の元にやはり重厚な
木造の本殿が現れます。
山門から本殿までの間でも、鬱蒼とした木々は繁り、手水場では金属製の
吐水竜が水を吐き、そして参殿の横では神水舎という、井戸水が豊富に
わき出しているところもあったりします。

広い境内の東側には池が広がって島に浮かぶ赤い神殿に橋が渡されるきれいな
所もあり、また西側には赤い千本鳥居が並び、神殿も丹の色鮮やかな
稲荷神社が鎮座していて、さっきの大國魂神社よりも境内の雰囲気をより
楽しむことのできる神社であったように感じました。

真清田神社の境内を西に出て、そのまま西へ歩いていくと、道幅は広いの
だけれどあまり賑わいを感じない、青空の元に広々と空は広がるけれど、
店があるわけでもなくただ荒涼としている、それでも尾張一宮駅は広々した
通りの奥に見えているという風景となります。
大通りを横断してさらに西へ向かい、JRの高架をくぐり、大きい建物が
集めるけれど一般人を多く集めるような雰囲気ではない静かな町並みが
続いて、路地へ入ると、高架を走る名鉄尾西線の西一宮駅が高架の上に
姿を表しました。
周りには民家こそ集まりますが、高架下には駐車場や駐輪場ばかりが
広々とし、駅前の賑わいというものを感じることができないまま、
高架駅であることさえ奇跡的な感じの無人駅へと入場しました。

そしてやってきた玉ノ井行きの普通列車に乗り込むと、列車は高架を下って
素朴な住宅街から田園が広大に広がる長閑な風景の中へ進み、
次の開明からは所々田畑を含む住宅街の中、家並みの間を縫うように走って、
すぐに終点の玉ノ井駅へとたどり着きました。

玉ノ井駅は大通りと並行しながら、周りを瓦屋根の古い民家に固められ、
そして駅裏側にはほぼ隣接するように堤防が設けられてすぐに上り坂が
現れるような小さい無人駅でした。
堤防に登る前に駅裏側の集落に迷い込めば、細い路地沿いに古い建物が
集まりますが、この辺りで時々見られるのこぎりの刃のような形の
ぎざぎざした屋根を持つ、古い瓦屋根の重厚な建物が多く現れ、
せせこましいのだけれど味わいを感じることができます。

そして細い路地のような坂道を登って堤防の上に出たわけですが、直ちに
川沿いの風景になるわけではありませんでした。
堤防上の道路を少し進むと川沿いに伸びてきた堤防と合流する地点に
小公園が現れ、玉ノ井二重堤というものが紹介されていました。
要は今通ってきた陸側の堤防が古いもので、その外側にあった集落を
守るために川側の堤防が新しく作られ、ここから北方向には堤防が
二重に存在しているということで、確かに堤防の上からは、陸側にも
また二つの堤防の間にも小さい瓦屋根の古い建物が密集している様子を
見渡すことができます。

すぐ近くには対岸の羽島市に向かって架かる大きな鉄橋の姿が見られ
ましたが、ここも水面は岸辺に林のように茂る木々のおかげで見渡すことは
できず、川岸の園地や遊歩道を見渡すのみでした。
しかし昼になったこの時間も、広大に広がる快晴の青空のもとに、
遠くを山並みに囲まれてその中には真っ白い御嶽山の姿も爽快に
そびえ立っていたのでした。

道の両側に広がる瓦屋根の集落を見ながら古い堤防を玉ノ井駅の方向へ
戻り、集落の向こうにさらに堤防が見られる不思議な風景を確認した後、
玉ノ井駅の駅裏の集落の方へ坂道を下って、普通の大通りの方へ歩みを
進めると、すぐに鬱蒼とした杜を持つ賀茂神社が現れました。
さほど広くない神域に親睦が森のように繁るけれど、参道には太鼓橋も
設けられ、大きくはないけれど素朴な神殿が静かに佇むような神社です。
境内の片隅には古神門が文化財として佇んでいました。一見別に古くも
ない建物でしたが、その建物の中に確かに古い門のような建物が
守られているような感じで、朽ちかけながらも昔のままの細かい構造が
保たれているようでした。
そして鬱蒼と茂る森の方へ歩みを進めると、小さい社や、赤い千本鳥居が
鮮やかな稲荷神社も佇みましたが、この地の玉ノ井という名前の由来と
なったという玉ノ井清水というものも、岩と小さい鳥居に守られるような
形で佇み、飲めますという注記さえあるものの、わき出す水の量は
ぽたりぽたりの雫程度の、こんなに立派にしてもらっているのに枯れかけて
いるのかと残念になってしまうような感じだったりしたのでした。

ここからとりあえず本線の木曽川駅の方へ向かって行くために、住宅地と
田畑に囲まれた奥村川筋緑道という道を歩みました。緑道とはいうものの、
道の真ん中に歩道が通されているというユニークな作りであるだけで、
別に植物が道を囲んでいたりはしていないようで、歩きやすいけれどまあ
普通の道だった感じです。大きな学校の敷地に差し掛かって道は普通の
遊歩道となって、木曽川駅方向へ折れればあとは何と言うことのない、
普通の道となって、民家の間から大通りへと進みました。
大通り沿いにも素朴に民家が並びましたが、玉堂記念という名前が冠された
図書館の新しい建物も建ち、敷地の片隅に玉堂文重生誕の地という石碑が
佇んでいました。
快晴だったはずの空にだんだんうろこ雲が広がるようになってきた中、
木曽川駅の方へ伸びる道はあくまで素朴に民家が並ぶだけ、時々交差する
路地の中にお地蔵さんの祠とともに瓦屋根の姿が覗くだけで、平凡な道が
続き、大通りと交差して名鉄の新木曽川駅が近づいた所で少しだけ商店も
現れてくる程度でした。

山内一豊の生誕地であるということや、妻のお千代の内助の功を
パパ頑張ってという台詞の萌え系漫画のような絵で紹介する銀座商店街の
新木曽川駅を通過してそのまま道を直進すればすぐにJRの踏切にぶつかり
ましたが、その交差点にはなんでもない小学校の広い敷地が広がります。
この小学校こそが黒田城址に作られたものだということで、
敷地とJRの線路との間の道を北上すると、校庭の片隅に小公園風に
整備された黒田城址のモニュメントが現れました。
案内板によればまさに山内一豊が生まれたところということで。

近くには織物工業に関係あるらしい煉瓦のような色の大きい瓦屋根の
建物も現れ、そして敷地は広いのだけれど周辺にさほど賑やかな町並みは
成立していないように見えるJRの木曽川駅が、幅広い敷地を跨ぐような
自由通路の橋上に、のこぎりの刃の形の屋根を載せて佇み、線路に並行して
正岡子規と何か関係あるらしい、水路を中心とする細長い園地が設けられて
いました。
駅前には昔使われていたらしい煉瓦造りの油をしまう小屋や、古いホームの
木製の柱が朽ちかけながら展示されていました。

そして次の踏切の所で線路を渡らない方向へ歩みを進めると、
なんということのないどこにでもあるような町並みを経て、すぐに名鉄の
黒田駅が現れました。無人駅ではあるようでしたが、さらに奥には
イオンモールの姿も見え、ホームで列車を待つ客が多いように見えたのも
そのせいなのかなと感じました。

一転して曇り空になってしまった午後、距離が遠そうで行こうかどうか
迷っていたけれど、街中からも大きくなって見られるようになったツイン
アーチ183という構造物がどうしても気になって、ここが駅としては
もよりだったということもあり、頑張って歩いてみることにしました。
一宮駅からだったらバスも出ていたようだったのですが。

道自体は東西方向に伸びるなんでもない道で、隙間の多い建物のあいだに
田畑が現れたり、その向こうにボロボロののこぎりの刃型の建物が
見られたりする程度の道でしたが、大きなマンションのようなビルの足元に
澤井公屋敷跡という史跡が石碑だけの形で現れました。
黒田上の城主だった人物のようで、この辺の店にくろだという名前を冠した
ものがいくつか見られることと関係があるのかもしれません。
しかし石碑の周りに新しい切り株がいくつかあるのが気になりました。
きっと少し前まで松の木に囲まれて杜のように整備されていたのでしょう。

特に特徴のない普通の道が、その後も国道を交差しても続き、頭上に
高速道路がやってきて、その高速道路の足元を並行するように歩めば、
反対側には民家を多く含みながら田園がのどかに広がるようになり、
その向こうにそびえ立つツインアーチの姿もさらに大きくなっていきました。
やがて道は堤防の上に階段で登るようになり、上り詰めるとそこが
光明寺公園というところへの入口となり、堤防上には桜並木が続き、そして
堤防の側には巨大な体育館の姿も見られる、ここも二重堤の構造に
なっており、体育館を横目に道を進むと本当の川沿いの堤防へと
たどり着きました。そしてやはり川面を大きく見られたわけでは
ありませんでしたが、川風を感じながら堤防上をのんびり歩けば、
ツインアーチはどんどん大きくなっていき、堤防の間に駐車場が広がって
その先で木曽川を渡る道に接続する道と交差すると、ツインアーチ183を
中心とする園地へとようやく、黒田駅からたっぷり50分弱くらいで
たどり着くことができました。

周辺にはいろいろ遊べる広い園地もありましたが、とにかくタワーの上に
上りたくて、2つの細長い放物線を中心で支えている部分に設けられた
エレベーターに乗って、最上部の展望台へ急ぎました。
展望台からの風景は、それは素晴らしいものでした。
大きく広がる空がこの時間になってすっかり曇ってしまったのが
残念でしたが、目の前には本流と南派川に別れた木曽川が、陸地を
含みながら広い流域を示して豊かに流れ、その周りに岐阜の町並みが
金華山とともに広がり、養老山地や鈴鹿山脈を背景とする展望と
なりました。
木曽川の上流の方は各務ヶ原、鵜沼や犬山の方角がやはり山並みを背景とし、
曇り空のもと、御嶽山や乗鞍山等の白い山がその頭上に堂々と姿を表します。
そして広大に広がる濃尾平野には、眼下には田畑も多く含まれましたが、
基本的には大小様々な建物を密集させながら広がり、名古屋の街のビル群も
はっきりと見渡すことができました。
曇り空のもとにはなりましたが、木曽川の造る360度に広がる
雄大な大展望を堪能することができたのでした。

曇り空ながらもだんだん夕暮れの色が濃くなっていく中、ツインアーチから
下り、木曽川南派川に架かる青い鉄橋を渡って、豊かに広がる川面の上を
対岸の各務ヶ原市川島というところへ、今日も県境を歩いて越えて
いきました。
対岸すぐには木曽川わたり渡船場跡という記念碑が立てられていて、
振り返れば対岸の堤防の上から見送るような、ツインアーチの
姿も見られました。

道は一旦川島の集落の中へ下っていきましたが、道沿いに現れる小さい
民家はみな、去年輪中で見られたような、石垣の上に建物を載せる構造に
なっていて、きっと洪水が多いところなんだなということを感じさせます。
そしてさっき並走した高速道路がこの先で寄り添ってくるのに近づくように
次の本流の堤防の上へと坂道を登っていくと、遠くからでも見られていた
観覧車が、薄暗くなって電飾された姿になってさらに大きくなって見える
ようになってきました。

より雄大な流れとなった木曽川を渡りきると、高速道路の高架が複雑な
分岐を示すようになり、園下をくぐって反対側にそびえ立つ観覧車の方へ
歩みを進めると、ハイウェイオアシスを兼務する河川環境楽園という
大きな園地へとたどり着きました。
観光案内ではアクアトトぎふという水族館として紹介されることが
多いように感じていましたが、ハイウェイオアシスを兼務するおかげか
薄暗くなっても人が多く賑わって、普通だったら閉園間際の時間という
感じはあまりしてこなかったりします。
水族館にはまだ入場できたし、観覧車は暗くなるほど電飾で明るくなるし、
その間に通された水路をともなうメインストリートも街灯が点り、
飲食店達もたくさんの人を集めています。

そんな賑やかな領域に隠れるように、木曽川水園という庭園が設けられて
いました。
もちろん人工の庭園なのだけれど、木曽川の流れのイメージを再現した
ものということで、下流いきの再現部分はあまり流れがないゆったりとした
風景の中で鳥達が集ったり、季節によれば小舟で遊んだりできるような所
でしたが、中流域は白川茶ということなのか、茶畑や農家の小さい小屋が
佇むのどかな風景の中心となり、そして上流域の再現部は、昔訪れたことが
ある七宗村の風景を彷彿とさせるような、ごつごつした岩の間を水が激しく
流れ行くように作られ、そして最上流には滝も作られているという、
時間をかけてじっくりと散策して味わいたくなるような庭園となって
いました。
しかし辺りは刻一刻と暗くなっていき、風景を大きく捕らえることは
難しくなってしまい、そして夕方5時をもって木曽川水園の領域は閉鎖と
いうことになり強制的に退出ということになってしまいました。

木曽川水園は閉鎖されてもハイウェイオアシスとしてはまだまだこれから
らしく、フードコートは明るく電飾されて客も多く、そして水族館も入場こそ
締め切られたようでしたがまだまだたくさんの人が往来して、賑わいは
しばらく続きそうな感じでした。

ここには休日ダイヤの日に限り岐阜駅へ向かう路線バスが立ち寄ってくれて、
最終便に乗り込み、真っ暗になった中を岐阜駅へ直接向かうことが
できました。辺りの様子を伺うことはできませんでしたが、岐阜駅に向かって
進むたびに道沿いには大きな店舗が高頻度で現れてむしろ明るくなって
行くのを感じることができました。
岐南駅に近い停留所で下りて少し歩いて、その駅の近くにあるスーパー銭湯
ってのも悪くないかと思いかけましたが、少し歩く距離が長そうだったので
断念し素直に岐阜駅まで乗りつけて、今日の旅を終えることにしたのでした。
 

鵜沼、犬山(2019.12.28)

murabie@岐阜市です。
すっかり、前日の旅の報告を翌朝に行うというスタイルが定着して
しまった感があります……

今日もいい天気になりました。冷え込みも昨日よりは緩んだ感じがします。
今日はJRの駅から高山線で出発です。
岐阜の大きな町並みを見渡していた列車は高架から降りるとあっという間に
民家を疎らに含むのどかな田園のなかを進むようになり、岐阜城を載せる
金華山のような大きな山が背景となって晴天のもとにそびえ立つ風景と
なりますが、名鉄が並走する那加辺りからはまた住宅街となり、蘇原や
各務ヶ原では名鉄とは離れて、大きな工場が駅の周りや線路沿いにも広がる
工業地帯の様相を示します。そして各務ヶ原を過ぎてしばらくすると、
給料の姿がだいぶ大きくなる中、給料に囲まれて少し高い所から起伏に富む
畑が広大に広がる、水田とはまた異なった風情ののどかな風景が大きく
広がって、名鉄と再開して鵜沼に近づけば、そびえ立つ山並みの中腹にまで
民家の集まるニュータウンのような市街地の風景となっていきました。

鵜沼駅に着き、とりあえずJRの改札を出て駅の北口へと出ました。
昔ここに来たときは名鉄の駅と改札内で繋がっていた記憶がありますが、
改札分離の上空中通路が新設されてからは初めて、というか乗り換え以外の
目的で鵜沼に降りたのが初めてだったりします。
行きたい所はいろいろあったのですが、駅前広場の片隅の地図を見ながら
ちょっと考え、最初に旧中山道鵜沼宿を攻めることにしました。

駅をあとにして緩やかな坂を上り、旧中山道への道標にしたがって、住宅地の
中の路地へと歩みを進めます。町並みを囲む高い丘陵が建物の間に、そして
広がる墓地の向こうにそびえ立ちますが、不意に桑原野山西公園という、
丘陵の崖上の小公園が現れ、その敷地の中にこんもりとした金縄塚古墳という
小山が静かに佇んでいました。
公園のフェンス越しには鵜沼の町並みの民家や大型スーパーなどの建物が
密集する風景が広がり、建物の向こうの丘の上には犬山城やモンキーパークの
観覧車の姿も見ることができます。

高台の住宅街の中の道を道標にしたがって進むと、峠から緩やかな下り坂を
下ってきた旧中山道との合流地点に差し掛かります。
道は直角に屈曲し、その分岐点には小さいお地蔵さんが道標を兼務しつつ
小さい祠におさまっていました。
ここは東の見附があった所でここからが鵜沼宿の領域ということになる
ようでしたが、道の雰囲気が大きく変わることはなくただどこにでも
ありそうな住宅街が続くのみです。他の宿場町と違うのは、家並みに
紛れ込む神社や仏閣が、道と並行する高台の上にあるということでした。

最初の南北方向の大通りとの交差は雰囲気に劇的な変化を及ぼすことは
ありませんでしたが、次の高規格の道路と交差すると、現れる建物の
様相がだいぶ変わってきました。
さほど広くない街道沿いに、重厚な木造瓦屋根、黒い板張りの建物が、
ここでは狭い範囲に密集するように姿を現したのです。
中には昨日訪れていた大垣状にあった鉄門が移設されてここで駐車場の
門として使われているところもあったりして、だいぶ錆びてはいるけれど
確かに鉄製だということを間近で感じることができます。
町屋跡、脇本陣跡等の他に菊川という酒蔵の大きい倉庫、そして江戸時代
からのものから昭和初期の再建のものまである民家などが狭い範囲に
集中してしっとりした雰囲気を作るものの、その領域を抜けてしまうと
どこででも見るような民家ばかりが現れる、中心部の完成度が高い分
周囲との落差が激しいかなといった印象も持つことになりました。

すっかり普通の住宅街になってしまった街道が南北方向の大通りと交差し、
さらにしばらく進むと、木曽川泥流堆積物という、5万年前の御嶽山の
山体崩壊で発生した土砂が流れてきた跡の路頭が朽ちかけた網で保護されて
いる所があり、そのすぐ先に鵜沼宿の終了を示していた西の見附の跡の
案内が現れ、そこに面する高台の上に誘う階段を上ると、翠池という
農業用の溜池の周りに簡単な園地が整備される小さな池が現れました。
快晴の深い青い空のもとに、枯れてしまった蓮の葉が残る合間を縫って
鴨たちがのんびりと過ごす穏やかな時の流れる池が、大きな丘陵と
新興住宅地に囲まれる風景を、しばしのんびり楽しみました。

直前に交差した南北方向の大通りに戻って、名鉄の鵜沼宿駅へ向かって
いけば、道沿いには郊外型の大型店舗がたくさん現れ、建物の密度の低い
広い駐車場ばかりの荒涼とした風景となります。
それでもわずかばかりどこにでもあるような民家や商店の現れるように
なったところで、名鉄とJRの踏切に挟まれるようなたたずまいの、
鵜沼宿駅が現れました。
駅舎そのものが踏切の中にあり、線路の遮断機が降りると、同時に駅舎から
外に出る所の踏切も下ろされてしまいます。車の交通量がも少ないわけ
ではなく、駅舎と反対側にも歩道があるので、タイミングを誤ると
踏切が降りているときに人がいてはいけない領域に取り残されてしまう
ことが頻発しそうな構造だと感じましたが、それが問題にならない程度の
利用者数なんでしょう……

鵜沼宿駅をあとにしてさらに南下していくと、学校の敷地を経て、
丘陵に囲まれて田んぼではなく畑が広大に広がるのどかな風景が展開する
ようになっていきました。
そして古市場町というところで現れた、大きなお屋敷の集まる集落の
中を分け入り、路地をたどって、木曽川の堤防の上へとたどり着くと、
だいぶ大きくなった犬山城の姿が山の上に佇み、その足元のゆったりした
木曽川の流れを上流にたどると、鵜沼と犬山を結ぶ緑の鉄橋の姿と、
その対岸に丹の色鮮やかなお堂の成田山が中腹に佇む丘陵の姿が現れ、
得に案内があるわけではなかったけれど、美しい水辺の風景に出会えた
ような気がしてうれしさを感じました。

その場所から対岸に向かって架かるライン大橋という橋は堰を兼ねている
ようで、上流側と下流側で流れの様子が異なります。お城や犬山橋が大きく
見られる上流側は青空のもとに大量野水を讃えて青々した風景となり、
下流側は明るい街並へ向かい近くの伊木山との間を、やや水量を落とした
感じで爽快に流れ下ります。橋の真ん中では歩道と車道の間の領域で、
コンクリートの席の上を滑るように大量の水が移動している様子を間近に
見ることができます。
そして対岸の小高い丘の上にそびえる白い犬山城の姿も、橋を進んで対岸に
近づくほど、大きく見ることができるようになっていきます。

対岸へ渡り、徒歩で岐阜県から愛知県へと越境を終え、引き続き犬山城へ
向かいます。木曽川沿いの道を選び、廃墟となっているホテルを横目に、
川沿いにたくさんの小舟とともに古めかしく作った大きい建物を広げる
ホテルと、きっと桜の季節には綺麗になりそうな崖下の園地の間の道を、
犬山城を載せる崖に向かって歩いて行きます。
道は崖を小さいトンネルで貫くのですが、いかにも手掘りといった風情で、
先日岐阜城の遊歩道で見たのと同じような、恐らくチャートの地層が
大胆に摺曲している中を強引に通した感じで、トンネルの中にも激しく
路頭が見られる面白いトンネルでした。
小さくて短いトンネルを抜けると、青々とした水面が、対岸の鵜沼の街の
背後にそびえる山並み、そして青緑の犬山橋のアーチに囲まれる美しい
水辺の風景を大きく見渡すことができるようになっていき、川の中にも
ごつごつした白い岩石が川岸に少し広がって流れを装飾するように
なっていきます。日本ラインと呼ばれる風景と、道端の案内板が
教えてくれました。

やがて道は、高校時代にも歩いたはずの、細い渓流沿いにお城へ向かう
緩やかな上り坂を上ります。きっと桜の季節には綺麗になりそうな、裸の
木々に寄り添われて薄暗い林の足元に渓流が流れるのに沿う道を進み、
赤い橋の架かるお城への入口へと進んでいくと、
土産物屋も現れて観光地のような雰囲気となる広くて明るい領域を
囲むように、針綱神社への石段がまっすぐお城への斜面を上っている
所でした。

すぐ近くには赤い鳥居のきれいな三光稲荷神社が建ち、この境内を通過
するのが犬山城へ進む近道ということで、神殿の裏手へ続く道を進むと、
屈曲して高台の白い城門へ向かう階段道の途中に出口が開いていました。
たくさんの人が往来する坂道をゆっくり歩くと、さっきの針綱神社の
境内にも接していて、境内からはたくさんの建物の密集する犬山の街が
垣間見られ、片隅には白い神馬の大きい像が祠の中に納められています。

そして入場券を購入して白い重厚な門から天守の領域へ進むと、白くて
大きな天守閣が、疎らな裸の桜の木と茶屋の赤いベンチたちに装飾されながら
青空のもとに美しい雄大な姿を示していました。
天守閣の中に足を踏み入れると、高校時代に訪れたときの記憶が何となく
残っている、垂直に近いと思われるきわめて急な角度の階段が現れ、
内部に見られる石垣のうち側を写真に収めたくてものんびりしてると確実に
迷惑になってしまうジレンマを経験することとなりました。
もちろん展示物もあるのですが、櫓や武者落としなどから外海の風景を
眺めたり、重厚な柱や板張りの内部の空間を味わったりと、現存城だけに
お城という建物の作りをじっくり味わうことができます。

上まで登階段があまりにも急なので、一気に展望台に上るのではなく
各階層でそれぞれの階の特徴を味わいながらいくのが体力的には望ましい
のかもしれないなと思いながら、最上階へ上る細い階段を上ると、
最上階は赤い絨毯の敷き詰められた小さい部屋から、テラスに出られる
ようになっていました。
列に並んで外に出ればまず正面には、逆行でしたが名古屋の方へ広大に
広がる平野にたくさんの建物が密集する展望が広がりました。そして
テラスを一周しながら、堰となっているライン大橋の向こうに伊木山が
寄り添い、白い大空のもとへ穏やかに流れゆく木曽川の風景、
木曽川の対岸の山並みの緩やかな裾野に鵜沼の町並みが広がる風景、
そしてクライマックスは、木曽川に架かる犬山橋の青緑のアーチに
時折名鉄の様々な車種の列車が往来し、広大に広がる青空と青々とした
水量豊かな木曽川の間に通されるような雄大な風景を大きく眺め渡す
ことができ、人の流れを乱さないように気をつけながら立ち止まって
みたりして、雄大な展望を満喫することができたのでした。
犬山橋の上には白い御嶽山も姿を現していました。

満足感とともに急な階段を下り、昔からお城に寄り添って生えていたが
枯れてしまった杉の木が保存されているのを見つけたり、城郭の周りから
外の世界を見下ろしたりして犬山城に別れを告げ、坂道を下ってお城の下の
広い所へと戻っていきました。
一応広場の片隅の犬山神社にも参拝し、また実はライン大橋のところから
この場所へほぼ直行できる道も存在していることを展望台のような所から
確認したりもしつつ、今回は高校時代のように列車へ直帰するのではなく、
城下町をのんびり散策することにしました。

お城から真っすぐ南下する通り沿いには、間隔も開いたり新しい建物も
紛れたりしますが基本的には黒い板壁の木造の古めかしい建物が並んで、
味わい深い町並みとなり、そこにたくさんの観光客が集まってとても
賑やかな雰囲気を作っています。
ちょうどお昼時にもなったので、たくさん現れる飲食店に人々は集まり、
そして店先で立ち食いができるところも多々あって、おいしそうな匂いを
辺りに漂わせます。
たまたま見つけた、ご当地犬山ドッグなんていう、もしかしたら洒落で
最近作られたもののような気がしてしまうものになぜか惹かれ、
炭焼きもち豚ドッグなんていうものに手を出してしまいました。
ようはコッペパンにキャベツと大量の肉が挟まれているものですが、
焼きたてのおいしいのを食べさせてもらうことができました。
そんな感じでいろいろなところで足を止め、振り返ればそびえる山の上に
白いお城が青空のもとで順光を浴びて美しい姿を示すのを見ることが
できる、味わい深い古い通りの風景を満喫しました。

賑やかな城下町の参道を南へ抜けると、人々の姿は少なくなって、静かに
のんびりと散策を続けることができるようになりました。
広い道幅に、昭和の遺物のようなすすけたコンクリートの集合住宅が
並んで1階部分が一部だけ飲食店などとして営業している区画が少し続いた
のち、道は急に細い路地のように縮小して、そのまま古い建物が所々現れる
味わいのある古い街道として南下していきます。外町というそれなりに
由緒のある町並みのようで、城下らしく道が屈曲している所もあったり、
交差する路地に寄り道すると堀部邸という公開されている古民家がひっそり
佇んでいるところもあったり、お寺なんだけれどお城のような重厚な建物に
赤やオレンジの派手な色使いがされている唐寺も路地を分け入った先に
佇んでいたりと、味わい深い町並みは続いていきました。

市街の南端の名鉄犬山線の犬山口駅で折り返し、遠くからでも見えた
清水屋という、もうすぐ閉店の予定らしい、これまた昭和の雰囲気の
すすけたコンクリートのデパートの中を通過して、名鉄の犬山駅へ
大通りを経由して向かってみれば、南北方向の通りはきわめて道幅が広く、
大きな建物に囲まれた近代的な明るい大通りとなっていました
そんな道から脇道を入ると、小さい神域に立派な杜を持つ愛宕神社が
鎮座していたのですが、よく見ると木ノ下城址であるということが
説明されています。どうやら犬山城ができる前の城の機能がここにあったと
いうことのようで、神殿が石垣を模したものの上に乗っているのも
そういうことを意識して造られたものなのかもしれません。
そして図書館や市役所の巨大な建物が集まる大通りを進めば商店も多く
現れてきて、それこそ昭和からありそうな賑やかな町並みとなり、
交差点を右に折れればすぐに目の前に、マンションと一緒になっている
ような犬山駅が現れたのでした。

駅の構内を通過して東口にわたっても、広いロータリーを取り囲むように
大きな建物が集まる賑やかな町並みが大きく広がります。食品スーパーの
近くにバス乗り場があり、広場にはこの辺りのお祭りで繰り出される山車を
モチーフにしたからくり時計のようなものも建っています。
そして駐車場のフェンス越しには犬山駅のホームが見られて、4路線が
集まる駅だけに、いろいろな車種のたくさんの列車を見ることもできました。

ここからモンキーセンターまで、歩いていけないこともないようでしたが、
モンキーパーク経由リトルワールド行きの、愛知県内なのになぜか
岐阜バスが担当するバスに乗っていくことにしました。
バスは犬山駅の大通りから、北へ向かう素朴で明るい住宅街へと折れ、
すぐ前方にそびえる成田山にとおせんぼされるまで真っすぐ北上していって、
山を迂回する道へと進むと、道幅は急に細く、上り坂となっていって、
山の中に切り開かれた遊園地のモンキーパークにすぐにたどり着きました。

モンキーパークもセンターも、いまでは別料金の別々の施設となって
いますが、かつては同一の施設として扱われていたようです。
そしてかつてはここに犬山遊園駅からモノレールが伸びてきていたらしく
その遺構も気になって、入場する前に周辺を散策してみたのですが、
山道だけあって傾斜もきつく大変だったのに、結局それらしきものを
見つけることはできないままとなりました。

駐車場に戻って緩やかな坂を上り、モンキーパークへと入場しました。
山の中にあるだけあって園内の移動でも急な傾斜をこなさなくては
いけないのがちょっと大変なところでしたが、いろいろな国から来た
いろいろな大きさの霊長類の、いろいろな仕草を檻の中や小屋の中に
見ることができます。出身地域ごとにアフリカ館とか南米館とか
アジア館とか建物が分けられている感じでしたが、特に南米館は小さい
猿が多くしかも室内なので蒸し暑くにおいも感じられるところだったり、
アジア館の猿同士はなんかいがみ合っているのか知りませんが時々
遠くまで聞こえる叫び声をあげて檻の中で騒いでいたりします。

そして入場時にもお勧めされたのが、Waoランドという、池で囲まれた
小さい領域の中で、たくさんのワオキツネザルたちを間近でみて、
その体や仕草、時にはダイナミックなジャンプで木の幹から枝から
飛び移っていく様子を観察することができるところでした。
檻の中やガラスの中にいる奴を遠巻きに観察してもあまり実感としては
感じられないものが多かったりしましたが、ここではワオキツネザルという
生物のことを身近なものとして楽しむことができて、きてよかったと感じる
ことができたところでした。
そして時には飼育員さんのブースに設けられた電気ストーブの周りに
集まってきて、お腹を広げて本来は太陽に向ける日光浴のポーズをしめす
ものがいたり、存分に暖まったらまた広い園地に元気に飛び出して
いったりと、可愛らしい元気な猿たちの姿を堪能することができました。

門から右手の領域はその先の、チンパンジーの屋外展示とニシゴリラのいる
アフリカセンターが最奥部となります。
一旦門の近くへ戻り、そのまま左手の領域へと進んで一番奥へ行くと、
遊園地との連絡改札が設けられた所の近くに、モノレールの駅舎を再利用
したと思われるレストランの姿を見つけることができました。
切符売り場のシャッターに寂しく「モノレールはおわりました」という
文字が記されているのも情報通りでしたが、改札口のあった辺りが物置に
なってしまっていたし、ホームがあったと思われる建物の反対側の様子は
どうやら遊園地側に入場しないと観察しずらいようでした。
近くにはいろいろなテナガザルが飼育されているギボンハウスという
きれいな建物が建ちます。

そして入口の方へ戻ると、広い領域にジャングルジムのようにたくさんの
形の遊具が組み合わされた所があって、そこには隣接する小屋の中から
いくつかのテナガザルが顔を出し、森の中を移動するときのように活発に
遊具の間を長い手を使って移動していく様子を見ることができました。
となりのリスザルの森にも入ることができて、本来ならリスザルの生態を
身近で見ることができるらしかったのですが、夕暮れ時が近づいて
寒くなってみんな小屋の中に引きこもってしまったといいます。

そして園地の外周の崖から見下ろす、山並みに囲まれた谷底には、
たくさんのヤクシマザルたちが、数頭でグループをつくって、
押しくらまんじゅうするかのように固まって佇んでいる様子を眺め渡す
ことができました。
モンキーバレイと名付けられたそこでは、もう少し早く来れば
たき火に当たる猿たちの姿を見ることもできたようですが、夕暮れが
近くなって火は消されて肌寒さの感じられるようになってきた中、
ほほえましい姿を見ることができました。
設けられている木のように背の高い遊具のてっぺんにも、夕日で少しでも
温まりたいのか、いくつかの猿の固まりが佇んでいるのを
見ることができました。

閉館時間が刻一刻近づいていきましたが、最後に高台にあるヒヒの城を
訪れました。コンクリートで囲まれた屋外展示の中で、アヌビスヒヒという、
顔を見なければニホンザルと同じような感じの猿たちが群れを成し、
いくつかのものは真ん中に設けられた樹木の遊具で遊んだりくつろいだり
小便を垂れたりしていましたが、面白いのは大多数の猿たちはその遊具の
足元の斜面をぐるぐるぐるぐると休むことなく周回しつづけているという
ことでした。野生の習性ということらしいのですが、飽きずに何度も
見入ってしまえる楽しさがありました。
ヒヒたちの周回を眺められる高台のテラスからは、園地の外側に開ける
建物の密集した平野の姿も見渡せ、そこに夕陽となりつつある太陽が
近づいているところでした。

蛍の光に急かされるように園地をあとにし、帰りはバスで来た緩やかで
のどかな山里の風景の広がる下り坂を、夕陽を浴びながらのんびり
下りました。
下りきったところで丘陵の南端を周回するような道に分け入ると、
すぐに斜面城には巨大で丹の色鮮やかな、成田山の山門が石段の上に
鎮座しているのを見ることができました。

山門をくぐると斜面を真っすぐのぼる長い石段の上にやはり丹の色鮮やかな
本堂が現れ、その周りの斜面にもたくさんの鮮やかなお堂が配されその間に
たくさんの白い石段が渡される広大な境内が広がりました。
長い石段を上りきって本殿へ参拝すれば、辺りは展望台になっていて、
近くの犬山城やその足元を流れる雄大な木曽川と寄り添う伊木山、
そして名古屋の方まで広がる広大な平野に建物や高速道路などが通されて
そこへ夕陽になった太陽が近づいて幻想的な展望を作っているのを
大きく見渡すことができました。
本当なら山門の下をモノレールが通っていたらしいのですが、ここでは
その遺構は見つけることはできませんでした。

そして刻一刻夕暮れが深まっていく中、下り坂を下りれば、すぐに
犬山遊園駅へとたどり着きました。
高校時代は西口から出入りした覚えがありますが、当時は券売機がなく
小さい窓の窓口で切符を売っていた覚えがあります。その面影が何となく
残る感じの、観光地仕様といった感じのきれいな駅舎が健在で、
そして線路はそのすぐ先で木曽川にかかり、昔は道路と線路が一緒に
使っていた青緑色の鉄橋が始まるところでした。
東口に回り込めば、すぐ近くに迫る丘陵にお寺の墓地が広がり、
あまり利用客は多くなさそうな感じでしたが、駐車場は広々と取られて
いたりします。これこそがモノレールの遺構ということなのかもしれません。

そして最後に、いまではツインブリッジと呼ばれるようになった、古い
犬山橋を往来する列車の姿を、往時の姿を思い浮かべながら何度も何度も
見送りました。
犬山側から出入りする列車のすがた、並走するようになった新しい橋を
渡りながら、となりの鉄橋を右へ左へ往来する姿、そんな姿を見ている
うちに辺りはどんどん夕暮れが深まり、橋の反対側に大きく、
豊かな木曽川の流れの上に浮かぶような犬山城がライトアップされ、
三日月の浮かぶ空の下が真っ赤に染められて丘陵がシルエットとなる、
幻想的な姿も見られるようになっていきました。

今回訪れられなかった鵜沼城址の山塊の足元で犬山橋は岐阜県側に
たどり着き、ここでもいくつか列車を見送って、すぐ近くの新鵜沼駅へ
着く頃には辺りはもう夜といってもいい風景となっていました。
一応、昔名鉄とJRが繋がっていた頃の連絡線の跡を探して、周辺を少しだけ
散策し、それらしいカーブを描く道を見つけることができたのですが、
道の周りは完全に振興住宅街になってしまうばかりで、本当に目的として
いた道なのかどうかが疑問に残る結果となったまま、JRの鵜沼駅に戻り、
やってきた高山線の列車で岐阜へと帰ったのでした。
 

大垣、旧中山道赤坂宿、北方真桑(2019.12.27)

murabie@岐阜市です。

今日は昨日と違って、空には青空が大きく広がりました。
今日はJR経由で東海道線を下り、住宅街だけでなく大きな工場までもが
雑多に車窓に現れつつ、石灰岩を採掘したのか一部切り刻まれた形の
山を含む山並みが背景となるのどかな田園へ進むと、なんとそこには大きな
虹の姿が現れてくれたのです。

空は晴れていましたが今日は北風が強くて肌寒さも感じられました。
この街を目的地として訪れるのは、もしかしたら高校時代以来かもしれない
偉い久しぶりだったわけですが、今日はじっくりとこの街を楽しもうと
考えていました。
ここは水の都であるらしいことは知っていたので、町内を巡る水路に沿って
散策することにして、所々古めかしい建物も見られる駅近くの裏通りを抜け、
大垣城の外堀であったらしい水門川がJRの線路をくぐってくる所から
散策を始めることにしました。

川の周りにも味わいのある古い建物が姿を見せ、川に沿う遊歩道にも噴水が
作られたり植物で装飾されたり、そしてミニ奥の細道ということで、芭蕉の
句碑が点在していたりして、のんびりと散策を楽しむことのできる道に
なっていました。
東西方向の大通りと交差するところの近くにこんにゃく屋が掘り当てた
らしい掘り抜き井戸発祥の地碑が佇みますが、遊歩道はここからは素朴な
住宅街の雰囲気となり、いくつかの綺麗に作られた橋が架かります。
程なく川沿いの神社の境内には栗屋公園の湧水という自噴井が、庭園の
ように楓などが植えられて道が周回するように掘り込まれた底の所で
こんこんと湧きだし、周囲の木々の間を縫う小さい水路の源となっている
綺麗な公園となっていました。

川沿いに南下していた道が次の大通りと交差するとき、川の流れには
水門が建ち、そしてかなり幅の広い道路の対岸まで地下を流れて、
小公園風に整備された所へと進んでいました。ここは大垣城の東総門の
跡地だといい、ここからが本格的に外堀として機能していた領域と
なるようでした。園地の片隅には赤い千本鳥居が並ぶ貴船神社という
小さいお社が佇み、園地も水に親しめる円形のステージのような
広場のようになっていました。

ここから先は水門川の流れは東西方向になり、きわめて道幅の広い大通りに
沿って堀割のような姿で流れ、遊歩道もその堀割に寄り添って、街路樹や
藤棚によって装飾される美しい道となります。
タイルで舗装される美しい商店街となる中央通りを横切ってさらに歩みを
進めると程なく、駅からまっすぐ南下してきたきわめて道幅の広い大通りと
交差します。

交差点は新大橋という綺麗に作られた橋となります。駅前の自転車屋さんに
掲示されていた、あるアニメの聖地となっている、主人公が告白した
ところとか何とかいうらしいですが、大きく広がった明るい青空のもと、
商店街とともに明るい雰囲気を作ります。しかし交差する大通りの歩道に
設けられた屋根の上に覗く建物は、なんというかすすけたコンクリート
ばかりが並ぶ、昭和レトロ的風情を色濃く示しているものばかりで。

水門川沿いの遊歩道を引き続き西へ進むと、程なく北からやってきた別の
流れとの合流点となりましたが、水門川はそのまま、官庁街のように大きい
建物が集まるようになった街の中を進んでいきます。バラエティーに富む
形の橋が水路を跨いでいきますが、龍の口橋とか武者溜橋とか、いかにも
城跡といった感じの名前のつけられた橋が架かります。武者溜橋は古い橋が
並行して架けられてその上が花壇となっていて、枯れかけてあまり綺麗な姿
とは言えませんがコスモスによって装飾されていました。

程なく水路が南へ向かって屈曲するポイントに差し掛かり、一応橋は
架かっていましたが、屈曲後すぐにかかる橋との間の領域すべてが
広場のように整備されていて、きわめて広々とした交差点の風景が
広がります。
その地点の外側には大きな鳥居の立つ八幡神社の神域が広がり、
大きくて綺麗なお社がいくつも建ったり、綺麗な松や夫婦イチョウの木が
立っていたり、小さい犬の親子の像が立っていたりと綺麗な境内になって
いたのですが、多くの参拝客が目当てとするのが、入口の鳥居のすぐ近くに
こんこんと湧き出す大垣の清水であるようでした。
櫓に囲われた内部が少し掘り込まれ、その底で大量の清水がこんこんと自噴
していたわけですが、たくさんの人が車で乗りつけ、ペットボトルならまだ
かわいいもので、たくさんのタンクを持ち込み、人によっては電動ポンプを
自慢げに利用していたりと、現象自体は美しいし水も雑味がなくておいしい
ものなんだけどちょっと風景がなあ、って感じになっていたり……

南下するようになった水門川に沿って、堀割のような流れの対岸に素朴な
民家が石垣の上に乗るように佇む風景を見て進んでいきます。
やがて川の外側には、やはりあるアニメの聖地になっているらしい、確かに
美しいたたずまいを見せる興文小学校が現れ、そして堀の内側には
真新しい市役所の巨大な庁舎が立ちはだかるようになっていきました。
大通りを横断し、巨大な市役所の新庁舎を対岸に見て、堀割に沿う道を
川が屈曲すればそれに合わせるようにして南下し、やはり聖地らしい
桧で作られた升を専門に扱う小さい店で桧の香を満喫したりしました。

そして次の大通りを横断する所には、また聖地となっているらしい
白い木造瓦屋根のチーズケーキ屋の建物が建って、西の方からの流れと
合流して屈曲する水郷のような雰囲気の所へと進んでいきます。
合流地点には美登鯉橋という橋が架かりますが、このあたり大きな鯉が
川の中に大量に棲息しているみたいで、地元の親子連れがパンをばらまくと
黒くて大きい鯉が寄ってたかって食い散らかすという風景が繰り広げられて
いました。
そして屈曲して東へ少し進む水門川を眺めれば、正面には虹の橋という
らしい吊橋が架かり、左手の流れに面する大きな建物に付随する赤い大きな
時計台のような建物が建って、その下の斜面から細い水が流れ下り、岸辺に
立ち尽くす柳、強い北風に煽られ、右手には何かしらの公共施設から、
遊歩道を跨ぐようにして大量の水が滝のように流れ落ちているという、
水の豊かさをこれでもかといったばかりに示している風景が
作られていました。

そしてさらに屈曲して南下するようになった水門川のほとりはさらに
緑地や街路樹で穏やかに装飾されるようになり、奥の細道むすびの地として
整備されている領域へと進んでいきます。
水路の外側には大きな駐車場が広がり、そこに接するように記念館が
設けられていましたが、藁葺き屋根でありながら壁は赤く塗られいろいろ
装飾がされている無何有荘というらしい史跡が建ち、そしてそのとなりには
むすびの泉という、やはり地元の人たちが汲みにくるくらいに有名な泉が
完全に人工的に平面的に建築された領域の中にわきだしていたりもしました。

水路には小舟が係留され、そして樹木で装飾された岸辺には、芭蕉と
東因というお付きの人の像が建ち、古めかしい建物の立つ対岸へと
回り込めば、住吉灯台という木造の燈籠の立つ足元が船町港跡ということに
なっているようで、涌き水を出発点とする水路沿いに植物が繁っているように
綺麗な園地として整備されているところでした。

綺麗に整備されている川沿いの遊歩道を少しだけ戻ると、大垣城の領域を
囲むように分岐する牛屋川のきわめて細い流れとの分岐点が現れ、
その場所が大垣城の西総門跡ということになっているようでした。
ここからは城郭内を通っていたという旧美濃路をたどることにしましたが、
広大な道幅の道に吸収されるばかりのような感じだったので、
あえて街道からははずれ、東西方向の川沿いの桜並木の道をのんびり
散策していきました。
川沿いの道には、対岸の民家からの鉄製の橋が多く架かるようになって、
大垣駅から南下してくる大通りへと交差していきます。

そしてさらに東の方へ進む道をたどると、割と立派に整備された本陣跡や
跡を引き継いでいる飲食店?が古めかしい建物の壁面に様々な説明の看板を
掲示している問屋場跡といった史跡が現れてくるのですが、その周辺に広がる
街道沿いの風景はあくまで昭和レトロ的な雰囲気だったりもします。
小さい商店の店先に立派な道標が佇んでいたりもする不思議な風景にも
出くわしましたが、旧美濃路は本町通の商店街に吸収され、綺麗では
あるのだけれど昭和レトロ的な風情を色濃く残す、ブロックで舗装された
道沿いの綺麗に装飾された商店街の間を伸びていきました。

こうして大垣城の外堀だったところをほぼ一周して、さっき通った東総門の
辺りに戻ってこれたので、今度はその中心となる大垣城の方へと歩みを
進めてみました。
昭和レトロ的なすすけたコンクリートの建物の集まる路地を伝って、
駅からまっすぐ南下してくる大通りと交差し、いったん商店街の南端に
店とともにならぶ大手いこ井の泉というのを、ビルに囲まれた中に
見つけました。
ここも少し低く掘り込まれた所から水が湧き、その周辺がちょっとした
庭園のように木々が植えられて美しく作られた所でした。

そして少し駅の方へ商店街を戻り、大垣城の東門から城内へ入っていきます。
石垣の上に白壁の東門の他、天守を取り囲むように白壁の櫓などが建ち、
その内部で緩やかに屈曲する石段の道の上に、昔訪れたけど休館日だった
覚えのある天守閣が美しい姿を示しています。
今日こそ入館を果たすことができ、とにかく最上階を目指したわけですが、
この間の岐阜城とは違ってテラスのようにはなっておらず、窓ガラス越しに
外の世界を見渡す形式となります。
しかも残念なことに、昔はお城が一番高い建物だったらしいのだけれど、
今はお城より高い建物が市街地に密集するようになったおかげで、
望んでいたような展望には出会えないことになってしまいました。
城の西側の公園が広がる領域の向こうが比較的建物の背が低く、
頭を白くした伊吹山を中心にして晴天のもとに山並みが美しく横たわる
風景が、唯一満足できたものとなったのでした。

天守閣をあとにして、引き続き周辺を彷徨ってみます。
天守閣の乗る領域にはごつごつした石の積まれる石垣が良く残されて
いますが、門の方は鉄門跡や埋門跡など、積まれた石垣が開かれたり
削られたりしたような形だけが南東側に残ります。
北西側には隅の櫓も含めて白い姿が復元され、外側から見れば晴天のもとに
お城の天守を引き立てるように美しい姿を作りますが、その土台となる
石垣には石灰岩も使われているようで、フズリナの化石を大量に含む石の
姿も見られました。
石垣を上って天守閣の足元の石垣も見てみると、北西端には明治時代の
洪水の水位が刻まれていたり、おあむの松というらしい細身の松がまっすぐ
伸びていたりするところもありました。

周辺に広がる大垣公園の中には例の聖地となっているらしい、いくつかの
滑り台がまとめられたような大きい遊具が佇みますが、基本的には快晴の
青空のもとに広大に青々した芝生の広場が広がり、外周が樹木に囲まれたり、
巨大な神社に守られていたりする、穏やかに散策できる綺麗な園地となって
いたのでした。

城内の散策を終えて南西の方へ歩みを進め、東西方向の大通りを横断し、
真新しい市役所の建物の足元をさらに南下し、このあたり建物も大づくりに
なって道幅も異常なまでに広い荒涼とした雰囲気を感じる町並みとなりながら
緑地公園の類も道端に姿を現したりします。
さっき歩いた、水郷のような四季の広場の領域をかすめ、チーズケーキ屋の
側からさっき見た美登鯉橋へ戻り、虹の橋や滝のトンネル等に囲まれる
豊かな水の風景をもう一度見た後、ここで西の方からまっすぐ合流してくる
やはり堀割のようになっている川に沿って西の方へ歩いていくことに
しました。

空は晴れているのだけれど時々ぱらりと雨が降るような状態だったのですが、
ここに来て、相変わらず晴天なんだけれど傘が必要なくらいの雨が降るという
不思議な空模様となっていきました。
水路のような川は岸が広めに取られ、その中には所々、本物の泉なのか
どうかはわかりませんが水のわき出す領域が作られていたりして、
周囲は住宅地に囲まれて柳などの木で装飾される綺麗な遊歩道となります。
スイトピア通りという南北方向の大通りと交差すると、テニスコートと
広大な広場だけの西公園という領域の中に流れと遊歩道は進んで、
別の水路と合流するところに児童公園が設けられ、流れは暗渠へと
吸い込まれて、西公園通りという通りとぶつかって遊歩道も終了と
なりました。

このあたりにくると住宅街といった感じではなく、広い道の周りに
大きな工場の類が集まるようになり、青空も広く広がるのだけど
荒涼とした寂しささえ感じる風景が主となっていきます。
なんとか雨がおさまった晴天のもと、そんな道に沿って北へ少し進むと、
養老鉄道の線路が駐車場越しに見られるようになってきました。
貨物の関係もあるのか構内は割と広くたくさんの線路が並び、
その周りには遠くからも見えたイビデンを初めとする大きな工場が
囲んでいます。
そんな大きい工場が集まる一角に、木造瓦屋根の古い姿を保ちつづける
ような西大垣駅が、立派な駅舎とは裏腹にひっそりとした雰囲気のなか
佇んでいました。
建物の壁も柱も、改札口のラッチも味わいのある木造で、その向こうの
工場を背景とするホームにちょうど列車が静かに入ってきた所で、
美しい鉄道の風景を見ることのできる駅だったように感じました。

西大垣駅の前で西公園通りはほぼ直角に折れ曲がる格好となり、イビデン
等の大きい建物に囲まれる広々した道が東の大垣市外の中心部へ向けて
伸びはじめるところのようにも見られます。
イビデンの門前にはちょっとした庭園が設けられ、落葉してしまった木々や
今まさに花盛りの椿か山茶花の木の間に短い遊歩道が伸びていたりして、
そんな道を楽しみつつ荒涼とした大通りを東へ進むと、さっき横断した
スイトピア通りと交差し、ここから北方向へと進路を取っていきます。

この通りも工場の集まるなかの荒涼とした雰囲気が感じられましたが、
広々したと下りの中央分離帯のように水路が通っているという面白い
構造にもなっています。
道沿いには三菱ケミカルの工場も建ちますが、その敷地内のフェンスの
向こうには千本鳥居が並び、その奥には合成稲荷となづけられている
稲荷神社の小さい社の姿も見られました。
対岸にはおそらく公共施設であるスイトピアという施設が、丸みを帯びた
大きな姿を示すようになり、東西方向の大通りと交差すると、
木戸公園というただの広場がただの木々に囲まれただけの公園が現れ、
そこからすぐの所が、2方向から大垣駅を目指して伸びる養老鉄道の
線路が分岐しはじめる地点となって、2つの踏切の間に室駅という
小さい無人駅がひっそりと佇んでいたのでした。

そして最後にスイトピアのところから大通りを東へ向かい、道幅は広く、
建物も大きい荒涼とした風景が続きながらも、だんだん素朴な店舗の姿も
見られるようになってきて、建物の間に大垣駅の大きい姿が見られるように
なると、昭和レトロ的な南北方向の商店街へと合流を果たしたのでした。

当初の目論見よりも時間をかけてしまった感じで大垣駅へ帰り着いたの
ですが、まだ他を訪れられる時間だったので、時刻表を繰りながら
いろいろ作戦を考えました。
東海道線がこの強風でダイヤ乱れを起こしているようでしたが、養老鉄道の
駅へ向かうと、揖斐方面への列車がちょうど出発するところだったので
思わず飛び乗ってしまいました。
列車は大きな建物が主となる車窓のなかを進みましたが、北大垣辺りまで
進むとだいぶ建物は小さくなって、揖斐の方の池田山や金生山、そしてその
足元に三角形に刻まれた裸の山の姿に囲まれたのどかな田園といった風情に
なっていきました。

3つめの東赤坂という、ホームだけの無人駅で下車しました。
西側は大垣市ですが、東側は神戸町になるようで、神戸町の観光案内の
看板が大きく掲示されていましたが、駅の周囲は基本的には静かな農村の
雰囲気が広がります。
ここからJRの支線の美濃赤坂駅へ向けて旧中山道が通っており、その道を
たどってみようと考えました。

旧中山道はなんということはない大通りで、広い道幅に素朴な民家が
集まりますが、道沿いだけなのか、建物の間からは田園風景がのぞき、
その奥には三角形に刻まれた山の姿も見られます。
ここに来てまた、空は晴れているのに傘が必要なくらいの雨が降り出して
しまいました。傘をさしながら、分岐した旧街道を歩んでも、しばらくは
どこにでもあるような住宅街の中といった雰囲気ばかりが続いていきます。

杭瀬川という小川と出会い、蛍が住んでいることを教えてくれる石碑を
巡って、対岸の町並みの背景にこんもりした金生山がそびえる風景を見て
杭瀬川を渡り、南北方向の大通りと交差してさらに進むと、
ここからが赤坂宿の始まりとばかり、道沿いにはいきなり古めかしい
板張りで格子戸の古い重厚な建物が現れはじめます。
雨が強くて一つ一つの建物を堪能する余裕はなかったのですが、
とりあえずしっとりした旧街道の雰囲気をようやく味わうことができた
ことを楽しみながら、西の方へ歩みを進めていきます。

程なく水路のような小川が現れ、さっきむすびの地で見たような形の
台形状の灯台がさらに背を高くしたような構造物が川沿いに建つ、
赤坂港跡という所が現れました。
巨大な石灯篭が立つ足元の川岸は綺麗に整備され、そして川岸には
赤坂港会館という、瓦屋根だけど白い洋館風の綺麗な建物も建って、
綺麗な風景を作ります。

中山道沿いの雰囲気はさらに古めかしいしっとりとしたものとなり、
古い建物ばかりが集まるかのような町並みとなっていって、紛れ込む史跡や
化石を含む岩石を扱う石材店のショーウィンドウを見つけたりしながら
降り続く天気雨の中さらに西へ進みます。
不意に貨物線の線路とも交差しましたが、その地点が赤坂本町駅跡との
ことで、言われてみれば駅舎だったっぽい廃屋のような建物の前に
駅前広場のような区画があり、廃屋の裏手に回り込めば線路沿いに
細くて短いホームまではっきりと残っていたりするところでした。

赤坂宿の本陣跡は石碑だけが残るただの広場となっていましたが、
程なくたどり着いた赤坂宿の中心部にも、古めかしい木造瓦屋根の
重厚な建物が密集して、いい雰囲気を作り出していました。
東西方向の中山道に対して南北方向からも別の街道が交差してくる
要衝ということのようでしたが、紛れ込む脇本陣跡はその当時から
そのまま旅館として機能していたりもするようでした。

交差点には何やら工場のような敷地が古い建物に囲まれるように存在する
ようで、南北方向の細い路地沿いにも高密度で古い板壁の建物が並び、
それこそタイムスリップでもしたかのように、古い町並みにどっぷりと
浸ることのできる町並みとなっていました。
そんな路地を抜けて、JRの美濃赤坂駅へとたどり着きます。むしろ
駅裏に併設される西濃鉄道の貨物駅の方が広い領地を広げる感じの
荒涼とした雰囲気を持つ駅でしたが、貨物列車は存在せず、ようやく雨が
あがって爽やかに晴れた空のもと、木造の無人駅は静かに佇んで、
自転車置場に侵食されている駅前広場からは、町並みの背景となる
金生山の姿を、青空のもとに眺めることができました。
以前ここを訪れたときは夜だったのですが、明るいときに訪れることで、
実はとても濃厚に旅情を味わうことができる町だったことを知ることが
できて、急遽訪れた甲斐があったように感じられたのでした。

ところがここから大垣に戻ろうとしたら、本線のダイヤ乱れの影響が
波及して折り返しの列車がやって来ないという事態となってしまいました。
まあ15分程度の遅れで済んだわけですが、寒空のもと列車を待つ地元の
人が案外多く見られた感じです。
辺りは夕暮れの色を示すようになり、大きな工場の集まっていた美濃赤坂
駅をあとにして進んでいくと田園の集落といった感じとなっていって、
案外たくさんの人が列車を待っていた荒尾駅を出て本線と合流すると
車窓は逆に広大な田園が広がるものとなっていきました。
そしてたくさんの通勤列車が集まる車庫の間を列車は進み、夕方の
大垣駅へと戻っていきました。

実は樽見鉄道の北方真桑という駅に今日この時間行ってみたい理由があり、
列車の遅れで乗り換えができなくならないかとやきもきしていたのですが、
大垣駅の構内を端から端まで大急ぎで移動することで、ちょうどぴったり
乗り換えをすることができました。
以前も乗ったことがある路線でしたがその時と大きく雰囲気は変わらず、
建物を疎らに含む田園風景から長良川を渡っていくと、幹と枝だけになった
富有柿の畑が広大に広がるのどかな風景の中へと進んでいきましたが、
刻一刻と辺りは薄暗くなっていきます。

そして北方真桑駅にたどり着いても駅の営業は実は年末休業に入っていて
目的を達することはできず、でもそのまま折り返すのもしゃくなので、
名鉄の廃線あとくらい探してみることにしました。
辺りはどんどん暗くなっていき道もわかりにくくなっていきましたが、
線路と直行するように揖斐線通りという道が延びていて、その道に入って
いけば、南に広がる田園か荒れ地かの向こうに不自然に築堤が横たわって
いるのを見つけることができ、近づいてみれば確かに、その上部には
バラストが残っていました。
築堤の向こうには住宅街があり、そこへ向かって坂道が上ってきて、
踏切のあとのようなものを形成しているところも見つけることができて、
なんとかここを訪れた意義を見つけることができたのでした。

あとはもう完全に夜になった中、樽見鉄道、そして本線を乗り継いで
岐阜へと帰るのみでした。
 

笠松、羽島竹鼻、大須、お千代保稲荷(2019.12.26)

murabie@岐阜市です。昨日の旅の報告です。

今日はうってかわってどんよりとした空模様で、パラパラと小雨が舞う
状態、天気予報も遅くなるほど悪くなっていく感じでした。
前から新幹線の岐阜羽島駅という存在が気になっていたところで、
今日はそちらの方へ照準を合わせてみることにしました。

名鉄岐阜駅から羽島方面への直通の列車は少なくとも朝にはないようで、
特急列車に乗って車窓が街並から田園へと移り変わった辺りにある笠松で
乗り換えのために下車しました。ホームの下の部分に馬の絵が掘り込まれて
いる通り競馬場の駅だったりするわけですが、ホームにも付近の見どころの
絵地図が掲示されており、乗り換えだけにするのは惜しい気もしてきて、
改札を出ることにしました。

競馬場に近い裏口から外に出ると、何を模したのか煉瓦作り風の駅舎になり、
小さい駅前広場の片隅に小さい神様が鎮座する不思議な駅でした。
住宅街を抜けると、道は築堤の上へと登り、すっかり裸になった桜並木が
続いていく築堤上の交通量の多い道を歩んでいくと、築堤の反対側に
競馬場関連なのかものものしくいろいろな形の建物が集まる領域が見られ、
そして程なく大きな競馬場が現れました。
昨日列車からも見られたとおり、すすきの茂る園地を囲むように、白い
砂が敷き詰められてたくさんの足跡が刻まれているように見えるトラックが
広がり、そして練習なのか数頭の馬がゆっくりとトラック上を走っている
様子を、築堤の上から暫し眺めていくことができました。
築堤に寄り添っていた名鉄の線路は緩やかにカーブを描きながら、前方で
木曽川を渡る鉄橋へつながり、何度も何度もいろいろな列車が往来して
いきました。

桜並木を伴う築堤上の道は線路と交差してもなお続きましたが、ある所で
集落側の崖上に赤い鳥居が立ちたくさんの幟がはためいているのを
見つけました。魂生大明神という名前を示していましたが、集落を見渡す
築堤上の細長い神域に建つのは、へそ塚というらしい、この街に陣屋が
あった昔から赤ちゃんのへその緒を奉納していた所ということでした。
そして境内地の片隅には小さい祠が建ち、その付近には大きな男性器の
木造も祭られていたりして、もしかして他のところでは金精様と呼ばれる
神様の表記揺れバージョンだったか、とあとになって気がついたわけです。

そのまま築堤上の道を進もうかとも思っていたのですが、見下ろす集落の
中に神社の杜らしき領域が見つかって、なぜだかそっちを先に訪れなくては
いけないような感じがしてしまい、集落側へ築堤を下り、八幡神社へ
詣でました。楠の森に囲まれる神域に大きい荘厳な神殿が建ち、長い参道が
穏やかな風景を作り出しているような、大事にされている神社といった
感じがしました。
鳥居の前から始まる笠松の古い街並には木造瓦屋根の黒い板壁の味わい深い
建物が並んで、古くて素敵な街並の風景を感じさせ、笠松町役場の通りと
交差すれば、古いは古いでも昭和レトロ的な古さを感じさせる街並だったり。

四角い町役場の前の道を通って築堤の上に登ると、その反対側には木曽川の
雄大な流れを囲む河原に園地が整備され、雄大な木曽川に名鉄の鉄橋と、
前方には別の道路の鉄橋が架かる、壮大な風景が広がりました。
後ろを振り向けば笠松の小さい建物が密集する街の向こうに、岐阜城を
載せる金華山の姿も見ることができます。
築堤上も含めて河原に整備されている公園は笠松みなと公園というようで、
昔ここから対岸へ渡し船が渡され、その港として栄えたことを記念している
ようで、園地の中心には街道の道標や川灯台のモニュメント等が設けられて
いましたが、高台から河岸に下りる坂道もかつての通りに石畳として整備
されて、船着き場としての雰囲気を保っているようでした。
目の前の木曽川は大量の水を湛えあくまでゆったりとした姿を見せ、
左手の名鉄、右手の道路の鉄橋も水辺の風景に調和してゆったりとした
風景を作り出しているようでした。

築堤から集落の方に下りればまた、古くて味わい深い街並を楽しむ
ことができました。重厚な瓦屋根の民家や商店がしっとりとした街並を
形成し、杉山家の建物の屋根の上には神棚まで設けられていたりして、
しかも説明書きがついていて、ようは街があまりに繁盛して神社の居場所が
屋根の上くらいになってしまったという時の流れを伝えてくれていました。
そして昭和レトロ的なメインストリートから脇道へと迷い込むと、
産霊神社という、また境内が広いわけではないけれど神木の作る杜のおかげで
ゆったりとした雰囲気の境内となっている古い神社へとたどり着きました。
年越しの準備が着々と進む境内には、この時期すっかり丸裸になってしまった
イチョウの木も静かに佇みます。

そしてメインストリートとなっていた昭和レトロ的な建物の並ぶ大通りを
進めば、西笠松という無人駅にたどり着き、新羽島行きの名鉄の列車が
すぐにやってきて、ふらっと訪れただけの街だったけど案外味わい深くて
楽しめた笠松の街をあとにすることとなりました。

名鉄竹鼻線ということになる列車に身を任せて、新幹線の岐阜羽島に
隣接するという新羽島を目指していきます。
車窓には素朴な民家の集まる集落が現れていましたが、建物の間の
田畑の姿が次第に目立つようになり、時には遠巻きにシルエットとなった
山並みに囲まれる広大な田園が広がることもありました。
さすがに今日は伊吹山は霞んでいましたが、方角的には去年訪れた
多度の方と思われる山並みの姿が佇みます。
無理矢理自動改札を設けたときの場所の都合か、ホームの真ん中に
何を遮断するわけでもない自動改札ブースが設けられている南宿という
駅も通っていきます。
ほどなく竹鼻へさしかかると羽島の中心市街地となっていると見え、
車窓には古い木造瓦屋根のものを含む建物がそこそこの密度で集まる
ようになってきて、羽島市役所前を過ぎると列車は高架線に登り、
郊外型の大型店舗の並ぶ近代的な大通りを跨ぎ越しましたが、すぐに
地平に戻ってもとのような集落の江吉良駅へ進みます。
少し前に廃止された区間が分岐していた廃線跡のようなものを確認して
列車はカーブを切って進み、再び高架線に登り、土地は広大なのだけど
大きな建物同士の感覚概要に広く駐車場ばかりが目立つ、密度の低そうな
街並を大きく見渡して、新幹線の高架線に寄り添うようにして、
終点の新羽島駅へと進んでいきました。

新羽島駅を出ればそこは巨大な岐阜羽島駅の駅前ロータリーの一角でした。
バス乗り場となっていましたが発着するバスのほとんどはコミュニティー
バスの類、そしてロータリーを囲むのは巨大なホテルとレンタカー店で、
例えばさっき訪れた笠松のような素朴な街並の雰囲気は、少なくとも
駅前には存在しないように思えました。
例えば観光地として宣伝している円空という僧侶の生誕地などの見どころ
へはバスを使わなければ行けそうにない距離であるようで、どう動こうか
しばらく考え込んでしまうような所でしたが、どこにもいかずに去ると
いうのもつまらないことだし、せめて隣の江吉良駅まで歩いてみようという
ことにしました。

岐阜羽島駅と直結してわざとらしく街路樹の並ぶ大通りと交差する道に
入っても、大型店舗と駐車場ばかりが並ぶような状態でしたが、駅から
離れれば空地ばかりとは言え少しずつ生活の臭いが感じられるようになり、
洞神社という小さいけれど綺麗な神社がちょっとした杜を広げるところも
現れます。
隙間の多い住宅街を抜けて、郊外型店舗の並ぶ大通りを横断すると
江吉良駅の勢力圏となる素朴な住宅街となり、隙間の田畑も広大でしたが
去年見た輪中のお屋敷のように石垣の上に乗る大きな民家が現れたり、
重厚な瓦屋根のお堂が遠くからでも目立つ寺院が佇んでいたりもする街です。

そして民家の間に紛れ込むような江吉良駅に近づけば、列車からも見た
廃線跡との分岐点となっていました。
廃線跡にレールはありませんでしたがバラストはおそらく昔のままの形で、
細い路地に添ってまっすぐ進み、おそらく昔は小さい踏切だったと見られる
路地との交差点の向こうに、おそらく昔のままのたたずまいで小さい田畑と
立派な民家が立ち並んでいる静かな集落の一部となっていて、途中ソーラー
パネルに占領されているところもありましたがまっすぐ進むことには
変わりなく、とりあえず次の交差点のところまで追いかけて、カーブを切って
住宅地の間へ進んでいくのを見送って駅へと戻っていったのでした。

江吉良駅にやってきた列車に乗って、一旦高架に上った後素朴な街並へと
下って2駅戻り、竹鼻駅で下車しました。
地図上では羽島の市街地の北端に当たるように見られ、無人化されては
いましたが、ちゃんとした駅舎が残っている駅です。

市で設定している観光コースにしたがって、竹鼻の街並をいったりきたりして
みることにしました。駅前の大通りと交差する路地に入るとレトロな建物が
商店になっていたり、その中に古刹が混ざっていたりもする道となり、
ほどなく逆川という細い水路のような川を新橋で渡り、近くで名鉄の線路も
か細く川を渡っていたり、すっかり裸になった桜の木が川に枝を伸ばして
いたりする眺めを楽しみました。

線路の北側に回っても古めかしい街の雰囲気は変わらず、そして路地に
分け入ると道の奥に裸の背の高い樹木の作る森と赤い鳥居の姿が見られる
ようになりました。
八劔神社という綺麗で大きな社を構える神社でしたが、開放的で広さを
感じさせる境内には明治神宮という名前の、複雑な形の池の真ん中に
島のように浮かぶ小さい社が静かに佇む所もあったりしました。
住宅街の中へと少し分け入ってみれば、近くの逆川に架かる橋の所から
たくさんの白い幟がはためく路地が分岐していて、これまた小さいお社が
川沿いに佇む、人々に大事にされていることがよくわかる小さい
竹鼻不動明王の姿を見ていくことができました。

八劔神社から市街地の中心へ戻る道沿いにも古めかしい重厚な瓦屋根、
黒い板壁に格子戸の建物が並んでしっとりした味わいを感じさせる
街並となっていましたが、そんな建物の中に混ざるように背の高い
山車蔵も佇み、閉ざされてはいたけれど中にしまわれている山車の
説明を見て想像することができるようになっていました。
線路からも見られた、古くて重厚だけど気楽に入れそうな本覚寺、
般若寺といったお寺の境内を通り抜け、線路の南側へ戻り、古めかしい
街並に紛れ込む寺院の姿を楽しんだり、屋根神様を載せる古い民家の姿を
見つけたりすることを楽しんでのんびりと散策を続けます。
近代的ななんでもない大通りとも交差しましたが、街路樹と同等の地位を、
たくさんの木の仏像たちが占めて美しい街道を作っていたりしました。

南へ進む通りへ折れ曲がっていくと、古い蔵を模したような
ぐるっと羽島という観光施設が現れ、その隣に映画資料館という不思議な
公共施設の、新しくて大きな建物も佇んでいたのですが、その敷地の片隅に
竹鼻城址という石碑がひっそりと立っていて、言われてみればこの建物の
形はなんかお城の店主のような形になっていることに気づくことが
できたのですが、特に堀があったり高さが違っていたりすることのない
なんでもない、街中に突然現れるといった感じの城跡で、
通りすぎるとすぐに古めかしい建物の集まる街並となっていきます。
広くて開放的な境内に巨大な藤棚が佇む竹島別院にもお邪魔しつつ、
黒い板壁の古い町屋が並ぶ通りをのんびりと進みます。

並行するメインストリートの竹鼻商店街はブロックで舗装され、古いと
言えば古いけれどどっちかというと昭和レトロ的な古さの商店が集まります。
しかしさっきの所へ戻るように北上していくと、その中にも千代菊という
銘柄の造り酒屋が大きな重厚な白くて古い建物を示し、その裏手には黒い
板壁と白い土壁で囲まれた醸造所の姿も控えているようでした。

札の辻という石碑の建つなんでもない交差点から路地に分け入っても
街並の雰囲気は変わらずしっとりしたままで、並走する大通りと一緒に逆川を
渡る橋も昭和初期に作られたらしい、古いというよりもぼろいコンクリートの
橋となっていて、2つの橋の間に小公園が整備されていたりしましたが、
その周りもまた古い黒い木造の建物や、青い板壁の建物に囲まれます。
川町という集落の路地に戻ると道の真ん中に常夜灯が佇んでいて、
そこから逆川沿いに出れば、舟運が行われていたときの川湊のあとが
石碑だけの姿となって残っていました。
ここから川沿いの道は、あまりそうは見えないけれど遊歩道という形に
なっていて、緩やかに蛇行する川に添って次の竹鼻橋までの道をのんびり
散策しました。

逆川をまた街の方へ渡っていき、軒先に極小の観音様のお堂を組み込んでいる
古い民家も見られたりする路地へ分け入ると、開放的な明るい境内を持つ
正法寺という寺があって、お堂に寄り添うように横たわる長い幹を示す
臥龍の松の見事な姿に出会うこともできたし、
南の方へ寄り道すれば大通りと交差するところに石山観音という
小さい観音様を集めた小さいお寺が佇んでいたりしました。

そしてブロックで舗装された竹鼻商店街に戻り、梵鐘の立派なお寺と
銅ぶきの青白色の2層の鐘楼門が立派なお寺にはさまれながら、
南端で交差する大通りへと出て行きました。交差点には涌き水が
わき出す綺麗な公園が整備されていました。
ここからまで来れば羽島市役所前駅もすぐ近くだったのですが、そこへ
向かう途中に一見無機的な建物が建ち、その中に佐吉大仏がおさめられて
いました。
無料で見られるところなので昨日の岐阜大仏のような金色の派手さはない、
黒く見える青銅の大仏様でしたが、窓から差し込む光に照らされて穏やかな
表情を見せています。
堂内の掲示物で、この大仏を作った永田佐吉という人物が紹介されていて、
幼少期からずっと、たくさんのいい行いばかりをしてきた美濃聖人とも
呼ばれる人物であったことも説明されていました。

こんな感じで高密度に、古い建物やたくさんの史跡を見つけることのできた
竹鼻の街歩きを、羽島市役所前駅で終えることとなりました。
次に行きたいところへ向かってくれるコミュニティーバスの時間まで40分ほど
待たされることとなりましたがちょうどよい休憩とばかり、バス乗り場の
ベンチでのんびりと過ごしました。
やって来た車はバスというよりも小さいワゴン車だったりして、
大仏の前や石山観音の前を通過して南北方向の大通りを南下していきます。
道はいつのまにか細くなって、山並みに囲まれたのどかな田園が広大に
広がることが多くなりましたが、道沿いだけに建物が集まる集落を時々
通過していき、最後に一瞬だけ大河となる長良川の堤防に上ってから
集落へと回り込み、終点の大須というところへたどり着きます。

バスターミナルの前には芝生の空地がありましたが、ここが廃止された
名鉄の大須駅のあとだということで、周りを見てみれば確かに、さっき
江吉良で見たような、レールはないけれどバラストは残る細長い敷地が
続いていてこの場所で途切れている様子を見ることができます。
なぜかトイレだけは新しかったりしましたが、すぐ南側には南濃大橋へ
登りはじめる幹線道路が壁を作っています。
小さい民家の集まる集落に分け入ると、その中心に赤いお堂が2つほど
並び、そのうちの一つの真福寺というお寺は、名古屋の繁華街となっている
大須観音がもともとあったところだと言いますが、こちらの大須観音は
あくまでひっそりと、隣の徳林寺と共に素朴な集落の中でひっそりと佇む
のみの小さなお堂でした。

大須駅跡に戻って、幹線道路と一緒に南濃大橋に上って長良川を渡れば、
川の流れはきわめて広い大河となっていて、大きく広がる曇り空のもと、
のどかな田園に囲まれながら、ほとんど水の動きを感じられないほど静かに
佇んでいました。
前方の丘陵に囲まれた田園は隣の海津市となり、建物の間を埋めて広がる
田園が緑色になっているのも今まであまり見なかったような気がします。
河原も公園として整備され、その上の堤防には小さい道の駅も整備され、
少し足を休めていくことができました。

ここから次の目的地の、海津市内にあるお千代保稲荷までは少し距離が
ありましたが、せっかくなのでのんびりと歩いていくことにしました。
結局雨もひどくはならずに、空は暗かったけれど、丘陵に囲まれる田園の
中を長閑に貫く県道1号に沿って延々と歩いていきました。
所々農産物の直売所があって、みかんが大量に軒先に並んでいたり
するのを眺めたり、ときどきは集落にも入って大きなお堂を遠くからも
見渡せる開放的なお寺をかすめたりして進んでいくと、通りに跨がるように
大きな赤い鳥居がいくつか立っているのが見られるようになってきました。

鳥居の外側はあくまで広大な田園なのだけど、東門の大鳥居の前には巨大な
飲食店が佇み、そして鳥居をくぐると道沿いに小さい商店がたくさん並び、
どこにいたんだろうといった感じの観光客が集まって賑わいを示して
いました。別に境内地でなくてもよさそうな、農産物の直売店や衣料品店、
雑貨店などもありながら、観光地として良くありがちな漬物屋、饅頭屋、
そして鯰料理が名物らしい川魚料理屋や、これも名物らしい串かつ、
どて煮を店頭で立ち食いできる店なんかもあって、鳥居の外とは別世界の
ような賑やかな世界が広がっていました。
通称「おちょぼ稲荷」の境内はさほど広いわけではなく、真っ赤な赤い
鳥居は立派だったし境内の隅には狐の石像もたくさんあったけれど、参拝
自体は一瞬で終わってしまうくらいのものでしたが、ここもたくさんの人に
大事にされているんだなといったことがわかる小綺麗な境内、仲見世では
わらに三角の油揚げを通す飾り付けらしきものを作る作業をしている人も
店先に作業を見せるように座っていました。

再び賑やかな参道に戻って中の鳥居をくぐり、南口の大鳥居へ向かって
歩みを進めると、賑わいは急速におさまって、大鳥居の外にはまた広大な
田園が山並みに囲まれて広がるのどかで穏やかな世界が広がっていました。
岐阜羽島駅へ戻る海津市のコミュニティバスの乗り場が近くにありましたが、
次のバスまではなんと1時間も間が開き、実は反対方向のバスに乗れば
養老鉄道の石津駅に出られたらしかったのですがそんなことには気付かず、
結局残りの1時間を参道で潰すという選択をしました。

しかし参道の店並みも4時を過ぎると次々と店じまいを始めてしまい、
あんなにたくさんいた観光客の姿もどんどん少なくなり、刻一刻と雰囲気は
ひっそりとしたものへと変わっていきます。それでもまだまだ営業を続けて
くれる串かつとどて煮の店もあり、せっかくなので店頭で食べて行くことに
しました。しっかり煮込まれている大鍋の中から勝手に取って食べ、
最後に串の数で精算するシステムで、たれてしまう味噌だれをキャベツで
受け止めながら、良く煮込まれてあまり臭みを感じないホルモンのおいしい
味噌煮込みの味を堪能することができたのでした。

こうして予定外に門前町の雰囲気を堪能するうちに、参道はすっかりと
静まり返り、そして当たりの田園も刻一刻と薄暗くなる、夜のモードへの
切り替わりの時間となっていきました。
赤々とライトを点してやってきた帰りのバスに乗って、広大な田園を走る
うちに辺りはどんどん夜に切り替わっていき、大河の長良川を別の大きな橋で
渡ると新幹線の駅の付近だけに光の粒が集まっているのを遠くからも
見ることができるような夜の暗さになっていきました。
そして岐阜羽島駅というよりも新羽島駅の目の前に到着したバスから直ちに
名鉄の電車に乗り換え、すっかり夜になって辺りに何も見えなくなった中、
帰りは笠松で乗り換えることもなく、名鉄岐阜まで戻っていったのでした。
 

旧中山道加納宿、長良川川原町、金華山岐阜城(2019.12.25)

murabie@岐阜市です。

年末の仕事を無事余裕をもって終了させることができ、今年も年末の旅に
出ることができました。
早朝の東京をあとにして、東京駅からぷらっとこだまを利用、山側の席を
指定したものの富士山は曇って見られなかったのですが、うとうとしている
うちに進んだ浜名湖は快晴の空のもとに青々と広がって、長閑な田園も
広がるようになった愛知県内へ進み、まずは名古屋へ。
そして、ちょっと立ち寄ったエスカの金券ショップで、岐阜までの名鉄の
チケットがJRのチケットより安く売っていたのをいいことに急遽予定を
名鉄経由に変更し、時々大きな川を渡りながら、遠巻きに丘陵に囲まれる
長閑な明るい田園の中を進み、特急の停車駅の近辺では住宅街や
ちょっとした街の中へも進み、木曽川を渡ると立て込む家並みの間を
縫うような車窓となって、最後にJRの高架をくぐって、駅の周辺にだけ広がる
都会のように巨大で新しい建物の集まる街の中の名鉄岐阜駅へと進みました。

荷物を預かってくれない宿だったので駅のロッカーに大荷物を預け、宿の
近くに実はあった旧中山道加納宿の散策から始めることにしました。
駅の近くの水路沿いに、清水緑地という、明るい青空のもとに岸辺に
遊歩道が通されている公園が広がります。蛍も見られるらしい湿地状の
水路もあり、紅葉の名残の木々も立って穏やかな水辺の風景となっています。
水路を横断する大通りまで歩いて少しだけ戻った所から旧中山道の方へ
住宅地の中を進むと、加納天満宮という綺麗なお宮が建ち、御神木の
楠の巨木はこの時期でも青々として、快晴の青空のもとに穏やかな境内を
作ります。石段状の本殿の前の参道に拝殿が建つ、この辺のといった感じの
神社です。

旧中山道は舗装の色が変えられて一目でそれとわかるようにはなって
いましたが、特に古い建物が保存されていたり新しい建物が古めかしく
建てられたりということもなく、一見普通の住宅街といった感じです。
それでも道端を気をつけて見ていると、脇本陣跡とか史跡の存在を示す
石碑が民家の軒先にさりげなく建っていたりします。
まさに近代的な民家の建つ玄関の脇に、本陣跡、皇女和宮が宿泊した所
なんていう史跡まで存在していたり。

大通りと交差する所は近くの交差点の横断歩道までちょっと迂回して
なんていう手間もかけさせられたりしながら、それでも時計台との出会いを
喜びつつ、引き続きなんでもない住宅街の中の道を進みます。
二文字屋という昔からあるらしい料亭の門には月で餅をつく兎が水を
流し出している池があったりして、ようやく古い街道らしい雰囲気が
醸し出されてきたかなといった感じでしたが、
その先にあるはずの旧加納町役場という洋館風の建物は、どうやら
取り壊されてしまっていたようでした。駅の案内地図に写真入りで
紹介されていたので楽しみにしてはいたのですが。

その先が加納城大手門跡となり、ここから加納城の方に寄り道をして、
学校がいくつかならぶ明るい領域をまっすぐ伸びる道をたどります。
岐阜大学付属岐阜市立というよくわからない小学校が立派な煉瓦の
門を構える前を通過すると、住宅街の中に立派な石垣が姿を表します。
加納城は建物は全く存在しないのですが、基本的に野面積み、角だけは
算木積みという昔のままの姿で、頭上に木々を纏いながら静かに佇みます。
場内に足を踏み入れれば建物のない城郭は疎らに木々の立ついこいの広場
といった風情となりましたが、石垣の上に上って園地の外周を大きく
巡るように歩めば、周囲を囲む住宅地やテニスコート、駐車場や児童公園が
静かで穏やかな雰囲気を示しているところでした。
場内にいるよりもむしろ外側をなぞるように周回した方が、ごつごつした
大きな岩石が荒々しく詰まれた石垣が苔や草の進出を許しながら青空のもと
頭上の林の木々とともに穏やかに佇む風景を楽しむことができました。

元々の城は周辺の学校や住宅地の領域にも広がっていたもののようで、
周辺に広がるテニスコートも城跡の一部ということになるようです。
一部分お城と同じようにごつごつした石垣を擁するステージ上に
地方気象台がたち、その側には比較的水量の多い川が蛇行しながら流れ、
その向こうには紅葉の名残を残している高い山の上に岐阜城の白い天守の
佇む金華山がそびえ、まるで水の上に城山が浮かんでいるかのような
美しい風景にも出会うことができたし、川沿いに裏門を開く小学校の
校庭にお邪魔すると気象台の敷地との境界にさっきのお城と同じような
野面積みのごつごつした石垣が横たわっているのを見つけたりすることも
できました。

学校の間にまっすぐ伸びる通りを旧中山道まで戻って引き続き旧街道を
進んでいくと、清水緑地から続いていたらしい小川を渡る所には高札場跡
があり、その先の素朴な商店の店先には素朴な石に刻まれた道標が立ち、
名鉄の線路と交差しないように折れ曲がった旧街道沿いにはこのあたりから
木造瓦屋根でうだつの上がる古めかしい建物の姿も見られるようになって
いきます。鮎鮨の問屋跡があったり、小さな神棚程度の秋葉神社に大きな
鳥居が建つ所があったりもします。

やがて岐阜城の丘へ続くような大通りと交差する所で名鉄の加納駅が現れ
ましたが、旧街道は大通りを横断して引き続き住宅街の中を進みます。
いつのまにか御鮨街道という名前が与えられていた旧街道を進み、
綺麗な松の木の建つ古いお屋敷や、道が折れ曲がる所の自然石に刻まれた
道標や、味わい深い古めかしい商店の姿を味わいながらのんびり歩けば、
明るい空のもとに名鉄の線路と並行して川を渡る美しい川辺の風景を経て
すぐに次の茶所(ちゃじょ)駅に通じる素朴な通りと交差します。

昔の力士が土俵外での悪行を反省するために立てた寺院の中の「ぶたれ坊」
と、旅人をもてなすための茶店を設けたことがこの不思議な響きの地名の
もとになっているようで、分岐する街道の分岐点に石碑が佇んでいます。
古いお屋敷や昭和レトロな商店が並ぶあまり広くない大通りに、小さい駅の
駅舎も出入口を開き、そして小さい敷地にいくつもの小さいお社を集める
加納八幡神社が静かに佇んで、木々の間の青空に岐阜城の山を
浮かべていました。

ここを通る路線バスがうまい具合に岐阜城の方へ行くらしかったので、
八幡神社の前のバス停にやってきたバスに身を任せることにしました。
バスは旧街道に並走する大通りを淡々と駅の方へ戻り、清水緑地を横断する
大通りからJRの高架をくぐって巨大な建物の集まる岐阜駅の北口に寄り、
きんきらきんの織田信長像の足もとで客を拾い、近くの名鉄岐阜駅にも
寄り道し、徹明町、柳ヶ瀬と、実は駅の北口には広く広がっていた、
巨大な建物が密集する都会の中を貫く大通りを進んでいきます。
路面電車があった頃に来たかったなあなんていうことも思ったりも
しましたが、柳ヶ瀬の辺りでは道沿いの建物の中にも昭和レトロな
煉瓦造りの建物が混ざっていたり、交差する横丁にもなんか雰囲気の
ありそうな感じがしたりもして、市役所の辺りまでくると道沿いの建物は
だんだん小さく、隙間も開き、歩道のひさしもなくなって、次第に素朴な
町並みの雰囲気へと変わっていくのが感じられます。
そして道が折れ曲がれば、小さくなった建物の向こうに壁のような城山の
紅葉の名残を所々残す深緑の山肌が大きく車窓に広がるように
なっていきます。
壁のような山肌を横目にさらに大通りを進むと、バスは快晴の空のもとに
雄大に流れる長良川を長良橋で渡り、川沿いの大きな建物の作る温泉街の
背景に、平野を囲む山並みの姿を大きく映す風景をつかの間楽しむことが
できました。

端を渡った所の鵜飼場というバス停で下車し、今度は徒歩でのんびりと、
ゆったりと静かに流れる長良川の流れに寄りそう余りに大きい城山の
足もとに、大きいはずなんだけど小さく見えるホテルが集まっている
雄大な風景を見ながら、長良橋を再び戻るように渡っていきます。
岐阜市側の岸には鵜飼見物の屋形船がたくさん集まっていて、
オフシーズンなので群れを成して静かに休息を取っています。

長良川を岐阜駅側に渡り、一旦大通りを外れると、細い路地沿いに
川原町という集落が現れます。
低くなった太陽にもろに逆光を照らされたので、満足に風景を楽しむことが
できにくかったのですが、細い大通り沿いに高密度に古めかしい建物が並んで
味わい深い町並みになっていて、さほど広くも長くもない領域だったけれど、
古い町並みの雰囲気を堪能することのできる所となっていました。
古い街は大通りを交差した材木町の方にも見られ、川原町のように
整備されてはいないようでしたが、所々古めかしい木造の建物が
細い路地沿いを固めるように姿を現してくる町並みの中を、しばし散策する
ことができました。
そしてそんな街中には正法寺という古いお寺があり、背の高いお堂の中には
金色の観音様が巨大な大仏となっておさまっていて、静かで厳かなお寺の
境内を作っていました。大仏の周りを一周しながら、金色の仏像の示す
いろいろな表情を味わっていくことができました。

金華山の山頂へ向かうロープウェーの乗り場の周辺には岐阜公園という
美しい園地が広がります。明るい森の中に設けられた庭園のような
所には、巨大な歴史博物館のような施設のほかに、小さい洋館のような
建物が現れ、昆虫博物館として機能しているようでした。
そしてそんな美しい庭園の広がる斜面上には、ここがこのような美しい
庭園のような公園となっている理由であるらしい、斎藤道山や織田信長の
旧居跡があった所が、城跡のようにいくつかのステージを擁してそれらが
石垣で囲まれているような所を垣間見ることもできるようになっていました。

急斜面にへばり付くように立ち尽くしてロープウェーの軌道を彩っている
丹の色の鮮やかなお堂の姿を見つつ、ロープウェーに乗車して、山頂の
岐阜城を目指していきます。
所々紅葉の名残を残して黄色や赤の鮮やかな葉を繁らせる木々が見られる
山肌をなぞるように搬器はぐいぐい高度を上げ、長良川沿いに集まる
運動場やその周りの小さな建物立ちが作る町並みの姿が、丘陵に抱かれる
ようにして広大に広がるようになっていきます。

ロープウェーの山頂駅から岐阜城へは、さらに少しだけ、林の中の遊歩道を
上っていく必要がありました。
遊歩道に接する斜面にはチャートの露頭が現れ、見事なまでの摺曲という
ことで、ほぼ垂直方向になってしまった地層の縞模様をまじまじと眺める
ことができましたし、そのような自然の地層ばかりでなく所々古い時代の
石垣が詰まれていたり、切通の複雑な地形を観察することができたりする
道となっていました。
岐阜城の天守閣にたどり着く直前の道からは、小さい建物が川沿いに
密集するパノラマを楽しむことができる所もありました。

岐阜城の建物自体は再建だし見るべきところはないのだけど、織田信長の
肖像やら火縄銃やら、世界地図や地球儀のレプリカやらが展示されている
のにはなかなか興味深いものを感じることができました。
そして最上階の展望台にたどり着けば、周辺の広大な展望があらゆる方向に
展開しているのを堪能することができました。
北側は平野の中に手を伸ばす丘陵がごつごつする中、その足もとには小さい
建物が密集し、ゆったりとした流れの長良川が貫く風景となっていましたが、
岐阜や各務ヶ原、そして名古屋の方まで広大に広がる濃尾平野には、
所々田園や余りに広大な飛行場の姿までが見られるものの、雄大に流れる
木曽川の姿を中心にして無数の大量の建物が平野を埋め尽くしている広大な
風景が広がっていて、しばしそんな雄大な風景をのんびりと楽しんでいる
うちに、太陽は長良川の方へどんどん近づいていってオレンジ色の夕焼けの
領域を広大に広げるようになっていきました。

城から下山する道は、登山道と平行するような別の道を下り、上りの道の
下に形成されていた極めて高い石垣を見上げたり、切通を跨ぐような端を
渡ってみたり、そしてもう閉店していたけれど展望レストランの建物の
屋上には立ち入ることができるようになっていて、周囲に広がる濃尾平野の
町並みの風景を、さっきの山頂からよりも寧ろ町並みに近いところから
大きく見渡すことができるようになっていて、より深まった夕暮れの風景を
さらにじっくりと楽しんでいくことができたのでした。

ちょっとのんびりし過ぎたかなというくらいの時間を過ごしてロープウェーの
乗り場に戻り、夕暮れの深まった広大な空のもと、雄大な長良川の流れに
向かって下っていく搬器に身を任せ、ふもとの岐阜公園へと戻って
いきました。
辺りは刻一刻暗くなっていくところでしたが、岐阜公園の池を中心とする
庭園の木々には紅葉の名残が色濃く残り、そして辺りが暗くなって
点りはじめた街灯が紅葉の木々を美しくライトアップしてくれて、より
幻想的な雰囲気を濃くしていく所でした。

岐阜公園の園地をあとにして、丘陵の足もとをなぞるように、どんどん暗く
なって夜の風情となっていく街の中を歩んでいきました。古めかしい建物も
現れてはいたようだったけれど、もはやその姿をじっくり楽しむ余裕もなく、
仏具店の建物のテラスに現れた光輪を背後に背負った観音様の像の姿も
じっくり堪能というわけにはいかなくなってしまいました。

暗くなった道が明るい大通りと交差すると、伊奈波(いなば)神社という、
岐阜の守り神とされているらしい神社への参道となっていました。
一瞬大きく広がった道沿いに、長野のそれを連想させる姿の善光寺という
お寺のお堂が佇み、大鳥居を経て常夜灯に誘導される緩やかな上り坂の
参道が、暗くなった中に続いていきます。
参道の終点は石段となって山門がライトアップされて参拝ができるように
なっていましたが、神殿を守る狛犬の足もとに、頭を地面につけ尻を高く
上げている逆さ狛犬というものが隠れていて、その可愛らしい姿を楽しんで
いくことができました。
暗くなった緩やかな下り坂の参道を下ると前方には、広がる平野に光の粒が
無数に集まる綺麗な夜景が広がるようになっていたのでした。

こうして暗くなるまで岐阜市街のいろいろな風景を堪能し、路線バスに
乗り込んで賑やかな柳ヶ瀬の夜の風景を車窓から垣間見て、JRの岐阜駅へ
戻り、預けていた荷物を回収して宿へと入ったのでした。
天然温泉の文字につられて加納の方の閑静な住宅街の中の宿を取ったら、
ちょっと買い物の便が不便だったり、何より部屋にテレビがなかったりと
安い分不便な生活を楽しもうと決めたところです。
池田町の温泉をくんでいるらしい、肌がつるつるになるお湯を早速
楽しんでいます。
 

藪塚(2019.12.15)

murabie@自宅です。9日前の報告となります。

先週に引き続き早朝の東京をあとにして、今日は北千住から東武線の
特急りょうもう号に乗りました。
明るくなった空を突き上げるスカイツリーに見送られて、高架から住宅街を
見渡して地平へ下り、北春日部辺りから見られるようになった田園は
伊勢崎線を下るごとにどんどん広大に広がるようになり、館林を過ぎると
田園を囲む丘陵の姿は大きくなっていって、足利辺りまで来ると渡良瀬川の
対岸の町並みの背後を囲む丘陵は案外まだまだオレンジ色の紅葉を鮮やかに
示していたりして、そんな鮮やかな丘陵がのどかな田園の奥のすぐ近くに
横たわるようになった車窓を楽しみ、今日の目的地の藪塚駅に
降り立ちました。

藪塚駅から藪塚温泉まではすぐ近くで、列車からも田んぼの向こうに
横たわる鮮やかな紅葉の丘陵の足もとに見られていましたが、
田んぼのただ中を歩き進めば、赤城おろしのからっ風が強く吹きすさんで
いるところでした。広大に広がる田園の向こうには、特徴的な姿の妙義山や
赤城山の山並みの姿が横たわり、そして道の前方のオレンジ色の丘陵の
足もとにはなぜか巨大なかかしが佇んでいたりもします。

温泉街への入口の丘の斜面はなつめの里という名前がつけられていて、
四阿や小さな神社がオレンジ色の紅葉の木々に彩られているところでした。
斜面の足もとに沿ってのびる通りを少しだけ歩くと、西山古墳への道標が
現れて、階段を上って丘陵の中へと分け入り、大量の乾いた落ち葉で
ふかふかになっている、裸になりつつある木々の集まる森の中の道を進めば、
森が開けたところに草で覆われた前方後円墳が佇んでいました。
石室への入口は名前の刻まれた石で囲まれて、低くて入れないけれど中の
空洞を覗くことはできるような感じでしたが、小山の上に上ればここが
前方後円墳であるということがよくわかるように形を見て取れて、そして
そこそこ高いところから紅葉の木々の間に周辺の平野の姿を見ることの
できる爽快な所となっていました。

一旦なつめの里に戻ってから、藪塚温泉の街へと歩みを進めていきます。
鮮やかな丘陵に囲まれる道沿いには小さいお堂が立ち、道沿いには真新しい
建物や巨大なホテルの姿も見られますが、路地に分け入れば斜面に広がる
田園とともに、素朴な小さい建物も姿を見せてくれます。
北山古墳は市街を囲む高台の上となるようで、道は緩やかな登り坂と
なっていき、教会のような屋根を持つリゾートマンションか何かが
鮮やかな丘陵に囲まれて佇む谷の向こうに広大に広がる平野の片鱗が
覗かれるような、爽快な展望が広がるようになっていきます。

妙義山と浅間山を正面に見据えて広大な平野が広がるのを見渡せる高台の
道へとたどり着くと、程なく斜面上に北山古墳が現れました。
森の中の階段道を上っていくと、裸の木々に囲まれて、さっきの西山古墳と
同じような風情の小高い山のような古墳が姿を表しました。やはり石室への
入口は石で補強されていたわけですが、さっきのと違って峰が一つの円墳で
あるようでした。そして隣接して、山寺の境内のように石垣で囲まれて
いくつかのステージを成している、でもお堂らしきものは一切見当たらない
不思議なちょっとした園地も広がっていました。

高台の道を歩き進んでいくと、石切場跡への入口を示す道標が現れ、
それに誘われるように、大量の落葉が堆積する森の中の遊歩道へと
足を踏み入れていきました。
程なく山の上へ上る遊歩道と分岐して、崩れかけた木道が続くようになった
森の中の薄暗い道へ進むと、たくさんの平面で切り刻まれた黄緑色の岩盤が
剥き出しになって道を囲む石切場跡へとたどり着くことができました。
巨大な岩盤はかなり高い所まで続いて、その上に紅葉の木々を乗せ、
そして足もとには大量の落ち葉が堆積してふかふかとしています。
規則正しく直線的に切り刻まれた岩盤に囲まれたさほど広くない空間は
今まで感じたことのない奇妙な空間を感じさせます。
周りを囲む斜面に上ってみたり、切り立つ岩盤の足もとまで上って、
頭上にさらに複雑に岩盤が切り刻まれている様を見つけたり、きっと実際に
切り出すときに通路となっていたであろう切り刻まれたようなトンネルを
見つけて通り抜けてみたりと、探検気分で隅から隅まで、この奇妙な
人工構造物の作る雰囲気を、薄暗い森の中でしばし満喫することが
できました。

遊歩道の本道に戻ってさらに山奥を目指していくと、大量の落ち葉の
積もった山の中へとどんどんすすんでいきます。
そして峠を越えて下りに転じても辺りは裸になった木々に囲まれた
薄暗い森のままでしたが、雨が降ればきっと沢になるのだろうといった
軽く谷が削られているような斜面となっていて、鬱蒼とした森の中ながら
なんだか広々とした空間であるように感じられてきます。
やがてその斜面の下に溜池が見えてくると森は終わり、ソーラーパネルに
中腹を占領された鮮やかな斜面で囲まれた車道と合流し、道沿いに
滝野神社という小さいお堂を見つけることができました。
溜池を通してみれば、ここからも広大な平野を広く見渡すことのできる
展望が開けました。

ここから車道を少しだけ登れば、辺りを囲む丘陵の再奥部に当たるような
所に、東毛青少年自然の家という、キャンプ場を従える公共施設へと
たどり着きます。
辺りを囲む丘陵の鮮やかさを感じながら、敷地内まで伸びる車道をさらに
奥まで進むと、また山の中へと分け入る遊歩道の入口を見つけることが
できました。

さっきの石切場への遊歩道の入口付近と同じように、たくさんの木々が
囲む薄暗い道に大量の落ち葉が堆積している道が沢に沿って伸び、
ある所で沢と別れて斜面を急な階段で登るようになっていくと、
程なく薄ぐらい森の中に大きな岩盤が現れます。
ごつごつした岩盤には斜めに境界線が入って、下部は濃い色、上部は淡い色の
岩盤となる、不整合を間近に見ることのできる所となっていました。
下のチャート層と上の凝灰岩層の間にはどうも1億年以上の年代の差が
あるらしく、この地がどういう歴史をたどってきたのかと考えると
不思議な気持ちになってきました。

一応ここまで特に大変な思いをすることなく来ていたので、このまま
駅や温泉街で案内されていたハイキングコースをたどりつづけて
みたのですが、実はここからがとても険しい道となってしまいました。
次の見所へ向かうためには、とても急な斜面を、何度も落ち葉に足を
取られそうになりながら上っていかなければなりませんでした。
やっとの思いで、桐生市との境になるらしい尾根へとたどり着き、引き続き
若干楽になった尾根上の道を、太田市へ戻る方へ歩きすすんでいきます。
森の木々には所々鮮やかな紅葉が残り、そして裸になった木々越しに下界を
覗けば、広大な平野が鮮やかな丘陵に寄り添われて広がっている姿を
確認することができました。

石尊宮という見どころへの分岐点を見つけ、今度は急な下り坂へと
歩きすすんでいきます。ふかふかの大量の落葉とごつごつの岩盤が
足もとに紛れ込んでいる急坂で、慎重に進まざるを得ず、後ろを振り返れば
いつでも切り立つような山肌が裸の木々に囲まれている風景が広がるような
道を下っていくと、道の真ん中に横一列に並ぶように3つ程の小さな
石づくりの祠が立っているようなところでした。
そしてさらに危険な下り坂を慎重にしばらく下っていくと、次の見どころの
十一面観音像の存在を表す真新しい立札が見つかりましたが、それは
その場所から急斜面の岩盤をよじ登ったかなり上の方に存在して
いるようでした。ハイキングコースを少し戻ることでちょっとだけ安全な
ルートをたどることもでき、一応御尊顔を拝することはできましたが、
なかなかスリリングなハイキングとなりました。

そしてそんな、スリップしたら一巻の終わりとなりそうな険しい下り坂を
慎重に下りつづけていくと、あるところで急に、鮮やかな紅葉の丘陵に
囲まれて大きな建物の周りに広大に広がる下界の展望が大きく開けたのです。
中心の建物はさっき歩いて通った教会のような屋根を持つ建物で、スタート
地点に帰ってきたのだということが理解できたとともに、この上ない喜びを
感じることができたのでした。

急斜面に敷き詰められたソーラーパネルの領域を迂回するようにまっすぐ
斜面を下る、木々を取り除いただけの急坂を下っていけば、山懐に抱かれる
ような薄暗い所に勝負沼という小さな溜池がありました。会員制の釣り場と
なっているらしくて数人の釣り人がのんびり過ごしているような穏やかな
所で、周囲はすぐに落葉樹の森林で覆われた斜面に寄り添われていましたが、
そんな森の中に、猪用の罠であるらしい四角い鉄格子のようなものも
据付けられていたりしました。
荒涼とした明るい谷底の風景の中を歩いていけば、さっきの石切場への入口も
すぐに見つかり、あとは長閑な風景の中、温泉街へと戻る道を、紅葉の丘陵の
姿を満喫しながらのんびりと下っていきました。

青空のもと周囲を鮮やかかなオレンジ色の壁に囲まれる長閑な山里の集落へと
下り、集落を囲む鬱蒼とした森で覆われた斜面にへばり付くように佇む
温泉神社に立ち寄りました。実はここの温泉は冷鉱泉を沸かしているのだと
いうことを、案内看板で初めて知ることになりました。鳥居の設けられた
入口には土の中から手を伸ばす塩ビのパイプから水滴が滴り落ちていて、
これがこの温泉の姿なのだとしたら湯量もちょっと厳しいのかななんて
思ったり。でも急な石段の上に静かに佇む、古めかしいけれどそこそこ
きれいに整えられているお社が森の木々に囲まれる姿や、境内から覗かれる
切り立つ鮮やかな丘陵に囲まれた小さな集落の姿からは、きっとここは
昔から静かな所のままなんだろうなと感じられたのでした。

温泉街の中心を貫く大通りにはさっき見かけた大きなホテルや、
白い郷土博物館の建物が佇み、それに面する丘陵には、三日月村と
スネークセンターへの入口であることを示す関所の門構えのような構造物が
立ち尽くし、その門をくぐって石段を登ると斜面上に遊歩道が交錯する
ちょっとした園地が現れ、適当に遊歩道を彷徨えば、パイプ塚という
何の記念だかよくわからない碑が丘の上に立ち尽くす所があったり、
木枯し紋二郎の碑なんていうものもあったり、そこから着想を得ているらしい
三日月村というテーマパークらしきものへの道標が点在している、
ちょっとした観光地の風情に触れられます。
そして園地を裏手に出て、丘陵の端に建つ綺麗なお寺の墓地が青空広がる
斜面上に広がる中を横断していくと、小さな古い飲食店とともに、
ジャパンスネークセンターという施設であることを示す古ぼけた看板と
古ぼけた建物が現れます。

蛇皮の小物類などをたくさん扱っている土産物屋を通過して園内に入れば、
丘陵に面する斜面上にコンクリートの壁で仕切られた区画があって
とりあえずシマヘビが飼育されているという看板こそあるものの、
冬だからなのか案内板が言うように草むらに目を凝らしてみても、
それらしき姿を見ることはできず。
急な斜面をはい上がるように登り、入口の建物の向こうに平野の展望が
大きく開ける辺りには、決して新しくない建物たち、特にチェーンで
仕切られて入れないようになっている斜面沿いの領域には廃墟となっている
建物の姿も見られたりしたわけですが、ここがれっきとした蛇毒に関する
研究施設であることを示すかのように採毒室を含む研究所としての建物も
静かに佇んでいたりします。
大きなガラス窓で囲まれた採毒室に人の姿はありませんでしたが、廊下を
奥まで進めばガラスで囲まれた小さい部屋で小さい蛇が休んでいたり
思い思いに体を動かしていたりする様子を見ることができるようになって
いました。

程なくして、飼育されている毒へびたちに餌をやるところを見られるという
イベントの時間となり、低地に佇むこれまた新しくない建物の毒蛇温室へ
立ち入ってみました。
建物の真ん中に、壁で区画された部屋がいくつか並び、それぞれの部屋に、
マムシやヤマカガシから果てはキングコブラに至るまで、世界中のいろいろな
毒蛇が住んでいて、その周りを一周するような廊下から彼らの様子を
ガラス越しに見られる建物です。
毒蛇のいる部屋のさらに内側の、建物の中心部が飼育員の場所となり、
蛇使いのお兄さんって感じの飼育員が、毒蛇のいる部屋との間のフェンスを
開け、餌である冷凍マウスを掴んだ道具を細かに動かして毒蛇たちに
興味を持たせるところを見ることができます。
中にはあまり興味を示さない感じのものもいたりしましたが、どの部屋でも
結局は、自分が注入したつもりの毒が回るくらいの頃合いで、
静置された冷凍マウスに頭から食らいついて少しずつ飲み込んでいき、
最終的にはしっぽまで飲み込み、頭の後ろの消化管が膨らんだ状態となる
ところまでの生々しい営みを、館内をぐるぐると周りながら観察することが
できました。
ヤマカガシには冷凍カエルを与えていましたが、どういうわけか腹から
食らいついてしまってなかなか飲み込むことができない状態になっている
様子も、なかなか微笑ましい光景となっていました。

丘陵に囲まれた斜面に広がる園地の外周に沿うように散策すれば、
となりには大蛇温室という、これまた古ぼけた平屋建ての大きな建物が
現れ、中に入ってみれば若干湿度の高さを感じる建物の中に、さっきよりも
大きな様々な色や模様の蛇たちが、大きなとぐろを巻いて静かに暮らしている
様子を観察することができたり、そして恐らく爬虫類仲間ということなんで
しょうけれどなぜか大きなワニガメの姿も見られたりしました。

そして大蛇温室の裏山のような所へ向かい、急な坂道をゆっくり上っていき、
斜面上の園地がオレンジ色の紅葉の丘陵に囲まれている風景を望めるように
なっていくと、園地の反対側の入口にたどり着きます。
供養のためらしい白く大きな観音様が、まだ葉を残す楓の木を一部に含む
裸になりつつある森の木々に囲まれて佇んでいましたが、その足もとが
蛇になっているのがなんとも言えません。
平野側の斜面はテラスのようになり、広大に広がる平野に所々集落を
含みながら長閑な田園が広がっている様子を、強い日の光を浴びた
快晴の青空のもとに広大に眺め渡すこともできました。

そして急な坂を園地へ下り、引き続き園地の外周を囲む丘陵の足もとを
たどっていくと、廃墟マニアのホームページで見たかつての遊戯施設への
出入口となるらしい通路が、何となく閉鎖されながらも口を開いて
いました。
ほぼ整備されず落葉が堆積するばかりの通路は、さっきの石切場への通路と
同じように垂直に、平面的に切り刻まれて、岩盤に穿たれたトンネルへと
続いており、その通路に切り立つ岩盤に古生物の姿が刻まれているのが
はっきり残っていて、通せんぼされたトンネルの奥にもそういう形跡が
覗かれるのだけれど基本的には荒れた世界ばかりが目に入ってくる、
廃墟となった世界を感じることができました。

あまり使われていなさそうな野外ステージのような建造物を経て園地の
中心部へと戻ってくると、爬虫類触れ合い講座みたいな感じの次のイベントが
始まる時間という告知がされ、何となく惹かれるように、古めかしい採毒室の
建物の2階の会場へと足を運んでみました。
さほど大きい施設ではありませんでしたが、席が埋まる程度の家族連れが
小さい部屋に集い、時折クイズ形式も混ぜながらスライドによって、
蛇を中心とする爬虫類のことや、日本で見られる蛇、特にマムシや
ヤマカガシのことについて詳しく説明をいただき、時間の最後には
大きいけれどおとなしいニシキヘビの体に触らせてくれる時間もとられて
意外にさらさらすべすべ、骨のない所ならばふわふわした触感も
楽しむことができました。

そして講義が終わると次のイベント、採毒実演の時間が近づいていて、
そのまま階下の採毒室の廊下へと移動しました。
ガラスで囲まれた中の研究室のような部屋に現れたお兄さんが
蛇使いのように、先端に鈎状の金具の着いた長い棒を用いて、器用に
篭の中からハブを取りだし、ひとしきり説明しながらハブの体や
動き方を観察した後、お兄さんはハブの頭を掴んで口を開かせ、
メートルグラスの縁を噛み付かせるようにして、牙から毒液が分泌される
ところをしっかりと観察させてくれたのでした。

ハブもさほど大きい蛇ではありませんでしたが、ハブの実演が終われば
次はニホンマムシとヤマカガシの登場となります。野生動物にありがちな
臆病でおとなしい性格が良く現れていて、5円玉模様と呼ばれるらしい
マムシの体の模様や、より細長くて頭のくびれもあまりないヤマカガシの
つやつやした体がうねうねとうごめくさまを良く観察することができ、
最後はまた蛇に触れる時間がとられて、さすがに毒蛇は触れませんが
アオダイショウが登場し、さっきと同じような案外さらさらすべすべした
鱗の触感をまた楽しむことができたのでした。

そんな感じで小さくて古ぼけたあまり目立たない施設だったけれど
密度の高い時間を過ごすことができ、最後に資料室の説明や骨格標本、
もしかしたらさっきの廃墟となった施設の名残なのかもしれない
熱帯蛇類温室の廊下になぜか展示される古生物の模型や大きな蛇たちの
姿を観察して園地をあとにする頃には辺りには夕暮れの気配が感じられる
ようになってしまっていました。
行ってみてもいいかなと思っていた隣の、三日月村という木枯し紋二郎の
時代をモチーフにしたテーマパークからの案内音声も聞こえなくなっていて、
とりあえず入口に向かってみても入場受付は締め切られたあとで、
関所という名前の入口付近の、江戸時代の雰囲気ということらしい竹林や
その中の古めかしく立てられた小さい建物の作る風情を少しだけ味わう
のみとなってしまいました。

そして計算外だったのは、せっかく温泉地なのだから帰りにちょっと
寄っていこうと思っていたのだけれど、中心部にある場違いなほど巨大な
ホテルで予約無しに入ることのできる日帰り入浴がちょうど受付終了と
なってしまう時間となってしまい、冷鉱泉を沸かしている温泉であるという
都合故か、他の小さい旅館の類も予約が必要なところばかりであるらしく、
結局温泉地を訪れながら温泉に入らずに帰るという選択をせざるを得ない
状況となってしまうという大失態となってしまいました。

こうしてとぼとぼと住宅街とあまり変わらない感じの静かな温泉街を歩き、
なつめの里で温泉街のオレンジ色の丘陵に見送られて、赤城山の姿が大きく
背景となって映る田んぼの中へ進み、朝とは違って空っ風の力も弱まった
穏やかな夕暮れ空の中をのんびりと歩んで、藪塚駅へと戻っていきました。
すぐに特急に乗って帰るのもなんだか中途半端、かといって駅の周りに他に
楽しめそうな所どころかコンビニや商店の姿さえ見当たらない集落でしたが、
せっかくなので数少ない飲食店が夜の営業を始めるのを待ち、このあたりの
B級グルメであるらしいソースかつ丼を食うべく、動かなくても刻一刻と
夕暮から夜の風景へと移り変わっていく大通りを暫し彷徨い、
すっかり夜になった街に灯った飲食店の明かりに引き寄せられて、
外の冷たい風とはうってかわった暖かい空間でしばし暖かい食事をのんびりと
楽しんで、特急列車で夜になった街を後にしたのでした。