荒尾、旧中山道赤坂宿~垂井宿、新垂井駅(2019.12.30) | 旅の虫速報

荒尾、旧中山道赤坂宿~垂井宿、新垂井駅(2019.12.30)

murabie@岐阜市です。今日も昨日の報告です。

今日はあいにく本降りの雨のスタートとなってしまいました。午後は小降りに
なるものの夕方まで降り続く予報とのことで。
今日は再び大垣方面へ向かうべくJR駅から東海道線の下り列車に乗り込み、
数日前に見た、素朴な住宅街や工業地帯や田園を外苑から取り囲んでいた
金生山や切り刻まれた山や、さらに背後に横たわる山並みの姿が
全く見られない、薄暗い車窓となっていました。

大垣から引き続き、この前慌てて飛び乗ったのと同じ養老鉄道の揖斐行きの
列車に、今日は駅の構造を観察できる余裕を持って乗り込んで、大垣の素朴な
市街地を行く列車に少しだけ身を任せました。
室を出て列車は急カーブを切り、いきなり切り通しのような風景となって
JRのガードをくぐり、並走する崖に遊歩道が通されているのを見て、すぐに
北大垣駅へとたどり着きます。

ホーム1本、一応綺麗な待合室はある北大垣駅をあとに、しとしと雨の
降る中、線路に寄り添ってきた堤防の上に上ってみることにしました。
どうやら笠縫輪中堤防というものだったらしく、堤の上に登れば桜並木が
続いて、北大垣駅と線路と細い水路を堤防の下に見渡すことができ、
そして線路の反対側には素朴な住宅街を見下ろします。

大垣の方へ戻る方向に堤防上の道を南下すると、遊歩道はJRの線路をくぐる
ところで終了となり、近くを流れている杭瀬川に沿う道へと誘われます。
近くに排水機場も設けられていたので水の流れが複雑そうな感じは
ありましたが、川の流れは新しい頑丈そうな無機的な堤防に阻まれて
見ることはできません。
水防施設のある所で堤防の上に登ってみると、確かに2つの川の流れが
合流する所に人工的に複雑な水路が形成されているかのような様相で、
どの流れにも大量の水が流れ、その向こうにJRの線路を背景として
水田が広がるのを眺めることができます。

時折、JR東海の通勤電車だけでなくたまにはひだ号やしらさぎ号なんかも
高速で駆け抜けていく様子を眺めつつ、杭瀬川と菅野川という2つの川が
合流すりゃいいものをいつまでたっても並走しているのを守る、
新しい堤防の上をのんびり散策すると、東西方向の大通りと合流します。
通り沿いには住宅街も発達しますが、橋の上からは大きな曇り空のなかに
金生山の姿がわずかに垣間見られている感じでした。

大通りを西の方へ進みましたが、時々古い建物も現れますが、少なくとも
通り沿いにはさほど味わい深い建物があるわけでもなく、しとしと雨の
降る中ただひたすら移動をするといった感じになってしまいます。
やがて高架の高速道路と、並行する幅の広い大通りと交差すると、
道沿いには郊外型の大きい飲食店などが現れるようになり、
そして交差点から離れるほど、普通の街並には戻るけれど、JRの荒尾駅が
近づいてくると、瓦屋根の建物が増えてきて、銀行なんかも現れはじめて
様相が少し変わってきます。
JR赤坂支線の踏切が近くなってくると、御首(みくび)神社への道標が
現れはじめて、その案内に従うように交差する路地へ歩みを進めると、
宇留生(うるう)小学校の敷地に沿うような道となり、程なく踏切の先に
うっそうとした森を広げる神域が姿を表しました。

踏切の所に、カーブを描く線路に沿うような、ホームと待合室のみの
赤坂支線の荒尾駅が静かに佇み、踏切を越えて神社の神域へと歩みを
進めれば、境内は差ほど広くはないのだけれど高密度に綺麗な神殿が
密集し、初詣の準備もしっかり整って、おどろおどろしい名前を
大きく掲げる幟もたくさんはためく御首神社の境内となりました。
関東で討ち取られた平将門の首が京都に運ばれたのち、その首がまた
関東へ戻るように飛んでいってしまい、関東に戻ってまた反乱を
起こさせないように矢で撃ち落としたらこの地に落ちてきたという伝説が
このおどろおどろしい名前の由来となっているようでした。
神殿の裏山の鬱蒼とした森には古墳も存在するようです。

荒尾駅はすぐ先に東海道線の本線との分岐点のある駅で、この駅を通る
列車は朝夕は上下それぞれ1時間に1本という静かな駅ですが、近くを
通過する本線には頻繁に列車が駆け抜けていきます。
神社側の線路に沿う道を歩むと、本線と支線が分岐して大きく二手に線路が
別れる所に、宇留生公園というただの広場が広がるのみの児童公園が
小さく広がって、往来するいろいろな列車を眺めることができます。
そして駅に一旦戻って反対側の、北東側に広がる新興住宅地を散策すれば
くまの南公園という小さい広場の近くで、まさに本線と支線の分岐する
南荒尾信号所の近くにたどり着くことはできたのですが、道路が線路よりも
やや低いところにあるせいで、まさに線路が分岐している様子を見られる
ところを見つけることは結局できませんでした。

少し早めに荒尾駅に戻って、雨を避けるように小さい待合室に引きこもり、
そしてやってきた美濃赤坂行きの列車に乗り込んで、先日も眺めた田園風景が
雨に濡れている風景を眺め、山がちな風景となって、貨物駅のおかげで
広い構内を広げている美濃赤坂駅へと進みました。
さすがに間近なので、金生山の姿もうっすらシルエットとなって
浮かび上がります。

駅をあとに、今日はなおさらしっとりした雰囲気を示す、瓦屋根の小さい
民家の密集する赤坂の街並の路地へと分け入り、先日は訪れていなかった
お茶屋屋敷あとという、将軍の宿泊地だった所の史跡へと進んでみました。

入る前から鬱蒼とした青竹の竹林が目立っていましたが、古い門から
入場すればそんな薄暗い竹林の中に古い井戸も設けられ、切り倒された
大量の青々した竹が路端にまとめられています。
園内や、園地の周辺にはちょっとした土塁も存在し、土塁の上に登って
園内や周辺の様子を見渡すこともでき、園内の片隅には四角い池や小さい
お社が竹林の中に静かに佇んでいるのを見ることができます。
そして園内にはやはり竹林に囲まれた石垣の上に、なぜだかさほど
古いわけではない木造の建物が、この地の主であることを示すように
静かに佇んでいます。
鬱蒼とした竹林の領域を抜けると、牡丹園の領域が広く取られていて、
わずかに大きな花をつけている株もありましたが、今日のところは
ただ明るい広い敷地を広げているのみといった感じで、さっきの大きな
建物が穏やかに佇む様子が牡丹園側からも美しい風景として眺められる
そんな穏やかな庭となっていました。

園地をあとにして再び赤坂の古い町並みへ出て、旧中山道に復帰し、
今日は街を抜けるように西へと進むことにしていました。
街道沿いに高密度で現れる、古い瓦屋根の木造の、うだつや格子戸の
商店や民家の建物達に見送られて緩やかな坂を上ると、宿場町の出入口の
ような所に兜塚という、首の代わりに兜をとかいう戦国の世の史跡が
佇み、その場所に御使者場跡という石碑のみが佇みます。
そしてここには配線となった貨物線が交差していた踏切の跡もあり、
道路上や道路の北側の道からはレールは剥がされているようでしたが、
南側にはレールもずれながら残っていて、大量の黄色い枯れ草に
埋もれそうになりながらも、しっかり配線跡であることを示すように、
周辺の民家や田畑に囲まれながら、その間を縫うようにカーブを描いて
敷地を確保し、街中にそびえるお勝山という丘陵の足元へ向かって
伸びていました。

このあたりが赤坂宿の末端となるようで、古い建物の現れる頻度は
極端に下がりましたが、道の北側には迫りくる丘陵の表面を埋め尽くす
ようにして、厳つく巨大な石灰の工場が広がるようになりました。
石灰の工場の足元には踏切の跡のような構造も見られ、その周囲に芝生の
ような植物が広がった空地も見られ、きっと少し前までは貨物駅も
あったんだろうなと想像できました。

そして西へ歩みを進めていけば、昼飯(ひるい)大塚古墳という史跡への
新しい道標が現れて、それに誘われて住宅地の中へと歩みを進めてみました。
こんもりと小高い丘を園地の中に擁する小さい公園を横目にして歩むと、
復元された巨大な前方後円墳が広い園地の中に突如として現れ、
埋もれそうな丘といった感じのものを想像していたのを見ごとに
打ち砕かれた感じでした。
公園分の部分の一部のセクターは建造された当時の様子を復元していて、
斜面には岩が敷き詰められ、そしていくつか地面と平行な通路のような
面には埴輪が整然と並べられます。
そして小高い古墳の上には上ることもできて、周辺を囲む瓦屋根の建物の
集まる住宅地や、近辺の石灰岩の工場が白い水蒸気を盛んにあげている
様子、そして若干雲が薄くなってきて見られるようになった山並みの姿が
大きく見渡せるようになっていたのでした。

旧中山道に戻り、時々古い建物、特にこの辺りで時々見られる、妻面の
屋根の下に模様や文字が目印のように示されている建物や、
岐阜大学旧早野家セミナーハウスなんていう古い建物にちょっとした庭園も
併せ持っている領域をかすめたりして、雨が若干弱まってきたなか、
引き続き西へ西へと進みます。
やがて前方にJR東海道線の、地図上では本線から大きくはなれて迂回して
いるように見える上り本線が現れてきた頃、道端には如来寺という
小さいけれど綺麗なお寺が現れます。
難波の海底から回収された如来像が信濃の善光寺へ運ばれる途中、
この地で供養されたとかなんとかいう縁があるお寺らしいのですが、
このあたりの昼飯(ひるい)という地名も、その一行がこの地で昼食を
とったという故事に因んでいるとかなんとかいう説明板が掲示されて
いました。

そして坂を下り、築堤の上に伸びる線路をくぐっていくと、今度は
青墓という集落へと進んでいきます。
相変わらず、時々古い建物が現れるしっとりとした味わいの古い町並みを
のんびり歩き進むことができます。
道から少しはずれた所には粉糠古墳という前方後方墳が小高い丘となって
石垣で囲まれ、街道側は家並みに、反対側は田んぼに囲まれていたのですが、
面白いのは大昔の墓が、現代に至っても墓地として活用されていると
いうことで、小高い丘には自由に登って墓参りができるようになっていて、
丘の上から周囲の町並みや線路の様子を見渡すこともできます。
よく見ると立派な墓石を持たない、朽ちかけた木材が墓標となっている
ようなきわめて小さい、下手したら踏んでしまいそうなお墓も
含まれているようです。

街道を進めば小さいけれど綺麗な白鬚神社、そしてさらに歩みを進めて
大通りと交差する直前までくると圓願寺跡という、ただの空地になって
しまっている史跡が現れます。
空地の片隅の芦竹庵という所には照手姫という、あまり運に恵まれなかった
感じの美人の墓という小篠竹の塚というものが佇みます。
少し離れて大通りの方に進んだ所には、その照手姫が使ったらしい井戸の
跡も、小さな杜に囲まれて佇んでいました。

近くで旧中山道は東西方向の県道と斜めに交差します。引き続き街道を
行くのも面白そうでしたが、行ってみたかった美濃国分寺跡という所へ
行くためには県道の方を行った方がショートカットであるようだったので、
うってかわって広大な田畑のみに囲まれるようになった荒涼とした大通りを
延々と西へ向かって歩いていきました。
遠巻きに丘陵に囲まれるのどかな道を、ほぼ傘の必要はなくなったけれど
引き続きどんよりした空模様の中歩き進むと、程なく北側の丘陵に張り付く
ような巨大なお堂を持つ現役の国分寺の姿が現れ、その足元に広がる広大な
田園の中に、史跡の国分寺跡が現れました。

史跡の国分寺跡には建物は一切残っておらず、ただ敷地の境を表す
細くて浅い堀とそれを直線上になぞる山茶花の生け垣で囲まれた中に、
点在するかつて存在した建物の跡を示す表示だけが点在する、今となっては
全く何もないところ、以前訪れた平城京跡のような雰囲気を持つところです。
北側の現役の国分寺以外に周囲に建物はほとんど見られず、丘陵に囲まれて
ただただ広い土地が広がるのみの、きわめて荒涼とした所でした。

広大な園地を北に抜ければ、壁のような丘陵の足元に現役の国分寺が
佇みます。こちらは少なくともメインの部分は新しい建物となって、あまり
広くない境内地にひしめくように建物が集まります。
そして墓地や、付随するお社等は周辺の斜面にも広がり、階段で斜面上に
登っていけば綺麗なお堂の最上層とほぼ同じ高さになって、周辺に広がる
だだっ広い遺跡やその向こうに小さい建物を集める街道沿いの町並みを
見渡すことができました。

目の前にあったラーメン屋で、ご当地グルメのベトコンラーメンなる、
揚げニンニクが具として含まれているものを昼食としていただき、
引き続き県道を西へ向かいます。
程なく大垣市と垂井町の境界となって、垂井町へ歩みを進めると、
右手の丘陵に囲まれる田んぼの中に、おそらく古墳と思われる小さい
丘が現れ、古墳であることを強調するように石と碑が置かれていたり
しましたが、なんていう名前の古墳なのかがいまいち確認できませんでした。
丘陵の間には東海道上り線が巨大な築堤の上に架線を伴って伸びている
姿を見ることもできます。

そして左手には、国分寺と対になる国分尼寺の跡地があるらしい所の
周りにある古そうな集落が現れ、瓦屋根の建物の集まる路地へと進みました。
集落の中心となるような、平尾御坊願證寺というお寺は、広い境内に
きわめて大きい瓦屋根のお堂が佇む堂々としたお寺で、裏手も立派な土塁を
巡らせて周辺の田園と接していました。
そして隣接するように、近くの威徳寺という小さいお寺の納骨堂が建ち、
その敷地の片隅に、国分尼寺が存在した場所と推定されていることを示す
石碑のみが佇んでいたのでした。

県道に戻ると、北側の丘陵が指のように伸ばしてきた丘を超える上り坂に
指しかかるところでした。とは言ってもただ単にまっすぐ登り、まっすぐ
下るだけで完了する峠越えで、引き続き歩みを進めれば北側の丘に囲まれた
領域には緩やかな登り斜面いっぱいに田園が広がるのどかな風景と
なっていました。
道沿いに現れる建物の頻度も上がっていき、いくつかの道が複雑に交差する
所へと進んでいきます。

学校や農協やコンビニが集まり以下にも要衝といった風情でありながら、
古めかしい瓦屋根の建物の姿も見られる府中という所から、さらに北側の
丘陵の方へ歩みを進め、東海道上り線と交差する地点を目指していきます。
道沿いには古い建物も多く現れますが、あくまでメインは農地といった
感じののどかな道となり、特に南側に農地が広がれば、下り斜面に広大に
農地の広がるのどかな田園の風景となり、谷の向こうにそびえる丘陵も
暑い雲を纏いながら見られるようになって、その中腹には頻繁に新幹線も
往来しているのを見ることができる所でした。

そしてそんなのどかな道が東海道上り線と踏切で交差する地点へと
差し掛かります。安田医院という、このあたりの建物とは大きく雰囲気の
異なる円形の高い建物となります。
病院の反対側はフェンスで囲まれた、草生した領域がありましたが、
踏切に出てみると、確かに線路沿いにはホームが雑草に覆われながらも
現存しているのを確認することができました。
昔から時刻表を見る度に不思議な存在として捉えられいつのまにか
消滅していた新垂井駅の遺構を、とうとう見つけることができたわけです。

フェンスで囲まれていた領域の中には、草に覆われるようにして、
東海自然歩道の案内看板が立っていて、望遠レンズ越しに見ると、
現在地として新垂井駅が記されていましたが、看板の向きから言って、
新垂井駅に降り立った旅人向けの掲示であることは間違いない感じでした。
そして、周辺の集落の路地を分け入ることで、新垂井駅のホームにも
用意に到達することができました。
ホームの両末端部は鬱蒼とした草に覆われていましたが、整備している
人でもいるのか、真ん中辺はさほど草も厚くなく、舗装もむしろ新しい
感じがして、有効長のけっこう長く取られているホームを立ち入れる範囲で
行ったりきたりしながら、ここが本当に駅として営業していた時代のことを
しばし想像にふけることができました。
密度が小さいとは言え集落の中の駅なので、利用者がいなかったわけでは
ないとは思うのですが、上り列車しか来ないという特殊性から融通が
効かせられなかったのかもしれないなと想像しました。

そしてここから垂井駅までも、延々と歩くこととなりました。年末や休日で
なければコミュニティーバスが1時間に1本も存在するところでは
あるのですが、今日のところは自力で頑張るしかありませんでした。
広大に広がる田園を見渡しながら、古い建物の集落の中の、緩やかな
下り坂となった道を府中まで戻り、ここから重厚な瓦屋根の民家ばかりが
集中して立ち並ぶ町並みを南下していきました。
雨はもう降らなくなりましたが、時間的にどんどん薄暗くなっていく
時となり、時とともにしっとりとした風情はさらに強くなっていきます。
白鬚神社に寄り道すると、鬱蒼とした境内の杜の外側に、美濃国府跡という
ここも建物は一切残っていないのだけれど、広場の中に発掘された建物の
跡を示す花壇が並ぶだけの静かなところでした。
それでも久しぶりに田園を見たので、さっきは下界のさらに奥に広がっていた
山並みが近くなり、広がる田畑も狭くなっていたことを
感じることができました。

そして相川という、河原の広い川を赤い橋で渡ると、いよいよ垂井宿の
宿場町へと進んでいくこととなりましたが、辺りはどんどん暗くなり、
中山道と交差している所に立つ南宮神社大鳥居を中心にして、古い建物を
たくさん並べる中山道を西見附まで、そしてまた大鳥居に戻って
行ったん街道からはずれて、神社の庭園のように綺麗に整備された中に
水が湧きだし池に鯉が泳ぐ垂井の泉、そして中山道にもどって
街灯で薄ぼんやりとライトアップされた古い街道の雰囲気をなんとか
味わって相川沿いに戻って東見附跡へ、そしてやはり古い雰囲気を
色濃く残す路地を南下して、古い建物のように作られた大きい垂井駅へ
戻るうちに、辺りは完全に夜となってしまっていました。

そんな形で午前中は雨、午後は曇り空のもと、一日中歩き回った旅を
無事に終えて東海道線で岐阜に戻り、夕食はこれまであまり
巡りあえなかったご当地グルメということで、厳密には岐阜市のものでは
ないのですが鶏ちゃんという鶏肉の味噌炒めをいただきました。
もちろんおいしかったし、やはりここに来たら赤出しのみそ汁でしょうと
いった感じで、満足の夕食でした。