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千葉市(2019.12.8)

murabie@りょうもう1号赤城行き%次の旅です。
1週間前の旅の報告です。


多忙につき仕事以外の旅に出られない日々が続いていましたが、
久しぶりに仕事の区切りのよかった週末、寒くてまだ暗い中
家を出て、今日は千葉市への小さな旅に出ることにしました。
地下鉄東西線の中でうとうとしていたら、地上に出て強い朝日に
照らされ、高層の建物の集まる街の上に広大に快晴の青空が広がる
風景を見ながら進むこととなりました。
千葉県に入り建物の大きさは少しずつ小さくなり、霜の下りた青菜が
葉を広げる畑の姿も見られるようになって、列車は西船橋へ進み、
引き続き総武線の列車に乗って、小さくなった建物が青空のもとに
立体的にひしめくようになった車窓を眺めて、千葉駅へと進みました。

新しくて大きく広々した雰囲気の千葉駅を出て、鉄路が大きくまたを開いた
所に設けられたバスターミナルに出れば、白くて真新しい建物の上に
白いものレールの線路が横切る人工的な都市の雰囲気の中に、装飾のように
樹木も植えられていたりしています。
東の方へ向かうバスに乗って駅をあとにしても、暫くは巨大な建物と
街路樹が作る官庁街のような綺麗な街を巨大なモノレールの線路が
跨ぎ越していく人工的な風景が続きましたが、歩みを進めるにつれて
辺りの建物はどんどん小さくなって素朴な商店の並ぶ市街地の雰囲気へと
変わり、そして高速道路と交差する頃には、道沿いを固める建物の向こうに
すすき野原の姿も垣間見られるようになっていきました。

国道126号線を進めば進むほど、周囲の風景はのどかになっていき、
道沿いにこそ民家や商店は現れますが、その奥には浅い谷底のような
黄色くなった田園が広がり、反対側には青空のもと丘陵も現れ、
道は時折丘陵に寄り添い、あるいは坂を上って林の中を進んだり、
斜面に広がる住宅地を掠めたりして進みます。
途中で脇道に逸れれば谷底の田園を越えて丘陵の中へとカーブを切りながら
バスは坂を上り、ちょっとした戸建ての住宅団地となるローズタウンや
大きな観音様が佇む墓地も通過しながら、のどかな山里の風景を車窓に
大きく表し、そして石材屋が並ぶ並木道に出て、鬱蒼とした森の中に
紅葉の木々の垣間見られる平和公園の敷地へ寄り道してから、また
R126へと戻って、のどかな通りをさらに東へ進みました。

泉公園入口というバス停でバスを下りて交差する道へ進み、学校や、
早速もみじが鮮やかな赤い葉を繁らせている山里のお屋敷の庭に
寄り添われる路地を少し進み、泉自然公園へと歩いていきました。
何も知らずにただ紅葉の風景だけを探しに訪れたのですが、どうも
先日の台風で満身創痍な状態、でもできる限り公開はしているといった
感じだったみたいで、通常の園内案内と並び、通行可能な遊歩道を
図示する案内図も添えられている状態でした。

満開の桜のように鮮やかに紅葉を繁らせる楓の木が彩る園地の入口から
まずは駐車場へと入り込み、その奥にある築山の間から、紅葉に彩られる
林の遊歩道を少しだけ進み、谷間を跨ぐ大きな赤い吊橋のいずみ橋へと
歩みを進めました。
橋の下の谷底には川ではなく池が横たわり、その谷を囲む山肌には、
盛りを過ぎてしまった感じはありましたが、それでもそれなりには紅葉の
木々が存在を示し、青空のもとに晩秋らしい壮快な風景が広がるのを
大きく眺め渡すことができます。
谷底の池の周りにも遊歩道はあるようでしたが、どうも閉鎖されている
ようで、鮮やかな楓の木も見られますが、落葉は手入れされずに放置されて
いるような感じにも見られました。そして所々、谷に面する斜面には
生々しい土砂崩れの痕も見られてきます。

普段ならここも園内の入口となるようでしたが、今日は橋を渡っても
その先は閉鎖されていて、園内に入りたければ駐車場を引き返して
最初の入口から園内に進まなければなりませんでした。
所々に鮮やかな楓の木が佇みますが基本的には深い森となり、いずみ橋の
下の谷へ向かう遊歩道は閉鎖され、森の中の斜面には土砂崩れの痕も
見られましたが、森を出れば病気にかかったらしい杉の木を切り払った
あとらしい切り株の目立つ所もあったり、その一方で木々に囲まれる
ようにして原っぱが広々と広がるような所もあったりします。
明るいところに出れば、道沿いにはまだまだ鮮やかな紅葉の赤やオレンジの
葉を繁らす楓などの姿を見ながら散策することができます。

園地の中心付近はまた鬱蒼とした森となり、何やらフィールドアスレチック
のような建造物が佇んでいたりしました。
近くには紅葉園という領域もありましたが、所々に名残は見られるものの、
周辺の鬱蒼とした森と区別のつかない、普通のなんでもない薄暗い森の
雰囲気しか感じられないままとなりました。

そのまま、所々黄色い立入禁止のテープが木々にくくりつけられている
薄暗い森の中を歩き進むと、外来樹林の広場という、青空のもとに背の高い
木々が立ち尽くすような所が現れます。
木々の足元へお邪魔するように奥の方へ歩んでいけば、さっきは谷の対岸に
見られた、真っ赤ないずみ橋の架かる崖の上にあたる所となり、
木々の間からはさっきよりもダイナミックに、紅葉の木々が張り付く斜面を
背景として真っ赤な吊橋が佇む風景を、のんびりと眺めていくことが
できたのでした。

森の中に戻れば野草園という領域となりましたが、この時期野草の姿は
あまり目立たなくて、むしろ傍らに佇む楓が見事な紅葉の姿となって
鬱蒼とした森を明るい雰囲気にし、足もとの苔むした土の上にも
散ったもみじが風情ある姿を示していました。
森の中を蛇行する遊歩道をのんびり歩んでいくと、道はもみじ谷へと
進んでいきます。名前の通りの鮮やかな紅葉が、少し青空の開けた
明るい道に沿うように並び、時々はらはらと葉が散りゆくなか、
緩やかな下り坂となって谷底へ進む薄暗い道を鮮やかな雰囲気に
束の間塗りかえているかのようでした。

森を抜けると、青空が大きく開けた谷底となり、右手には大きな蓮池、そして
左手にも閉鎖こそされていましたが木道の通された湿地になりかけた小さな
細長い池が、寄り添う斜面の形に合わせるように伸び、池のほとりや
池により沿う斜面の中には所々赤やオレンジの鮮やかな紅葉を示す木々が
姿を見せる、暦の上では冬とはいえまだまだ秋の風情を色濃く残す爽やかな
風景に出会うことができました。
決して大規模に派手にというわけではないけれど、所々に鮮やかな風景を
作り出す楓の木の姿を追い求めるように、池のほとりをのんびりと、
園地を囲むような谷の形に沿って、のんびりと歩んでいきました。

谷底の池は連続して下の池という屈曲した形の比較的大きなものとなり、
池に寄り添う斜面にも引き続きパッチワークのように所々鮮やかな
紅葉の姿を見ることができます。
穏やかな日差しのもとに大きな鯉が群れを成す水面の様子も楽しみつつ、
さっきのいずみ橋の下へ向かうような道をたどっていくと、若干台風の
爪痕が痛々しい崩壊した斜面や流された樹木の姿も目に付いたのですが、
それでも所々、真っ赤に燃えるような楓がたくさん集まって、穏やかな
池の周りの遊歩道を鮮やかに彩っているいる領域も見つけることができ、
またそんな鮮やかな斜面に彩られながら上空を跨ぎ越す真っ赤ないずみ橋の、
新たな角度からの姿にも出会うことができて、
束の間鮮やかな秋の風情を満喫することができたのでした。

さっきの入口とは逆の方に伸びていくサイクリングロードをたどって
園地をあとにすれば、都川という小さな川が削った、黄色い田んぼが
所々パッチワークのような紅葉の領域を示す斜面に囲まれて広がる
のどかな田園のただ中へと踊り出て、所々トラックが駐車される無機的な
作業場も混ざるのだけれど、青空が大きく広がる爽快な風景の中、
引き続きのんびりと散策することができました。
道は程なく素朴な通りとなって林の中にも入り、わずかばかりの民家の
現れる道沿いには、栄久寺という小さなお寺も現れて、ここも鮮やかな
紅葉に囲まれていましたし、すぐ隣には何やら蕎麦屋が営業している、
明治天皇川井御小休所なる史跡もあり、陣屋のように古めかしく作られた
建物がちょっとした庭園に囲まれている、しっとりとした雰囲気にも
出会うことができました。

サイクリングロードとしては、バスで往路に通りがかった平和公園の方へ
誘う道とはなっていましたが、歩いていくとなるとそこそこの距離が
あるようだったので、一旦国道に戻ってバスに乗っていくことにして、
国道へ向かう道へと折れていきました。
素朴な民家の点在する山里をすぐに抜け、都川の周辺に青空のもと大きく
広がる黄色い田んぼを横断して、所々紅葉の見られる対岸の斜面へ
たどり着き、再び民家の点在する丘の中の緩やかな登り坂を上れば、
国道上の宮田というバス停が見つかりました。
そして都川の削る黄色い田んぼを見下ろすように伸びる高台の国道を
千葉駅の方へ向かって走り進むバスに身を任せ、平和公園への入口となる
国道上の地点にある北谷津というバス停に降り立ちました。

乗った便が平和公園を経由しない便だったので、ここから平和公園まで
のんびりと歩いていくこととなりました。ちょっとした谷となるような
都川の削るのどかな黄色い田園を再び横断して対岸の丘陵へ入り、
丘の間の林の中に街路樹を伴って伸びるようになった大通り沿いに石材店が
立ち並ぶ、往路のバスからも見た風景の中をのんびり歩き、平和公園の
領地へと歩みを進めていきます。

行きのバスから見られた、鬱蒼とした森の中に紅葉の木々が彩りを添えて
いる風景には、門をくぐればすぐに出会うことができました。
門から入った道が調整池にぶつかって二股に別れる所で、森の木々に混ざって
存在を示す真っ赤な楓や黄色い楢か何かの木が、日の光を受けて鮮やかな
姿となって、四阿を美しく彩っている風景を見ながらバスを待つことのできる
穏やかなバス停となっていました。

広大な園内を周回するように伸びる車道に沿って歩みを進めていきます。
奥へ進めば道沿いの林が切り開かれ、紅葉の名残をわずかに残している
ツツジの生け垣によって整然と区画された墓地となるのですが、
園内の地図を見れば、内野古墳群と言うらしい古墳が点在していることが
示されていて、その場所へ差し掛かっても具体的に古墳であることを示す
掲示物は存在しないのだけれど、鬱蒼とした木立が残された中に明らかに
地面がこんもりと盛り上がっているのを見つけることができます。
大昔から墓地として使われている所が今に至っても墓地のままであると
いうことがなんだか趣深く感じられるところです。

道沿いには所々大きな紅葉の木々が姿を表し、切り開かれた墓地の周りにも
広大な青空のもとの墓地を穏やかに彩るように紅葉の木々が点在し、
また墓地の区画を仕切るように残された林の中にも楓やツツジが鮮やかな
赤い葉を繁らせている秋の風景の中、所々に広がる芝生の広場では
家族連れがのんびりと寛ぐ風景が見られ、赤い葉は日差しを受けてさらに
鮮やかな色を呈する、平和公園という名に相応しい明るく穏やかな風景の中を
のんびりと散策することができました。

帰りは園内のバス停からバスに乗り、往路の逆をたどるように、のどかな
山里の風景を眺め渡して高台の観音様のいる墓地、そして小さい住宅団地を
経由し、ぐねぐねとした緩やかな丘の坂道を下って国道へ戻り、
千葉駅へ近づくに連れて建物が次第に大きく成長していくような市街地の
風景を車窓から眺めつつ、千葉駅の手前の官庁街の中のバス停に
降り立ちました。

ついさっきまでいた所とは全く雰囲気の異なる、巨大なビルのひしめく
人工的な雰囲気の街の上空に、新しい白い道を作るかのようにモノレールの
線路が伸び、近くには葭川公園駅という駅が設けられているのですが、
肝心な公園は、モノレールの線路の真下に流れる細い川の川沿いに設けられた
ほぼ道路と一体化した、植物の気配も全く感じられないただの小さい広場
だったりしました。川の流れに沿ってカーブする線路にモノレールが行き交う
風景はどことなく近未来的な雰囲気を作り出します。
地図上では京成千葉駅に近く、そちらへ向かうべく駅の裏へ回り込むと、
夜になればにぎやかになりそうな感じの無機的で薄暗いひっそりした街が
続き、複雑な形状の広々とした道路へと合流すると、巨大なホテルに併設
されるような京成千葉駅もすぐ近くに現れました。
目論見としてはここから下り列車に乗って訪れられる見どころをと思って
いた所でしたが、次の列車まで暫く間隔が開くことがわかり、せっかくなので
市街地の散策を続けることにしました。

京成線とJRの線路沿いには、小さい商店に樹木の集まる小さい公園も見られ
若干は素朴な街並みの雰囲気となっていましたが、交差する大きな道路を
モノレールの線路の方へ折れていくとまた大きな建物の集まる無機的な
街並みとなっていきます。
排水機場が近くにあって細いながらゆったりとした流れとなっている葭川を
渡り、モノレールの線路の下の大通りへ入ればすぐに県庁前駅の
大きな建造物が現れましたが、さっき黄色い田んぼを従えて谷を削っていた
川と同じ流れであることがにわかには信じられない人工的に固められた
姿となった都川を渡ると、都川公園というちょっとした広場が広がって、
紅葉した葉をわずかにしか残さない木々が多い中にまだまだ黄色い葉を
たくさん茂らせたままの桜の木の姿も、夕暮れの雰囲気を帯び始めた
青空のもとに静かに佇んでいました。

上空に円を描くような歩道橋の中心部で白いモノレールの線路が突然途切れる
不思議な近未来の街の風景をあとにして、高台へ登る緩やかな坂道へ
差し掛かると、丘の建物の上には白いお城の天守閣が姿を現すように
なりました。
千葉城址ということになる亥鼻公園の敷地にはやはり所々に黄色やオレンジの
葉を茂らせた木々の姿が見られて、文化会館の大きな白い建物の周辺を彩り、
そして階段道を上っていけば、文化会館とお城の間に鮮やかな紅葉の楓の
木も立ち尽くして、夕暮れの白いお城を美しい姿に見せてくれます。

白いお城の建物は郷土資料館となっているようで、天守閣の乗るステージには
茶屋も設けられたりして観光地の風情となりますが、見るからに再建といった
感じの建物でもあったし、何より夕暮れの色がどんどん濃くなるのに
まだ他に行きたい所もあったことだし、天守閣には入らずに、高台を裏手に
下ることにしました。
北側に飛び出るような高台の遊歩道は、ここも鮮やかな紅葉の木々に
彩られながら伸びていき、階段道が住宅街へと続いていましたが、
バスも走る道は城の乗る丘の間の緩やかな登り坂を上っていました。

あと一つ訪れたいと思っていた青葉の森公園まで、歩いていけない距離では
なさそうでしたが、少しだけ待ってやってきた路線バスに少しだけ乗ることに
しました。バスは高台に広がる千葉大医学部の敷地をかすめるように伸びる
道を進み、一旦丘の上に建つ千葉大病院へ寄り道した後、元の道まで
下りきらずに別の市立病院を経由していきます。地図上ではここが目的地の
最寄りとなっていましたが、目的地へは休診日でひっそりした大病院の
敷地を横断し、戸建ての住宅が集まる住宅団地との間に伸びるとても広い
並木道の発達した大通りを横断していく必要がありました。

北側の入口から青葉の森公園へと進むと、夕陽のせいではなくオレンジ色に
なった木々に出迎えられました。広大な園地に巡らされる遊歩道沿いには
畜産技術研究発祥之地という石碑が立ち、何も知らずに適当に訪れた身で
あっても、この地がどういう経歴を持つ所なのかが何となく想像できます。
大きいけれど背の低い中央博物館を横目に、森の中の遊歩道へ歩みを進め、
小さいけれど立派な橋で谷を渡っていくと、湿地の草むらに囲まれて
舟田池が夕陽のもとに静かに佇む風景を一瞬垣間見て、生態園の入口へと
進みましたが、もう入館の受付は締め切られる時間となっていました。

引き続き森の中の緩やかな登り坂を進んで芸術文化ホールの前を通過し、
斜面上に煉瓦で綺麗に整備された彫刻広場、そして神殿のような白い柱の
構造物から広く眺め渡すことのできる四角い西洋庭園など、
美しく整備された見どころたちを横目に、オレンジ色の陽射しの中で
紅葉を探して彷徨えば、谷底の青葉が池に向かう下りの階段道沿いに
鮮やかな紅葉の木々を見つけることができました。
どことなく人造の公園という風情がここまで強かった気がしていましたが
この谷底の池沿いは森に囲まれながら穏やかな里山の雰囲気が強く感じられ、
低い角度からオレンジ色の夕陽が差し込む中、穏やかな気分でのんびりと
歩みを進めることのできる所でした。

だいぶ夕暮れも深まり、園内のすべてを見ようとすると日が暮れそうな感じも
したので、中央広場を周回したところで、旧東金街道というただの林の中に
通されたまっすぐな道を通過して彫刻広場へ戻ろうとしましたが、その途中で
催されていたディスクドッグのイベントについつい立ち止まらされ、
犬達がたくましく走ってディスクに飛びつく様をたくさんの観客達とともに
たっぷりと楽しんでしまったうちに、太陽の光球が園地に隣接する斜面
いっぱいに広がる住宅地の間に沈んでいくのを彫刻広場から見送る時間と
なっていたのでした。

彫刻広場の近くの西門から外に出て、刻一刻と暗くなっていき街の明かりが
点りはじめる中、とても広く綺麗に整備された大通りに沿って、
まだ明るさの残る方角へと進んでいくと、大きな空のもとに立ち並ぶ
大きな商店の向こうに、京成線の千葉寺駅が姿を表しました。
せっかくなので名前のもとになっている寺にもお参りをしてみようかと
地図を見れば、実は歩いた道を少し戻ったところになる感じだったのですが、
少しでも近道になりそうな別の道を探していくことにしました。

道は暗くなった空のもとに緩やかな登り坂として伸びていきましたが、
ちょっとした駐車場に出てみると、高台の端に当たる所からは千葉の港の
方の展望が開け、暗くなった空のもとに夕陽が水平に横たわって、
富士山の姿をシルエットとするような雄大な夕暮れ空の風景にも
出会うことができましたが、
肝心の千葉寺はもう中に入ることはできなくなっていて、重厚な山門と、
柱の間に除く丹の色の鮮やかな柱で組まれた本堂の姿を垣間見ることしか
できず、そのままさっき歩いた青葉の森公園から続く大通りへと合流して、
さっきよりさらに暗くなった千葉寺駅へと戻って行ったのでした。

あとは帰路を歩むのみとなりましたが、およそ1年前に子供たちと行った
旅行の思い出をなぞるべく、わざわざ京成稲毛駅からJR稲毛駅への素朴な
道をたどったり、東西線経由で西葛西で途中下車して夕食としてみたりと
若干の寄り道を楽しみながら家路へ就いたのでした。

花巻(2019.8.13)

murabie@自宅です。
3日前の、一連の旅の最終日の報告となります。大変遅くなりました。


どんより曇り空だった今日、長かった旅もいよいよ締めくくりとなりました。
今日は宿の送迎で紫波中央駅まで連れてきてもらい、その足で列車に乗って
花巻駅に降り立ち、一日を花巻で過ごすことにしました。

本当はレンタサイクルでもと思ってはいたのですが、駅の近くには扱っている
店がどうやら存在しないようなのでした。新花巻駅にはあるし、花巻空港にも
あるらしいので、この無印の花巻駅の地位というものがちょっと窺い知れて
しまいます……
街の中心部に位置するヨーカドーの近くにも取り扱う店があると知り、
荷物をコインロッカーに預けてから、とりあえず頑張って歩いてみようと
駅をあとにします。
裏道に入れば古ぼけた民家だったりが現れ、表通りに出れば広い道幅に
昭和レトロ的な感じの商店が集まる通りが現れといった、地方都市に
ありがちな街並といった感じでしたが、街路樹にきれいに整備された
水路のある所にあったレンタサイクルを扱っているはずの店は、
席を外していますという表札を出してひっそりと静まり返って
しまっていました。

しかたないので足はきつかったけど今日も歩きで攻めることにして、
ヨーカドーで少し涼んでから、まずはすぐ近くの城山を訪れることに
しました。
深緑の斜面の上には下界からも、花巻城西御門の白い建物が見られて
いて、斜面の足元にはお堀のような池か水路が整備されて横たわります。
車も通れる上り坂を頑張って上っていくと、現れた小学校とともにすでに
城跡の敷地になっているようで、綺麗な芝生で整備された空地にも
なんとか跡みたいな碑が立ち、水面に小さい葉を浮かべる水草の繁茂する
お堀が整備されていたりします。
そのまま階段を上って高台に出ると、狭間のある西御門の土壁と同じ高さに
でて、西御門を通過すれば、天主台やいろいろな櫓の跡のあるステージと
同じ高さとなっていきます。
ステージの外縁は市街に面する崖となり、小さい建物が密集する花巻の市街の
様子を伺うことができます。所によっては、花巻空港の近くであるはずの
コメリの流通センターの姿や大型店舗の姿も見ることができます。

御台所門から裏手に出て、小学校の敷地と、公営の武徳館というらしい
武道館的な瓦屋根の建物の間を抜け、脇道へ進むとここも城跡のある構造を
表す表示がいくつも、それこそ単なる駐車場にみえる所にもちりばめられて
いたりするのです。そして周りには素朴な民家も集まってきて、城跡という
領域の中に生活圏が攻め込んできているかのような感覚をうけることと
なりました。
森に守られてそこそこ立派な境内を広げる鳥谷崎神社の境内に、花巻城の
唯一現存する以降であるらしい円城寺門の建物がそのまま山門として
使われていたりもして、その周辺に広がる芝生の小さい園地からは、
すぐ下に広がる三の丸園地、そしてその周囲に広大に、丘陵に囲まれて
のどかに広がる住宅街やその周囲の田園の姿を見渡すことができます。
朝は曇って涼しいくらいだったのに、ここいらで空には晴れ間も広がり、
蒸し暑さを感じるようになってしまいました。

順当にこのあとお城の史跡巡りを一周続けてみたい気もありましたが、
移動手段が徒歩なのでできるだけ効率よくと思い、イギリス海岸の方へ
寄り道をすることにしました。
日差しも強くなってすっかり暑くなってしまった市街地へ坂を下ると
途中には軽便鉄道の鉄橋の跡地を示す観光案内も立っていたりします。
たどり着いた幹線道路は照り返しのきつい単なる無機的な通りで、
新花巻方面へ向かう道と交差しても雰囲気はさほど変わりません。
道沿いに立派な森を持つ神社が現れた所が、イギリス海岸への入口と
なり、道をたどれば周囲は素朴な住宅街となり、立ちはだかる堤防の上に
上ってみれば、小さい畑を経てもう1本奥に横たわる堤防にイギリス海岸の
案内が大きな看板で表されていました。

ようは、このあたりで見られる河原の泥岩質の白い岩盤を、ドーバー海峡
みたいだと宮沢賢治が評したところから来ている愛称であるようで、その後
河川改修があったり上流でダム建築があったりで流量の変動も少なくなった
ということからかつてのような景観はよほどの渇水でないと見られなくなって
いるのだということでした。果たして今日も、北上川は豊かな水をたたえて
青々としていましたが、透明な水面の下には何か普通とは違う水底、泥岩質の
ごつごつした岩盤が確かに存在していて、流れる水もその形に合わせて
周囲とは様子の違う波飛沫をあげているようでした。

とりあえず泥岩層が存在する辺りの海岸線……じゃなくて河原を眺めながら
海沿いの遊歩道と言われればそう思ってしまうかもしれない遊歩道には
旅に出てからのニュースで報道されていたような気がする、地元の小学生が
作ったらしい石やクルミの埋められた新しいコンクリート製の縁石が
所々に設けられ、その道ををたどると瀬川との合流地点へとたどり着きます。
瀬川の流れは細い割にはそこそこの流量を感じさせるもので、対岸の切り立つ
河岸には泥岩の地層が露呈し、イギリス海岸のイメージの一部を表してくれて
いるかのようでした。河岸は一部階段状に護岸され、河岸に下りることも
できるようになっています。

遊歩道は高台で瀬川を渡る大通りが出口となり、橋を渡って対岸に出ると
山側にイギリス海岸公園という、単に森林の中に遊歩道が通されていて
洋風に作られたトイレの建物だけが建つ、もしかしたらイギリス風の
雰囲気だけを作っているのかもしれない小さい園地がありました。
海側は斜面にただ芝生が広がるだけの園地となり、園内の道をたどれば
林の並ぶ海岸線の木々の間から、もしかしたら泥岩の河岸が現れるかも
しれない川の水面がのぞきます。
地図上ではこの道がそのまま、瀬川の河口に続いているようでしたが、
ドッテテドッテテと名乗る小さい電信柱型らしい2人の妖精に
鎖で通せんぼされてしまいました。

勢いよく水の流れる瀬川の流れの上には飛び石が配されて、さっき訪れた
対岸の遊歩道へ戻ることができます。
高台の遊歩道へ戻る前に護岸を伝って、河岸にわずかに広がる、泥岩層の
露呈した河岸へも立ち寄ることができました。
対岸となった瀬川の河口の地層を正面にして、ささやかだけれど宮沢賢治の
知っているイギリス海岸の雰囲気が漂っていたような気がする風景を
どうにか見つけることができたような気がしました。
こんな街でも、不意に花巻空港に離着陸する飛行機が頭上を通過して
いったりするわけですが……

イギリス海岸をあとにし、市街には戻らずに北上川の堤防の上の道を
少し南下していきました。
川の流れは引き続きゆったりしていて、緑の森林に囲まれ、前方には
その中に溶け込むかのような、朝日橋という鉄橋が連なります。
強くなった陽射しの中、堤防上の道はちょっときついのだけど、
ここは桜堤になっていて、桜の木々の作る日陰の中を歩いていくことも
できる所です。その代わり、合流してくる川の排水機場もある関係で
川の流れを大きく眺めることはできない所も多くありました。
陸側に目をやると建物の密集する市街地なのですが、明らかに城跡とわかる
切り立つ崖の上のステージのような所の上にも建物が集まる立体的な
風景もよくとらえることができる所です。

朝日橋を渡ってくる東西方向の大通りへと分け入り、立派に整備されている
広い幅の道を進んで行くと、ある所から並ぶ建物が大きなものとなり、
そしてさらに進めば歩道に日よけも設けられるようになり、
立派な商店街へと成長していきます。
その並ぶ建物の中に、少しすすけている少し大きめの、マルカンビルという
もともとデパートだったと思われる建物が堂々と姿を現しました。

強すぎるくらいになった陽射しから逃げるように、マルカンビルの1階へ
駆け込めば天国のようなものすごい冷房でした。
1階では地場産品や土産物屋などがあり、マルカン大食堂グッズなんかも
なぜかたくさん売られています。すっかり有名になった10段ソフトクリーム
だけでなく、レトロな大食堂を象徴するかのような割りばし立て、
名物メニューのナポリかつをモチーフにしたキーホルダーやら付箋やら
Tシャツやらドロップやら、なかなか見ていて楽しいです。

もともとデパートだったものが一旦閉店となり、それでも大食堂の消滅を
惜しむ声によって大食堂のみが復活したという経緯はニュースなどで
知っていたので、今回の旅ではこれまで昼食は摂っていなかったのですが、
今日ばっかりはとエレベーターに乗り、途中の階はすべて閉館となるビルの
6階の大食堂へと急いでみました。
エレベーターを降りるとそこにあったのはものすごい行列でした。
レトロな感じの食品サンプルの並ぶ巨大な棚には有名メニューだけでなく
洋食もあれば麺類もあれば寿司もあるというバラエティーの広さで、
あまりこういう所で寿司があるというイメージがなかったので少し驚いたりも
しつつ、このメニューの多さも人気の理由の一つなのかなあと思ったり。
食べたいメニューは決まっていたので、食券を買う列の最後尾を探したら、
階段を下って5階までつながっていました。古いビルなので階段には
あまり冷房が効いてなく、30分ほど暑さを我慢しつつ食券を購入し、
それでもあっさりと窓際の、街を展望できる席をとることができました。

今日は注文集中につきナポリかつもソフトクリームも時間がかかると
いうことで、本来なら食後のデザートの食券は食事が終ってから提出する
決まりになっているようなのですが、一緒に出してしまうことに。
予告通りかなり長い時間がかかって、入ったのがお昼を過ぎてから
だったので、混雑していた客席も徐々に落ち着いてくるのを感じることが
できました。
結果食券を提出してから30分後に10段ソフトクリームの方が先に
やってきました。周りの人の見様見真似だったのですが、箸で食べることに
なっていたようで、卵を使っていないという宣伝文句だったのですがなんか
ミルクの味の濃いおいしいものだったように感じました。
そしてメインディッシュのナポリかつはソフトクリームも食べ終わって
さらに20分ほど経ったころにようやく出てきました。
何ということもない、トマトケチャップ味のナポリタンの上に
サラダと一緒に薄いチキンカツが乗っているというもの。
懐かしい大食堂の雰囲気の中で懐かしい味を楽しむ、楽しい昼食でした。

気が付いたらだいぶ長居をしていたマルカンビルをあとにして、まだまだ
陽射しが強くて暑い市街の散策に戻りました。
市街の最中心部といった辺りなのでどちらの道に行っても大きな建物の
集まる街となるのですが、花巻市役所の方へ歩みを進めれば
道は登り坂になり、ある程度進んで後ろを振り返ればマルカンビルは
眼下に周囲の街並みの中心となるよう堂々と強い陽射しのもとに
佇むのでした。
花巻市役所の辺りは花巻城の大手門跡ということになるようで、いわば
昔からの官庁街という感じなのでしょう。
花巻城時鐘という、鐘そのものよりもそれを収納する鐘撞き堂が堂々と、
強い逆光を浴びて松の木たちに寄り添われながら静かに佇んでいます。
またここは小中学校の跡地でもあるらしくちょっとした杜のような雰囲気に
なっていて、何かしらの公共施設として用いられているらしい、石造りの
洋館風の建物も佇んでいたりする、周辺の街並みとは少し雰囲気の違う
所となっていました。

次はぎんどろ公園という所に行ってみようと、市街をひたすら西へ向って
歩いてみました。昔ながらの昭和レトロ的な賑わいを示す素朴な商店街と
交差し、線路とも交差して、その後は基本的には何ということのない、
雑多な建物が脇を固める道となっていきます。
途中、宮沢賢治ゆかりの梨の木という、花巻農学校の果樹園で栽培されて
いた梨の木がそのまま生き残って、いまだに実をつけているところにも
出会ったりしながら、それ以外特に何ということもない道を、暑い中
ひたすら歩んでいきました。

やがてたどり着いたぎんどろ公園は、その花巻農学校が、今は昨日訪れた
花巻空港の北東端に移転しているのだけど、かつてこの地にあったという
ことで、隣接する文化会館ともどもその跡地に整備された公園となって
いました。鬱蒼とした森の中に水路が設けられたり、立体交差まである
複雑な遊歩道が刻まれ、宮沢賢治の童話をモチーフとした文学碑や
風の又三郎のワンシーンを表すらしい、子供たちと船か波かの像が
立っていたりする、静かな公園です。
講演の中に立つ樹木の中には、宮沢賢治が好きだったらしいぎんどろの木
というのが何本か植えられています。葉の裏が白くて遠くから見ると
銀色に見えるというものらしく、快晴となった青空のもとに確かに
白銀色に見えなくもない大量の葉を茂らせる背の高い木の姿を
眺めていくことができました。

そして、雨ニモ負ケズの碑があるという北上川沿いの方へ行くべく、
悲鳴を上げているまめだらけの足を引きずって、今度は東の方へ歩みを
進めていきます。
ぎんどろ公園の近くは素朴な住宅街でしたが、それでも立体感のある地形で、
高台から周辺の快晴の街並みを見渡しつつ細い道と立体交差する所も
あったりしますが、大通りに入ればなんでもない街の中の道となり、
一旦南下して線路と並走しつつなんだか見たことのないイベント列車のような
ものが通過するのを一瞬目にしたりしながら、白くて丸い鉄橋の不動大橋を
渡り、郊外型店舗が連なる通りを進んで東西方向の道と交差して東側へ
線路を渡って進んでいきます。
だんだん暑かった陽射しも低くなり、辺りに夕暮れの風情が漂うように
なってきて、道案内に従って目的地へ向かう路地に入ると、素朴な住宅街から
田んぼが丘に囲まれて広がるのどかな風景の中に萱葺きの建物が並んで
建っている、急にのどかな領域へと進んで行きました。

賢治詩碑というバスの終点と同じところに建っているその建物は同心屋敷
というらしく、市内のどこから移築されて保存されているもので
あるようです。
そして雨ニモ負ケズの碑はここから少しだけ、田んぼに囲まれる丘の足元の
道を歩いていくことになります。道沿いにはここでも賢治のいろいろな作品の
文学碑が立ち並んでいます。帰りのバスの時間があってあまりゆっくりは
見てはいられなかったのですが、春という題の詩の、ぎちぎちと鳴る汚ない掌
というフレーズが妙に印象に残ってしまっているところです。

目的地は遊歩道に沿ってそのまま森の中に入り、森を貫いて反対側に広がる
北上川の堤防までの間の田園を見渡せる展望台のような所にありました。
詩碑自体はまあそんなものかなといった印象しか受けなかったのだけど、
目の前に広がった田んぼの中の一番奥、堤防の足元に広がる
単純な水田ではないいろいろな作物の植えられている畑が、
昨日見た、建物に伝言板的に書かれていた下の畑にいますという
有名なフレーズの「下の畑」なのだといい、あれってもしかして固有名詞
だったのかと、軽い驚きを感じることができたのでした。

足早にバス停に戻り、夕方の空のもと、街へ戻るバスに乗りこみました。
このバスは花巻温泉行きなので、最後にひと風呂とも考えたのですが、バスの
時刻を調べると、温泉まで行ってしまうと駅に戻るバスがなくなって
しまうことがわかり、今回はやめることにしたわけです。
バスは大通りを北上し、ほどなくさっき歩いた市街のおそらく一番賑やかな
所へと進み、マルカンビルの前や市役所の近くをかすめ、刻一刻夕暮れの
色の深まっていく街の中を、花巻駅へと進んでいきました。

温泉に行かないことにするともう他に行くところもなく、あとは東京へ
戻る新幹線の時間までをのんびり過ごすのみとなりましたが、新幹線に乗る
北上駅までの間にまだ降りたことのない駅が一つだけあることに気づき、
最後の最後の訪問地を、村崎野駅というきれいな名前の駅にすることにして、
ロッカーから荷物を回収し、少し待合室でゆっくりしてから、やってきた
上り列車に乗りこみました。
列車は引き続き田園の中をひた走り、村崎野駅が近づくと、大きな工場の
建物が森林に隠れるように広がる風景の中を進むようになって、
コンクリートの電柱がたくさん置かれている工場の近くにある駅へと
たどり着きました。

村崎野駅は何ということのない小さい駅といった感じですが、駅の周りにも
製材工場があったり、駅の正面にまっすぐ伸びる道も、また線路と平行な
方向に伸びる道もどちらもかなり幅の広いゆったりした感じになって、その
周りに素朴な商店や民家が集まる、不思議な感覚の駅前となっていました。
特にどこに行きたいとかいうこともなく、見どころを探して地図を見ても、
よくありがちな集落の神社がさほど遠くないところにあるように見えても
そこに至るまでには今の状態にはちょっときつそうな坂があるように見えたり
してしまうわけです。

何のあてもなく、ただ坂道は避けるように、夕暮れの集落を散策して、
適当に踏切を渡って駅裏の方に回ってみました。
踏切の所にはイーハトーブトレーニングセンターという
JRのものらしい施設への入口を表す看板も建っています。
さっきの車窓からも見えた電柱の工場の敷地の中に真新しい鳥居と小さい祠の
姿も見られたりしたのですが、その周りには素朴な住宅街が広がり、
街の中心となるかのように明るいコンビニも1軒だけ立っています。
ちゃんと営業している飲食店も2軒ほど確認できたし、思ったよりもちゃんと
機能している街が広がっているような印象を受けることができました。
こういう所でこの旅最後の夕食というのも悪くないかと、そのうちの
1軒である焼肉屋をちょっと覗いてみると、小さい店の中は地元の人たちで
ごった返す満員の状態、まあお呼びではないってことかとそっと戸を閉め、
どんどん暗くなっていく素朴な住宅街を、そのまま駅まで引き返して
いきました。
気になったイーハトーブトレーニングセンターは、入り口から駅のホームを
通り越した反対側にあるみたいで、ホームの先端から、訓練用の線路が
敷かれているのを、月明かりで薄明るさを残す空のもとにわずかに確認
できたのみでした。

あとはすっかり夜になってしまった中、東北本線の上り列車に一駅だけ乗って
北上へ向かい、この規模の街でも夜になってしまったらひどい食糧事情だ
なんて感じながら何もすることができず、きれいな待合室で、売店で買った
釜石の地酒を飲んでゆっくり過ごすのみだったのでした。
帰りの新幹線は指定席でもがらがらでしたが、車中では長旅の疲れが
一気に出て、ほとんど睡眠時間となって終わったのでした。
 

紫波日詰、石鳥谷、花巻空港(2019.8.12)

murabie@紫波郡紫波町です。
きのうの報告となります。ちょっと疲れて寝てしまったので朝早起きして。

冷房のない宿でしたが、昼間暑くても熱帯夜にはならないので、
快適に寝ることができました。
今日はどんよりとした曇り空、朝もまた涼しく過ごせました。

今日はまず昨日からの宿の周辺を散策することから始めました。
きのうの時点でなんかありそうな雰囲気を感じていた、宿にも程近い
メインストリートは、日詰商店街というらしく、こういうところで
駅から結構離れているにしては明るい賑わいを感じる、
普通の綺麗な建物が街道沿いに並び銀行もいくつも営業している、
街並の規模の大きさの感じられる通りとなっていました。
そんな街中に明治天皇行幸碑を中心とする小さい広場があったり、
そして銭形平次の故郷だとかなんとかで、大きな銭のモニュメントに
手の平をかざすと説明の音声が大音響で通りに響く仕掛けのものが
あったりもして。

路地にも古めかしい民家や蔵のような建物の姿も見られ、廃墟となりつつある
放棄された元町役場の建物の片隅に、もっと古い群役所の洋風の板張りの
建物なんかが寄り添っていたりもします。
国道を南下していくと他のどこかにあったものを移設したらしい
爪書地蔵という、大きな石の表面に絵のように描かれているお地蔵さんが
佇んでいました。

北上川の方へ歩みを進めれば、さっきの日詰商店街の南側の入口付近に、
重厚でとても大きな平井家というお屋敷が建ち、
さらに進めば大きな運動公園があり、その敷地の中に巽聖歌という
童謡作家だかの記念碑が立っていたりします。
北上川に架かる橋には紫波橋橋台公園という、広場ですらない小さい敷地に
紫波橋の歴史を刻んだ石碑がほとんどを占める勢いで立ち尽くすところが
ありましたが、北上川は早くも大河の様相を見せ、深緑の森と芝生の河原と
入り混じりながら、大量の水を悠々と流していました。

川の近くの道を北上し、行ったん宿泊していた宿のすぐ近くを通り掛かり、
引き続き町内を散策します。駅からここまでに至る東西方向の道も素朴な
商店や飲食店が民家とともに軒を連ねる通りで、商店街用の駐車場も
お城の土壁のようなもので囲むように作ってあったりします。
ちょっとネットの地図に騙されて高台を遠回りすることになって
しまいましたが、城山公園の方へ向かって歩みを進め、国道と合流した
ところで、コンビニのような建物を構える、シライシパンアウトレット
ショップというのを見つけました。
ようは、一般的には袋詰めされてスーパーとかで売られているパンが、
その前の段階で、かなり安く1 個数十円とかいうレベルで売られていて、
地元の人たちもたくさん車で訪れたりしていました。

道路の反対側の所にある勝源院というお寺は、墓参りの客で賑わいを
見せていましたが、 墓地からさらに本堂の裏手に回り込んだような所に
逆さカシワという巨木が立っていました。
普通カシワはあまり枝分かれもせずまっすぐ伸びるもののようですが、
ここのはなぜだか、付け根の部分でいきなり水平にいくつかにわかれ、
そこから上にのぼって伸びているという奇妙な姿を見せていて、それが、
根と幹が逆転してしまっているように感じられているようなのでした。
上半身が水に沈られて足だけが水面上にでているみたいな何かの
キャラクターでしたっけが思い起こされます。

そして最後に城山公園を訪れてみました。
市街の北側に佇む山で車道も多く通され気軽に訪れることのできる山に
なっていて、楽に頂上までたどり着くことはできました。
しかしこういうところで期待される素晴らしい展望のようなものを望める
場所はほとんどなく、駐車場や下りの階段でわずかに丘陵に囲まれた
田園や街並や北上川の展望が望める所があったかなといった感じで、
ちょっと疲れただけで終わったしまった感が強いです。

こうして、意外と充実した感じになった紫波町というより日詰の街の
散策を終え、昨日来たときと同じ道を紫波中央駅へと戻っていきました。
国道より東側は昔ながらの日詰の市街、そして西側は新しい市街といった
感じになっているようで、郊外型の店舗や新興住宅街も広がるようになり、
駅前にはオガールとかいう飲食店も含めたいろいろな施設が入っている
公営っぽい大きい建物も新興住宅地の中心になるように佇みます。

裏手に新幹線の高架が並走し、時々爆音とともにはやぶさが駆け抜けていく
紫波中央駅から列車に乗り、のどかな田園の中をひた走りつつ多少の
民家の集まる街となる石鳥谷駅に下車しました。
日差しはないままですがそろそろ暑さを感じるようにもなってきました。

石鳥谷駅は駅前広場も広く、駅前の通りも道幅が広いのですが、
かといって賑わいがあるかというとむしろ静かな部類のような気がします。
ここでで降りた目的はもう道の駅に行ってみることくらいしかなく、
まっすぐ駅周辺の住宅街を通って、跨線橋から山並みに囲まれて街並と
田園が広がるのを一瞬楽しんでから森の中の道をしばらく進んでいきました。

ここの道の駅は南部杜氏の郷ということをうたっていて、日本酒の試飲も
楽しめるし、そして何より、本当に日本酒の味のする日本酒アイスというのも
売られていて、しばらくそういうところを楽しんで足を休息させることも
できました。
また有料区画でしたが南部杜氏伝承館という施設が隣接しており、
せっかくなので勉強のため入館してみました。映像で、杜氏は普段は農家を
していて冬場だけ家族から離れて酒作りの仕事をするという説明があったり、
そして意外だったのは、南部とはいうけれど単なる仲間関係のようなもので、
酒作りを行っているのは南部地方に限らず日本全国に存在しているのだと
いうことでした。普段あまりそこまで考えないけれど、日本酒を作る人の
ことを少し考えてみようと思うきっかけになりました。

帰り道も線路を越えるまではほぼ同じ道を行きましたが、線路の西側の
住宅地の中の崖沿いがちょっとした展望台みたいになっているのを見つけて
再び丘陵に囲まれるような緑の濃い街並を見晴らして、線路を渡って
下界に降り、一応街のことを全く見ないのはどうかなとも思って、少し
遠回りだったけれど国道を経由してみました。
やはり道幅こそ広いけれど取り立てて賑わいがあるわけでもない感じ
でしたが、宮沢賢治のゆかりの地であるらしい肥料相談所あとという
案内板が立っているところもあったりしました。
本当ならもう少し酒作りに関する見どころがあったみたいだし、
また多分距離はあるようだけれど滝もこの街にあるみたいだったので、
またいずれ時間をとらなければならないところなのかなと感じました。

石鳥谷から一駅だけ、のどかな風景の中を走る列車に乗り、次の花巻空港
駅に降り立ちました。
空港アクセスとしては盛岡から花巻空港に行くバスがここに立ち寄ることに
なっているということのようでしたが、それ以外はどうということのない
素朴な街といった感じです。駅前通りがまた幅広く、しかもひたすらまっすぐ
カーブすることもなく国道まで続いていくというのも特色かもしれません。

道は広いけれど決して賑やかということではない、本当は二枚橋という
名前の街の駅前通をひたすらまっすぐ、薄日がさして暑さも感じながら
歩いていくと、交差した国道の向こうに、フェンスで囲まれた花巻空港の
敷地が現れました。
北西の角ということになるこのあたり、実は運動公園があってそこに入れば
もっと近くから滑走路を眺められるようだったのですが、そこまでしなくても
フェンスの外側に建物は少なく、誘導施設なんでしょうか、朱色の小さい
鉄塔がまるで千本鳥居のように緑の草原の中に並んでいる独特の風景と
なります。
空港の北側を通る道を引き続き、まっすぐとは言えなくなりましたが進み、
照り返しの暑さに堪えながら東へ進みます。

空港の北東の角には花巻農業高校が広がり、その敷地の中に、羅須地人協会
という不思議な気になる名前の見どころがありました。
残念ながら入口の門は閉鎖されてしまっています。もしかして学校が休みの
日は見学できないんだ廊下なんて、特に掲示物がなかったので
考えてしまったりもします。一応中の様子は低いフェンス越しに覗くことは
できて、ようは時々引き合いに出される「下の畑にいます」という
宮沢賢治の時が書かれた小さい民家のような建物ということのようでした。

暑い中となりましたがいったん空港の北側の道を引き返し、ちょうど着陸
してきたJ-AIRの小さい飛行機を頭上に迎え入れて、西側の領域へ
歩みを進め、線路との間に広がる住宅街と広大な田園の境目辺りを南下
していきます。
結構な距離を歩き進んだ所で、線路の方にちょっとした森のような、
田畑とは違う緑地があって、案内にしたがって歩みを進めればそこが
花輪堤ハナショウブ群生地という天然記念物となっているところの
ようでした。
もちろんハナショウブの時期は7月上旬ということなので、今の時期
湿地帯に囲まれた単なる溜池ということになってしまうのですが、
それはそれで水鳥達も集い、明るくのどかな風景を見ることができました。

ここまで来てちょっと、歩きながら寝てしまうくらいの疲労感を感じたので、
国道沿いに立つパチンコ屋の駐車場の宴席で休憩するなんていうことも
してしまったのですが、このあたりまで来ると実は、以前使われていた
花巻空港のターミナルビルに近いことになり、空港に良くありそうな
管制塔のような形の建物も国道沿いに見ることができます。
もとのターミナルビルは実はそのまま、花巻市交流会館という施設として
使われています。ようは有料の貸し会議室みたいなもののようなのですが、
建物自体そのままなもので、入口はバスが今にも発着しそうな雰囲気だし、
自動ドアから中に入れば今は観光協会か何かが入っているけれど今にも
チケットを売り出したりチェックインしたりしそうな雰囲気だし、
そしてガラス張りではあったけれど滑走路を目の前に大きく見ることの
できるデッキのような所にも自由に入ることができるようになっていて、
飛行場の雰囲気を存分に味わうことができるところでした。
何のイベントがあったわけでもないのですが、結構地元の人も散歩がてら
気軽に訪れて来るところになっていて、こういう利用法があるのかと
感心することしきりでした。

そして、現役のターミナルビルを目指すべくさらに疲れた足を引きずって
いきました。空港の敷地に従うように国道から分け入る路地に進むと、
高台から何にも遮られずに滑走路を見ることができる所にさしかかりました。
ちょうどFDAの飛行機が離陸するところで、空に浮かび上がる瞬間は崖に
阻まれて見ることはできなかったのですが、迫力のあるシーンを目の前で
見ることができてうれしさを感じました。

すぐ近くのところに、滑走路の地下をくぐり抜ける地下道の入口があり、
長いトンネルを延々歩いていくと、遠くからも見られたコメリの
流通センターの大きな建物とともに、現在のターミナルビルの駐車場に
たくさんの車が止まっている所に出て行きました。
これらの人工建造物以外の領域はひたすら広大に田んぼが広がっているような
きわめてのどかな雰囲気の所になります。
昔のターミナルビルにはすぐに入れたのに、今のは歩いてやって来る人の
ことは全く考慮に入っていないみたいで、車にとってはなんでもないぐるりと
大回りをして高台のビルへ向かう道をたどっていかなくてはなりません。

たどり着いたターミナルビルはさすがに新しくて明るくて綺麗で、
女満別なんかもこんな感じだったなあなんて思えるような、コンパクトな
カウンターや搭乗ゲートといった施設の周りに飲食店や土産もの屋も
コンパクトでありながらそれなりに充実している感じがしました。
展望デッキももちろん設けられ、上ってみたらちょうどJ-AIRの飛行機が
着陸してきた所でした。

もともと曇りだったので夕焼け空が広がるような天気ではなかったの
ですが、そろそろ辺りに夕暮れの雰囲気が漂ってきて、暑かった空気も
多少はましになって来たのを感じられるようになりました。
ここからは、地図上では割と近くにあるように見られた釜石線の
似内駅へ向かい、ひたすら田んぼの中を歩くことになりました。
そろそろ頭を垂れてきた稲の密生する黄緑色の広大な田園の中に
所々丘陵の姿も点在するようなのどかな風景がしばらく続き、線路の前に
幹線道路と高速道路が近づいていくると、ようやく素朴な集落が現れる
ようになって、その集落の裏手のようなところに小さな駅がひっそりと
佇んでいたのでした。

あとは昨日乗ったのと同じ便、ただし今日は新花巻でもたつかなかったと
みえてちゃんと定刻通りにやってきた便に乗って花巻へ、そしてやはり
昨日と同じ便で紫波中央駅まで戻り、駅前に見つけたじゃじゃ麺屋で
夕食としたのでした。
 

釜石線沿線(3) (2019.8.11)

murabie@紫波郡紫波町です。

再びいい天気になりましたが、今までと違ってそんなに暑くない中、
7泊堪能した釜石をあとに、今朝は快速はまゆり2号に乗って
内陸を目指しました。
ここまで乗ってきた車窓の復習、内陸に伸びる釜石の市街が次第に小さく、
代わりに周囲を囲んでいた丘陵が相対的に大きくなり、市街は田園となって
そして山道となって陸中大橋のオメガカーブを経て仙人峠越えにかかり、
滝観洞の上有住からは下りにかかって、程なく周囲には丘陵に囲まれて
のどかな田園が広大に広がる遠野の領域へと進んでいきます。
疲れが出てうとうとしてしまったのですが、車窓にはのどかな田園と
ときどきは山道の風景が現れ、宮守が近づき眼鏡橋を渡っているらしい
ときに大きく広がる凛々しい山を正面に据えた谷あいの広大な風景をみて、
列車は宮守へ進んでいきます。

宮守駅に降りて、とりあえずめがね橋を実際に見てみようと、車窓から
見られた谷の方へ向かってみました。
駅前の線路と並行する道沿いには古い素朴な民家や商店が並び、さらに
並行する国道へ下りると、なだらかな丘陵に囲まれて小さい田園が広がる
風景となり、少し丘陵が道に迫ってきて渓流が寄り添うと、眼鏡橋は
国道と丘陵を一緒に跨ぐように、白い堂々とした姿を見せてくれます。

この白いめがね橋を大きく眺められるところに道の駅があり、他に
行くところがあったわけでもなかったので、次に乗る列車までの時間を
ここで過ごすことにしました。
道の駅として物産店で土産物も扱われていますが、キーテナントが
イオンがやっているホームセンターとスーパーを一緒にしたような店で
食料や飲料を安く調達できるのも長居には都合がいいかもしれません。
次の上り列車の時間までに下り列車が2本通過するみたいで、
道の駅の敷地の片隅にある、めがね橋を大きく見ることのできる園地に
設けられた四阿で休憩し、そこからステージ状の川岸の近くに下るのが
めがね橋を橋らしく見ることができる所のような気がして、
そこで待ち構えるとまずは4両編成の快速列車がやって来ました。
青空に白い雲が浮かぶのを背景にしつつ、演出なのか必要があったのか
わかりませんが、快速列車は橋の上を通過しながら、SLのように黒い煙を
青白い空に放ちながら通過していったのです。
もちろん写真におさめればちゃんと、銀河鉄道のように空に向かって
走っていきそうな絵になっていました。
そして安いペットボトルの飲み物を片手に日陰でしばらく待って、2両編成の
普通列車が通過して空へ向かって飛んで行くのを出迎えることもできました。

のどかな山里の道を宮守駅へ戻り、花巻行きの列車に乗り込み
一駅だけ移動して、次の岩根橋駅に降り立ちました。
ここではより山深く、駅前に数件の民家はありましたが集落という
レベルではなく、山道の途中といった風情の、待合小屋一つだけの駅です。
銀河鉄道のモチーフになったのは本当はこっちという話のある岩根橋を
見に行くべく、駅前に伸びる国道にそって歩みを進めると、それは程なく、
山並みに囲まれる形で道がカーブするところに姿を現してくれました。

道を進めばその岩根橋へとたどり着きますが、ここでは国道と線路がそれぞれ
カーブを切りながら接近するところで、SL銀河を大きく見られるところとして
JRからもお墨付きをいただいている撮影スポットであるということの
ようでした。ちょうどその地点にたどり着いたところで、あと少しで快速
列車かここでを通るというタイミングとなったので一応撮影はしたのですが、
確かに列車を大きく撮ることはできるのだけど、この地でなければならない、
めがね橋の風景を含めて撮ることはここででは難しいようでした。
ほんの少し進むだけで、国道側から眼鏡橋を渡っている車両の姿を
捉えることはできそうな感じではありましたが、それでもちょっと近すぎと
いった嫌いはある感じです。
一応橋のしたに下るダート道もあるにはありましたが、安全に立ち入れそうな
所だけでは少し橋が大きすぎて写真には撮りにくいかなといった感じでした。

ネットで検索してみてお手軽俯瞰なんて紹介されているスポットを尋ねて
みようと、国道にそってダラダラ坂道を上っていくも、道路を囲む森は深くて
線路のトンネルの上なんていうところを見つけられないくらいで、気が
ついたら峠を越して下り坂にかかってしまおうかといった所まで来てしまって
いたし、気を取り直して注意深く森の中の様子を見ながら戻っていくと、
確かに線路が足元に吸い込まれて行くところは見つけたのだけど、そこへ
至りそうな道は深い草むらになっていてちょっと無理そうな感じで、
ネット上の地図ではその道は少し先のところで再び国道に合流することに
なっているのだけれど、そのみちはやっぱり草むらに覆い尽くされていて
よく見れば動物の市街が横たわっていたりもして、さすがにこれは無理だって
いう結論に達したのでした。

結局、めがね橋の下に降りていくダート道の行き止まりだと思っていた
草むらの少し先に砂利の河原が少しだけ広がっているところがあって、
次の列車をそこで待ち構える決意をしました。
このめがね橋は森の中を流れ下ってくる爽やかな渓流の上に架かっており、
その渓流と本流が合流する地点の、草むらを掻き分けた先にあった河原で
快速はまゆりを待ち受け、めがね橋の上を昇って宇宙へ飛び出していくような
構図をなんとか手に入れることができました。

岩根橋駅に戻り、やって来た花巻行きの列車に乗って、山道を抜けてのどかな
田園が広大に広がるようになった中を進み、土沢駅に降り立ちました。
さすがにここまでくるとちょっと蒸し暑さを感じてしまいます。

土沢駅の駅前は広い道の周りになんでもない民家や商店が集まっている
感じでしたが、並行する裏通りに回り込むと、昭和から時が止まったかの
ように古めかしい建物ばかりが道沿いを固めていました。
そんな道は街並の中心へ進むとさらに高密度に、祭のような飾り付けさえ
されるようになり、古い街並の賑やかな雰囲気を存分に感じることの
できる街並となっていました。

街並を外れて高台へ出てみると、ササチョウという醸造工場があり、
醤油の臭いが強く漂ってきたりもしましたが、八丁土蔵というナマコ壁で
白壁の土蔵と、この地で生まれた画家であるらしい萬鉄五郎(よろず
てつごろう)という人物の記念館が並んで建つ領域がありました。
ここまでくると市街に集まる小さい建物が密集している様子を眺め渡す
ことができるような感じになってきました。
これらのさらに裏手には小高い丘陵が控え、舘山公園ということになる
ようでしたが実態は土沢城址ということで、建造物は残らず基本的には
芝生が広がる所でしたが、立体的にいくつかのステージが展開し、土沢の
丘陵と田園に囲まれつつ小さい建物が密集して賑わいを感じさせるような
街並を一望することができるところで、しばし足を止めてのんびりと過ごす
ことができました。

そんなすてきな風景をあとにしてから、SL銀河がこの街に近づいていると
いうことを思い出すという失態の結果、八丁土蔵の所まで戻ってきてから
街に響くSLの汽笛を聞くこととなってしまいました。
花巻行きのSLと交換する釜石行きの列車がやってきて街の中での線路の
軌跡を確認し、黒い煙を吐きながらその道を汽笛を鳴らして駆け抜けていく
姿をなんとか目に焼き付けることができました。

そしてなんだかんだ見所が多かったので結構時間ぎりぎりになってしまった
のを感じながら、市街の中心部からまっすぐ南下した所にある、
日帰り温泉施設もあるような所にある道の駅に一応立ち寄って、
そこで見つけた、ササチョウの味噌を使っているという味噌ソフトクリーム
なるものに飛びついて、食べ歩きしながら駅へと戻っていったたのでした。
甘い中にちゃんと味噌の風味が感じられる、なかなか見事な食べ物でした。

次に乗った上りの列車は快速であったせいもあってか、結構な混雑でやって
きました。
緩やかな斜面に農地が展開して緑いっぱいの風景となる中を疾走して、
溜池が寄り添う小山田駅を通過し、次の新花巻まで進んでいきました。
新花巻駅では無人駅扱いなので車掌が集札に当たるのだけど、あまりに
大量の下車客を裁かなければならないので予定通り遅延が発生しているような
感じだったし、ホームには釜石行きの列車を待つ大量の客が、それぞれ
大きなキャリーを引きずりながら行列を成しているという状態、さすがに
この時期だけの臨時でも改札をするようにしないとまずいんじゃないの
かしらとか感じてしまうわけです。

ここからさっき通過した小山田駅に一駅だけ戻るために、たくさんの客と
一緒に釜石行きの普通列車に乗り込みました。通常は1両と駅の時刻表に
記してあったけれど今日は2両でワンマンではない体制でやってきたという、
JRにわずかながら存在する良心を見た気がしました。

小山田駅は緩やかな丘陵が一応寄り添うけれど基本的には広大な田園に
佇む駅で、駅前には一応商店はあるようなけれど集落といった感じでは
なさそうな、小さい静かなたたずまいの駅でした。
駅裏にはすぐに、三郎堤という溜池の姿が見られるのですが、そこを
訪れようと思っても、水路で仕切られているせいもあって、訪れるためには
少し大回りをする必要がありました。
線路と並走する道路を少し新花巻方面に戻り、現れた遮断機のない踏切を
渡り、たんぼの畦道を進んで、たんぼの片隅にある神楽場というらしい、
昔この値が開拓されたときに住家を終われた主が暴れるのを、神楽を舞ったら
おとなしくなったという故事に因む、いくつかの石碑が片隅に並べられている
所を見つけることができました。

ようやくの思いで堤防の上に階段で昇ってみると、所々桜並木のある
舗装された遊歩道に囲まれて、大きな水面が大きく穏やかに横たわって
いました。
夕暮れが近くなった時間なので、角度によってはど順光のところとど逆光の
ところが現れるという写真に残すのがちょっとめんどくさい感じには
なってしまったのだけど、穏やかな水面を広く広げる風景をのんびりと
楽しむことはできた気がします。
さっき列車から降りた小山田駅の、丸窓を備えた駅舎の姿は、池の周囲を
半周したところで、草むらの向こうに確認することができます。水面も
どうやらこちらの方はちょっと推量が少なくなって後退してしまっている
感じがします。
でも小山田駅の裏手に当たるところには、割としっかりした三郎堤の
説明の案内板があったり、駐車場までも整備されていたりするから、
もっともっと多くの人に親しまれる存在になれる下地があるような
気がします。
遊歩道は一部一般の道路と重複するような感じになり、駅の反対側にも
いくつかの石碑が立つところと遊歩道の入口となるところがあって、
再び穏やかな水面にそってのんびりと散策することができ、最初堤防に
上った地点まで無事に戻ることができました。
どうやらここでは白鳥が飛来するところらしく、今日は全く姿を
見ることはなかったのだけど、そういう季節にまた来てみたいなと
強く思うことができたのでした。

あとは宿へ向かうだけといった感じなのですが、やって来た釜石行きの
ワンマンカーは、やはり大きなキャリーバックを転がして新花巻から
新幹線に乗ろうとする客を大量に載せており、車内放送でも下車する人は
一番前のドアへという案内がされるほどで、裁ききれるのかどうか、
門外漢ながら心配してしまったのですが、結局わずかに存在していた、
新花巻駅から乗車する客が開けた乗車用のドアに、後部車両に乗車して
いてここでで乗り換える客が殺到するのを抑える人は誰もいないという
状態になってしまっていたのでした。
やっぱりこの時期だけでも臨改は必要だなあなんて。

ここから先は地味にまだ乗ったことのない区間だったわけですが、
引き続きのどかな田園の中を走る区間となり、なんか森の中に突入したぞと
思ったら大きな川を渡るところだったりしましたが、最後は細い川を
渡ると周囲は一気に大きな住宅街へと変わっていき、若干高台にある感じの
駅から小さい建物の密集する花巻の市街を見渡せるような格好になっていって、
列車は花巻駅へ、新花巻駅でもたついた分だけしっかり遅延して
到着したのでした。

この余波で花巻駅での乗り換え時間も削られてしまいましたが、予定通り
東北本線の普通列車で夕暮れの田園風景の中を少しだけ北上し、本当は
花巻市内に泊まりたかったのだけどことごとく満室だったので追い出された
感じで、紫波中央駅までやって来たのでした。
当たらし胃液だということは承知していたのですが公共施設が充実している
ようで、駅の周辺には新興住宅地が広がり、予約したときの宿までの
所要時間が、断りがなければ徒歩の時間だと思うこちらと、車での時間だと
思う向こうのギャップのおかげで、最後の最後でまめだらけの足をさらに
痛め付ける結果となったのでした。
宿はいまどき冷房のない木造の日本旅館です。まあたまにはいいんでしょう。

 

陸中大橋、上有住、釜石市街(2019.8.10)

murabie@釜石市です。

今日はこの旅初めての雨の旅となりました。でも熱帯の雨という感じでは
なく、昨日までと比べ気温もぐっと下がった涼しい日となりました。
今朝はいつもより1時間ほどゆっくり過ごしてから、釜石線の列車に乗って
内陸へ向かい、丘陵に囲まれて内陸へ広がる釜石の街の建物が
だんだん小さく、背景の山並みがだんだん大きくなっていって、
住宅街は田園へ、そして山道へと移り変わっていくのを眺めつつ、
今日は陸中大橋駅に降り立ちました。

オメガカーブで有名な駅で、陸中大橋を出て行った列車は数分後、駅を囲む
丘陵の中腹に再び姿を現してから遠くへ旅立っていくのを見ることが
できましたが、それが過ぎてしまえば辺りは山並みに囲まれ、
至ってひっそりと静まり返ってしまいます。
駅を挟む丘陵の足元にはホッパーと言うらしい貨物駅にありそうな
コンクリートが格子状に組まれている建造物に釜石市の観光資源の
宣伝が描かれていたり、構内も広く取られていたりして貨物駅のような
雰囲気を感じる駅になっています。
駅前の空地も広々とした感じでしたが、今駅の周辺に存在する街並は
極めて小さく、郵便局だけが真新しくてあとは昭和から時が止まったままの
ような建物が集まります。

雨の中、赤い橋を越えて奥へ進んでいくと、街並は途切れ、建物もほとんど
現れなくなり、その代わりに昔建物があったかのような、規則的に水平で
四角い区画が道路を固めるように広がり、そしてきっと昔のままの街路樹が
並んでいます。
ここは釜石の製鉄を成り立たせる鉄鉱石を採掘していた釜石鉱山の跡地、
というより鉱山を囲む街の跡地ということのようで、駅から鉱山へ向かう
このメインストリート沿いには、かつては社宅があったたり診療所があったり
購買があったりした所なのだと。

そしてかつて事務所だったという白い四角い建物がある領域へ進んでいくと
広場のような広大な敷地が、巨大な山並みに囲まれて広がり、山肌には
なんだか要塞か秘密基地のように、コンクリート製の人工的な建造物が
広がっていました。
敷地の周辺には煉瓦造りの建物やら古くて大きいきっと昔から使われていた
であろう建物が少しだけ残り、また屋外展示なのか、ここで使われていた
機関車の類が、文字通り雨ざらしになっていました。

白くて四角いコンクリート造りの旧事務所の建物に入場料を払って
入館すると、中はかつて鉱山が賑わっていた頃の事務所の雰囲気が
そのまま残されている感じで、机椅子はそのまま、当時使われていた
電話機やら文房具やらがそのまま残されていて、今はもっとコンパクトに
高性能になっている事務機器の古い姿を目にすることができてなかなか
面白いところです。
2階に上がるととなりにあった自前の小学校の教室が再現されていたり、
鉱物標本や釜石鉱山周辺の地形の立体模型が展示されていたり、
電話交換機がそのまま展示されていたり、当時使われていた様々な道具、
中には発破のための爆薬や装置なんかも含めて展示されていたり、
診療所の診察室が再現されていたりと、当時ここがどのような所
だったのかをよく知ることができる所だと思いました。

しとしとと雨の降り続く表に出てみれば、切り立つ丘陵の表面のコンクリート
製の人工建造物はこんな天気でも静かに何かを語ろうとしてか佇み続けます。
左手の丘陵は鉄鉱石の、右側は銅鉱石の選別所の建物の基礎であった
らしいです。
一応それなりに広い範囲に立ち入ることができるようにはなっていて、
傘をさしながら要塞のような山の間を歩いていたら、近くの草むらに
2頭の鹿の姿が…… 今回の旅ではやたらと野生の鹿に出くわします。
銅の選別所側に歩みを進めると、旧事務所のとなりに、自前の小中学校の
高知だったところが更地で現れます。旧事務所の展示では、この学校も、
また陸中大橋駅からここまでの間の道沿いも、最盛期はとても賑やかだった
ということを伝えています。以前松尾鉱山を訪れたときにも感じたような、
諸行無常というのか、かつて賑やかだったのに今ここには何もないみたいな、
不思議な感覚に陥ってしまいます。

一通り自由に見られる領域を巡ったところで、雨の中、社宅の跡地の緑の
ステージが道沿いに連なる昔は賑やかだったはずなんだなあといった感じの
道を陸中大橋駅へ戻っていきました。
残念ながらSL銀河の運転日であると言う情報を直前に得ていながら
その時間には間に合わなかったりしたわけですが、駅よりもさらに先へ進んで
実はここにもあった社宅跡地を見つけたり、そしてオメガカーブを越えた
列車が通る赤い鉄橋を高台に見つけたりとかもすることができました。

ここまで雨は仕切りに降り続いていたのですが、こうして駅へ戻る
タイミングでどういうわけか天気は急速に回復し、雨も止んだばかりでなく
空には晴れ間まで覗くようになってしまいました。
次に乗る列車まである程度時間があって、もともと賑やかだった社宅のあとの
領域などをもう一度散策したり、陸中大橋駅を出た列車が突入するトンネルの
上に出て駅と下界の谷の風景を見渡したり、駅から見られた少し奥にある
小さいホッパーを目の前で見ることに成功したりとかしているうちに、
次に乗る列車の時間がやって来てしまいました。

花巻行きの列車は陸中大橋駅を出ると、トンネルに入りつつ
オメガカーブを越え、駅付近の風景を下界に見てさらにトンネルに進み、
いくつかのトンネルの後仙人峠の山並みの風景を見てからさらに
長いトンネルを進んで、すっかり冷えきった車体が一瞬で水滴に覆われた
所に現れた上有住駅へと進んで行きます。

もはや天気は晴れといっていい上有住駅に降り立ち、午後はこの駅の
すぐ近くにある滝観洞(ろうかんどう)という鍾乳洞を訪れることに
しました。
青空の元に明るい緑色の高い山肌が周囲を囲む上有住駅から谷底へ下り、
受付で料金を払い、長靴とヘルメットとジャンパーを借り受け、いざ
洞窟探検へ出発します。

入口の小川に架かる風恋橋という赤い太鼓橋を渡ると、中に入らなくても
ここが発見されたきっかけでもある冷たい風を感じることができましたが、
中に入ると、この世界の厳しさを存分に感じることのできる所でした。
何より道がとても細く、屈んだりしゃがみながら歩いたりしなければ
ならないところが結構あったりするところで、複雑に折れ曲がったり
する所も多いので、実際の距離の数字の割には際奥部に達するまでの
距離が長く感じられたりします。
鍾乳石はあまり発達していない感じではありますが、それでも乳房石
みたいなちょっとふふっとなる感じのものもあったり、ウミユリの
化石が模様のように1センチ程度の大きさとなって大量に石灰岩に
紛れ込むところがあったり、洞穴サンゴという石灰岩の表面に細かい
突起が大量にできているところがあったり、ノッチという定常的な
地下水の流れによって平らな岩盤ができていたり、スコラブという
地下水の渦によって石灰岩が魚の鱗のように侵食されていたり、
また一定の水滴の落下によって石灰岩に穴がうがたれていたりと
案内に従えばいろいろな形に成長した鍾乳石を発見することもできます。

そしてやっとの思いで末端へ近づくと、女滝という岩盤の間に細い
水が勢いよく流れるところがあり、また大きく洞窟が穿たれた空間には
観音像が飾られるところがあり、そして最奥部には天の岩戸の滝と
名付けられた、やはり大きく穿たれた洞窟のとても高い所から、
何に伝わることもなく大量の細い水がただ自由落下してきてものすごい
勢いで飛沫が上がるという、地下にこんな激しいものが隠されているなんて
という驚きをもって受け入れられるものすごいものを見つけることが
できた喜びを、摂氏10度の冷たい快適な空気の中で存分に噛み締めることが
できたのでした。

道は往復するだけなので帰り道も、狭い道をなんとかこなしながら、
面白いものをいろいろもう一度楽しみながら戻っていくことができたの
ですが、下界に出ると余りの気温の差で、涼しい方の今日の空気でさえ
熱気として感じられてしまいます。
そして困ったのはカメラにも大量の結露が発生してしまったことで、
外側につくのは拭き取ればいいのだけれど、レンズの内部の分解できない
所にまで結露が生じてしまったようで、ファインダーを除いても真っ白に
なってしまったりして、復旧するまでに1時間ほどがかかってしまいました。

上有住の駅は本当に山奥といった感じで、辺りに集落のようなものは
見当たらず、ほぼすべてがこの滝観洞関係の施設ばかり、駅からここへ向かう
道をそのまま進めばすぐに行き止まりになってしまい、線路が長い
トンネルから出るところの踏切に事情はよくわからないけれど慰霊碑が立ち、
そして踏切の先には銅やら鉱山であるらしい立入禁止の領域が広がって
いるようで、背景となる山並みには石灰岩と思われる採石場が削られた山が
佇んでいました。
そして本当なら白蓮洞というもう一つの鍾乳洞があり、現在は立入禁止と
なっているのですが、駐車場の跡地まではなんとか進むことができて、
洞窟云々よりも、復活した青空の元に折り重なる緑の巨大な丘陵の中に
上有住駅がぽつんと小さく佇んでいる絵になる風景が展開する、すてきな
所を見つけることができたのでした。

釜石へ戻る列車は少し奥れてやってきて、しかも混雑した状態で、
車掌も乗務する状態でやってきました。
仙人峠の長いトンネルを抜けて釜石市に入ると、どんなに小さな駅でも
必ず大きな荷物を転がす人が下車していって、帰省ラッシュに差し掛かって
いるということを強く感じたのでした。

釜石に戻ったのもいつもより少し早めになったので、最後に釜石の市街を
散策していきました。
晴れ間も覗いてはいたのに釜石に戻るとまたどんよりと曇り空に
なってしまいましたが、気温は涼しいままでいてくれて歩きやすかったです。
丘陵に囲まれた平地に高密度に発達する釜石の街並を、丘陵に沿うように
先日すでに訪れていた薬師公園を通過して進んでいくと、市街の中央部、
大きなホテルなども集まるところの近くの山沿いに、石応禅寺という
石造りのトンネルのような立派な山門を持つお寺が佇み、囲む斜面すべてが
その寺の墓地になっているという凄まじい所を見つけることができました。
そのお寺の賛同の脇には青葉公園商店街という、震災の被害に遭った
お店のためのプレハブがいまだに2軒ほど生きているという所も
あったりしました。

ここから海の方へ向かう青葉通りは真ん中に遊歩道が設けられている
綺麗な通りとなっていて、大きなホテルや飲食店も集まる市街の中心部の
ようになっています。
ここから、バスでも通った大通りを北の方へ進み、市街を跨ぎ越す道路を
くぐってさらに先へ進むと、魚市場の領域へと進んでいきます。
港のいかつい建造物が集まる領域と隣接するけれど多少は優しい感じに
なった釜石の海の風景を、気軽に大きく見渡すことができ、対岸には
釜石観音が海に面する丘陵の上に佇む様子も眺めることができる、
穏やかな港となっています。
海岸には魚河岸テラスというおそらく公営の施設も設けられていました。

そしてせっかくなので帰り道は、震災当時テレビで流された釜石の映像を
振り返るように、市役所の近くを通っていきました。
高台に上っても今日は至って穏やかで平和な風景しか見られないの
だけれども、市役所や関連する公共施設の建物にはほぼ必ず、3.11の時の
津波の到達点を表す表示がされているし、ネットで検索すれば簡単に、
目の前の街が当時どういう状況だったのかを表すテレビで流された動画を
見ることができてしまいます。
例えば大槌とか鵜住居とかのように、今現在荒涼とした雰囲気になって
いないのは、やはり大きな街ですぐに新しい建物が再建できる条件に
あったからなのかなあなんて感じたりもしながら、
そんなあまり新しい感じのしない新しい街に見つけた中華料理屋で
今日も釜石ラーメンをいただいたのでした。
 

三陸鉄道旧山田線沿線(2) (2019.8.9)

murabie@釜石市です。

今日は2回目の旧山田線区間、釜石の町並みを下に見て森の中へ入り、
採石場も削られている森の中の道から、高台まで津波に削られている両石、
荒涼とした土地とスタジアムが広がる鵜住居、建設中の水門が目立つ大槌、
丘陵の斜面に民家が密集する吉里吉里と先日の車窓を復習し、
美しい海岸を高台から見渡す浪板海岸、そして四十八坂海岸の領域の
海を森の木々の間から時々垣間見て、以前北三陸の旅の時に訪れたことの
ある本州最東端の岩手船越駅へ進んで降り立ちました。

岩手船越駅自体は小さい小屋のような待合室だけの駅という雰囲気は
変わっておらず、駅周辺の素朴な住宅街の雰囲気も変わっていないように
見受けられました。
以前ここを訪れたときと同じように駅裏にでて、本土と船越半島を繋ぐ
部分の北側を巡るべく歩みを進めてみると、海と鯨の博物館の建物に隣接する
領域が、一応公園として整備されてはいましたが荒涼とした草原のように
なっており、そして隣には記憶にない溜池が佇んで、海側は真新しい防潮堤が
立ちはだかり、その上が本土と半島を結ぶ道路となっているようでした。
以前もここに公園は確かにあったけれど、こんなにも荒涼とした感じでは
なく、それなりに植物が生えていてその中を巡るように遊歩道が作られて
いたような、ちゃんとした公園だったような記憶があったので、
早速ショックを受けてしまいました。
以前はこんな立派な堤防もなく、道の位置ももしかしたら変わっているの
かも知れないなという感じだったし、道の上からはオランダ島を浮かべて
悠々と広がる山田湾の姿が見渡されましたが、どうしてもここから美しい
海原が見られたという記憶が検索できなくて、もしかしたら松原とかが
あったのかも知れないな、なんて。

そんな感じで堤防上の道を本土の方へ戻り、昔から変わってないと思われる
本土側の案内看板を見つつ、道の駅やまだにも立ち寄って、
山田のしいたけモッコリ君というネーミングは何とかならないのかしら
なんて思ったりしてから、国道沿いに古い木造や石造りの蔵のような建物も
普通に混ざっている素朴な住宅街が広がる岩手船越駅へと戻っていきました。
やってきた下り列車に乗り込み、オランダ島を浮かべる山田湾の姿を
高台から林越しに眺めつつ織笠を過ぎ、やはり以前訪れたことのある
陸中山田が近づくと、覚えのある薬王堂は現れてもその周囲に広がっていた
はずのどこにでもありそうな住宅街の姿が全くなくなってしまっていることに
予想していたとは言えショックを受けながら、陸中山田駅へと進みました。

駅裏にも丘陵に囲まれながら荒涼とした新しい住宅街が作られようとしている
陸中山田駅に降り立ち、オランダ風車を模したらしい真新しい駅舎から
駅前の市街地へ出ましたが、予想通り記憶にある街並、素朴な住宅街も
薄暗いスーパーも昭和レトロ的な商店街も一切存在せず、新しい建物ばかりが
集まって無機的な市街ができている、全く知らない街になってしまって
いました。
道さえ新しく引き直したんじゃないかと思われる街の中を歩いていき、
以前でも訪れていない市街の北側の方から先に回ってみたわけです。
荒涼とした市街を囲む丘陵の足元には町役場と神社、お寺が佇み、
真新しい防潮堤が立つ方へ少し進めば、御蔵山という、山というには
おこがましいくらい一切の樹木の類の存在しない、歴史的には確かに
蔵があった所らしいのだけどとりあえず現在は単なる高台となっている
所があり、上ったところで防潮堤は極めて高くて辛うじて防潮堤の
向こうにオランダ島の姿が垣間見られる程度の所でしかありません
でしたが、震災前に陸中山田駅の屋根に設けられていた時計が
焼けてしまったそのままの姿て展示されているということが、この小高い丘を
祈りの空間としているかのようでした。

堤防で囲まれた市街地へ下って山田湾の北の方へ向かいつつ、防潮堤の
切れ目から海の方へ出てみれば、複雑に体を伸ばす陸地達に囲まれる
ようにして、オランダ島を浮かべる山田湾が、晴天の元に青々とした
姿を広々と広げ、牡蠣の養殖棚と思われるものも規則的に広範囲に
点在しているようでした。
そんな海を囲む陸地の高台にも住宅街やお寺の姿が見られ、この風景は
昔から変わらないままなのかも知れないなあなんて思ったりもしました。
近くには大杉神社という、神殿は急ごしらえの無機的なものなのだけど、
金属製の2つの巨大な鳥居が遠くからでも目立つ神社の姿も見られました。
施工年月はどちらも昭和50年代で、表札はこの地出身らしい鈴木善幸の
揮毫によるものらしいのですが、ようは津波に堪えてそのまま残っている
鳥居ということになるようです。

辺りはいまだにあちらこちらで工事が行われている状況で、防潮堤も
完成しているわけではないし、道路や橋も空地の建物と同様まだまだ
再建途中といった感じを受けます。
国道の宝来橋という橋の辺りは防潮堤が繋がっていない所となり、陸側は
厳つい状態ではありましたが、丘陵に囲まれてオランダ島とともに
牡蠣棚を浮かべながら広がる山田湾の姿をここでも穏やかに眺めることが
できました。
ここまで来ると山田の市街地の北端ということになるようでしたが、
市街を囲む丘陵の足元には、看板に隠れるようにしてひっそりと、
太平洋戦争末期に作られたという防空壕が存在していたりもしました。

来た道をほぼそのまま山田の街の中心部へと戻っていき、おそらく津波に
堪えて残ったんだろうと思われる小さいビルの姿を見ながら今度は市街の
南側へと歩みを進めました。とは言ってもこの領域は、まさに何もない
という表現がピッタリ来る状態。以前来たときには確かに、どこにでも
あるような素朴な住宅街が存在していたのに、今はただ区画だけされた
空地が広がる、強い日差しの元には照り返しが厳しい世界となって
しまっていました。

おそらく建て替わりはしたのだろうけど前もここに間違いなくあった
薬王堂でアイスを買ってクールダウンし、引き続き市街を南へ
進んでいきます。
このあたりは市街に立ち並んでいた真新しい白い防潮堤が丘陵にぶつかって
末端を迎える辺りで、海へ突き出す伝作鼻という岬へ向かって国道から
分岐した道が防潮堤を跨ぎ越して行くところから、山田の湾と港の風景を
防潮堤の外側の荒涼とした世界とともにいっぺんに眺め渡すことが
できるようになっていました。

伝作鼻の峠を越えて低い所へ下りていくと、早くも隣の織笠駅が最寄りという
領域となっていきます。地図上では海にそって伸びる国道でしたが、
海側にはここでも真新しい防潮堤が並び、海の姿を見ることはできません。
右手には高台にあるらしい街並への入口が所々口を開きますが、国道沿いは
防潮堤に閉ざされて白い無機的な坂道ばかりが続いていきます。
やがて道は織笠川に架かる織笠大橋へと差し掛かり、緩やかな上り坂へと
変わっていきます。道が防潮堤の高さに近づくと、その向こうに山田湾の
オランダ島の姿が見られるようになり、そして織笠大橋にさしかかると
防潮堤は途切れるので、小さい港の風景とともに、丘陵に囲まれて
穏やかに広がる山田湾の姿を奥の方まで見渡すことができるように
なりました。

織笠大橋は弓なりに大きく織笠川を渡って対岸に達し、川ではまた
山並みが大きく開いて広大な谷あいの風景となりますが、陸側の
川沿いは工事中の領域も多くあったたりします。手元の資料は
紙でもネットでもすべて織笠駅の位置をJR時代の位置である織笠川の対岸で
教えてくれたのですが、さっき乗った列車で聞こえてきた、おばちゃんと
おっちゃんが会話していた内容を思いだし、そうか移転しているんだと
気がつくことができました。
移転した織笠駅へ向かうために織笠大橋から少しだけ道を引き返し、内陸の
高台の住宅地へ分け入っていきます。川沿いの所には新しい建物が集まるのは
やむを得ないといったところだとは思いますが、高台にも新しい小さい建物が
無機的な街並を作っていて、震災後に開拓された所なんだと信じたい気分と
なりました。

新しい街の中心付近にできた織笠駅から上り列車に乗って、オランダ島を
浮かべる山田湾や、海と鯨の博物館を浮かべる、船越半島へ続く荒涼とした
平地を眺め渡し、再び岩手船越駅へと降り立ちました。
午後になってややどんより曇り空ベースとなってしまいとりあえず暑さは
感じなくなったところで、船越半島側にある田の浜という集落にも
津波に堪えたタブの木とか見所があるみたいでちょっとそそられたのですが、
時間のことも考えて当初の目論見通り国道45号を6キロほど南下して
浪板海岸へ向かう歩き旅を決行に移すことにしました。

とは言っても地図から見た印象とは異なり、国道45号は延々と切り開かれた
森の中を行くばかりで、海の姿は時々、森の木々の合間から見られることが
あるといった感じの道となってしまいました。
最初のうちは船越半島へ続く陸地の南側となる田の浜の防潮堤や港、そして
対岸に船越半島の高い深緑の丘陵を背景に開けている港と集落の姿が時々
見られ、そして最初に大きく海原の姿を見られるスポットとなったのは
国道沿いのパーキングエリアでした。
比較的大きく広がる海原の正面には大きくこんもりした深緑の船越半島が
浮かび、その南端に白くごつごつした足元を見せる弁天島を浮かべ、また
近接する沖合に瓢箪のような深緑のタブの大島が浮かぶ海の様子を
ゆっくりと眺め渡していくことができる所です。
しばらくいった先には四十八坂展望台という、名所とされている場所も
現れましたが、基本的には同じような海の風景を楽しむことができます。
一応周辺には売店、食堂や民宿も佇んでいるのですが、今日のところは
ひっそりと静まり返るばかりでした。

道は森の中を進みつづけ、山田町から大槌町へと進んで行き、短いトンネルを
二つほど超えていきましたが、雰囲気はあまり大きく変わらないように
見えました。
それでも木々の間に覗く海の風景は、道と海との距離がだんだん狭まって
来ているのではないかと感じさせるものになっていきました。
道沿いには先日イオンのフードコートでお世話になった
吉里吉里のラーメン屋の本店と言うものが立派な見せを構えており、
その庭には割と自由に立ち入れる状態となっていて、船越半島の
タブの大島から右手のこんもりした吉里吉里半島の先の野島というらしい
小島を浮かべる海の穏やかな風景をのんびり楽しむことのできる
所となっていました。

そしてここから先はさらに道と海の距離が近くなっていくようで、
過去の津波浸水区間にも突入してしまうようだったのですが、
大きな山並みを背景として比較的ゆったりと大きく広がる谷を海側から
囲んでいる、大きなホテルにも寄り添われる海原から、そのホテルの
足元の海岸に波が立っている風景を右手に、そして左手にも小さいながら
白っぽいごつごつした岩盤に守られる吉里吉里漁港の姿を見ながら
三陸の海の美しい部分を堪能できるような風景が現れるように
なっていきました。

低いところにある海岸や沿岸の巨大ホテルから、その足元の海岸に分け入る
ためには、一旦下った坂を再び登る必要がありました。
上ったところにある駐車場には津波到達地の碑が立ち、また浪板海岸の
案内看板もあって、震災前は美しい砂浜だったらしいのだけど地盤沈下で
大部分が失われてしまったと述べられています。

ホテルの敷地に入って海岸を囲む堤防に上ってみれば確かに、海から寄せる
激しい波は、防波堤に直接打ち付けるように上ってきます。
少しホテルから離れた所は砂利浜になっていて、波が引くとからからと
軽い音が辺りに心地好く響いていきます。
砂浜がなくなったかわり、家族連れはこういう所で楽しんでいくようです。
ホテルの敷地と北側の対岸のコンクリートで護岸されている領域は
砂利浜を伝えば容易に往来ができ、ホテルの足元の海岸にしきりに白い
波が寄せている風景が、大きな山と美しい海岸線を背景に広がる風景を
大きく捕らえて楽しむことができる所でした。
そしてその領域の反対側には小さい吉里吉里漁港もあって、港を守るように
海に浮かぶ白い大きな岩盤の姿を愛でていくこともできるように
なっていたのでした。

列車の時間に合わせて波板の集落の方へと戻ってみれば、海に近い谷底こそ
津波にやられて更地になっている感じではあったのだけれど、高台に上れば
建物の密度も上がり、公園として海原を眺められるところも用意されて
いたりします。
高台にあるように見える浪板海岸駅にも津波到達の碑が立つ一方で、
駅裏には少し古めかしい木造の商店も建っていたりするような所でした。

こうして今日も歩いてばっかりだった旅を、団体専用列車じゃないかと
思わされるような豪華な車両で楽しむことができ、釜石へと帰って
いきました。
今日の夕食も2夜連続で釜石ラーメンとしました。いろいろ濃い味付けの
ラーメンを食べることが多くなったここ最近において、しっかりして
いながらあっさりした味を楽しめる釜石ラーメンのことを
好きになってしまったわけでして……
 

三陸鉄道旧南リアス線沿線(2) (2019.8.8)

murabie@釜石市です。

今日から曇りがちで不安定な天気になるという予報ではありましたが、
とりあえず朝の段階ではまだ晴れていて、所によっては暑さを感じる
朝でした。
今日は再び旧南リアス線区間を攻めることにし、先日攻められなかった
盛寄りの末端部を攻めてみました。
先日訪れたいろいろな駅の車窓、釜石の港から平田の変わってしまった街、
唐丹の防潮堤、奇跡の集落吉浜、ど根性ポプラの三陸、横に長い防潮堤の
甫嶺、狭い谷の恋し浜といった風景を復習し、そして高台の山の中に民家が
点在する綾里、駅周辺は大規模に工事中で遠くに大船渡の港が見える
陸前赤崎と進み、トンネルを抜け、わりあい広々と開けている平地に
厳つい港湾施設などの建物が広がったり貨物線と交差したりするうちに
次第に街なかへと下っていって、昔はJR大船渡線だった道路が寄り添ってきて
そのまま盛駅へとたどり着きました。

震災前の旅で立ち寄ったことのある盛駅の雰囲気は大方変わってはいなくて、
ほっとはしましたが、改札口の向こうにバス専用道路が通っているというのは
やはり鉄道駅としては違和感ありまくりですし、市販の時刻表の路線図だけを
信じていて現在JR大船渡線はバスというシステムで運行しているということを
理解できず仕方なく説明してあげると廃線なんだと地元の感情を完全無視した
発言を飛び出させる一人旅のおじさんに絡まれたりなんていうことも
あったりしました。

以前の旅では盛は本当に立ち寄っただけだったような気がするので、
今回少しだけ周辺を散策する時間を取ってみました。
歩いた覚えのある大型スーパーの立つメインストリートも以前とそんなに
変わらない雰囲気だったし、その道と並行する通りはそれこそ昭和の
時代から時が止まったままのような建物達が並ぶ素朴な商店街となっていて、
七夕まつりの豪勢な飾り付けがされているところでした。
ここまでの旅では訪れたことがある所もない所も、震災を境に大きく変わって
しまった現実を目の当たりにすることが多かったので、昔から変わらない
雰囲気を保っている所を見つけると、とても安心してしまうのです。

とりあえず街を展望できるかなと思って、市外を囲む丘陵である天神山へと
向かってみたのですが、神社の参道はものすごく急な石段で、少し上っては
休みまた少し上ってということを繰り返し、やっとのことで頂上の園地へと
たどり着くことができました。しかし参道もずっと森の中だった上に、
頂上からは街を一望できるという宣伝文句にも関わらず、児童公園と
なっている頂上の園地は森の中にあって展望台のようなものは存在せず、
真の頂上を占拠している神社もまた、そこそこ立派なのに深い森の中に佇む
存在でしかありませんでした。
登山道は石段のほかに、斜面をジグザグに俺ながらゆっくり上っていく
コースもあり、こちらは森の外に出るところもあるので、丘陵に囲まれて
大小様々な建物がひしめき合う盛の町並みをそこそこ展望できる感じで、
やや色のくすんだアジサイが沿道を飾る坂道を、のんびり下っていくことが
できたのでした。

市街地に戻り、昭和レトロの街並をのんびりと北へ向かっていきました。
特に意識して古い建物を残しているわけではないと思うのですが、
無機的なコンクリートの四角い建物から、洋館風の建物、重厚な木造
瓦屋根の建物、それにコンクリートなんだけど独特な形の屋根を持つ
建物など、古めかしい味わいのある建物が並びます。
街中の電器屋さんの店頭では、ご自由にと麦茶と梅干しのサービスまで。
町外れにはぽつんと一本松も立っていたりする、味わいのある通りでした。

古い商店街を抜けて大通りと合流すると、そこは権現堂という、
バスの行き先かなんかでよく聞いた名前のところでした。
大きく開けた空の元に丘陵は連なり、盛川という河原の広い川を大通りが
橋で跨ぎ越していく穏やかなところでしたが、すぐの近くに岩手開発鉄道の
貨物線の線路が盛川を跨ぎ越していて、ちょうど山で積載した石灰岩を
大量に海の方へ輸送する列車が橋を渡っている所でした。
そろそろ厳しい暑さになってきて、川沿いの散歩というのも少し大変な
感じになってきましたが、ネットで検索してみるとまたすぐに貨物列車が
通りそうな感じだったので、線路の近くの日蔭で少し待ってみることに
してみました。
結果しばらく待つだけで、山の方へ向かうからの列車、そして山の方から
やってくる石灰岩を満載した列車を両方、青空の元に尖った山を背景にして
川の上を渡っていく美しい姿を捉えることができたのでした。

そして最後に河原を伝って駅の方へ進み、駅へ向かって踏切を渡ると、
そこにだいぶ前に廃止されたはずの岩手開発鉄道の旅客列車のホームが、
すぐにでも列車がやってきそうな姿のままで青空のままに佇んでいる
姿を見つけることができました。
並走する相手はもはや線路ではなくバス専用道路になってしまっていた
けれど、なんだか本当にいろいろな意味で、昔から時が止まってしまった
ままの駅なのかも知れないなと思ったのでした。

駅に戻り、すぐに発車するJR大船渡線BRTに、体験乗車のつもりで
乗り込むことにしました。
もっとも車両は単なるバス、しかもSuicaも使えたりする、東京とかと
そんなに変わらないシステムだったりします。
バスは少しだけ三陸鉄道の鉄路と並走し、その後は単独で、大船渡の
港の厳つい建造物と切り通しのような崖との間の道を進みます。
道路と交差すればバスの方が踏切を渡るんだと、なんだか新鮮なものを
見つけたような気がしました。
港側の車窓には、以前はもっと建物がたくさん立て込んでいたはずだし、
以前泊まった宿も車窓風景の中に孤立するように現れたけど、当時は決して
そんな寂しく荒涼とした雰囲気ではなかったはずです。

そしてたどり着いた大船渡駅も、記憶では小さい建物の密集する素朴な
街の中の小さな簡易委託駅という感じだったのですが、完全無人駅というか
単なるバス停になってしまった駅の周りには、昔はなかったはずの巨大な
ホテルが建って、公共施設も建って綺麗に整備され、その周囲に広がっていた
はずの小さい建物が密集する町並みも完全にリセットされてしまい、すぐ
目の前に真新しい防潮堤で囲まれた大船渡湾の姿があるような感じでした。
駅前の公共施設の屋上は展望台となっていて、山側は青空の元に高い山が
並びその足元にはきっと昔から変わっていない街並が広がっていましたが、
海側はなんだか綺麗に整備されてしまっている一方で、駅周辺を除けば
まだまだ空地も多いような感じ、とにかく昔の面影を思い出すことが
困難であるような風景となってしまっていたことに、今日もショックを
受けることになってしまったのでした。

新しくなった市街地を通り抜け、地図上ではさほど遠くではないように
見られた陸前赤崎駅まで歩いてみることにしました。
港の海岸沿いは所々工事中で防潮堤も所々未完成といった感じでしたが、
陸閘を一時的に越えるとその中には真新しい港湾施設が厳つい姿を
見せていたりします。

道はその後、工場の巨大な建物の間を分け入るように進みましたが、
道沿いにはオレンジ色の、大船渡商工会議所という建物が現れました。
何事もなく通りすぎてしまうところでしたが、よく見ると、三階建ての
建物のうち3階部分は何と言うことはないのに、1、2階部分の
窓ガラスが失われ、内部も天井の拝観が剥き出しになっているなど、
これはもしかして震災遺構ってやつなのではないかと……

そんなショッキングな風景も発見してしまいながら、工事中の道を歩み、
盛川の河口に架かる橋を渡って工場に寄り添われる海の姿を見て、
対岸の太平洋セメントの領域へと歩みを進めていきました。
大船渡湾を囲む丘陵の足元にある、遠くからでも紅白の煙突が目立つ
工場となっていましたが、近くで見ると、大きな構造を繋ぐ繊細なまでの
配管の数々が大きく見て取れ、もしかしたらなんだか新しい一つの
生命体なのではないかと思えてしまうような、巨大な工場が佇んでいました。

そんな丘陵の足元のセメント工場の中に、さっき盛で楽しんだ線路の
続きとなる、岩手開発鉄道の赤崎駅という貨物駅がありました。
ようはセメント工場に供給する石灰岩を列車から取り込んで工場へ送る
コンベアが繋がっている駅なわけですが、ちょうどその時山から下ってきた
石灰石を満載した貨物列車がやってきたのです。
列車はホームに泊まったあとでいわゆる機回しという作業に入り、
機関車が列車から離れて道路に遮られた車止めに最接近したあと、並行する
隣の線路に移って列車の反対側に回り込んでいく様子を、じっくり観察する
ことができました。
そして屋根のあるところで石灰岩が回収されているようでしたが、
列車の全長は長くて一度に屋根のある所には入りきれないので、一旦
作業が終わったところで機関車が車止めぎりぎりのところまで列車を
プッシュするなんていう光景にも出会うことができました。

赤崎駅をあとにして、少しだけセメント工場の間の大通りを歩いて
いきました。
工場と工場の間に道路が通されているような感じで、両者を繋ぐいろいろな
配管が道路の上を通り、生命体のようなセメント工場の姿を間近でじっくりと
楽しみながらのんびりと歩いていくことができました。

セメント工場を抜けると、三鉄の陸前赤崎駅周辺の領域へと進んでいきます。
海側にはセメント工場の続きのように厳つい建造物が点在し、その向こうには
大船渡湾が広がるわけですが、道沿いにはやはり荒涼とした平地が
広がることになります。中には古い鉄筋コンクリート3階建ての建物が
立ち尽くし、その1、2階部分のガラスが失われ、階段や手すりが極端に
曲げられてしまったままになっている所もあって、またもショックを
受けることとなってしまいました。
街並だったところに寄り添うような丘陵の上には八坂神社という
小さい神社が鎮座しますが、入口の鳥居のところには小さくて古い狛犬が
長い年月によって風化した結果だと思われるのですが、いわゆる漫画の
ギザ歯のような歯を持った状態になっているという、なかなかかわいい
ものを見つけることができましたし、本物の竹竿を持って座っている
恵比寿様なんかも鎮座していて、そんな神社の境内からはまるで展望台の
ように、大船渡湾を囲む港湾や対岸となった大船渡の街の様子を、
白く霞みながらも眺め渡すことができました。

陸前赤崎駅の周辺は津波にやられてしまったのか空地も多く、
何やら道路工事中であるみたいで落ち着かない状態となっています。
平地の中に島のように浮かぶ高台は公園となっていたり、大船渡湾を囲む
真新しい真っ白な防潮堤には階段が架けられて、白く霞みながらも
対岸の山並みの足元に町並みと厳つい港湾施設を伴って大船渡湾が
静かに広がっている様子を見ることもできましたが、
その防潮堤の近くに、お屋敷と言ってよいレベルの大きい木造瓦屋根の
民家と思われる家が、1階部分の窓や畳や屋根瓦の一部を失った形で
佇んでいたりします。でも木造だから津波の直撃だったらここまで形が
残っているのも変だなあなんて思ったり……
本当だったらこの駅の周りには貝塚が点在しているみたいで、そういうのも
めぐってみたいなとあとになって思うのですが、ちょうど列車がやってくる
所だったのでした。

やってきた下りの列車に乗って一駅だけ進み、午後は綾里駅の周辺で
過ごすことにしました。
綾里駅は高台にあるようで、駅周辺には津波の遺構はほとんど目立たない
ように思えますが、むしろここにも貝塚が点在するようで、今まさに
発掘調査中という所もあったりしました。

曇り空となった午後、高台の駅から坂を下り、過去の浸水区間という
掲示が現れ、津波到達の地という石碑も立てられている交差点を
通りすがり、まずは山の方にある不動の滝という見どころを
訪れてみることにしました。
綾里川という細く護岸された川沿いに、綾里街道ということになるらしい
道にそって歩みを進めていくと、道沿いには古い木造瓦屋根の重厚な
建物が集まりながら、その隙間に農地が広がる静かでのどかな集落が
広がりました。
道は程なく三鉄の高架橋をくぐり、このあたりから綾里川は護岸されなく
なって渓流の様相を呈するようになってきました。
川を遡れば周囲に現れる建物や、農地さえもほとんど現れなくなり、道は
やがて森の中へと進んで行きます。一応虫よけスプレーを準備してはいたの
ですが、吸血性でない虫は避けられないのか、ハエの類がブンブンと
たくさん纏わり付いて、楽しいものも集中して楽しめない状態に陥って
しまいます。

そんなよろしくないコンディションでしたがずんずんと道を山奥へと
進んでいくと、やがて道は三鉄の線路と同じ高さで並走するようになり、
そして三鉄が足元のトンネルへ潜ってしまうと、道の前方には綾里川ダムの
ダムサイトの姿が現れてきました。
このあたりで目的の不動の滝へ別れる道の道標が現れて、
ハエにたかられながら湿度の高い山深い道へと進んでいきます。
ここまで予想以上に平坦で歩きやすい道だったので多少急な山道に
なってもなんでもないやといった感じで、ハエ冴えいな蹴れ歯って感じの
山道をこなしていきます。

道はある所で広場のように広がって、大鳥居が建ち、鳥居をくぐれば、
滝までの本格的な山道が始まります。
滝から流れてきた細い清冽な水の流れを遡るように進んでいくと、
道はここまでより細く険しくなり、急なところでは道も階段になって、
水路のほうも本番前のといった感じの小さい滝となって、生じる冷気を
目的地にたどり着く前から感じることができます。
そして目的地が近づくと、うっそうとした森林の中に赤い太鼓橋が
現れ、巨大な岩盤に囲まれた領域へと誘います。

右手の岩盤には高いところから、男滝というらしい、思ったよりも細く
繊細なように見える水の流れが、岩盤の表面を舐めるように清らかに
流れ下り、でも滝つぼに落ち込む時の勢いは激しいばかりの、
白糸の滝とも呼ばれているらしい清らかだけと力強い滝の流れに
出会うことができました。
そして左手の少し険しい岩盤にも、女滝というらしい水の流れが、
より複雑に折れ曲がるような形で勢いよく、やはり岩盤の表面を舐めるような
形で力強く流れ下って、男滝ともども、うっそうとした森の中に、
湿度は極めて高い状態でしたが、清涼な空気を作り出していたのでした。

不動の滝をあとにして北道をそのまま折り返していくと、三鉄の線路と並走
する短い区間でたまたま盛からの列車がトンネルの中から出てくるところに
出くわすことができたりしました。
森を抜ければハエにも追いかけられなくなり、そのまま古い民家の集まる
田園集落を抜けて綾里の市街地へと進んで行き、そしてそのまま綾里側沿いに
河口の港まで歩みを進めました。

他のところに比べて街中に津波の痕跡があまり感じられないと
思っていましたが、さすがに河口が近づくとそうも行ってられなくなり、
基礎だけを残した民家のあとのような雑草のむした空地のような所も
見つけられました。
やはり丘陵に囲まれ、あまり広くない谷あいに開けた漁港となる綾里漁港は
ここでも壊された防潮堤の工事中のようでした。
港の側を高台の方へ伸びる幹線道路を歩いてみれば、険しい丘陵と、堤防に
連結されて海に浮かぶ3つ程の岩礁が内側の港を守り、その外側にも港は
広がり何かのよう漁場のような施設も見られたりして、岸壁に足を
踏み入れれば、たくさんの舟が停泊する中、港を守る岩礁達が静かに佇む
美しい姿を見せてくれていました。

今回の旅は時間が余るかナと思って駅をあとにしても結局駅に戻るときには
時間ぎりぎりになっているということの繰り返しで、今日の綾里駅でも
そんな感じ、しかも戻るうちに空はどんどんどんよりとして雷鳴も轟く
ようになり、駅についてすぐ雨が降り出すという状態でした。
やってきた釜石に戻る列車は団体用の豪華に装飾されたものだったのですが、
大きな窓には雨が打ち付ける上に、雨が降らない時も湿度が高いので
トンネルを抜けて外側が曇ってしまうともうどうしようもないといった
感じで、そとの様子はあまり楽しめないのだからと、豪華な車両で
のんびりと時を過ごすことにしたのでした。

こうして夕方の釜石へ戻り、降り出した雨の中、また街の方へでて、
今日は釜石ラーメンという、そうめんのような細い麺のあっさりした食べ物を
楽しみました。
 

釜石線沿線、釜石市内(2019.8.7)

murabie@釜石市です。

今朝は少しのんびり過ごし、今日はあまり遠くに行かない範囲を旅することに
しました。
とりあえず列車に乗る前に、宿からそう遠くない、市街地を囲む山の斜面に
ある薬師公園を訪れてみました。
市街地にある入口から階段道を登るうちに、町並みの建物が密集する風景を
上空から眺め渡すようになっていき、水蒸気をあげる製鉄所の背景となる
丘陵や、町並みの向こうに広がる港の海の姿も見られるようになって
きました。
たどり着いた園地は小さいけれど綺麗に整備されていて、平和の女神像が
中心となっていましたが、そのいわれを示す文がいくつか掲示され、
ようは大戦中に2度も艦砲射撃によって市街が壊滅させられた記憶を
高射砲陣地でもあったこの地に留めているということのようで、
園地の片隅には大きな砲弾の姿も見られます。
今日の穏やかな海からは、砲弾が飛んで来るような自体は想像しがたく、
こんな日々がいつまでも続くといいなあなんて感じてしまいます。

のんびりしていたら乗ろうと思っていた列車の時間の間際になっていて、
今日も駅に向かって走っていくことになりました。
ぎりぎり間に合って、今日は釜石線を内陸の方へ少し進み、
線路の周りの市街地がだんだんおとなしくなってきた、釜石から2駅目の
松倉駅で下車しました。

釜石から少し離れてきた駅の周りには素朴な民家が集まり、その背景には
深緑の丘陵が青空のもとに大きく広がるのが、建物に遮られずに見られる
ようになります。駅の裏手にも丘陵が迫り、斜面には墓地が広がります。
小さい民家やコンビニなど小さい店舗などに固められる国道を、内陸の方へ
暑い中歩みを進めていくと、ふとした所に甲子町宿駅跡という史跡へ誘う
道標を見つけました。
路地に入って国道と並行する道へ進むと、旧道としては広い幅の道の真ん中に
綺麗な石の蓋でふさがれた水路が続いていて、昔のままというわけには
行かないまでも古めかしい民家が道沿いに並んでいて、この街の昔からの
雰囲気を充分に感じることのできるところとなっていました。
宿場町の中心部では水路の蓋も外され、水を飲む馬が使った石のようなものが
残されていたりもして。

こんな、予期していなかった見所との出会いを果たせたことを喜びながら
国道へ戻り、暑い中ではありましたが山の方へさらに歩みを進めます。
大畑という集落へ進んだ所で、国道から分岐して甲子川に架かる橋を渡り、
うっそうとした薄暗い森の中へと進むと、甲子川へ流れ込む川の流れが
2段の滝になっている不動の滝という見所を見つけることができました。
森の中には小さい神社の祠も佇んでいる、薄暗くて静かで涼しさを
感じることのできるところで、大量の水が激しく流れ下るさまを暫く
のんびりと楽しむことができました。
滝の上には橋が架かっているのが見えたので、もしかしたら滝を上から
見ることもできるのかと思って、森の中の坂道を上ってみたのですが、
その橋は高速道路だったようで、一応その橋の近くまで行くことは
できましたが、滝の姿は森の木々に遮られてしまっていましたし、
森の中に佇む小さな祠を見つけてそこに歩みを進めてみても、
滝の音は大きく轟くのに、その姿を見ることはできないままでした。

ともあれ暑い中の涼しさを満喫して再び国道へ戻り、引き続き山の方へ
ゆっくりと歩みを進めていきました。
上大畑という所にたどり着いたところで、基幹の路線バスの多くが折り返す
バスターミナルと言うと大袈裟な転回場があり、その先すぐのところに
小さい道の駅が表れました。
ここまでの国道沿いの町並みを両側から囲んでいた丘陵が少し広がって
広々とした谷あいの雰囲気を見せる所で、無料の高速道路である仙人峠道路
への入口が近くにあるところとなります。
売店には鉄きっぷなる、多分釜石の純鉄で作られている記念品も
売られていたりします。

引き続き国道を山の方へ向かって歩みつづけていくと、町並みの勢いは
ここを境に急激に衰え、甲子川が寄り添えば渓流のような爽やかな
雰囲気となり、道沿いには民家も現れるけれどむしろ田園の姿も多く
見られるようになっていきました。
だらだらとした上り坂のようで、地図上の距離感ほどスピードが
出せていない感じもする中、延々と、隣の洞泉駅を目指して歩みを続けて
いきます。

道沿いに、甲子郷日月宮なる神社への道標を見つけ、多分時間には余裕が
ありそうだったので、たんぼの間の上り坂へと分け入ってみました。
国道沿いも充分のどかな風景となっていましたが、坂を上っていけば、
仙人峠ということになるらしい、大きくなった緑の山並みを背景にして
いろいろな作物が育てられたいろいろな緑色がちりばめられるのどかな
農村の風景がさらに長閑に広がるようになっていきました。
肝心の神社へは、さらに賛同であることを示す鳥居まで出現し、賛同の
奥には神殿らしき建物の姿も見られるのに、その間に横たわる線路が
フェンスのような網でしっかりガードされてしまい、どうしても
たどり着きたければ上下移動を伴う大きな迂回を強いられることに
なりそうだったので、きっぱりと諦めることにしたのでした。

引き続き洞泉の農村の集落の中を彷徨い、ハチの巣箱をたくさん持つ
民家を見つけたり、ちょっと荒れている感じの否めないコスモス公園と
いうところを見つけたりしつつ、結局は国道に戻り、少しだけ郵便局や
商店など街らしい建物が再び集まるようになったところの高台にあった
洞泉駅へとたどり着きました。
今現在は駅舎のない無人駅ですが、構内は広く取られているような感じで、
きっと昔は線路がたくさんある賑やかな駅だったんだろうと
想像してみました。

釜石行きの列車に乗り込んで、丘陵に囲まれたのどかな田園風景から
少しずつ町並みが成長しはじめ、しまいには結構賑やかそうな市街地に
成長していくさまを復習しつつ、釜石の一つ手前の小佐野駅に
降り立ちました。

ネットで検索して、小佐野駅の近くの小川という集落の中に、昔の鉄道の
煉瓦造りの橋梁の跡が存在するという情報を得たので、少しだけ釜石側に
進んで小川川という不思議な名前の川を渡ってから、その川沿いに
線路から離れる方へと歩みを進めてみました。
ネット上の情報があまり詳しくなく、正直どこにどんな感じで現れるのか
全くわからないまま、そこそこ広い幅の川の流れに沿う道を歩んでいきます。

小川の集落の一番賑やかなところをバイパスするような感じでさらに山奥へ
向かって川沿いに歩みを進め、川を囲む丘陵沿いの日蔭の道が
川に寄り添ってきたところで、その道からへと歩みを進めてみました。
一つめのアーチ橋はここからすぐのところでした。立て看板がなければ
気づけないほどの小さい橋でした。
橋は決して小川川の大きな流れに架かるのではなく、流れ込む細い水路を
越えるためのものだったみたいで、しかも歩いている道がもともと貨物線の
跡だったということを理解しておかないと見つけることが困難な感じも
しました。
川の対岸に回り込んで見ると確かに、配線跡とされる線路の下のところに
確かに煉瓦が積まれ細い水路を跨いでいるアーチの姿を確かめることが
できました。

さらにこの集落を奥に進んだ所にもう一つアーチ橋があるらしく、
この道をそのまま奥へ進んでみることにしました。
もと鉄道の線路だった道ということで、いろいろなことを無視してひたすら
まっすぐまっすぐ進んでいるような感じで、寄り添っていた丘陵が離れて
しまえば日蔭のない暑い道となってしまいます。
道は谷底から見れば高台であり、対岸に深緑の丘陵を控えつつ、小さい
素朴な民家が谷底に密集する様子を見渡しながら歩みを進めていくことが
できました。

やがて道は住宅地側に現れた小さな神社を載せる丘陵と出会い、そして
その先にある、仮設住宅に乗っ取られて廃校となった小学校の校地の
入口のところで、やはり小川川に合流しようとしている、今度はさっきよりも
はっきりと流れが確認できるほどの川の流れを跨いでいる、
さっきのものよりも大きくて立派ではっきりと存在を確認できる大きな
アーチ橋を見つけることができたのでした。

帰り道は廃線跡ではなく、住宅地の中の道を行くことにしました。
両側を丘陵に囲まれながら、どこにでもありそうな素朴な民家が
割と間隔を詰めて並ぶ、素朴な住宅街となります。
小川川を渡っていくと、集落の中心へと進んでいって、この規模の集落と
しては珍しいんじゃないかと思えるような感じで、さほど広いわけではない
メインストリートにたくさんの商店が並んでスーパーまでもが現れる、
賑やかな町並みを見つけることができたのでした。

スーパーでアイスを買って休憩し、小川川に沿って国道まで戻った所にある
バス停から、海の方へ行くバスに乗り込みました。
釜石駅へ向かって国道沿いの町並みはさらに成長を続け、正面に立ちはだかる
緑の丘陵の足元に見えていた緑の屋根の製鉄所の施設が大きくなっていき、
バスは釜石駅へと進んでいきます。
そしてバスはそのまま、歩いてだったら何度も通っている市街の
メインストリートへ分け入って、駅とは反対側の端にある市役所の所まで
進んでいくと、市外を跨ぐ高架の道路と一緒にいかつい港の領域へと進み、
ここも空地が多かったり工事中のところが多かったりすることを
気にしながらも、バスは港を囲む高台へと山登りを始めていきます。
そして高台に開けている住宅地の中の坂道をカーブを切りながら上っていき、
住宅街の様子だけでなく下界の釜石の港の様子までもが大きく展望される
ようになっていきました。
住宅街の中心となる大平を過ぎると一転、バスは森の中の緩やかな下り坂を
カーブを切って下っていって、釜石観音の後ろ姿が車窓に現れるようになり、
大通りと合流した所にある釜石観音入口バス停へと進んでいったのでした。

バス停からも観音様の後ろ姿を拝むことはできたのですが、隣の高台と
いった感じで、そこへ向かうためには一旦涼しい森の中をじぐざぐに下る
階段道を下りていく必要がありました。
下りたところには野球部が練習している近くの高校のグランドがあって、
ここからも観音様の後ろ姿を拝むことができるのですが、すぐ側には
大型バスの駐車場があり、なぜか大鳥居と、仲見世通りが続いていました。
もっともほとんどの店がシャッターを下ろし、建物自体も朽ちた感じの
否めない、あまり綺麗さを感じない領域です。

階段を上って古いわけではない寺院の山門をくぐり、入場料を払って
入場すると、駐車場の端からは釜石の港の方の海の姿が既に
見られていました。
観音様の足元へ向かって、長いエスカレーターを上っていき、下りた所には
早速何かのお堂と、海を見晴らす高台に水子供養の設備があり、
ここから階段道を少し登れば引き続き、釜石港の方向の海が丘陵に囲まれて
静かに広がる様子を見ていくことができます。

そして観音様の足元に出れば、ここも展望台となっていて、正面に広がる、
堤防で仕切られて両側からの丘陵に囲まれながら、右手の丘陵に付属する
かのような綺麗な島じまを浮かべている、広大で穏やかな海の姿を
見ることができました。
眼下の崖の中には砲台跡ということらしい展望台のような所があるのも
良く見て取れます。
浄土橋という、何を渡っているのかよくわからない赤い橋もあり、観音様の
姿を下から見上げるように写真を撮ることのできるスポットと
なっていました。
観音様の胎内めぐりへの入口のあるステージはもう一段高い展望台となり、
ここからもさらに美しくなった釜石湾の姿を広く見渡すことができます。

観音様の胎内は灯台なんかと同じように螺旋階段となっており、途中の
展望台も公開されていてさらに釜石湾の展望を楽しむことができるように
なっていました。
螺旋階段の途中には七福神の像が据付けられていましたが、冷房されている
わけでもないのに涼しい風の中で頂上を目指すことができました。

そして最上階の魚藍展望台までたどり着けば、下界と違って
柵こそあったものの、やはり涼しい風が流れていく中、さらに広大に
眺められるようになった海の姿を存分に楽しむことができるところと
なっていました。
今日は湿度が高いのか全体的に薄く霞んでしまっている感じでしたが、
奥にいかつい領域を隠す釜石の港のほうも、ごつごつした海岸線に
囲まれる正面の釜石湾も、そして釜石港とは反対側の入江に入り込む
平田の漁港の姿も、それぞれを大きく眺め渡すことのできる、壮快な
展望と出会うことができたのでした。

こんな感じで上空からの海の風景も堪能して観音様をあとにし、時間に
余裕があったので、以前近くの鉄の歴史館に来たときと同じように、
平田駅まで歩いていくことにしてみました。
以前の記憶通り、切り開かれた森の中でカーブを繰り返す下り一方の道で、
道を囲む高台の上に大きなホテルがあったり、森の木々の間に平田の
人工建造物に固められた海の姿が見られたりするのも、何となく昔の
記憶通りといった感じで楽しく歩くことができました。

しかし坂を下りきったところにある平田の町並みの様子は、全く記憶にある
ものとは異なっていました。
細い路地が入り組み、小さい民家や商店がひしめくような、どこにでも
ありそうな集落だった覚えがあるのですが、今ここにある街は真新しい民家が
集まり工事中の箇所も多く、もしかしたら道筋自体も変わってしまったの
かもと思ってしまう程の雰囲気の変化に、今日も結局ショックを受けることに
なりました。
平田駅の周辺も正直昔の記憶を思い出せない状態なのですが、それでも
少なくとも築堤上のホームへ向かって長いかい段道が続いている雰囲気は
何となく昔のままだと思うことができたのでした。

そしてやってきた宮古行きの列車に乗って釜石駅まで戻り、今日は何となく
海のものを食べたくなって海鮮丼を夕食としたわけです。
 

三陸鉄道旧山田線沿線(2019.8.6)

murabie@釜石市です。

今日も爽やかな青空が広がった釜石から、今日はつい先日三陸鉄道に移管の上
復活を果たした旧山田線の区間を攻めてみることにしました。
釜石駅を出た列車は昨日とは違って内陸へ向かい、釜石線の線路を下に見て
内陸側の釜石のせせこましく高密度に広がる町並みを見渡してから、
森の中へ、そしてトンネルへと進んでいきます。
そして森の中に強引に切り開いたような道を道路と一緒に進み、
コンクリートやら何やらの工場や、なぜか場外馬券場の姿も見られる森の中を
ゆっくりと進んでいきました。

まずはそこそこ距離はあったけれど一応隣の駅である両石駅に降り立ちます。
いきなり、周囲の斜面も新しく切り開かれたような感じ、ホームも新しい
鉄骨作り、そして駅の周辺には新しい住宅がいくつか建設中で雑草の生えた
隙間も多いというショッキングな風景が広がります。
列車からも見られた高台からの両石湾は、線路にそって釜石の方へ戻るように
歩いて坂を上ったところの公園から、フェンス越しにですが眺めることが
できます。
周辺には古そうな民家がいくつか集まり、そんな集落に防災放送が響き渡り、
今日は広島原爆の日だから黙祷しましょうというアナウンスが何回も流れ、
そしてその時間になると町中に大音響でサイレンが流れましたが、朝早い
せいもあってか、集落はあくまで静かに静まり返るのみのようでした。

列車も駅も充分に高台にあるように見え、真新しい巨大な防潮堤が建設中の
両石湾の最奧部も充分に低いところにあるように見えたので、駅の周辺に
津波で削られたかのような空地や新しい住宅が広がり、画一的な新しい
民家が集まる領域がさらに山の方へ向かって広がっていることに多少の
違和感を感じてしまっていたのですが、湾を見下ろす高台に立つ真新しい
慰霊碑の碑文に、ある程度謎を説き明かされることになりました。
ようは、昭和の大津波の教訓である程度高い防潮堤を建設したのに、
3.11の大津波はそれを越え、高台に作られていたごくわずかな民家以外は
すべて壊滅してしまったのだと……
今日の穏やかな海は駅からも記念碑からもかなり低い所にあるように
見えるのに、にわかには信じられないようなことがつい最近起こったと
いうことを知って、早速ショックを受けてしまったわけです。

眼下に広がる港は巨大な防潮堤でがっちり固められつつあるのですが、
とりあえずその外側に行ってみようと、国道45号に沿って少しだけ釜石の方へ
歩みを進めてみました。
国道は完成している堤防よりも一旦低い所に下ってから再び上り坂となって
道沿いにはなぜか鮭の慰霊碑、そしてトドの慰霊碑なんていうものも佇んで
いたりします。
国道は港を囲む堤防よりも高い所まで上り、港を囲むように海へ突き出す
天然のごつごつした岩礁を過ぎると、ようやく過去の浸水区間を抜け、
切り立つ丘陵に囲まれながら白く霞んでいる海原が広がる様子を、
両石大橋、そして水海大橋から眺め渡すことができるようになりました。
基本的にはこんもりと深緑の森に囲まれる丘陵でしたが、端の下には砂利浜に
松の木が立ちその足元を仕切りに寄せる波が洗う様子も見られたり
したのでした。
そのまま駅まで引き返し、一旦両石の港にも立ち寄って、小さな舟がたくさん
停泊する小さな港が巨大な堤防に囲まれながら静かに佇んでいる様子を見て、
大津波というものの信じられなさと、今日の穏やかな海のありがたさを静かに
感じながら、発車時刻の迫った静かな無人駅へと急ぎ足で戻っていったのでした。

両石駅から久慈方面の下り列車に乗りこめば、列車はすぐにトンネルに入って、
抜けると引き続き津波にやられたことを示す、新しい建物と雑草の生えた空地に
よって構成される荒涼とした風景が広がるようになって鵜住居へ進み、車窓には
丘陵に囲まれながら、最近ワールドカップラグビーで有名になった
鵜住居復興スタジアムの姿も見られるようになります。
そんな風景は鵜住居駅を過ぎても続き、トンネルを抜け、やはり震災の爪痕を
感じさせる荒涼とした新しい住宅街の姿が広がって、大槌駅へと
進んでいきます。

大槌駅は新しく作られたような綺麗な駅でしたが、駅の周りには列車からも
見られたように、真新しい建物が点在する間に雑草のむした空地が
入り混じる、荒涼とした雰囲気を示す住宅街が、深緑の丘陵に囲まれて
広がります。駅の正面には城山ということらしい深緑の丘陵がそびえ立ち、
その中腹には取り立てて新しいわけではない普通の建造物の姿も見られます。

この街の見どころは城山のほかには、なんといっても
ひょっこりひょうたん島のモデルとなった宝来島ということで、城山に登って
展望するという考え方もありましたが、ここは実際に訪れてみようと
考えたわけです。
荒涼とした市街地は大槌川の流域まで続き、空地に何やらお地蔵さんが
祭られているところもあったりし、そして川の河口とおぼしき所には
ここでも巨大な防潮堤が建設されて、街中には新しい住宅や新しい防潮堤を
建築する鎚音がつねにどこかしらで響いています。

安渡橋で水門をすぐ近くに見て大槌川を渡り、交差点を曲がっていくと、
丘陵の足元の道沿いに工場が立って防潮堤に挟まれる無機的な通りとなり、
防潮堤の上部に登るような坂道を登って頂点にたどり着くと、
前方には丘陵に囲まれる大槌湾の姿が白く霞みながら青空のもとに広がって、
厳つい港の施設の向こうに、本当にひょうたんが浮かんでいるかのような
蓬莱島が、堤防と一体化するようにして、白く霞んだ青い海の上に
真っ赤な鳥居と堤防を伴ってちょこんと浮かんでいる姿を見つけることが
できました。

寄り添う丘陵の高台に道路が通り集落が成立しているのを見ながら、海と
同じ高さまで緩やかに下っていく大通りを進み、時々港に出て蓬莱島や
大槌湾を囲む険しい海岸と浮かぶ島の美しい風景を眺め、蓬莱島の姿が
どんどん大きくなっていくのを楽しみながらのんびりと歩みを
進めていきます。
寄り添う丘陵が奥の方まで谷を削るようになり奥行きのある風景を見せる
ようになったところで、蓬莱島と一体化していた堤防への入口を見つける
ことができ、青空のもと、こんもりした深緑の丘陵に囲まれた白く霞んだ海の
上に通された壮快な道を歩み、岩礁に毛が生えた程度の蓬莱島へと無事に
上陸を果たすことができました。
ごつごつした岩礁に、外からも見られた赤い灯台と赤い鳥居が立ち、
岩礁の上には普通の小屋のような神社が建つだけの存在でしたが、
すぐ近くの海には何かの養殖場に海鳥が集い、長閑で穏やかな海原の上に
心地好く浮かんでいるような気持ちになることができました。

帰り道は高台を通る道に上って、緑色の山肌に囲まれた谷合の中腹に広がる
もしかしたら震災後にできたものかもしれない住宅街を掠めつつ、道路の
淵から蓬莱島を浮かべる大槌湾の風景を大きく眺め、何やら仮設という
名前の入ったバス停なんかも見つけたり、でも斜面上に集まる民家は
震災前から存在しているかのような雰囲気だったりする道を進んでいき、
大槌川の河口に立ちはだかっていた堤防の手前で大通りと合流して、
ひょうたん島に別れを告げて堤防を越えて大槌の街に戻ると、ちょうど
正午となって、街中にピアノ演奏のひょっこりひょうたん島のメロディーが
大音響で響き渡ったのでした。

荒涼としている分周囲を囲む丘陵の姿がよく見えるような気がする大槌の
市外を彷徨いつつ、とりあえず城山の丘陵の足元にある大槌町役場を
目指して歩みを進めてみました。
空地と新しい住宅や商店、時には相似形の建物が連続して並ぶ町営住宅の
姿も見られるメインストリート沿いに、代官所跡という史跡が小公園となり
隣接して大槌城の城門のモニュメントの建つ所があって、そこに
ナマコ壁のように装飾された町役場の建物が建って、入口のところには
震災によって乗っ取られた形になってしまったらしい大槌小学校の
閉校記念碑が作られていたりもします。
震災の時に町長が殉職したということで名前を知っていた町だったけれど、
特にそのことを強調するようなものがあるわけでもなく、でも世界各地から
寄せられた励ましの品々が所々に展示される庁舎となっていました。

こうして次の列車に乗るべく大槌駅へと戻って行ったのですが、列車の時間を
間違って覚えてしまっていたようで、発射時刻まではまだ1分くらいあったの
ですが、構内踏切が遮断してしまい開くことはなくて、乗るはずだった列車の
入線から発車までをじっくり見送ることになってしまいました。
さいわい駅舎内で町内のバスの時刻表を手に入れることができ、町外れを
通過する岩手県交通の路線バスに乗ればカバーできることがわかり、再び暑い
荒涼とした街の中へと歩みを進め、さっきも通った街の商業施設が集まる
御社地という史跡の所にあるからおしゃっちという施設を掠めて大槌川を
遡るように、城山の麓に広がる荒涼とした新しい民家の住宅街を進んで、
国道と路地の橋が並行して架かる所に郊外型店舗の姿も見られる大槌橋と
いうところにあるバス停から、無事に浪板行きのバスに
乗ることができました。
バスはさっき歩いた安渡橋まで荒涼とした大槌川に沿う道を行き、短い
トンネルを超えると山道となって暫くバス停もなく、そして唐突に新しい
住宅街が始まって、吉里吉里の街へと進んでいきます。

住宅街の中にもバス停はあったのですが通り越し、列車の駅と同じ名前の
吉里吉里というバス停で下車しました。
バス停は青い海が国道沿いに寄り添い始める所にあり、左手の国道の
進行方向にはおそらく浪板海岸、四十八坂海岸ということになると
思われる、深緑の丘陵の足元に白い岩盤が露呈している海岸線が伸びて、
その奥にはおそらく船越半島と思われる陸塊が浮かんでいて、
右手に伸びる海岸線と対峙し、そのうえに発生したばかりの帯状の
雲の帯の姿も見られる壮快な海原となっていました。
眼下には赤茶色の砂浜が弓なりに伸び、そこへ降りることができたなら
綺麗な風景を満喫できるような気もしたのですが、砂浜と陸地の間には
ここでも新しい巨大な防潮堤が建築中の状態でした。
しかもよく見ると同時に、古い防潮堤を取り壊す作業も同時に進んでいる
ような感じです。
そして近くには沖合に突き出して新しい港のような岸壁が固められ、
その先端に海原をのんびり眺められそうな園地や海岸沿いの遊歩道の
姿も確認できたのですが、所々道路の交通を塞ぐ柵が設けられ、
ようやく見つけた国道から下る道も立ち入ることができない状態で、
現状吉里吉里の海岸をのんびり楽しめる状態ではないのだということを
理解して終わることになりました。

吉里吉里という所には以前の旅で訪れたことがあったはずだったのですが、
タブレットに保管してあった旅行記を見直してもその記憶を呼び戻すことが
難しい感じを受けていました。その原因の一つが防潮堤の存在や、
全く新しくなってしまった国道だと思うのですが、もう一つの大きいものは
やはり、街を作る建物の、特に低い階層のものが新しいものになってしまって
いたり、建物の間の隙間も雑草が茂るようなものになっていたりしたと
いうことだと感じました。
丘陵の方を少し引いてみれば、中腹にまで集中する民家たちには何となく
昔この地を訪れたときの印象が感じられ、狭い範囲に町並みが集中するから
独立国を標榜したくなる気持ちもわかるなんて感じた覚えも
思い出したのですが、今日歩いたこの街の印象は、やはり以前訪れたときの
ものとは違っていました。

なぜだか立派な鳥居の設けられた金精様の姿も境内に見られた高台の小さな
神社にお参りしてから住宅街を散策し、すっかり新しい街になってしまった
けれどいまいち成熟しきれていない感じのする住宅街に、町議選挙の車が
引っ切りなしに往来していたりするのを見ているうちに、街の反対側の
出口が国道沿いに開けている所まで歩き進んでいました。
高台へ向かう上り坂へと歩みを進め、駅へ通じる道が桜並木に囲まれた
薄ぐらい雰囲気になって、程なくして駅舎こそなくなっていたけれど
何となく昔の雰囲気を、残された階段が感じさせてくれる吉里吉里駅へと
たどり着きました。
駅への簿って来る石段道のみ地沿いには素朴な理髪店と異様に古い河原屋根の
立派な民家が佇み、そして駅の近くに控える小高い丘の上には地元の豪商の
歴代の墓地なんかが作られていて、ここまで来れば何となく、昔ながらの
落ち着いた雰囲気を感じられるようになった気がしたのでした。

10分くらい遅れてやってきた上り列車に乗って釜石方面へ2駅戻り、さっき
通りすぎた鵜住居駅にも降り立ちました。
ここも車窓から見られた通り、駅周辺には広大に荒涼とした津波にやられた
市街地が広がるところです。
駅自体は小さい待合室がホーム上にあるだけの駅になっていましたが、
駅舎だと間違えられる土産物屋の集まる建物が駅前に建ち、そして
駅前には震災の慰霊のための施設が集まる、特別な場所となっていました。

釜石祈りのパークという所には、いろいろな被災地で見られる、犠牲者の
お名前を刻んだモニュメントが建てられていたのですが、そこはどうやら、
防災センターという施設、しかも震災の時にたくさんの人が避難してきながら
津波に襲われて犠牲者をたくさん出してしまった施設の跡地ということの
ようでした。
その辺りのことも含めて、いのちをつなぐ未来館という小さい施設には、
震災が起こったときの様子がいろいろな形で展示されていました。
これまで訪れたところの空撮写真や自衛隊の活躍の写真もあり、そして
目を引いたのは、鵜住居の街の震災前、震災直後、最近の空撮写真の比較
によって、荒涼とした土地の広がる駅前が震災前はどこにでもあるような
素朴な街であったこと、鵜住居復興スタジアムのあるところは実はかつて
小学校と中学校があった所であること、そして震災の時、その学校に
通っていた子供達は訓練の成果あって基本的には隣の両石との間にある
恋の峠という所まで避難でき奇跡的に一人も犠牲者を出さずにすんだのだと
いうようなことを知ることができました。

夕暮れが訪れてあまり暑さも感じられなくなった中、荒涼とした新しい街の
中へと歩みだし、大槌川の河口をふさぐように建つ巨大な防潮堤の姿を
横目に、線路からも見られた鵜住居復興スタジアムを訪れました。
観客席の下は露骨に鉄骨が露呈していて、これって恒久的な施設じゃ
ないんじゃないかしらと思ってしまうのですが、スタンドの一部分は
見学者にも解放されていて、散水されているラグビーのグランドを
たくさんの観客席が囲んでいるスタジアムの姿を眺めることができました。
高い席はそれなりに立派ですが、安い席もなんか山火事で表面だけ焼けて
しまった杉の木が使われていたりする、いろいろなことを考えているような
スタジアムであるというメッセージだけ受け止めてきました。

そして、あまり時間はなかったのですが、昔この場所にあった学校の子供達が
震災の日にたどった道を、ごく一部だけですが最後にたどっていくことに
しました。
何ということのない住宅地の縁の丘陵に沿った道でしたが、切迫する状況の
中でこの道をたどっていった子供達はどんな気持ちでいたんだろうと思うと、
なんだかものすごく辛く切ない気持ちにさせられたような気がしたのでした。

列車の時間を見たところ結局鵜住居の市街地の外周を巡ることしかできず、
本当だったら恋の峠の方まで歩いて、最終的に子供達が落ち着いた所らしい
石材店という所も見てみたいという希望は叶えられず、
駅に戻ってすぐにやってきた上り列車に身を任せ、釜石の宿へともどって
今日の旅を締めくくったのでした。
 

三陸鉄道旧南リアス線沿線(2019.8.5)

murabie@釜石市です。

今日も良く晴れ、駅周辺でもくもくと湯気をあげる製鉄所のいかつい建物も、
甲子川の上流を囲む深緑の丘陵も、順光を浴びて鮮やかな色合いで
佇んでいました。

今日は今までほぼ通過することしかできていなかった旧南リアス線の
区間に照準を当ててみることにしました。
釜石駅を発車した盛行きの列車は、街中でも目立つ赤い鉄橋へ歩みを進め、
もともと鉄工所の敷地だったところに立つ大きいスーパーや、険しい山並みに
囲まれて広がる釜石の市街地を高台から眺め渡し、トンネルへと
進んでいきます。
トンネルを抜けた平田は、以前遠野釜石を旅したときに訪れては
いるのですが、何となく覚えていた、駅周辺に広がっていたどこにでも
ありそうな市街地が残念ながら一掃されてしまっていたかのような風景に
早速ショックを受けたりします。海へ迫り出す丘陵の上の観音様の姿は
変わらないのに……

次のトンネルを抜けたところにある唐丹駅に降り立ちました。
車窓からも、海岸に立ちはだかる巨大な水門と防潮堤ばかりが目立つ所です。
駅自体も駅舎の類はなくてすぐに外に出てしまい、青空のもと周囲を
緑色の山並みに囲まれて、真新しい感じの建造物が、もしかしたらここも
震災の時ひどい目にあった所なのかも知れないなと感じさせるところです。
鮭が遡上するらしい川を跨ぐ水門を含んでいる巨大な真新しい防潮堤には
所々階段が設けられて上に上ることができるようになっていて、上ってみれば
海へ伸びる丘陵に囲まれた唐丹湾が大きく穏やかに広がっていました。
弓なりに陸地を守る防潮堤の右手の方には小さい漁港があって、苫ノ鼻と
言うらしいごつごつした岬に守られていて、左手を見ると丘陵の中腹にまで
広がる町並みの下に、防潮堤らしきものに背後を固められた港の漁業施設の
姿が見られました。

防潮堤をくぐる路地が、その大きな港へ通じていそうだったので、
防潮堤から下りてそちらの方へ向かってみることにしました。
いかつさを感じさせる門をくぐると、もともと美しい岩礁だったと思われる
松の木を伴う海岸の岩が道路に減り込むように佇み、時々波を寄せる
穏やかな海原の対岸に、やはり美しい岩礁である苫ノ鼻の姿も見ることが
できます。
そして道の先には厳つい漁業施設が、背後を白い壁のような防潮堤に
固められて広がり、何かしらの式典のようなものが行われているようでした。
こちらの防潮堤は現在も建設の途上であり、厳つい門となるはずのところを
覗き込んでみると、高台の住宅街へ上る急な上り坂に接続していて、
その周囲が完全な荒れ地になっていることが気になりました。
小白浜漁港というその港を突っ切って反対側まで歩みを進め、急坂を上り
高台の街へ進めば、基本的にはどこにでもありそうな住宅街の中に素朴な
商店の入り混じる静かな街だったのだけれど、所々真新しい復興住宅も
見られ、そして建物の隙間に除く下界を覗くと、建設中の巨大な真新しい
防潮堤で仕切られた陸地側は雑草で覆われた何もない土地となっていて、
これは間違いなく津波にさらわれてしまった所ではないか、と再び
ショックを受けることとなってしまいました。

駅に戻るのがぎりぎりになってしまいましたが無事に次の列車に乗ることが
でき、トンネルを抜けて次の吉浜駅に降り立ちました。
集会場や診療所と合築された立派な駅舎を持つ駅でしたが、でも実際には
無人駅だったりします。
高台にある駅は古いものも含まれる素朴な瓦屋根の民家達の集落に囲まれ、
線路に並行する通り沿いには小さい商店も幾つか並ぶ素朴な街で、
建物の間に除かれる下界が、海というよりもむしろみずみずしい緑の
水田が主であるということがすこし気になるところでした。

町外れまで歩みを進めると、道沿いの丘の上にお寺や神社が並び、
すこし高いところに通されていた道の下には何やら幾つか記念碑が
並んでいて、その周りには丘陵に囲まれてむしろ広大に水田が広がる
緑の風景となって、海の風景はその奥にわずかに覗かれる程度に広がります。
崖下に並んでいた記念碑達の中で一番新しいのは、一番奥に佇む、
黒くて独特な形をした、3.11の津波を記念する碑でした。
碑文にいわく、もちろんこの吉浜でもそれなりに被害はあったたのだけれど、
特に人的被害は周辺の集落に比べて極端に少なく済んで、奇跡の集落とも
呼ばれる結果になっていたのだと。
その理由として、過去、特に明治と昭和の大津波の教訓から、住居の高台への
移転を積極的に進めていたから、みたいなことが刻まれていたのでした。
周囲に広大に水田が広がっているのも、住居としては使われていない土地で
あるということを示してくれていたというわけです。
並ぶ記念碑の中には、明治の大津波でさらわれてしまった神社の鳥居の
基礎が、現存する神社の鳥居のすぐ下に佇んでいるようなものもありました。

広大に広がる田んぼを横断する道を歩み、燦々と日差しを浴びて暑くなって
汗もぐっしょりとかいてしまうコンディションの中、とりあえず吉浜川の
河口に広がる海まで歩みを進めてみることにしました。
川の向こうに控える丘陵の中腹には、3.11の時の津波の遡上高を表す小さい
看板が設置されていたりもしましたが、驚くべき展示物は、河口を掠めて
港へ向かう下り坂の懐のような所にある、津波石と呼ばれるものでした。
どうも、昭和の大津波の時にどこから流されてきた巨大な岩石に、
その由来を文字で刻んで記念碑にしたはずのものが、いつのまにか道路の
法面に埋もれてしまっていて、それが3.11の時に一部露呈したので、
掘り出し直したものなのだと。
ただ佇むだけのものなのだけど、いろいろなことを教えてくれている
岩であるような感じのするものでした。

切り立つ崖の足元の道を引き続き歩むと、対岸に緑色の丘陵の足元から
中腹まで小さな建物が集まる吉浜の集落、その上部に不自然に山を
切り刻んで通されている高速道路の姿が見られ、そんな丘陵に囲まれる
吉浜湾の最奧部が、より青々とした穏やかな水面を広げていたのでした。
道は素朴な小さな吉浜漁港へと続き、道によりそう高い崖には
オレンジ色の鼻を咲かせる百合の鼻がへばり付くように
群落を作っていました。
湾の最奧部は震災で失われたものを復元したという短い砂浜が伸びて、
海水浴場としては諸般の事情により閉鎖らしいけれど自己責任で遊んでいる
少数の家族連れの姿も見ることができ、海を囲むようにここにも伸びる
防潮堤の末端は小さい松原へとつながっているようでした。この松原も
震災でだいぶ失われてしまったもののようです。

日陰のないたんぼの中の道を引き返すときはもうとても暑くて汗も
ダラダラといった感じでしたが、集落にもどって神社の日陰に入ると、
吹き抜ける風に心地よさを感じることができるというのが、東京なんかとの
決定的な違いであるような感じがします。
古い建物の並ぶ素朴な住宅街を通って吉浜駅へ戻り、ふと駅の外に出た
タイミングで、交差点になぜかメスの鹿が佇んでいたり……
そういえば昨日も山の中の道で立派な角を持つ雄の鹿を目撃することが
できていたのですが、この辺は鹿が多いんだろうか……

吉浜駅から列車に乗り、またトンネルを抜け、隣の三陸駅へ向かうと、
大きく広がった山の間の谷底の出口をここでもまた水門を伴う真新しい
防潮堤が塞ぐ格好になっていたのですが、谷が広いだけに、特に川沿いに
津波にやられて生じたと思われる荒れ地が広大に広がっているという、
事情がわかるとショックしか感じない車窓が広がりました。

素朴な小さい商店のようなたたずまいの三陸駅を後に、とりあえず地図上で
近そうな所に見つかった道の駅へ向かってみることにしました。
しかしこの道はなかなか大変なものでした。駅裏の集落の中の道を国道45号
まで進んでみたのですが、集落自体が急斜面の中にあったのでかなりの急坂を
こなすことになり、そして国道45号も切り開いた森の中を行くだけの道で、
木々の間に時々三陸の街の様子や、越喜来湾の青々した姿を垣間見ること
こそできたのだけど、日差しを浴びれば汗がだらだら吹き出してくる
だらだら坂道を、極力日陰を探しながら、特にそれ以外の楽しみもない
状態で延々と上りつづけることしかできませんでした。
結局駅を出てから30~40分くらいかかって、森が切り開かれたところに
建設された三陸自動車道への入口のところに作られた小さい道の駅へと
たどり着くことができました。
昼食でもと思ってはいたけれど思ったより時間がなくなったうえに混雑も
していたし冷たい食事のメニューもなさそうだったりで、でも外の出店で
売っていた柿ソフトクリームというのに惹かれてクールダウンと
相成ったわけです。

帰りはだらだら下り坂となり、やはり30分くらいかけて、日差しの強い
三陸の街へと戻ってきました。
やはり足が向いたのは、気になっていた川沿いの荒れ果てた所でした。
スーパーや郵便局や飲食店の集まる真新しい領域も作られてはいましたが、
まだまだ傷痕は完全には癒えていないなと感じざるをえない荒れ地が
川沿いに広がり、川を横断するようにして、堤防を兼ねるように新しく
作られたっぽい感じの大通りが通っていきます。
その大通りと防潮堤の間にも、何もない荒れ地が広がっていたのですが、
その中に細長い姿の樹木が佇んでいるのが、遮るもののなくなった市街地の
広い範囲から確認することができました。
津波に直撃されても流されなかったということで、地元ではど根性ポプラと
呼ばれているものらしく、その周囲だけ荒れ地の中で公園として整備されて
いました。
大通りの丘陵側には小高い丘があり、頂上の鬱蒼とした森に包まれる小さな
八幡神社へ向かって急な石段が続いていましたが、その境内には大王杉と
呼ばれる、確かに樹齢は長そうなんだけれどもう満身創痍といった感じの
複雑な形の巨木が佇んでいました。
下界にもどれば大王杉とど根性ポプラの両方をフレームにおさめた
写真なんかも楽しむことができました。

そんなこんなで思ったより時間を浪費してしまい、残り少ない時間で
焦りながら巨大な防潮堤の上に上って、やはりここでも丘陵に囲まれて
より青々と穏やかに広がるようになった越喜来湾の姿を眺めるだけ
眺め、そこからできるだけ最短距離で三陸駅へ戻るように、荒れ地の中に
開拓された砂利道の通路をたどっていくと、越喜来小学校の跡地という
新たな見所が見つかってしまいました。
土地自体は完全に更地になっていましたが、津波に直撃されても流れなかった
奇跡の非常階段というのが当時は有名だったみたいで、それだけは近くに
移設されたという説明がありました。
で、駅へ向かう道を再び歩みつづけると、道沿いになんかやたら派手な、
間違いなく個人でやっている感じの施設があり、その敷地内に、
奇跡の非常階段は前衛的なセンスで飾り付けられた状態で佇んでいました。
震災前の越喜来の町並みの様子やいろいろな遺構についての展示もある
ようだったので足を止めたくもなりましたが、もう列車の時間は直後に
迫ってしまっていたのでした。

ちょうどやってきた列車に飛び乗って身を任せると、列車は三陸駅の
集落と越喜来湾を分ける堤防の端を掠めるように高台へ上って、
越喜来湾の穏やかな水面を大きく眺めていきました。
やはり防潮堤が集落を守る甫嶺を過ぎ、トンネルを抜けて、受けを狙った
駅名に改称された恋し浜駅へと進んでいきました。
駅名標はこの駅だけのおしゃれな、藍色の海を意識した感じのもの、
どこかで見たような幸せの鐘が設けられたり、駅舎の中にはホタテの
貝殻を使った絵馬が大量に飾られていたり、交換もできない棒線駅なのに
なぜか3分停車してご自由にご覧ください状態だったりしたわけです。

大方の人の流れに逆らって列車には戻らずここで下車する選択をしました。
駅はかなりの高台にあり、周辺の駅に比べれば間隔の狭い丘陵の間に
せせこましく広がる谷底の集落、そしてその先でやはり防潮堤に守られて
いる小さい青い海の姿を、誰もいなくなったホームから静かに眺めることが
できました。

急な階段をゆっくり下って、そしてさらに下り坂を下って、海へ向かって
下界の集落の中を散策してみれば、道路の足元に所々、東日本大震災
津波到達地点と記された杭が立ち、高台は素朴な集落でいられたけれど、
海に近づくにつれてやはり、ここでも癒えない傷、いかにもここに民家か
建物がありましたといった感じで広がる雑草のむした空地が点在するように
なっていきました。
防潮堤に開いた穴のような門をくぐると、狭い海はほぼ漁業施設に占有
されているような感じで、おしゃれな駅名の割には、小石の転がるような
綺麗で恋人達に人気の出そうな自然の海岸のようなものはここにはどうも
存在しないようでした。

帰り道は上り坂、そして上り階段となって小さい恋し浜駅のホームに上がり、
今度は北へ向かう列車を迎えました。
下り列車も同じように交換するわけでもなく3分間の停車時間が取られ、
トンネルを抜けて次の甫嶺駅へと歩みを進めていきました。

今日最後の訪問地として、さっき一旦通りすぎた甫嶺駅へ降り立ちました。
ここは比較的広く開いた丘陵の間の海を隠すように、横にかなり長い
防潮堤が駅のすぐ近くに横たわり、そして線路そのものも新しい防潮堤と
並行する堤防の上を走り、二重の防潮堤のような状態になっていました。
山側は山並みに囲まれたのどかな田園といった感じで津波の傷痕は比較的
感じずにすんだのですが、線路をくぐって海側に出ると、2つの堤防の
間の敷地はやはり津波に削られた荒れ地といった風情となってしまって
いたのでした。

防潮堤の左の端に近い水門の近くの所で階段を上って防潮堤の上に出て
みると、左手には海へ向かって突き出す丘陵が伸び、その足元には自然に
侵食されてごつごつした荒々しい岩礁が続いていました。
そして右手に伸びていく防潮堤の先端から伸びる丘陵の足元には
小さい漁港の姿が見られ、その先にもごつごつした荒々しい海岸線が
続いているようでしたが、その近くの海には3つ程の大きなごつごつした
岩礁が島のように浮かんでいたのでした。

まだまだ日差しがあると暑さを感じる中、防潮堤の上を右手の丘陵に向かって
歩みを進めていくと、丘陵と重なるようだった島のような岩礁達が
視点が変わってちゃんと海の上に浮かぶように見えるようになってきました。
もう一つの川を跨ぐ水門を越え、防潮堤の右側の末端まで進むと、その先は
海へ伸びる丘陵の中の道と接続していました。
海沿いに伸びていく道を進み、道沿いに生える雌花をたくさんつけた杉の木や
未熟な花実をつけるイチジクの木を愛でながら、木々や建物の間に港の
風景、その向こうの海に浮かぶ3兄弟のような岩礁の姿を見つけつつ、
港まで歩みを進めていきました。

鬼沢漁港という素朴な小さな港は、ここもごつごつした切り立つ崖に
囲まれながら、その崖にここでもオレンジ色の百合の花の群落を見ることが
できました。
堤防の末端から外海を覗いてみると、遠くから姿を確認できていた岩礁の
三兄弟が、比較的大きな姿を海の上に浮かべていました。
陸地に近い岩礁には洞門が穿たれ、陸から離れた岩礁が一番大きくて
細いながら樹木の姿も見ることができました。
そしてここから来た道を振り返れば、湾の最奧部を固めるように横たわる
巨大な防潮堤の裏側の姿を見ることもできたのでした。

辺りにはさらに夕暮れの雰囲気が強く漂うようになり、あんなに強かった
日差しも、雲間に隠れたか山の裏へ行ってしまったか、全く感じられなく
なり、辺りに涼しく心地好い風が吹き抜けるようになった頃、
来た道を引き返し、山並みに囲まれて長閑に広がる田園が主体の甫嶺の
集落へと戻っていったのでした。

後は下りの列車で、今日見たいろいろな海の風景を復習しながら、
最後はさすがに疲れてうとうとしてしまいながら、釜石駅へと
戻って行ったのでした。
甫嶺はあんなに涼しくて心地好かったのに、釜石に戻るとなんだか
やっぱり夕方になっても蒸し暑いんですね。製鉄所がばらまく大量の
水蒸気のせいなのか、それとも何か地形的な要因でもあるんでしょうか……