バカのアフォリズム -3ページ目

ナガルコット


やどかり日記




日本の皆様、ナマステ。

ナマステはネパールの「こんにちは」です。


ネパールと聞いて、皆さんは何を連想するでしょうか。

中にはヒマラヤを思い浮かべる人もいらっしゃるでしょう。

しかし首都のカトマンズからは、ヒマラヤ山脈を見ることはできません。


それで僕は、ヒマラヤを眺めに、ナガルコットという町まで行きました。

ローカルバスを乗り継いで行きました。

ローカルバスは乗り方がわからず、バスステーションに行って戸惑いました。

バスステーションは人とバスが入り乱れて、わけがわかりません。

どこでチケットを買うのかも、どのバスに乗るのかも、何もわからず途方にくれました。

しかし片っ端のバスから「ナガルコット?」と行き先を言って、「あっちのバスだ」「こっちのバスだ」と言われるうちに、ようやく目的のバスに乗れました。

バスが走りだした時、安堵から笑いが込み上げました。

何だか「旅してるな」と、感じたのです。


その後も乗り継ぎで少し戸惑いましたが、何とかナガルコットへ着きました。

標高2000メートル近い、山の上の小さな村でした。

適当なホテルにチェックインして、早速ヒマラヤ山脈が見える場所を探して歩きました。

少し歩くと、見晴らしのいい場所に出ました。

遥か向こうには、ヒマラヤ山脈が見えました。

まるで雲と見間違うかのように、雪を被った白い山々が、うっすらと遠くに連なっていました。

その山々は、パノラマのように、どこまでも連なっていました。


ナガルコットの村は、ヒマラヤの展望以外には、何もない所でした。

満足な電気もありません。

日が暮れると、どの家も、一本のロウソクか、何ワットか知れない、本当に薄暗い電気一つで、明かりを灯していました。

商店やレストランも、例外ではありませんでした。

僕は薄暗いレストランで、食事を注文しました。

食事が出てくるまで40分くらいありましたが、不思議と長いと感じませんでした。

僕は厳かな気持ちでした。

それは、祈りに近い気持ちでした。


ホテルの部屋に戻っても、薄暗い電球が一つだけでした。

洗面所の電気はつきませんでした。

暗い中でシャワーを浴びようとしました。

お湯の蛇口を回し、3分くらいすると水が少し暖かくなってきました。

しかし、それ以上暖かくなりません。

どうやら、その限りなく水に近いお湯が、ここでの「お湯」なのです。

標高2000メートルの夜は寒く、とてもこの水温のシャワーは無理です。

僕はシャワーを諦めました。


僕の部屋にはテラスが付いていました。

清水の舞台みたいなテラスでした。

夜、そのテラスから空を眺めました。

星空でした。

地上には、人々の最小限の光が、まるで火のついた炭のように、光っていました。

星空と、人々の最小限の光だけの夜は、まるで祈りのようでした。

僕は愛する人たちの健康を願いながら、早めにベッドに入りました。


しかし、眠りかけた頃、外から大音量の音楽が、スピーカーから流れだしました。

ホテルのロビーで、大音量の音楽を流しながら、人々が馬鹿騒ぎを始めました。

音楽が必要以上の爆音で始まるたびに、僕は思わずツッコミを入れたくなりました。

「電気ないんじゃねえの?」

その騒ぎは深夜まで続きました。


今、カトマンズに戻り、これを書いています。

喧騒と排気ガスが渦巻くこの街も、明日でお別れです。

明日は200キロ、ポカラへ移動します。


それではまた。

皆さんの健康を、心から願ってます。


カトマンズのネットカフェにて



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カトマンズより


やどかり日記




日本の皆様、ご無沙汰してます。
僕はネパールのカトマンズへ来て、3日が経ちました。

7日の夜10時頃、カトマンズの空港に着きました。
夜に知らない町に一人、放り出されるのは不安です。
しかし無事にホテルに泊まれました。

朝、寒さで目が覚めました。
ダウンジャケットなしではいられない寒さでした。
町へ出ると皆、ジャケットと帽子を身に着けてました。
町は汚く、野犬が多く、朝食をとる場所が見つからず、苦労しました。

昼に近づくと一転、ダウンジャケットが邪魔なくらい、暑くなりました。
カトマンズの旅行者向けのエリアに行くと、ホテルやレストランが多く、安心しました。
そこで日当たりのよい部屋を見つけ、宿を移しました。
一泊4ドル、320円くらいでしょうか。

その宿に連泊し、カトマンズの町を歩いています。
迷路のようで何度も迷いましたが、3日も経つと土地勘もつかめました。
経済や政治関係の建物が集まる通りは、車も多く、経済発展するカトマンズを感じます。
また路地に広がる庶民のマーケットは、身動きが取れないほどの人で、凄いエネルギーです。
経済発展のエネルギーと、路上の人たちのエネルギー。
この両者が混ざり合った混沌、そして喧騒に、僕はアジアを感じます。

今日は歩いて有名な仏教寺院を訪ねました。
ここでは数枚写真を撮りました。
観光地で写真を撮るのは簡単です。
しかし、僕はこの3日間、写真を撮るのに苦労をしています。
カトマンズの路地を歩きながら得る刺激を、写真という2次元に置き換えられないのです。
捕らえたいものにカメラを向けても、安っぽく写ってしまい、結果シャッターを切らないのです。

逆に言えば、この雰囲気は町を歩かなければ得られないということです。
どんな情報でも得られる時代です。
僕も話や写真でネパールを以前から知っていましたが、それでは、ほとんどわかっていなかったということです。
だから旅をするのかも知れません。
「知ってるつもり」から、本当に「知ってる」と言えるようになるために。
それだって、どれだけ知りえたのかわかりません。
その国に生まれ育った人たちの感覚は、100年その国を旅したって、永遠にわかりえないでしょう。
それでも「知ってるつもり」よりはいい。

だから僕は旅を続けます。
また、ブログを更新できる環境でしたら、近況を報告します。
よければチェックして下さい。

機械トラブルと停電に遮られ、3度目でようやくこれだけ書き終えました。
日本も寒い日が続くでしょうが、皆様も元気にお過ごしください。
それでは、また!

カトマンズのネットカフェにて



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のび太

私は自信がない。要領が悪く、仕事ができない。おどおどして、言いたいことが言えない。だからある時期、そんな自分を変えようと、ビジネス本を年間300冊くらい読んだ時期がある。できる人間の書いた本で、自分を洗脳してしまおうとした。


母や姉は心配したらしい。バイトで稼いだ金は、ほとんど自己啓発本に費やした。寝ても覚めてもそんな本ばかり読んだ。線を引いて、書き込みをして、まるで食ってしまう勢いで、できる人間の思考パターンを浴びた。


ある日姉に散歩へ誘われた。地元の商店街を歩いた。喫茶店でお茶を飲んだり、神社を散歩したり、何でもない時間を過ごした。私はその途中、「ちょっと本屋によっていい?」と本屋へ入った。精神安定剤が切れたように、私は新しい啓発本を求めた。しかし姉は、「そんな本、それ以上読むのやめなよ」と、代わりに別の本を選んでくれた。それは『ドラえもん』だった。「そんなの読んだら、できる人間じゃなくて、のび太になっちゃうよ」と、私は嫌がった。しかし、姉に押されて買ってしまった。


夜、自分の部屋で『ドラえもん』を読んだ。読んでいたら、私はあることに気がついた。デキスギ君は、脇役だった。要領の良い人間に自分を洗脳したって、それは所詮、スネオだった。リーダーになろうと努めたって、ジャイアンみたいなガキ大将には、なろうとしてなれるものではなかった。私はのび太だった。のび太のくせに、スネオかデキスギ君かジャイアンになろうと、300冊も成功法則を読んでいた。


何で、のび太じゃいけないんだろう。怠け者で弱虫で、馬鹿だから?


『のび太の結婚前夜』という話の中で、静香ちゃんは結婚の前の日、お父さんに「あたし、不安なの。うまくやっていけるかしら」と正直な気持ちを打ち明けると、お父さんは優しい顔で微笑み、こう言うのだった。「のび太くんを信じなさい。のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ」と。そして娘の頬を優しく撫でながら、最後にこう言うのだった。


あの青年は、人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。
それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。


彼ならまちがいなく、きみをしあわせにしてくれると、ぼくは信じているよ。



のび太でいいじゃないか。私はそう気がついた。


広州

まるでシュールなブラックコメディーを見ているようだった。私は中国の広州において、思いもよらぬ場面に直面した。ファーストフード店だった。私が入店すると「歓迎光臨(welcome)」と普通に迎えられた。私は席を選び、そこに座ろうとすると、店員の若い女性に「その席はダメだ」と言われ、その隣の席に座らされた。理由を深追いすることなく、言われた席に座り、メニューに目を通し、ウェイトレスに「牛肉麺」を注文した。私はふと、先ほど座るなと言われた隣の席に目をやり、一瞬目を疑った。何とテーブルの下に、一人のオッサンがうつ伏せに倒れていた。テーブルには、食べかけの食事とビール瓶が2本ある。食事中、何かしらの発作を起こしたらしい。オッサンは紛れもなく死んでいたのである。


店員たちは、その倒れたオッサンを無視して、普段通り接客をしている。入り口には「歓迎光臨」と書かれた襷(たすき)を掛けた若い女性が、入店してくる客を、どんどん店の中へ招きいれている。そのオッサンが倒れた席だけを避け、お客を座らせ、注文を取り、料理を運んでいる。オッサンはピクリとも動かない。黒のズボンに、黒の革ジャンを身につけている。人口10億人の中国では、どこにでもいそうなオッサンだった。


やがて私が注文した牛肉麺が運ばれてきた。麺の上には、よく煮込んである分厚いチャーシューが乗っている。それを箸で突いていると、2人の警官がやって来て、倒れたオッサンの脇に立った。2人とも煙草をブカブカ吸いながら、充血した目でオッサンを見下ろしていた。そして床には平気で痰を吐いていた。人間を見る態度というより、不法投棄された大きなゴミでも見ているようだった。2人の警官は終始煙草をくわえながら、やがてどこかへいなくなった。とりあえず私は、注文した牛肉麺を食べている。


すると今度は、別の2人の男が入ってきた。2人とも制服ではないので、警官ではないらしい。そのうち1人が、オッサンの脈を診る。どうやら医者らしい。もう1人はアシスタントのようだ。しかし人工呼吸や心臓マッサージをするかと思えば、そういう処置は一切なかった。脈だけ診ると、2人はすぐに出ていってしまった。そして再びさっきの警官が入ってきた。相変わらず煙草をくわえたまま、今度はデジカメを出して、仕方なさそうに2、3枚写真を撮った。入店してきた客が何を撮影しているのか、野次馬に近寄ってくるが、オッサンが倒れているのを見ると、大して興味もなさそうに自分の席へ戻ってゆき、そして友達とビールを飲みながら、談笑の続きを始めた。私も、牛肉麺を食べ続けていた。


やがて医者とアシスタントがタンカを持って戻ってきた。食事をする私の隣で、警官2人が倒れたオッサンを仰向けにひっくり返した。オッサンは白目をむき、口から嘔吐物と泡を吹いていた。チャーシューをモグモグ咀嚼している私の目の前で、警官はオッサンをタンカの上に乗せた。そして医者は、オッサンに白い布を被せた。警官は煙草をくわえながら、オッサンを乗せたタンカを担いだ。そしてオッサンは、店の外へと担がれてゆく。私が牛肉麺の最後の一口を食べ終えたとき、ちょうどオッサンを乗せたタンカは店の外へと消えていった。入り口の扉がパタリ閉まったのは、私が丼をテーブルに置いたのと同じタイミングだった。全ては、私が牛肉面を注文してから食べ終わるまでに起こった出来事であった。

遊動

最近は旅の本を読むことが多くなった。これまでの自分の旅を振り返るインスピレーションを得るためにも、またこれからの旅をより充実したものにするための視点や技術を学ぶためにも、旅人の言葉に興味を傾けることにした。


しかし、私はある違和感を覚えるのである。それは一般的な、同世代のバックパッカーに対してである。勿論彼らの旅のスタイルを一括りにすることはできないが、多く彼らは、旅に「自由」を求める。それは私もある意味同じであるが、その自由の解釈が、彼らと私では、決定的に異なるのである。


自由とは何だろう。確かに日本にいる際に縛られている一切のものから解き放たれる感覚は、自由と呼べるだろう。まるで衣服を脱ぎ捨てるように、それまで常識と思い込まされた、自分を締め付けるものを、一枚一枚脱いでゆく。確かにそれは、旅の快感と呼べるかもしれない。


だから私は、一般的なバックパッカーから、不思議な目で見られる。それは私が、旅のゲストハウスでダラダラする楽しみも享受しないし、売春婦とセックスすることもないし、マリファナで気持ちよくなって、鋭く研ぎ澄まされた五感で音楽に酔いしれる楽しみも味あわない、そんな真面目に旅をして、何が楽しいのか、旅の醍醐味を味あわないで、勿体なくないのか、彼らはそのように感じるらしいのだ。


確かに日本の日常から開放され、海外へ飛び、そこで安宿で昼間からビールを飲み、ドラッグで気持ちよくなり、毎晩売春宿で若い女とセックスを楽しむことは、あたかも重たい服を一枚ずつ脱ぎ捨ててゆくように、より自由な状態に近づけると思えるのかも知れない。にもかかわらず、それらを享受せず、日本にいる時のスタイルを崩さず、真面目に流離っている私は、面白みを逃しているように思われるかも知れない。


だが私は、自由に対する考え方、感じ方が違う。私にとっての自由とは、流離うこと、それ自体なのである。そして自由とは、特殊なものではなく、自分にとっての日常、それ自体に過ぎないのである。ただしその日常とは、一般的な日常という概念とは異なるかも知れない。つまり私にとっての日常は、流離い続けることなのである。


私は日本にいても、外国にいても、ただ流離っている。それが私にとっての自然な生き方であり、日常であるのだ。日本で借りている部屋だって、私は旅の宿程度にしか思っていない。生まれ育った、両親がいる実家だって、人生は有限である限り、それも旅の宿に過ぎない。永遠の眠りにつく墓だって、それはこの世にいた記憶に過ぎず、それすらも永遠ではなく、いつか風化する。そんな中で、唯一確かなことは、留まらない生き方こそが、自然であるということだ。そしてその自然の状態でいられること自体が、私にとっての自由なのである。


自由になるということは、羽目を外すということではない、私は自分の真面目さを嘲笑されるたびに、そう言いたい気持ちを押し殺す。「裸になれよ」、「馬鹿になれよ」という厚かましい「自由」を押し付けられるたびに、私は「もうこれ以上、脱ぐ服はないよ。俺は理性を身にまとっていることが、自由だと感じるんだよ」と反論してやりたい気持ちになる。しかしいつもその言葉は、セックスやドラッグの気持ちよさを自由と感じる人々の前では、まったく力を持たない、無力な遠吠えのように響くのである。

上海

中国の安ホテルで、何気なくテレビを眺めていると、日本が映っている。何かと思えば、建設中の第2東京タワー(通称「スカイツリー」)が高度を重ね、とうとう世界一を誇っていた上海タワーを追い抜いたと、中国のニュースは伝えていた。何かと日本を意識する中国であるから、世界一を日本に奪われたその知らせは、どれだけニュースキャスターがポーカーフェイスで伝えようとも、中国人民には日本への憎たらしさを少なくとも掻き立てられるものであったろうと私は邪推した。


私は上海へ行った夜に、それまで世界一を誇っていた上海タワーに上ってみた。上海の夜景に少なからず期待を持って、安くはない中国元を払って展望台へ上ったのだが、薄汚れたガラスから外を見下ろすと、それは何とも、中国を象徴するような光景だった。


日本でもしばしばテレビで目にする、上海の繁華街は煌々と輝きを放っているのだが、それ以外の場所は、真っ暗だったのである。その真っ暗な部分は、おそらく住宅地であろう。つまりテレビで流される繁華街のみが煌びやかに光を放っているのに対して、決してテレビで放送されないような一般人の住む住宅エリアは、真っ暗だったのである。その夜景には、富を持つものとそうでない者とのコントラストが浮かび上がっていた。いくら富の象徴である高層ビルが人の目を引きつけようと煌びやかな光を放っていても、私はその余白に暗闇がある上海の夜景を、決して美しいと思わなかった。


私は日本の夜景をそのとき、頭の中で思い描き、そしてそれが、実は美しいものであったことに、このとき初めて気がついた。函館で見た夜景も、長崎で見た夜景も、そして六本木ヒルズの展望台から見た東京の夜景も、その光は、そこに生きる人たち、全ての光だった。それは家の窓から溢れる光であり、街頭の光であり、車のヘッドライトやテールライトであり、ビルの窓から溢れる光であり、高層ビルの屋上で点滅する赤い光であり、街のネオンの輝きである。それはそこに生きる人々の、全ての光である。決して選ばれた者の、光の寄せ集めではないのだ。日本の夜景は星屑だった。そこには空白はなかった。真っ暗な部分がない。人々の一般的な生活でさえ、美しい夜景の一部だった。上海のように、そこは真っ暗ではなかった。


私はそれまで、六本木ヒルズから見下ろす東京の夜景に対して、憎しみに似た感情を抱いていた。私は東京で27年も生活してきたくせに、東京の夜景が、だんだん許せなくなっていた。私は次第に、東京に息苦しさを感じるようになっていたのだ。その理由は一言では説明できない。しかし結果、私は東京を離れるに至った。息苦しさを感じるほどあらゆるものが密集した東京という都市は、一人の人間の価値など砂粒程度にしか存在し得ない。それに耐えられなくなったのかも知れない。


東京の都市開発にも疑問を感じていたし、六本木ヒルズなんて建物を建てること自体、「バベルの塔」を建てようとする人間の愚かさだと私は冷めた目で見ていた。にもかかわらず、六本木ヒルズから見下ろす東京の夜景は、皮肉なことに、この上なく美しかったのである。上海の夜景を見たとき、そのことを心底痛感した。息苦しく感じた東京という大都市は、数百メートル離れた高さから見下ろしたとき、皮肉なことに、息を呑むほど美しい星屑としての一面を見せるのである。道路はまるで人体の中に張り巡らされた動脈のようであり、そこを走る車のライトは、まるでそこを流れる血球のように思える。その夜景を、人体とフラクタルであるような錯覚に酔いながら、透明なガラス越しに私は見つめていた。上海タワーの展望台で、皮肉にも私が眺めたのは、頭の中にある東京の夜景であった。

小火

朝晩がすっかり寒くなった。雪深い山村の厳しい冬が、すぐそこまで来ている。集落にある町営住宅の中でも特に古い、築40年の長屋は、襖や壁紙が飴色に変色し、雨風こそしのげるが、この寒さまではとてもしのぎきれず、外の木枯らしに障子はガタガタと振るえ、そこから外気と同じ冷たさの隙間風が入ってくる。畳から染みてくる冷気は石油ストーブを焚いても拭うことができず、青年は部屋の中で、達磨のようにジャケットを着込んで丸まっていた。


青年は日中の力仕事で、肉体的に疲れていた。一刻も早く眠りたかったが、就寝前の「儀式」があった。彼はコンタクトレンズを外し、消毒液につける。10分後にそれを別の液に浸けかえることで消毒は完了する。彼はその10分間を、布団の中で丸まって待っていた。その横では寝る直前に消すつもりだった、石油ストーブの火が燃えていた。しかし、彼はそのままウトウトと、眠ってしまったらしい。


夢の中で、青年はキャップを被っていた。いつも仕事で被っている帽子である。それは母親から贈られてきたもので、布製のキャップだった。そこへ少年がやって来て、彼の頭からその帽子を取ると、においを嗅いで「臭い」と言う。青年は少年に、「仕方ないだろ。雨の中、ずぶ濡れになりながら仕事をしているんだから。布の帽子は雨で濡れると臭くなるし、いくら洗ったって取れやしないんだから」と言うが、少年は相変わらず「臭い、臭い」と言って、笑っていた。青年は少年に、話し続ける。「この帽子はね、母が贈ってきたものだ。母はね、僕に肉体労働をやらせたくなかったんだ。僕が君くらいの頃ね、よく言われたよ。『しっかり勉強をしなさい。そうしないと、肉体労働にしか就けないよ』と。僕はね、勉強もしたんだけど、皮肉なことに、今、肉体労働をしている。人が良すぎたんだよ。それで両親の、期待も願いも、苦労も、すべて裏切ったんだよ。そんな母がね、この帽子を贈ってきたんだ。」相変わらず少年は青年の言葉には反応を示さず、帽子をクンクンと嗅ぎながら、「臭い、臭い」と言って笑っていた。


そこで青年は目を覚まし、自分がうっかり眠ってしまったことに気がついた。夢と現の狭間で、あの少年の声が頭の中に鳴り響いていた。「臭い」「臭い」…。

そのとき青年はハッと飛び起きた。臭いのだ。彼は慌てて電気を点けると、部屋中に真っ白い煙が充満している。目はピリピリし、息を吸うと咳き込んでしまう。見れば彼の掛けていた厚い掛け布団が、寝相で剥がれて、石油ストーブの上に被さっていた。そこから真っ白い煙が、モクモクと上がっている。彼は慌ててストーブから布団を剥ぎ取る。見ればそれは、ジワジワと火種を作って燃えていた。


彼はそれを洗濯機が置いてある水場へ持って行き、ホースで水を掛けようとした。一瞬、ためらった。心に、迷いが生じた。「この布団に水を掛けてしまったら、俺は明日から、何を掛けて寝ればいいのだろう」こんな状況にも関わらず、彼は水を掛けるのが惜しいような気がした。しかし布団は、真っ白煙を立てて燃えていた。彼は思い切って水を掛けた。火は消えたが、それから数日、部屋は臭かった。


ある日、青年は村のお寺へ遊びにいき、お茶飲みの話題に先日出した小火のことを話すと、お寺の奥さんは泣きそうな顔で「ああ、お願いですから、どうか暫くお寺からお仕事に通うようにして下さい」と懇願し、彼は図々しくもそれから一ヶ月というもの、お寺の離れに住処を得、そこから出勤したのであった。

死んだ魚の涙

シビウに行くまでの私は、生活を自分自身で窮屈にしていました。なぜならそれまでの私には、生活を楽しむという発想がありませんでした。むしろ生活を楽しむことを、私は悪いことだと考えていました。私が自分の生活を楽しんだって、社会にとって何の役にも立ちませんから。そんな役に立たないことに夢中になるのが許されるのは子供のうちだけで、大人になれば自分が社会という大海原の中で生きていることを理解できるようになりますから、社会にとって役立つ人間にならなければならない、自分の生活を楽しむなんて、そんな社会の役に立たない個人的なことは二の次だ、それが大人になることだ、私はそう思っていました。


しかし生活を楽しむことを二の次にしている私の表情には元気や明るさがないようで、シビウでの生活も終わりに差し掛かったある日のこと、ルーマニア人女性のラビニアが私の顔を心配そうに見つめながら、「どうしてアナタはいつも心を閉ざしているのだ。どうして心を開かないのだ?」と尋ねたのでした。私は「別に心を閉ざしているわけではなくて、これが自分にとっての普通の顔なのだ」と答えたのですが、全然理解してもらえません。自分の生活を楽しむことを二の次にして、死んだ魚のような顔して生きることを大人になることだと主張する日本人は、ここルーマニアでは全くもって理解に苦しむ存在だったのでした。ラビニアはさらにこう続けます。「アナタはもっと、自分の感情や考えを外に出さなければダメだ。笑いたいときは笑い、泣きたいときは泣き、怒るときは怒る。また、自分が考えていることをしっかり人に伝える。時には喧嘩してでも、自分の考えを言わなければダメだ!また好きな女性がいたら愛を伝えて、もっともっとメイク・ラヴするべきだ!!」そう彼女は力説するのでした。


「そんなこと君に言われなくてもわかってるさ!日本で大人になることはな、ルーマニアで大人になることのように簡単じゃないんだよ!バカヤロウ!!」と私は言い返してやりたかったのですが、死んだ魚みたいな顔で生きる自分を正当化したところで、全然説得力がありません。また日本で大人になることがどうルーマニアよりも大変なのか、その日本独特の文化を説明できる語彙力も私にはありませんでしたので、渋々「ああ、そうだ。君の言う通りだ」と私は答えました。「そうさ、君の言う通り、俺も笑いたいとき、笑いたいよ。泣きたいとき、泣きたいよ。怒りたいとき、怒りたいよ。そして自分の考えも言いたいし、納得できないことは納得できないと言いたい。そして女性に愛を伝えたい。これまでだって愛を伝えたい女性は20人くらいいたさ。勿論メイク・ラヴだってしたいよ」そう言う私をラビニアは優しく抱きしめてくれ、なぜか私はボロボロと大人気なく泣いていました。情けない姿に変わりはありませんが、そんな私の表情は、死んだ魚の顔よりは、多少人間に近い顔をしていたと思います。


私が泣いていた理由は、これまで自分の感受性を自分の中に押し殺して生きてきたことが、無性に悔しくなって泣いていたのでした。


しかしラビニアにとってみれば、私が急に泣き出したものですから、自分がきついことを言って私を泣かせてしまったのだと勘違いして、泣いている子供をなだめるように私の手を取って、何度も「ごめんなさい、きついことを言ってしまって」と謝るのですが、私は自分の泣いている理由を説明できる語彙力がやはり足りないものですから、ただ彼女が謝るたびに、ひたすら「No!」「No!」と繰り返すばかりでした。きっと今でもラビニアは、自分が酷いことを言って私を泣かせたのだと勘違いしているでしょう。

白い迷路

それはクリスマスも近づいた頃、東京でも珍しく雪が降った。私は恵比寿のあるギャラリーへと向かっていた。ガーデンプレイスには雪がちらつく中を、ブルーにライトアップされたイルミネーションが幻想的に浮かび上がっていた。そこを行き交う人たちは、光の世界に酔いながら、夢の世界へと迷い込んでいた。


私も幻の世界へ迷い込んでしまったらしい。目的のギャラリーへは、なかなか辿り着けなかった。地図を頼りに歩くのだが、ガーデンプレイスから遠ざかると道は細くなり、迷路のような住宅地へと迷い込んだ。ギャラリーはその一角にあるはずなのだが、行ったり来たり、探し回っても一向に見つからなかった。街灯の光に浮かび上がる、シンシンと落ちてくる真っ白い雪。私はニット帽を耳まで深く被り直し、巨大な迷路を途方もなくさ迷い続けた。


ようやくギャラリーに辿り着いた頃は、先ほどまで降っていた雪も止んでいた。入り口に張られたポスターを確認すると、「山本基展覧会」と書いてある。間違いなく、そこが目的のギャラリーだった。


砂を使ったドローイングは、美術では一般的なものだ。しかし真っ白な砂一色で描かれた、緻密な模様。それが床いっぱいに広がっている。目を凝らせば、その模様は、砂で細かく描かれた迷路だった。そしてさらに、その白くてサラサラした粒子は、実は砂ではなく、塩だった。塩を使ったドローイング、それが山本基の作風だった。


ギャラリーの1階は常設で、数枚の絵が飾られていた。どれもモダンアートのアーティストによって描かれた、抽象的な作品だった。私には退屈な作品だった。私は興味を覚えず、さっさと階段を上っていった。


2階へ上がると、そこは空気が違っていた。そして、静かだった。例えるならば大雪の日、全ての音が雪に吸収されてシンと静まり返ったように、静かだった。そこは一切の音が、何かに吸収されていた。私の目の前には、床一面に真っ白な粒子で描かれた模様が広がっていた。そしてその模様の先に、山本氏と思われる男が、その瞬間も塩で迷路を描き続けていた。他には誰もいなかった。静かな時間だけがそこにはあった。私は今なお描き続けられる模様をじっと見ていた。山本氏はただ静かに、祈るようにその模様を描き続けていた。


私は美術雑誌の記事を思い出す。山本氏には妹がいた。その妹が、若くして亡くなった。その後、彼の作風は変わった。雪のように真っ白な塩で、作品を描き始めたという。


やがて山本氏は、手を止めずに、「雪はもう、止みましたか」と口にした。その声は、しっかりした声量を持つのに、この静寂を打ち消すどころか、さらに静かなものにした。それを不思議に感じながら、「ええ、つい先ほど」と、私は答えた。彼は窓の外へ目をやった。


床に広がる迷路は、ずっと先まで続いていたが、その先に一つ、大きな窓があった。彼はその窓を見つめながら、遠く優しい目をして、「もし、もう少し雪が降ってくれて、外の世界が白く染まったのなら、私の描いたこの白い迷路の先で、窓の外の、もう一つの別の世界へと、つながれそうな気がしたんですよ」と、言った。その目は、二度と会うことのできない、妹さんを見つめているようだった。


外へ出ると、やはり雪は止んでいた。私は再び、巨大な迷路の中を、帰路についた。しかし今度は、迷うことはなかった。

ペナン島-バンコク

マレーシアのペナン島からフェリーでマレー半島へ戻る。対岸の町バタワースまでは船で15分程度、フェリーの料金も無料だった。船上には通勤や通学の人たちが、多く対岸へ渡ろうとしていた。このフェリーは日本でいえば、広島の尾道と向島を行き来するフェリーのようなものなのだろう。


バタワースの駅から、バンコク行きの鉄道に乗る。鉄道は寝台列車で、翌日バンコクへ到着する予定だ。待合室で鉄道を待っていると、混み合うその中に日本人を2人見かけた。30代後半くらいの2人の男は、この駅でたまたま会った他人同士らしく、お互いの職場が阿佐ヶ谷だとか幕張だとか、北千住がどうのこうのだとか、そんなことを話していて、私はマレーシアまで来て「阿佐ヶ谷」とか「幕張」とか「北千住」とかの話をしたくなかったので、特に話かけもしなかった。


鉄道の中では、その2人の日本人も同じ車両に乗っていた。私はこのまま気付かれずにバンコクまで着きたいと、自分のベッドに足を伸ばしながら日記を書いていると、「すみません、日本人ですか」と声を掛けられた。ああ、気付かれてしまった、と渋々ノートから顔を上げると、あれ、そこに立っているのは西洋人の青年である。金髪は肩まで伸び、髭の伸びた感じから旅人と思われる、まるでカート・コバーンのような男が、ブルーの瞳で私を見つめ、外国人特有の日本語で「日本人ですか?」と言っている。私は慌てて「そう、日本人」と答えた。


彼はノルウェー人で、名前はゲイルといった。2年間の旅をしている最中だという。以前日本に2年間住んでいたこともあるという。ゲイルは私に、出身はどこ?と訊くので、私は東京だと答える。すると東京のどこだ?と訊くので、私は新宿だと答える。さらに新宿のどこだ?と詳しく訊く。ちなみに私の出身を細かく言えば、新宿区の神楽坂というエリアで、JRの駅でいえば飯田橋が最寄である。私はノルウェー人がまさか「神楽坂」なんてわかるまいと思い、気を使って「鉄道の飯田橋という駅を知ってる?あの近くだよ」というと、彼は「おお!」と反応し、なんと彼の方から「じゃあ神楽坂って知ってる?僕は神楽坂で2年間ノルウェー語を教えてたんだ」というので驚いてしまった。まさかマレー半島で、ノルウェー人と日本語で神楽坂の話になろうとは、予想もしていなかった。


鉄道の中、私はゲイルと話をして過ごした。彼は最近読んだ日本文学の話を始めた。村上春樹の『海辺のカフカ』が良かったこと、それから金原ひとみ、綿矢りさにはまだ未熟さを感じたこと、それから三島由紀夫、夏目漱石についてと、次々日本人作家の名前が出た。特に好きなのは?という私の質問に、ノルウェー人の青年は「2人いる。大江健三郎と安部公房だ」と答えた。『セブンティーン』と『砂の女』が好きだと言う。


話は尽きなかった。文学から映画になり、スタンリー・キューブリック、タルコフスキー、ラース・フォン・トリアー、クリス・カニンガム、ヤン・シュワンクマイエル、宮崎駿、北野武、黒澤明、小津安二郎、大島渚…。映画から音楽になると、エイフェックス・ツイン、スティーブ・ライヒ、テリー・ライリー、ジョン・ケージ、武満徹、レディオヘッド、マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、三上寛…と、あらゆるテーマで熱く語り合った。


翌朝バンコクのファランボーン駅へ付くと、ゲイルと他に、同じ車両に乗っていたイギリス青年とマレーシア人女性のカップルと4人で、タクシーをシェアーし、ゲストハウスの集中するカオサン通りまで行った。カオサン通りは喧騒に満ちていた。物凄い人で、そのほとんどが西洋人だった。通り沿いのパプやレストランは、西洋人で溢れかえっており、タイに来たとは思えない光景に驚いた。


宿を探す前に、タクシーに乗ってきた4人で、レストランに入り食事をした。イギリス人男性が私に「京都と東京の違いを説明してくれ」と言ってきた。私は瞬時にどう説明したらいいかわからず、戸惑うと、横からゲイルが英語で簡潔な説明し、その説明にイギリス人男性も納得した。私は日本人として恥ずかしい思いがした。続いてマレーシア人女性が『千と千尋の神隠し』が面白かったという話をし、イギリス人男性もゲイルも、それに頷いていた。


私には不思議でならなかった、というのはノルウェー人青年が大江健三郎の『セブンティーン』や安部公房の『砂の女』を面白いと言ったり、マレーシア人女性が『千と千尋の神隠し』を面白いと言ったりすることが、本音なのかどうか疑いたくなるのである。私には『セブンティーン』も『砂の女』も『千と千尋の神隠し』も、正直な話、そこまで面白いと感じられない。私はそれを恥じながら告白する。私には何かが欠けているのか。私は感じたい、外国人から「凄い」「素晴らしい」と評価される部分を、私自身も同様に感じたい。しかし、それがどの部分なのか、それらの作品を享受しても、発見できないのである。


タイのレストランでカレーを食べながら、ノルウェー人、イギリス人、マレーシア人と4人で話をする日本人の私が、そのテーマに出てくる自国のカルチャーについて、もっとも享受する感受性が乏しいような思いに襲われた。私は自分が情けなかった。