小火 | バカのアフォリズム

小火

朝晩がすっかり寒くなった。雪深い山村の厳しい冬が、すぐそこまで来ている。集落にある町営住宅の中でも特に古い、築40年の長屋は、襖や壁紙が飴色に変色し、雨風こそしのげるが、この寒さまではとてもしのぎきれず、外の木枯らしに障子はガタガタと振るえ、そこから外気と同じ冷たさの隙間風が入ってくる。畳から染みてくる冷気は石油ストーブを焚いても拭うことができず、青年は部屋の中で、達磨のようにジャケットを着込んで丸まっていた。


青年は日中の力仕事で、肉体的に疲れていた。一刻も早く眠りたかったが、就寝前の「儀式」があった。彼はコンタクトレンズを外し、消毒液につける。10分後にそれを別の液に浸けかえることで消毒は完了する。彼はその10分間を、布団の中で丸まって待っていた。その横では寝る直前に消すつもりだった、石油ストーブの火が燃えていた。しかし、彼はそのままウトウトと、眠ってしまったらしい。


夢の中で、青年はキャップを被っていた。いつも仕事で被っている帽子である。それは母親から贈られてきたもので、布製のキャップだった。そこへ少年がやって来て、彼の頭からその帽子を取ると、においを嗅いで「臭い」と言う。青年は少年に、「仕方ないだろ。雨の中、ずぶ濡れになりながら仕事をしているんだから。布の帽子は雨で濡れると臭くなるし、いくら洗ったって取れやしないんだから」と言うが、少年は相変わらず「臭い、臭い」と言って、笑っていた。青年は少年に、話し続ける。「この帽子はね、母が贈ってきたものだ。母はね、僕に肉体労働をやらせたくなかったんだ。僕が君くらいの頃ね、よく言われたよ。『しっかり勉強をしなさい。そうしないと、肉体労働にしか就けないよ』と。僕はね、勉強もしたんだけど、皮肉なことに、今、肉体労働をしている。人が良すぎたんだよ。それで両親の、期待も願いも、苦労も、すべて裏切ったんだよ。そんな母がね、この帽子を贈ってきたんだ。」相変わらず少年は青年の言葉には反応を示さず、帽子をクンクンと嗅ぎながら、「臭い、臭い」と言って笑っていた。


そこで青年は目を覚まし、自分がうっかり眠ってしまったことに気がついた。夢と現の狭間で、あの少年の声が頭の中に鳴り響いていた。「臭い」「臭い」…。

そのとき青年はハッと飛び起きた。臭いのだ。彼は慌てて電気を点けると、部屋中に真っ白い煙が充満している。目はピリピリし、息を吸うと咳き込んでしまう。見れば彼の掛けていた厚い掛け布団が、寝相で剥がれて、石油ストーブの上に被さっていた。そこから真っ白い煙が、モクモクと上がっている。彼は慌ててストーブから布団を剥ぎ取る。見ればそれは、ジワジワと火種を作って燃えていた。


彼はそれを洗濯機が置いてある水場へ持って行き、ホースで水を掛けようとした。一瞬、ためらった。心に、迷いが生じた。「この布団に水を掛けてしまったら、俺は明日から、何を掛けて寝ればいいのだろう」こんな状況にも関わらず、彼は水を掛けるのが惜しいような気がした。しかし布団は、真っ白煙を立てて燃えていた。彼は思い切って水を掛けた。火は消えたが、それから数日、部屋は臭かった。


ある日、青年は村のお寺へ遊びにいき、お茶飲みの話題に先日出した小火のことを話すと、お寺の奥さんは泣きそうな顔で「ああ、お願いですから、どうか暫くお寺からお仕事に通うようにして下さい」と懇願し、彼は図々しくもそれから一ヶ月というもの、お寺の離れに住処を得、そこから出勤したのであった。