バカのアフォリズム -4ページ目
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アユタヤー

タイの首都バンコクから鉄道でアユタヤーへ移動した。列車は3等席。タイ人ばかりの車両は、この国の日常が味わえて面白い。窓は全てが全開で、風が容赦なく私の顔を殴りつける。


私はどの町でも歩いて回る。歩く速度に拘りたいのだ。この世界遺産で知られるアユタヤーも、例外なく歩いて遺跡を回った。破壊された仏像が印象的だった。バラバラになった仏像が、散乱している。戦争で破壊されたのだろう。静かな雰囲気と、その無残さのコントラストが、何とも私には印象に残った。


パンフレットに必ず載っている、アユタヤーで最も有名な、樹に掘り込まれた仏の顔を観に行くと、さすがに世界遺産ということもあり、日本人のツアー客や卒業旅行の大学生も多かった。ガイドブックの写真で観ると、それはまるでH・R・ギーガー(映画「エイリアン」のデザインが有名)の絵のような魅力を感じたのだが、実際に見るとインパクトはそれ程でもなかった。それは有名な観光地において、しばしば感じるギャップなのだけど。


遺跡の帰り、食堂でトムヤンクンを食べてみた。タイに来て始めてだ。日本料理ではありえない、すっぱい味に驚いた。色々と野菜や葉っぱが入っていたが、どれが食べられて、どれが味噌汁に入った柚子のように、香りを出すために入った、食べずに残すものなのか、区別がわからずに苦労しながら食べた。


宿に戻るとゲストハウスのフロントの兄ちゃんが話し掛けてきた。「一人で旅をしているのか?」私は「そうだ」と答えると、「なぜ一人旅なんだ?」と訊く。私は自嘲気味に「No friend」と冗談を言うと、彼は笑いながら「Oh, no friend, no girlfriend. Lonly boy!」と言った。そうさ、俺はLonly boyなんだよ、そう独り言を呟きながら部屋の鍵を開けた。やたら広く感じるダブルベッドに横たわり、ノートを広げて溢れる言葉を書きなぐった。


なぜ、旅をするのか

孤独を業とするためか

なぜ、生きることが虚しいか

なぜ、時が過ぎ行くことを、寂しく感じるのか

なぜ、笑えないのか

なぜ、心を開けないのか

何が怖いのか

死が怖いのか

死とは何なのか

生きるとは何なのか

もうわかった気でいるけど、もしかしたら、ちっともわかっていないのかも知れない

だから生きるのが虚しくて、孤独なのかも知れない

生と死と、孤独を見つめる旅の中で、何かを見つけたい

旅の目的が存在していたことを知りたい

旅はそれを見つけるための、衝動であったことを確認し、身震いして喜びたい


書きなぐり、眠りにつこうとする。目を閉じると蚊の羽音がプーンと鼓膜を振動させる。「ああ、またか」と私は呟く。その羽音から想像する蚊の大きさにうんざりしながら、今夜も眠れない夜を覚悟する。しかし、私は再びペンを持ち、ノートに書きなぐる。


眠れない夜が続くのは、蚊のせいだけなのか?

孤独と死を、とことん見つめる旅

死と孤独の果てに、一体何がある?


旅のテーマは死と孤独だ

行き先はない

私の中から「死」と「孤独」という言葉にある“暗さ”が消えるまで、旅を続けるだけだ


翌日、夜行列車でチェンマイへ向かうことにした。昼間は「日本人村」と呼ばれる、朱印船貿易の頃に日本人が多く住んでいた地域まで歩いた。


見学を終えて駅に戻っても、夜の11:30まではだいぶ時間があったので、傍のゲストハウスを兼ねたレストランで時間を過ごした。店の親父が知恵の輪を貸してくれて、私は4時間も試行錯誤したが、知恵の輪は外れなかった。親父は「アンタ、バカ」と日本語で言いながら、2秒で知恵の輪を解いて見せた。再び知恵の輪をはめて、「ほら、やってみろ」と私に手渡す。再び私はガチャガチャやり始める。


その間、親父は店の前に出て、通りがかった全ての旅行客に、その国の言葉で話しかけ、勧誘していた。私はそれを見ていると、親父はその目線を意識してか、通りかかった西洋人の女性に日本語で「ヤラせてください」とか「オマンコなめさせて下さい」と声を掛ける。西洋人女性は静かに微笑みながら「no thank you」と言って通り過ぎる。親父は私の方を振り向き、そして笑った。


チェンマイ

タイ北部の町、チェンマイで泊まったゲストハウスには、日本人の旅人が置いていった本がたくさんロビーにあった。日本を離れて、ちょうど活字に飢えていた頃だったので、それは嬉しかった。私は本棚を物色する。ランボオの「地獄の季節」を手に取る。部屋に戻り、ベッドに横になりながら読む。宿の隣のバーから、大音量のボブ・マーリーが聞こえてくる。


ボブ・マーリーを聞いたのは、20歳前後の頃だった。高校時代の友人が、深夜のファミリーレストランで、ホープを美味そうに吸いながら、マリファナとボブ・マーリーの素晴らしさを語っていた。教員になるための大学とも言える学芸大に進学したはずなのに、彼の耳にはやたら多くのピアスがついていて、とても教員の卵とは思えない風貌になっていた。彼は高校時代、進学校のつまらない学生たちの中で、特別に私が面白いと思っていた人間だった。彼は卒業文集に、平気で次のような文章を寄稿した。


18歳になった。だから、先日レンタルビデオやにアダルトビデオを借りに行った。レジにビデオを持っていくと、店員に断られた。なぜだ、俺は18だと食って掛かったら、店員は申し訳なさそうにこう言った、「申し訳ありません、しかし、PTAに高校生への貸し出しは止められているんです」と。俺は怒り心頭し、「PTAって何だよ!」と怒鳴り、そして自分は生涯、PTAと戦うことを決意した。


そんな彼に、高校卒業後に深夜のファミリーレストランで再開した時に、彼は私にマリファナとボブ・マーリーをしきりに薦めてくれた。ちょうどロック以外の音楽を聴き始めた私は、さっそくボブ・マーリーのレゲエを聴いてみた。しばらくはどこへ行くときもCDウォークマンで聴いていた。しかし、彼のようにそこまで夢中になることはなかった。ロックが基本にある私にとっては、どこか退屈な音楽に感じられたのだ。


しかし、それから10年。ここチェンマイで聞くボブ・マーリーは、最高に良かった。最高に心地よかった。彼がマリファナで得た陶酔感に似た感覚を、私はチェンマイのゲストハウスで感じていたのかも知れない。何にも縛られることなく、私は気持ちの赴くままに旅を続けている。ビールをラッパ飲みしながら、久々に触れる活字の世界。そして遠くから聞こえてくるボブ・マーリーのレゲエ。それはとても、まろやかな時間であり、非日常的な心地よさが充満していた。


私は「地獄の季節」と向き合う。それは非常に難解な文章だった。おそらくこれを理解することは、ランボオ本人か、または彼の分身のような、同じ感覚を内面に持った人間でない限り、不可能であろう。なぜなら彼は、何も読み手を意識せず、ただ自分の中に渦巻く激しい言葉を、書き殴っただけであるから。そこには思春期の激しく、痛々しいエネルギーを感じることはできるが、その言葉の内容を理解することは、不可能に思われた。にもかかわらず、私がそんな本と向き合おうとしたのは、それが、まるで自分の高校時代の日記と似ているなと感じたからである。そこには何の論理もない、説明もない、秩序が一切ない、ただ吐き出さねば気が狂いそうになる激しい内面を、言葉で書き殴ることで、吐き出したものに過ぎなかった。その「排出物」に対して、歴史的に価値がついたのが、ランボオの詩であると私は解釈する。


ランボオの詩は、村上龍の小説や、ジャン・リュック・ゴタールの映画の中でたびたび出会ってきた。意味はわからないが、何となくかっこよく感じたのは、それらの作品のイメージとオーバーラップするからだろう。村上龍の『69』の中でランボオの詩が出てくることにより、それはどこかロックなイメージを帯び、またゴダールの『気狂いピエロ』の中で出てくることにより、それはおしゃれなイメージを帯びていた。


また、見つかった
何が?

永遠さ
それは行ってしまった海さ
太陽といっしょに


「地獄の季節」を読み終えると、何の余韻も残らなかった。ただ、自分の高校時代を思い出していた。私は高校が嫌いだった。英語の時間、好きな映画についてスピーチしなければならなかったので、私はゴダールについて語った。その数日前、2本立てで『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』を近所の名画座で観たばかりだった。どちらもさっぱり意味がわからなくて、退屈以外の何物とも感じなかったくせに、ヌーベルバーグは最高だと、知ったようなことを偉そうに語った。そしてランボオの詩を引用するセンスのよさ、それが映画に含蓄を与えていると、ただ意味がわからなかったくせに、偉そうに語ったのだった。高校が嫌いで、学歴一辺倒な奴らを、いつでも煙に巻いてやらねば気が済まなかった。


思えば私の卒業文集に寄せた文章も、PTAと戦うことを宣言したあの友人と同じく、アナーキーなものだった。私はただ一言、「FUCK」と書いて高校を去ったのだった。

プノンペン

カンボジアの首都プノンペン。下痢のために熱っぽい朦朧とした意識で、ぼんやりと部屋のテレビを見ている。ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画をそれとなく眺めている。チャンネルを回す。日本のNHKが入る。浅井健一が歌っている。永作博美のナレーションでケベックを紹介している。チャンネルを回す。・・・こんなことしている場合じゃない。私は一体、何のためにここへ来ているのだ?


キリングフィールドを訪れる。一見のどかな広場か公園のようだ。緑が広がり、静かだ。しかし気分はジメジメする。一体ここで、どれだけのカンボジア人が殺されたのだろう。内戦でポル・ポトに殺されたのは、国民の実に3分の1だと言われる。


一本の何の変哲もない樹に、キャプションがついている。それによれば、母親から引き離され、泣き叫ぶ赤ん坊の足をつかみ、この樹に叩きつけて殺したのだという。フィールド内の至る所に地面を掘り返した大きな穴があり、そのたびにそこからどれだけの遺体が上がったかをキャプションは示していた。


その悲惨さを知るたびに、のどかなフィールドに吹く風も、何だかどんよりした嫌な風に感じる。フィールド内を歩く。この虐殺の跡地で生活する子供が物乞いをする。赤ん坊が叩きつけられ殺された樹の傍には、ハンモックで寝ている男がいる。


もう一箇所、内戦の跡地を見に行く。皮肉にもそこは、もともと学校だった。そこに多くの人が収容され、拷問を受け、殺された。今でも血の残るベッドや壁は生々しかった。


ある部屋に入った時、私はギョッとした。多くの目が、私を見ていたのだ。それは無数の写真だった。殺される直前に撮影された、捕虜たちの写真だ。カメラのレンズを見つめる目は、それぞれ、これから殺される恐怖を物語っていた。それらの全ての目が、私を見つめていたのだ。ある者は私を呪いの目で見つめ、またある者は私に許しを求めて泣いて見つめる。


あるフロアーは博物館になっていた。そこには誰かが書いた、詩があった。英語で書かれていた。その言葉には、強く訴える力があった。英語のわからない私が、そこから動けなくなった。意味がわからないのに、私は泣いていた。恐怖政治が支配する日常が、そこにはあった。


THE NEW REGIME



No religious rituals.
No religious symbols.
No fortune teller.
No traditional healers.
No paying respect to elders.
No social status. No titles.


No education. No training.
No school. No learning.
No books. No library.
No science. No technology.
No pens. No paper.


No currency. No bartering.
No buying. No selling.
No begging. No giving.
No purses. No wallets.


No human rights. No liberty.
No courts. No judges.
No laws. No attorneys.


No communications.
No public transportations.
No private transportations.
No traveling. No mailing.
No inviting. No visiting.
No faxes. No telephones.


No social gatherings.
No chitchatting.
No jokes. No laughters.
No music. No dancing.


No romance. No flirting.
No formication. No dating.
No wet dreaming.
No masturbating.
No naked sleepers.
No bathers.
No nakedness in showers.
No love songs. No love letters.
No affection.


No marrying. No divorcing.
No marital conflicts. No fighting.
No profanity. No cursing.


No shoes. No sandals.
No toothbrushes. No razors.
No combs. No mirrors.
No lotion. No make up.
No long hair. No braids.
No jewelry.
No soap. No detergent. No shampoo.
No knitting. No embroidering.
No colored clothes, except black.
No styles, except pajamas.
No wine. No palm sap hooch.
No lighters. No cigarettes.
No morning coffee. No afternoon tea.
No snacks. No desserts.
No breakfast [sometimes no dinner].


No mercy. No forgiveness.
No regret. No remorse.
No second chances. No excuses.
No complaints. No grievances.
No help. No favors.
No eyeglasses. No dental treatment.
No vaccines. No medicines.
No hospitals. No doctors.
No disabilities. No social diseases.
No tuberculosis. No leprosy.


No kites. No marbles. No rubber bands.
No cookies. No popsicle. No candy.
No playing. No toys.
No lullabies.
No rest. No vacations.
No holidays. No weekends.
No games. No sports.
No staying up late.
No newspapers.


No radio. No TV.
No drawing. No painting.
No pets. No pictures.
No electricity. No lamp oil.
No clocks. No watches.


No hope. No life.
A third of the people didn't survive.
The regime died.



この詩の「No」を全て取り払ったら、私の日常だ。世界が、光から闇へと反転した世界が、そこにはあった。ありふれた日常の羅列の全ての頭に、ただ「No」がついただけなのに、いやだからこそ、この詩は実にリアルに、恐ろしさを伝えている。


私は、自分の日常を見直さねばならない。日常は透明だ。頭に「No」がついて、初めて認識される。だから日常の一つ一つを確認しながら、その有り難味を取りこぼさないように、日々を生きねばならないと思う。


北京

盧溝橋を訪ねた。日本は中国大陸への侵略の足がかりとして、盧溝橋事件を起こした。中国では日本軍の侵略を忘れまじと、盧溝橋に記念館を建て、その蛮行を人民に伝え続けている。記念館の駐車場は、中国人を乗せた大型バスが何台も止まっていた。それは南京の記念館でも同じだった。


夜、北京に戻った私は、韓国料理のファーストフード店に入った。石焼ビビンバと冷麺を注文し、日本の中国への侵略の歴史を想い、ため息をついた。店の中には6人掛けのテーブルが20くらいあった。その3テーブルくらいに人がいて、あとは空いていた。


私が冷麺を啜っていると、血の気の荒そうな、まだ21か2くらいの若い男が入ってきた。おそらく軍隊の若造と思われる。体格がよく、角刈り。腕力では誰にも負けないという自信が、彼を傲慢にしているようで、態度が悪かった。流行のカジュアルな服装でオシャレをしたガールフレンドの肩に腕をまわし、どこか得意気に見えた。


私は彼を見て、「バックトゥーザフューチャー」のビフに似ていると思った。しかし次の瞬間、ビフはこともあろうか、私のテーブルに座ったのである。こんなに空きテーブルが沢山あるにも関わらず、わざわざ私の隣に腰を下ろした。そしてその向かい側に、ガールフレンドを座らせた。その意図はよくわからないが、私はとりあえず、テーブルに広がっていた料理を自分の前に寄せて、彼らのスペースを作った。


私は再び冷麺を啜る、しかし視線を感じる、見るとビフは私を見ている、いや睨んでいる、俗な言い方をすれば、ガンをつけているのである。そしてガールフレンドに何か言って笑ったかと思うと、私に視線を向けながら、子供のように手のひらでテーブルをバンバンと叩く。ガールフレンドは呆れた顔をして「やめなさいよ」みたいなことを言っている。私はビフの意図がわかった。つまり彼は、私に「ここをどけよ」と言いたいのだろう。


私は相手にしなかった。私は石焼ビビンバに手を付ける。ビフは次々とプレッシャーをかけてきた。しかし私が無視して食事を続けているのが面白くなかったのだろう。とうとうビフは痺れを切らし、私に向かって中国語で攻撃的なことを言ってきた。おそらく「テメー、ここは俺達の席だぞ、どっか行けよ」みたいな内容だろう。


私も頭に来た。「ここには最初に俺が座っていたんだ!俺の席だ。席なら他に沢山あるだろ。お前が他の席に行けよ。後からやって来たくせに、出て行けなんて、そんなふざけた話あるか!」そう言おうとした時、私はハッとした。これはかつて日本軍が中国に対して行った、侵略と同じではないか。かつて侵略した日本人として、そんな台詞を吐く筋合いがあるのだろうか。


私は怒りを飲んだ。そして彼の中国語の攻撃を、煙に巻いてやろうと思った。私は友好的に笑うと、下手なアクセントで「ごめんなさい。私はあなたが何を言っているのかわかりません。私は日本人です。簡単な中国語しかわかりません」と言った。


簡単な中国語しかわからないと言ったから、ビフはその言葉通りに、実に簡単な質問をしてきた。「你是学生吗(お前は学生か)?」と訊くので、「工作人(働いてるよ)」と私は答えた。この会話に、攻撃的な雰囲気が白けてしまった。


しかし、やがてビフの友達カップルも同じテーブルに座り、6人掛けのテーブルは、ビフのグループが4人、私が1人という構図になった。彼らはうるさく騒ぎ、時に私を見て馬鹿にしたように笑っている。私は静かに食事をする。内心ムカムカしていたが、彼らのプレッシャーに屈したくはなかった。


私は料理を食べ終え、そのまま席を去ろうとしたが、それではどうも腹の虫が収まらなかった。ビフの野郎に、一発かましてやらなければ気が済まなかった。私は立ち上がると、話に夢中になっているビフの肩をトントンと叩いた。そしてビフの振り向きざま、ぶん殴ってやる代わりに、「サイチェン!」と挨拶してやると、彼はとっさのことに驚き、右手を振って「バイバイ」と言った。


私は店から出ると、下りのエスカレーターに乗り、ポツリと呟いた。「まったく、クソガキが・・・」


南京

南京駅の構内で、私は次の町への鉄道を待っていた。私の乗る列車は夜の12時近くに発車するもので、疲れのためか、私は時間まで南京の町をぶらつく気にもならず、早めに駅構内に入り、時間が来るまでそこで待つことにした。


南京大虐殺の記念館は、少なくとも私の心を憂鬱にさせた。歴史的な事実はわからないが、少なくとも中国人が日本人に対して抱いている感情は、痛いほどわかった。私は館内で、無意識のうちに自分が日本人だと悟られまいと振舞っていた。


それは記念館を出た後も、続いた。私はこの町では、自分が日本人であるとは、何だか悟られたくなかった。怖かった。町を歩く人々の中にも、あの記念館で私が感じたような反日感情が渦巻いているのだと思うと、私は怖かったのだ。経済発展の中に一見、虐殺の記憶は隠れているから、そんなことは杞憂にも思える。しかし、やはり私は日本人として、何も感じないわけにはいかなかった。


駅の構内で、4時間近くも時間があった。特にすることもなく、中国人で溢れかえる構内のベンチに腰掛けていた。そこには中国のどこの駅でも見られる光景が、例外なく広がっていた。大きな麻袋を抱えた中国人が、吐き捨てた痰で汚れた床に荷物を置き、タバコをふかし、カップラーメンをすすり、大声で携帯電話で喋っていた。


私は眠くなってきたので、飲み物を買いに構内を歩いた。構内にケンタッキーがあった。夜遅くにフライドチキンを食べる気はしなく、私はそこで、コーヒーだけを注文したいと思った。


しかし私は躊躇した。中国の店員は、とにかく冷たく、そしていつでもイライラしている。英語はまず通じなく、中国語もまともに話せない旅行者が来ると、「没有!」と追い払う。それには精神的に参る。そんな中国の店員相手に、ファーストフード店で食べ物を頼まずに、コーヒーだけを注文すれば嫌な顔をされて、無愛想に、たたきつけるようにコーヒーが出てくるのは目に見えていた。中国の旅でそれは日常茶飯事なので、別に気にしなければそれまでだが、この日の私は、いささか疲れていた。


女性の店員は二人いて、一人は典型的な無愛想な中国人店員だった。ところがもう一人の店員は、ポッチャリとしていて、何だか感じがいいように思えた。私は彼女なら大丈夫かもしれないと、そちらのレジに並んだ。


私が「请给我咖啡」と抑揚のない中国語で注文すると、その店員は、その下手なアクセントに私が外国人だとわかったのだろう、機転を利かし、なんと英語で「OK!」と返事をしたのだ。そしてさらに、笑顔を作って「for here, or to go?」と続けるではないか。私は嬉しくなって「for here」と言い、笑顔で「thank you」と礼を言った。


私は彼女に、好感を持った。だから、不意に思った。彼女は私を、何人だと思ったのだろうか。韓国人だろうか、それとも日本人だろうか。せめて私は、韓国人だと思われたかった。この町では、日本人だとは思われたくなかった。日本人であることを、隠し通したい気持ちでいた。


しかし次の場面で、私は全身が硬直するほど、ドキッとした。感じよくコーヒーを差し出す彼女は、笑顔で私に、こんなシンプルな質問を投げかけたのだ。


「Where are you from?」


私は一瞬、「Koria」と言いたい気持ちが渦巻いた。感じよく接客してくれた彼女を、不愉快な気持ちにさせたくなかった。しかし不器用な私は、正直に答える以外に術を持たなかった。私は答えた。


「Japan」


一瞬間があった。この間が、一体何を意味するのか。彼女は何かを考えている。何かを思い出そうとしているようだった。私は彼女が、二国間の歴史的な溝について思いを巡らしている気がして、悲しくなった。


しかしその後に彼女の口から発せられた一言は、中国語なまりのついた、聞き覚えのある言葉だった。


「コンニチハ」


私は一瞬、その言葉の意味を忘れ、その響きだけが何度も頭の中に鳴り響いた。そしてやがて、それが日本語だということを思い出した。彼女は私の悲しい想像を、裏切ってくれた。


「こんにちは」

私もそう応え、コーヒーを受け取った。そして「谢谢」と、下手な中国語で礼を言った。彼女は微笑んでくれた。


私は暖かいコーヒーを抱きかかえながら、待合室へ戻った。一番奥の席に座って、そのコーヒーを、いつまでも見つめていた。何だか知らないけど、誰の目も気にせずに、思い切り、大声で泣きたい気持ちになった。でなければ、心が張り裂けそうだった。


その日の私は、よほど疲れていたのだろう。


クアラルンプール

ドライブをしてた時、新潟の新発田に寄ってみた。ここはかつての城下町だから、城か城跡があるはずだ。せっかくなので、そいつを見てみようと思った。まあ、特にあてもない旅だった。青森を目指す途中に、休憩がてら寄ってみたのだ。


市街に入り、「新発田城まで何キロ」という看板を見つけた。その矢印の方向に向かって、車を走らせた。しかし道はくねくね、よくわからない。どうやら私は、目的地を見失ってしまったらしい。


どこかでUターンして戻ろうと思った。広い公園の向かい側に、セブンイレブンの看板がとても目立っていたので、そこの駐車場に入った。ついでなので店でコーヒーを買い、店員に新発田城はどこかと訊くと、なんと目の前の公園がそれであった。よく見るとお堀と、その向こうに低い石垣と、その上に小さな城が乗っているではないか。


周りは学校や病院などの建物が広がっており、その中に埋もれるようにして、その公園はあった。そして何よりも、かつての権力の象徴である城よりも、その向かいにあるセブンイレブンの看板の方が人の目を引いていた。それが何とも現代を象徴する光景のように思えた。


城よりも、コンビニの方が人の目を引く、現代という時代。

権威よりも、マネーが力を持つ。権威を、無力化するほどに。


しかしマレーシアの首都、クアラルンプールでは違った。クアラルンプールは、世界一のツインタワーが建つほど、近代化を果たした東南アジア有数のグローバル都市である。


私がこの街の市街を歩いていた時だ。そこは鉄道の駅だった。近くにイスラム教のモスクがあり、礼拝の時間だった。駅周辺には多くの都会的なファッションの若者が街中をごちゃごちゃ歩いていて、物売りは街頭にフルーツやジュースなどを並べていて、その周囲にはファーストフード店やコンビニエンスストアーなどが立ち並んでいる中で、モスクに入り切れなかったイスラム教徒が、その混沌の中、静かに四角い布を人が行き交う駅の路上に敷き、その上に座って祈りを始めたのだ。


経済が生み出した社会の混沌の中で、彼らはそんな雑音など何も関係ないかのように、メッカの方を向いて、祈りを捧げていたのである。その時、一瞬彼らの周りのけばけばしい世界が、全て揺らいで、嘘のように見えた。その時、確かな存在はむしろ、祈りを捧げている彼らだけだった。


私は呆然と立ち尽くし、彼らを見ていた。私は釘付けになっていた。それは言葉を超えた、ものすごく大きな、ダイナミックなメッセージとして、私に迫ってきた。

私は目から涙が溢れてきた。この涙のわけを説明することは、非常に難しい。しかし私は涙した。


東南アジアの旅から帰った時、知人にどこが一番感動したかと質問され、私はこのクアラルンプールでの光景を説明しようとしたが、どう伝えたらいいのか、結局わからなかった。

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