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◎正法寺(しょうぼうじ)http://www.qailas.com/yawata/shoboji/index.htm

飛行神社から南下する途中にあったのが徳迎山正法寺(とっこうさん・しょうぼうじ)。門前に説明板があったのだが、内部は公開日に限られているようで、境内に少し入っただけだったが、由緒あるお寺らしさはわかった。

当寺の創建は、鎌倉時代の建久2年(1191年)という古さ。鎌倉幕府御家人・高田蔵人忠国が、この地を「直銭230貫文」で買い。本寺を開いた。

後に高田家は志水と改め、文禄3年(1594年)、志水宗清の娘お亀(相応院)が、徳川家康の側室となり、慶長5年に後の尾張藩祖・義直を生み、母となった。その関係で江戸時代を通して尾張藩の厚い庇護を受けてきたという。さもあらん。

お寺が建つ理由はいろいろあるが、「土地を買って」というのが面白い。ワシもこれでアチコチの寺社を見てきているが、その建立のいわれは実に多種多様であることがわかった。

寺社の外観は似たように見えるが、昔は現在のように大建築は企業か役所が建てるもの等と決まっているわけではないことがよくわかった。

本堂・唐門・大方丈(いづれも重要文化財)のほか、小方丈・書院・鐘楼(いづれも京都府指定文化財)など、近世前期の建物を当時の規模そのままに保つ。なるほど。

唐門は三門に立つと正面に見える。鐘楼も入ってすぐにある。庫裏は塀の向こう。それ以上は近寄れないので早々に出た。

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◎飛行神社http://www.qailas.com/yawata/hiko/index.html

県道22号に出てしまったのだが、次は飛行神社だ。というと少し駅方向に戻る。神社は裏道に面してあった。道路からでは神社には見えない。普通の住宅のようだ。広さもその程度だろう。50坪くらいか。

入り口らしいところを入るとすぐにガラスケース入りのジェットエンジンが置いてある。J―79だ。F104やF4に使われたマッハ2を出すベストセラーエンジン。まあ、生産数も多いわけだが。

野外の展示ではひんまがったプロペラとそれに固着している朽ちたエンジンがある。(2枚目の写真)「零戦の機首」とあるが間違いなさそう。昭和58年に大阪湾で引き上げられたとある。

プロペラの曲がり具合から見て墜落時にはエンジンが回っていて、それで海面をたたいたので折れないで、ブレードが3枚とも曲がったものだろう。パイロットは無事だったろうか。シリンダーのヘッド部が失われていてピストンがむきだしになっている。

ここの鳥居は飛行機製作の材料であるジュラルミンだ。神社は二宮忠八が1915年に航空殉難者供養のために建て、1989年に飛行原理発見百周年を記念して、忠八の次男顕次郎によって再建されたものだということだ。それで新しいわけだ。

資料館もあったが、ワシは入らなかった。忠八は人が乗れる飛行機を作りたかったのだが叶わなかった。ワシはダメだったとか残念だったとかいう話は嫌いなのね。二宮忠八と聞いただけでネガティブな思いにとらわれるので、アンマシかかわりたくないのだ。

御祭神は空の神、飛行機の神様とされる饒速日命(にぎはやひのみこと)。大阪府交野市の磐船神社より勧請したものだ。

野外の展示ではもう一つ、プロペラがある。これは別の意味で印象的。このプロペラはなんと左巻きなのだ。(6枚目の写真)

飛行機に興味がない人はそれがどうしたとお思いでしょうが、ワシはこのプロペラの前でちょっとの時間考えてしまった。なんで左巻きなんだと。

飛行機のプロペラって99%右巻き、右回りなのね。プロペラの全盛期である第二次大戦中でも、日本、アメリカ、ドイツでは敵味方とも特殊な極一部を除いて右回りを使ったのだ。で、ただ、イギリスには左回りが多い(全部ではないが)

するとこれはイギリスのエンジンについていたプロペラだったのか。ただ、このプロペラ自体は実用のものにしては小さい、直径が2メートルほどしかない。(ちなみに零戦のは3.05メートル)もとは本物だったかも知れないが、それを小さく成型したものだろうか。

もちろん可能性として、初めからレプリカとして作ったなら、作った人の気まぐれで左巻きにナッチャッタということも考えられる。

ただ、そのブレードをとりつけてあるハブの部分はホンモノだろう。これに説明の掲示がなかったのか忘れたが写真はない。

「特殊な一部の機種」のものなのか、日本で英国機のプロペラを修理したりした経緯はあったのだろうかなあ。ちょっと想像がつかんのだが、あるとすれば当然戦後で、それも短期間のはずだ。

ちなみに日本で知られているYS11のエンジンはロールスロイスで左回りだが4枚プロペラだ。しかし、YSのエンジンは3千馬力ぐらいだろう、ここのはハブを見る限りせいぜい千馬力ぐらいのプロペラだ。

ここになぜ左回りのプロペラがあるのか。こういうところでミステリーがあるとは思わなかった。

PS・・・調べてわかりました。この左回りのプロペラはイギリスの双発旅客機デハビランド・ダブのものだと思われます。このプロペラの寄贈者は全日空だということなので、かつて同社が運航していた機体です。馬力も400馬力だから「小さくした」のではなく、オリジナルだろう。

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八幡様を出たが、帰りは東側の道を行く。帰り道も片側は崖だが竹林がある。エジソンの電球に八幡市の竹が使われたというからね。竹自慢?なのかな。

途中、展望台とかの表示があったので休憩を兼ねて行ってみる。たしかに展望がいい。京都方面が良く見える。そして谷崎潤一郎の文学碑がある。

説明の掲示があったがいたずら書きがひどくてよく読めないが以下にその一部。

「芦(ただし旧字)刈 抄」として
「わたしの乗った船が洲へ○○○せたとき男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして全山の木々の繁み・・・云々」と。


その後もテクテクというかギクシャク歩く。ケーブルの時間が気になったが急がないことにする。

やっと到着。ケーブルが発進。今度はワシ一人の貸切だ。こういう風に客が少なければ駅員も客の顔を覚えているだろう。帰りもトンネルですれ違いをやる。

心配したバイクは無事だった。表通りに出て、その県道22号を南下した。

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◎5月23日・石清水八幡宮http://www.iwashimizu.or.jp/

ケーブルの山上駅を降りると、道は駅の後方に回り込むように左右に分かれるが両方とも神社のある山頂にむかっている。とりあえず左側を行く。右手は谷側で竹林が下にのび、左手は山側になっている道をひたすら歩く。

距離にして300メートルくらいか、予想はしていたがなかなか大変。終わりのない不幸はない。やっと到着。朱の柱の明るさはいいね。救われた感じがする。

それまでの道のりと違って開放的な空間だ。神社本殿の後ろの方にも行けるようになっていて、小さい祠や校倉の建物などがある。それらを見物しつつ境内を1周。

当神社の創建は「平安時代初めの貞観元年(859)、大安寺の「行教」という僧が豊前国(大分県)の宇佐宮にこもり、八幡大神様の御託宣(お告げ)を受け、男山に八幡三所の神霊を奉安し、この年、清和天皇の御命令で木工寮権允橘良基(ごんのじょうたちばなのよしもと)が、この地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営して、八幡三所大神が正式に御鎮座したのが、貞観2年(860)4月3日のことという。(神社のサイトによる)

創建が1千年以上前で、西暦で3桁というといかにも有難い気になる。式内社中でも上位。社殿は徳川家光公の造営だという。回廊、楼門とともに重文だ。やはり美しい建物だ。

石清水の名のもとになった湧水にちなんだ石清水寺というのがその以前にもあったという。そしてこの神社は方角ではミヤコの南西で、裏鬼門にあたる。

しかし、いかんせん歩行に付いては厳しいものがあるワガハイゆえ、エジソン館とかその神社名のもとになった石清水も見るべきではあったが、寄り道に付いてはおおいに控えてしまった。仁和寺の法師を笑うべからず。

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◎5月23日・男山(おとこやま)ケーブルhttp://www.keihan.co.jp/syaryo/cable/

與杼(よど)神社を出て、あとはひたすら県道13号を南下。木津川を渡る。

石清水八幡宮は男山と言う海抜100メートルほどだろうか、小さい山の山頂にある。「おとこ山」とは名前が面白いが、いわれを知りたいと思って資料を見たが出ていなかった。

その男山のふもとには京阪八幡市駅があり、隣接して山頂に行くケーブルの駅がある。しかし駅前は妙にきれいなのが気になった。「クリーン運動」すなわち自転車放置禁止、強制撤去というやっかいなことがあるだろうと予想された。その主旨のはり紙も見られる。

仕方なくバイクは300メートルほども離れた先のわき道の奥にひっそりと停めた。その後ようやくのことで駅前に戻ると、駅前監視員?の腕章をまいたオジサンがあたりを警戒していた。オオアブネ。

ケーブル(ここ京阪ではケーブルカーではなくケーブルと言っている)の駅に行くとちょうどケーブルは出発の時刻だった。車輌はオレンジと赤の塗装(サイトの紹介記事ではそうらしい。ワシは赤緑色盲なので赤と緑系統の色はわからん。)15分おきに出るようだ。往復400円。

ケーブルに乗ると客は他にはオジサンが一人だけ。これで採算があうのだろうかと余計な心配をする。ケーブルはゆっくりと動き出して山を登り始めた。

窓の外の景色は徐々に視界が開けてくる。車内には蚊取り線香が置かれて気配りがある。

途中にトンネルがあって、もう一台のケーブルとすれ違うための回避線になっている。数分ほどだろうか、(2分半が公式のようだ)山頂駅に到着。高度はそれほどでもないがやはり空気がひんやりとしている。木々の匂いもする。

しかしここからがちょっと歩かされるのだ。これもまいったねえ。帰るわけに行かないってのが実に不安。

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◎5月23日・與杼神社(与杼神社 よどじんじゃ)http://www.yodojinja.com/yodojinja/index.html

淀城跡にくっついて與杼神社(与杼神社 よどじんじゃ)があった。これは知らなかったが淀城跡とは地続きなので足が向いた。

門前は京阪淀駅に接している。この乗降客の自転車やバイクが境内の奥までたくさん置かれている。境内は整備工事が始められていた。

問題なのはその神社名だ。與杼神社(与杼神社 よどじんじゃ)とはどういう訳なのか。当神社門前に掲げられている京都市の説明板やガイドには、応和年間(961~964年)に僧の千観内供(せんかんないぐ)が、肥前国(佐賀県)河上村の与度日女大神(よどひめおおかみ)を勧請した・・・という。

どうもここらへんにミステリーがある。当神社の由緒ではそれよりも古い延喜式(901年~)に当社の記述があるとしているのだ。「与渡日女大神」なんて認めていない!。それにここの祭神は豊玉姫命(トヨタマヒメノミコトと高皇産霊神(タカミムスビノカミと速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)だけしかないようなのだ。

与度日女大神(よどひめおおかみ)を勧進して・・・と聞くと、なるほどその名にちなんでここを「よど」神社としたのかと思ってしまうが、じつはワシは京都市が出しているこの神社の説明板を見たとき、「えっ?、よどっていう意味は祭神の名から来ているの?」と思い、クビをひねったのだ。

じゃあ、この地域の「よど」という地勢的な特長とどういう関係なのか。単に与度日女大神(よどひめおおかみ)を祀ったことで「よど神社」としたなら(京都市は具体的には断定してないが)地勢的なものは無関係だ。よしんば関係があるとしても地元の人が「ここは『よど』だから、同名の祭神として「与度日女大神(よどひめおおかみ)」を持ってこよう」と考えて与度日女大神を持ってきたかも知れないが、それは神社成立とは年代的に無関係だ。

これはちょっと問題じゃないのかな。京都市は神社の主張を無視していることになるし、神社側の説明の方が実際、説得力がある。名前が似ているからという理由で「あとから」祭神にしたなんておかしい。本末転倒もいいところだ。

まとめるとこうだ、ここらへんは「よど」という地勢的な特徴がある地域なので地名として「よど」とされていた。そして神社を建立するにあたって「與杼神社(与杼神社 よどじんじゃ)」を建てた。その祭神は豊玉姫命(トヨタマヒメノミコトと高皇産霊神(タカミムスビノカミと速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)だ。

だが、その後どういうわけか千観内供(せんかんないぐ)という僧が、肥前国(佐賀県)河上村の与度日女大神(よどひめおおかみ)を「読みが同じなので」勧請した。まあ、持って来ちゃったというわけだ。・・・とされている。

それがいつしか先後が逆転し与度日女大神(よどひめおおかみ)が来たから「與杼神社(与杼神社」になったとなった・・・というわけだ。

与度日女大神(よどひめおおかみ)なんて佐賀県だ。単にダジャレ的に同名というだけじゃないのか。ワシはやはりそれは全然無関係と思う。(前途したように少なくとも神社のサイトでは「それよりまえに神社はあった」としているからね)

そう考えると「勧進」ってどういうことなのか。すでにある神社に他の神様を持ってきたということなのか。百歩譲って神社を創建するから名前の似た神様を持ってきたというのか。

それにしても神社ではそんなことは「言われておりますが」と言うくらいで、祀られているとは言ってない!。本当に「勧進」なんてあったのか、それさえも疑問になってくるね。

実際、与度日女大神(よどひめおおかみ)なんて祀られてないんじゃないのか。

もっともワシの推論はせいぜいネットでの知識だけだから知っている人からは笑われそうだが、もちろん無知のなせる業なので間違ってたらソッコク訂正いたしますよ)

PS(08/01/28)・・・新証拠が出たわけではないが、「佐賀の与度日女大神の勧進」というのはガセであろう。千観内供も特に当神社と関係があったようでもない。別の地に名前の似た神社があるというので誰かがいたずらにこじつけたのだろう。現在、神社側でも認めていないようであるし、現状、根拠はないと言える。

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◎淀城跡http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/kyoto/temple/yodo-shrine-05.htm

石清水八幡宮は比較的長距離で、行ける時に行っておこうかと思った。

場所は八幡市になる。市の沿革をみると、やはり石清水八幡宮を祀った門前町が基礎となっている。

東山から行くにはR1を大阪方面に少し走って大手筋という交差点で県道13号に入る。それを長めに走って木津川を渡ると石清水八幡宮近く。

特に迷うようなルートではない。が、マップには淀城跡というのが県道の沿線にあるので、気をつけていたが、すぐにわかったので寄り道。

県道側には公園がある。その入り口付近にバイクを置いて公園に入っていった。公園内にそれらしい石垣があり、石垣の下は昔の堀が一部だろうが残っている。

連想どおりに「よどんで」いたわけだが、木津川、宇治川、桂川が合流する地域ということで、それが語源でいいのかな。わからんが。

ただ、この城の名の元に付いては「よど」というのは必ずしも水のことではなく、街道での物資の集積のことを言うらしい。・・・とあとでわかった。

昔は物資の大量輸送は水運が主だから、そういう意味でも河川が集中する場所は重要地点だったろう。

城の起源は場所は違うようだが明徳2年(1391)山名氏清に始まり、以後は大阪と京都を結ぶ要衡であることから時の政権の興亡に関わることになったのだ。つわものどもが夢の跡。徳川時代になって現在に残る形で築城されたようだ。

石垣は低いものなので上がれるようになっている。どこまで行けるかわからないが遊歩道状になっている石垣上を歩いてみた。石垣の下は堀がめぐっている。白鷺が羽を休めている。

石垣はそれほど大規模でなく、回り込んだところでまた公園内に降りる。石になにか謎めいたものはないかと石の表面を観察したが、一箇所何かのマークのような刻まれた部分があったが他はただの石ばかりだった。(写真7枚目)

PS・・・マークのような刻まれた部分はネットで見たら薩摩藩島津家のものらしい。写真7枚目。詳細不明。たしかに丸に十の字は薩摩だ。

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◎5月22日・赤山禅院(せきざんぜんいん)http://www.kamnavi.net/it/kinki/sekizanzen.htm

曼殊院のあとで近いのは修学院離宮だ。で、それらしい門構えのところに行ったのだが、バリケードあり。それでガイドを見直したら予約制だ。それでその北方向に走って赤山禅院。

ここはすごかったね。神様のデパートというか、どこがどうなっているのか、境内も迷路のようだ。比較的小型のお堂がところせましと立ち並んで、それぞれに別々にご利益があるのだ。

またそれぞれの社前にはカタカナでかかれた真言がご丁寧にかかげられていて、それを見て参拝すればいいようになっている。なにかお願い事をしようかと思ったが、急には思いつかんもんだ。

ネットで調べると、比叡山延暦寺の塔頭であり、天台宗の鎮守神として赤山明神を祀ったのがはじまり。赤山明神は、陰陽道の祖神であり、中国の泰山府君(たいざんふくん)のことで、これを祀って神社風のただずまい。鳥居もあったからなあ。

位置的には都の表鬼門を守る。たしかに屋根に「神猿」、「魔がサル」として猿の魔よけが見られる。

寺内、なにか行事があるのかお坊さんらしい人たちが忙しそうで、テントも見える。建物の軒下に大昔の消防ポンプがあった。これもある意味すごい。

狛犬が逆立ちでもないだろうが、猫類が見せる戦闘態勢のようなかっこうしていたのも面白い。それに「願い玉」と言ったかな(違うかもしれない)「ちのわ」のようにお堂の前にケースに入った「玉」もここだけで見る。そう、絵馬もヒトガタだったな。これも他じゃ見ない。

寺内は宗教施設らしさにあふれていて、参拝客はいくらも見なかったが「熱気」のようなものがむんむんと感じられた。これが「宗教的パワー」というものだろうか。

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◎5月22日・曼殊院http://www.manshuinmonzeki.jp/

詩仙堂の北東方向に、というか山すそを回り込むと曼殊院がある。そこは当然探しながら行ったがこの曼殊院の周囲の風景が妙に魅力的なのだ。ドラマやCMのシーンでも充分使えそうなのだ。ワシは途中で思わず立ち止まってあたりを眺めてしまったよ。ホント。一枚目の写真がその一部ね。

で、曼殊院。拝観料500円。ちょっと安め。このところ拝観料で規模や重要度の予想がつくようになってしまった。で、入ってみて大体予想通り。

印象としては、なにか軽やかと言うか、薄味というか、ナイーブというか、女性的というか。

創建は、かの最澄のころで延暦年間、西暦800年ころ。その後各地を転々として現在の場所に落ち着いたのは明暦2年(1656年)というが、800年も場所が定まらないってのはいかにもヘンだと思うけど、「軽い」ということが災いしたものか、それともなくならなかっただけでも幸いなのか。

天台宗5大門跡の一つで、竹内門跡と称したというから、もともとお上品な性格の寺院なのである。やっぱりねえ。

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◎5月22日・詩仙堂http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E4%BB%99%E5%A0%82

下り松の後は詩仙堂。京都は庭園の見本市のようなところだ。大掛かりな庭園も見たが詩仙堂の庭園は石川丈山の個人趣味が反映されている親しみやすさがある・・・と、予想した。

詩仙堂は京都でもはずれにあって、これより東はなにもない。周辺の土地自体に傾斜がある。案内書にも「凹凸窠(おうとつか)」と称される土地とある。元サムライが隠棲するに相応しいだろう。

入り口はいかにも昔の古屋然としたもの。期待を裏切らない。奥の玄関に受付。入場料500円。エントランスは(不動産屋か)普通の古い住宅に招かれた様。

内部はいわゆるお屋敷ではないから簡素なものだが書画の類が多く見える。「詩仙」のいわれのもとである「詩仙の間」に36詩人の絵も掲げられているのが見られた。

詩仙の間から庭をながめつつ一休みして備えのサンダルをはいて庭に出た。ここでは「僧都」(そうず「添水」そうず)と言うらしいが鹿おどしがゆっくりした間で音を出していた。

しずかにゆっくりと息抜きにまわるには広すぎず狭すぎずと言った大きさだ。最近田舎に住みたいというようなブームがあるようだが、こんな庭のある家に住みたいと思う人も多いのではないか。

邸内に資料として掲示されていた写真にイギリスのチャールズ皇太子が来訪した写真があった。これはガーデニングつながりならまんざら無関係でもないかと思ったがどうだろうか。

このあとなぜか石川丈山の名を他でも何回か見ることになった。