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◎グリル衣笠でランチhttp://psg01001.cocolog-nifty.com/blog/

ガイドで見た金閣寺の近くのレストランは見つからず。ランチタイムも終りそうな時間なので目に付いた店に入った。金閣寺のすぐ南だろう。あたりをぐるぐる回ったので場所がわからなくなった。

店名は場所柄、「グリル衣笠」とある。看板には「洋定食35種」という主張。こういうのは好きだね。主人の意気込みを感じる。

店頭の黒板に「サービスランチ」の書き込みあり。ぎりぎり間に合うだろう。店内はテーブルが3つ位か。お客は郵便局員らしい一人だけ。店は中年のご主人と奥さんでやっているようだ。

サービスランチ680円を注文。待つ間壁の張り紙を見ていたが、PCで作った感じのメニューの紹介だ。聞いたわけではないが若い女性が作ったのではないかと勝手に思った。関連のBLOGがあって(上掲)、そこに写真があるので見られます。

サービスランチは鳥から揚げと白身魚のフライにスパゲッティが少し、それにライスと味噌汁。値段のわりにボリュームがある。近くに住んでいたら常連になるだろう。

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◎首途(かどで)八幡宮http://www.nishijin.net/kadodehachimangu/

これは他のところに行こうとして途中で見かけたので入ったので偉そうには言えないが、なかなか印象的な神社だった。

えんま堂を出て千本通りを下がり、今出川通りを東に行き智恵光院通りを上がってすぐのところ左手に見落としてしまいそうにかろうじて小ぶりの鳥居だけが道路に面している。この間数分。人通りもない地区。

これがあれかと急ブレーキ。早速入ったが、意外に参道が長い。また意外にも出てくる人とすれ違う。そして参道のつき当たりは非常階段のように狭い石段が、これが意外にも二股になっている。えっ?どっちか選ぶの?。うっそー。

だが、石段の下で見上げると上でつながっているのがわかった。それに高さも2メートル位か。これくらいならなにもわざわざ「山」にすることもあるまいなどどツッコム。

しかし神社としてのパーツは一応そろっている。そしてこんなところに義経伝説だ。しかも一度来ただけで「通称」を作られる。もとは「内野八幡宮」だというが「首途」と書いて「かどで」と読むのことも知らなかったが。(辞書には載ってる)

石段は登りは鳥居のあるほうを行った。帰りはもう一つの方を降りた。義経はどっちの石段を上り下りしたのか。それに、この二股は「門出」にあたって自分の行く道を選ぶという状況を象徴になっているように見える。単なる神社名の通称に過ぎないとは言えないのではないのか。

この二股石段で連想される状況が「門出」「首途」という通称を作ったといえるのではないか。そう思う。義経とは関係なくネ。

当社は内裏の北東にあって王城鎮護の神とされ、もとの名は「内野八幡宮」誉田別尊(応神天皇)・比賣大神・息長帯姫命(神功皇后)をまつる。かつてこの地に金売吉次の屋敷があったと伝えられ、源義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願したのだ。

とにかくかわいらしく、謎の二股石段もある。特色多い神社である。

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◎引接寺(いんじょうじ・千本えんま堂)http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/injyou-ji.htm

わら天神からは少し下がってわら天神前交差点を左折、途中狭くなる寺之内通りを東進、千本通りに出て少し上がれば千本えんま堂。

近くに商店街があったかな、そういうこともあって外見は宗教色を感じないというか、まさかお寺とは思えない風情。チョットの間、ここがそうなのかと考えた。駐車場だろうかなんて。でも看板もあるので間違いなさそう。

たしかに月極めの駐車場もやっているんだろう。全然とがめる人もいないのを幸いに「空き地」を入って行く。

正面には本堂がある。開け放たれていて参観自由だ。たしかにはじめ気抜けしたが、しかし、ここに御鎮座あそばす閻魔様は全身は現さず、わずかに顔の半分が見えるだけになっているが、コワイ!(3枚目の写真)正しく生きようと思う。

少ししか見えなかったが、誰かに似ていると思ったが島木譲二だ。

本堂を中に入って行く。いろいろ張り紙があっていかにも手作り感いっぱい。なんの為か大きい水槽のようなものがあってその向こうにお地蔵さんがたくさん並んでいる。

当寺は小野篁(おのたかむら。802~853年)が開基。篁は、地獄で「閻魔大王」に会い精霊(しょうらい)を現世に迎える秘法を教えられ、それを衆生(しゅじょう)に伝えるために堂を建てた。その後、平安初期の長保6年(1004年)、定覚(じょうかく)上人が引接寺(いんじゅうじ)と命名して開山したと伝えられる。

小野篁は六堂珍皇寺でもその名を見ることになるが、異能の持ち主で地獄と行き来したという人物だ。ここが本拠だったのかな。

紫式部(979?~1016?)が、篁を敬っていたものか当寺には紫式部の重文の供養等がある(6枚目の写真。半分だけだが)高さ6m余りの石造十重。紫野の白毫院(びゃくごういん)から移転されたもので、そもそもは南北朝時代の至徳3年(1386年)に紫式部の不遇な生涯を弔って建立された。移転の経緯は不明と言う。堀川北大路下る西側に二人の墓があるというが、見たかった。

境内南側の建物玄関の頭上にケージに入ったえん魔様があった(8枚目の写真。見にくいが)これはどういうイワレか。面白いが謎だ。

小野篁(おのたかむら)と紫式部との関係や供養等のいわれなどは調べると面白いかも知れん。京都に住んでいればなあ。

そうそう、今回の京都旅行はなぜか小野篁の名をあちこちで見ることになったが呼ばれたのか。

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◎敷地神社(わら天神)http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/03/060/index.html

平野神社を出て西大路通りを北上すればいくらもせずに左手に敷地神社だ。というより「わら天神」のほうがトオリがいいのかな、近くの交差点の表示にも「わら天神前」とある。

西大路通りの鳥居を西に向って入ると参道は北向きに曲がる。奥に2棟の社が前後にずれて建つ。左が本殿で、右は摂社の六勝神社。この風景はチョット面白い。摂社としては本殿にせまるような存在なのか。

わら天神の「わら」と言うのは当神社の護符が「わら」で、その節の有無で赤ん坊の男女を占ったと言うこと。そして安産の神様になった。ワシが行ったときにもお宮参りの人がいた。

神社の由緒は古く、もともとは北山の神として、現在の金閣寺あたりにあった天神地祇だという。そして、天長8年(831年)、氷室が設けられたおりに、その夫役(「ふえき」?これは労役の提供ということかな)として加賀の国より移住した人たちが、もともとかの地で崇敬していた菅生石部神(すごういそべ)の分霊を勧請して、子々孫々の氏神とすべく、北山の神の西隣に祀ったそうで、祭神を菅生石部神の御母、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)と定めたとのことでした。と神社のサイトにある。

で、金閣寺を造るときにここに移されたのだ。しかし「わら」のことがわからない。まあお稲荷さんとの連想で、「いなり」は「いね」で、それが「わら」になる。縁起がいいとは言えるだろうが。「笑(わら)う」とも言えるのかな。または「魔」を「はらう」が転じて「わらう」、それが「わら」になったと・・・まあそのくらいでいいか。

そして摂社として六勝神社が隣接している。一見、二つの神社があるように見えるが摂社は遠慮して?後ろに下がってる。これは奈良から移ったものとどこかのサイトに出ていた。奈良には「六所神社」と言うのがあるからそれでしょう。「六所」が「六勝」になったものか。

わら天神で安産、お宮参りをし、長じては六勝神社で学業成就を祈願する。一貫している。

境内には下り松を思いださせるような木の株も祀られている「綾の杉」。「拾遺集」に安和元年(968年)に読まれていたと言うから古めかしいものだ。明治時代に倒壊したというがそれまで生きてたのかな。

実をいうとこの神社のことはなかなか難しい。「勧進」や「移転」や「合祀」が重なっているんでね。それに創建が天皇や有力者でないのではっきりしなくなっているのだ。

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◎平野神社http://www.geocities.jp/daa01397/

丸太町通りを西進して円町交差点、そこを右折、西大路通りを北上、右手に平野神社がある。ここまで来ると人通りも少ない。やはりこのくらいがいいね。

神社は平城京に今木大神として祀られていて794年の平安遷都とともに当地に御遷座した式内社というから由緒正しきことおびただしい。しかもかつての社地は御所に匹敵するというからすごい。

ただ、現在はなにかやたら静かな境内だ。重文である本殿は春日造りを2棟づつ連結して平野造りとされるという(6枚目の写真がそれ)。外観4棟に見えるが実質2棟なのね、なるほど。ここらへんが面白い。垣根のすきまから覗き込んでしまいました。

それに桜も有名なのかな、50種400本があると言う。ワシはそういう時季をわざとはずして来たからね。残念ながら。

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◎大極殿址の石碑http://kaiwai.city.kyoto.jp/sightdb/sight-raku/view_sight.php?InforKindCode=10&ManageCode=9000193

神泉苑を出て御池通りを西進、千本通り二条駅前につき当たり、北上して丸太町通り交差点の北西かど近くに大極殿跡の石碑がある。

内野児童公園があって、その東側入り口に「大極殿遺址道」と彫られた道標?があり、石碑は公園に入って真ん中に基壇もそえられてうやうやしく建っていた。ただ、周囲には遺構などはないようだ。

他に見るべきものもないので公園から出ると歩道の縁石の上に「小安殿跡」(しょうあんでん。天皇が大極殿にお出ましになる前に休む場所)とあるブロックがのっていた。

この大極殿は現在の平安神宮に小規模ながらかつての姿をしのぶことができるそうであるが、さぞや壮麗なものであったことがうかがわれる。そう言えば千本通りもかつては朱雀大路であり道幅は84メートルもあったというから昔のほうが大都市であったか。

交差点近くの歩道には「大極殿跡」というプレートもはめ込まれているそうだが、見落とした。それにこの周辺には宮殿跡を示す石碑がいくつかあるらしい。

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◎神泉苑http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/shinsen-en.htm

神泉苑は御池通りの名のもとになっているらしい。御池通りから入った。とりあえずは放生池という池しかないと言った印象。行って見るとわかるが池の周囲は市街地としての重要性の方が高いと見えて住居、建物が池に近く迫っている。

池と言うと公園などを連想するが、ここには残念ながら「池のまわりを散策」といった風情は望めない。「池として残ればいいのだ」という方針の決意が感じられる。

鳥居から入って中央は善女龍王の祠、西側は聖観音の本堂。雨乞いも行われたらしい。説明の立札には謡曲「鷺」のもとになった話や「ごい鷺」の由来などもあるように書かれている。

当地の雨乞いの儀式での奉納舞を舞う静御前を見初めたのが源義経と言う話が伝わっているからロマンチックな場所でもあったのだ。

神泉苑と言えば恵方社。日本で唯一とある。かわいらしい祠がそれだ。今年は亥子(いね)、北北西が吉方位とある。なるほど。

池の周りを散策ならぬ探索と思って歩いたが西側は裏になる押小路通りに出てしまった。一周できないのかなあ。戻って東側にも周ったが行けなかった。ホントは行けたのかなあ。わからん。

池の周りは狭いのだが、だからこそかいろいろあったが亀塚に鯉塚なんてのもあった。

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◎かねよのきんし丼http://tabitano.main.jp/7kaneyo.html

今日は遠出をしたなあと思いつつ、戻ってきたのがこれまたにぎやかな河原町。バイクを停めるのも注意が必要。

行ったのが「かねよ」。河原町通りから入って、六角通りに面する。店の構えも古めかしく店内も時代を感じる。客は一人だけ。頼んだのが「きんし丼」1470円。

いくらも待たずに運ばれてきたドンブリ。全面に卵焼きが乗っている。イワレは知らないが「錦糸」ではないと思うが・・・これはこれでアイデアだ。卵焼きの下にはうなぎ。がつがつといただく。

店では日によりイベントで落語の公演もやっているような張り紙があった。

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◎松花堂庭園http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/burari10_shokadou.html

東高野街道を行って飛行神社から正法寺までは約2キロ、さらに松花堂庭園までは1キロくらい。街道に面して古い門構えがある。ただこれは使われてない。庭園入り口はそこを左折して、県道だろうか(手持ちの地図数冊にはなぜか道路名が出てない)回り込んだところ。

松花堂昭乗は生年がそもそも天正10年とか12年(1584年)とかはっきりせず、よって出生も明確でないらしく本人もわからなかったのか人に語ることがなかったということで、豊臣秀次の子という説もあるらしい。こんなところにもミステリーだ。

昭乗は近衛信尹(このえ のぶただ 永禄8年(1565) - 慶長19年(1614))、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられた能書家で、石清水八幡宮の社僧であった経緯からか男山に松花堂なる草堂を建て詩仙堂の石川丈山や小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客と交わった。

現在の場所には明治になって再現されたものだ。ただ、ここは東車塚古墳だと言うがその古墳はどうなっているのか。

庭園は新しい。入場料は庭園だけなら400円、美術館も400円だが両方行けば割引で700円。市民は無料とある。他に入場者はちらほらといったところ。水が流れ鯉が泳いでいる。竹林があり、木々も茂っている。順路を行くが、遠くを見渡すこともできないのでこの先がどうなっているのか期待感を持たせるのはうまいと思うが。

こういうところはまさに西洋の庭園と好対照であろう。自分の位置が常に不確定、不明確であって、そこはかとない無常観がただよう、というのは考えすぎか、いや、やはりそういう思想だと思う。

昭乗の生きた時代は関が原の戦を挟んで歴史の動乱期にあって昭乗自身の生きざまもまた紆余曲折があったのであり、そのなかだからこそ仏教思想を生きたとも言える。

茶室は松蔭、竹蔭、梅蔭、など。書院があり、水琴窟の音も聞いた。砧の手水鉢も見る。吉井勇の歌碑あり。

伝説の女郎花塚も見る。(写真は2枚目)ただ、これはあくまで伝説らしい。相手の頼風なる人物は架空だという。この松花堂庭園に来る前に頼風塚を見るつもりだったが行き着けなかった。

このあと美術館にいったが、例の松花堂弁当のもとになったという木の箱を見た。

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◎東高野街道http://murata35.cool.ne.jp/hosinomati/katanokodo/higasikoyakaido.htm

飛行神社の前の道を裏道なんて言って失礼したが、これを更に南下してわかったのだが立派な街道であった。その名は東高野街道(ひがしこうや?)。

八幡市から南下するには当初道幅も広い県道22号の方がいいかと思ったのだが、飛行神社の前の道もまっすぐ南に伸びているようなのでそのまま行ってみた。しかし、これが意外にも信号もなく、他の車もなくひたすら直線に伸びていた。これはおそらく旧街道に違いないと走り続けた。

途中新旧の道標もあり、やはり旧街道だとわかった。街道名の「高野」も高野山から来ているのだ。と思う。街道は京都と高野山を結んでおり、西高野街道、中高野街道もある。

この街道はオススメだ。時代の空気を感じることができる。