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素人の中途半端な知識で書いてる妄想になってますので、

ご了承ください。


前回の記事で、考え方が堂々巡りの状態になってしまいました。

辛い状態です。これは苦しい。


まわりの事を見ないようにしたらいいんでしょうか?

いちいち周りのことに驚かないようにする。

ところが、この考え方は、自分自身はまったく変わってませんから、

常に自分をごまかさないといけない。

これは苦しいんですね。常に哀しさが付きまといます。


で、どうする?


頭で考えられることは、もう終わりに近いです。


自分を半分に分けます。もちろん頭の中で。

で、イメージの上で、そのうちの一人を空中に上がらせます。

地上では今まで通り、もうひとりの自分があせって、いろいろやっています。

それを空中の自分が、冷静に観察します。

「まぁ。そう怒るなよ。自分。」

と、自分を自分でなだめる。


で、今のわたしの知識では、頭で考えられるのは、ここまでなんですよね。


この先は、たぶん言葉で表せない領域に入ります。

この状態でずっとがんばってみなさい。何かわかるから。

ということなんじゃないか?と思います。


だからこの先は、たとえば宗教では、自分を含めた今地上で起こっていることは、

すべて幻想である。と言います。

すべてが矛盾だらけ。すべてが人間を惑わすための罠である。と。

うーん。どうなんでしょう。わかったような。わからないような。


ここからは、わたしも体験が無いからわかりません。


ただ、上に書いた考え方。自分を二人に分けて、一人が空中から

観察する。という考え方。悪くないですよ。けっこう使えます。

フランクル心理学の”自己距離化”と言います。



それで、この話の最後の「オチ」なんですが、

じゃあ、これ以上の体験ができた人ってどんな人なんだろう?

って、考えるとします。

イメージとしては、仏さんかな?イエス・キリスト?

いや、それは無理。だってこれから、山にこもるわけじゃないんですから。

日常生活は続けたいわけですから。

日常生活を続けながら、精神的に極めている人ということになります。



で、わたしそれに近い人を見つけてしまったんですね。

すべてでは無いですよ。一部ですけど。

それが、知的障害者だったんですね。

彼ら(彼女ら)の”こだわらない”精神には、完全に脱帽してしまいました。



ということで、連続で書いてきましたが、わたしの考えは、

”精神障害の人々の気持ちが理解できない”

という考えから始まって、

”知的障害の人々はわたしよりすごい”

という精神障害から精神障害までという輪を描くのです。

いいでしょ。


おわり


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おはようございます。

昨日、古本の入札市で一日大阪に行ってました。


では今日の弁当。
きゅうりの塩もみ

卵焼き

なすの甘辛煮


おぉ。また苦し紛れの卵焼きになってしまいました。

pupper さんにポテトサラダを教わったので、

作り始めたのですが、じゃがいも茹でるのって、

時間かかるのですな。

いや知らんかった。7時起きでは間に合わんかった。


で、結局昨日使ったナスの汁にまた、ナスを入れて、

ナスの甘辛煮を作り、あと卵焼きでごまかしたー。


で。娘が出かけてからできたポテサラがこれ→

はじめて作ったっす。

ぎざうます。

おぉ、これをコンビニで¥250プラスαで

買っておったのか?と妙な感動の仕方。

夕馬さんも娘しゃんもポテサラ大好物なので、

今日食べてなんと言うかごっつうたのしみ。

pupper さん感謝。






で、洗濯して、ゴミ出して、掃除して、忙しくいろいろ

やっておると、ひま太郎が暗いところから眺めておる。→

「おぉ。すまんのう」

で。犬と猫にえさをやる。


で。やっとパソコンの前に座る。

で。思う。

「わしとこ娘ひとりやのに。こんなん毎日か。

みんな子ども2人や3人いるのに、

こりゃ、たいへんやな。」と。


それと今日思ったことがもうひとつ。

ポテサラが間に合わんので、少々焦った。

これ、若い頃のわしなら、ストレスだったかもしれん。

今ならよく考えたら、娘に

「すまん、今日間に合わんし、500円やるから、

パン買うてくれ。」

と、言えばええわー。と思いながら、

適当に卵焼き作って間に合った。


ここから、少しパニック障害の感覚が掴めないか?

と考えてみる。

いや分かってないのだろうけど、挑戦はしてみるべし。

みにもるさんとコメントで話したのですが、ロゴセラピストの訓練はこういうところ

でするのだとわしは考えてる。

人間はまったく同じ人間、まったく同じ経験をした人間はいないわけで、

自分が経験したことを生かして、他人の心を思うしかないのですな。


ということで、弁当作りがパニックになったことも意味があったかも。

意味があることだ。と思うと落ち着く事ができる。

落ち着く事ができると、適当にうまくできてしまう。


わしが、弁当を作ることも、たいへんさがよくわかって、夕馬さんの

今までのたいへんさがよくわかった。

そして夕馬さんにこころから感謝することができる。

そうすると、わしが自分の仕事を失敗したことも意味があったと思える。


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で、逆さことばの恐ろしさを書きます。ここからわしの独り言です。

フランクル心理学も一切関係ありません。

わたし個人の考えです。


このわしの例を使います。


わたしは、この先こう思います。

「わたしは、奥さんのたいへんさがよくわかった。」

「わたしは、奥さんにこころから感謝している。」

「世の中の男達はそのことに気がついていない。」

「だからわたしは偉い。」


これが、実はわしの劣等感から出てきてます。

自分が仕事を失敗したことから、心の勉強を始め、このような事に気がつくと、

わしは、精神的に進歩しているという考えを持ってしまいます。


で、今度は劣等感を消す事を考えます。

他人を攻撃しない事を意識します。

ところが、そこにまた精神的に進歩した気がしてきて、

実は心の中で他人を攻撃しています。


自分と他人がいる限り、永遠に無くなりません。


この問題は、気がついている人はすでにわかると思います。

この世の中で、現在進行形で続いている争いの原因の一部ですね。

価値観の違いから、金持ちの事を攻撃する思想に繋がる場合があるわけです。

それぞれ皆さんに言い分があるわけで・・・・

だからこれ以上、よけいなことは書きません。



で、どうする?



他人がいる限り、劣等感は消えないのか?

そこで、すべてを無と考えよう。とか、

すべてを許そう。なんて、考えが思いつきます。



もう妄想モードに突入しました。


逆さ言葉の恐ろしいところは、考えがぐるぐる堂々巡りを始めてしまうところです。


ここからは、いろんな考え方があります。

宗教、哲学、トランスパーソナル心理学、精神世界、そしてフランクル心理学

明日は、わたしが気に入っている考えかたを書きますが、もうすでに

妄想の世界に入っていますので、興味がある方だけ読んでくれたら嬉しいです。



夕馬が、「あんたは相当な変わりもんやで」

と言います。

わしも思う。


一番大切なことは、自分の人生に納得ができて、気分良く生きられることです。

人の話は半分にしておいて、自分の気に入った考えを自分で作るのがいいのでは?

と思ってます。


もう勝手につづけるー。


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おはようございます

お弁当記事だけ、追加しました

やっぱり作ったからには、え張らなくては(`(エ)´)ノ_彡

ごはんの横にはpupper さんに教わったピーマン

あと、なすの甘辛煮、あげのマーボあんかけ、

そして、なぜか昨日の残りの日清やきそば(笑)

なんで、一番手間のかからないインスタントが、

わざわざ昨日から残っているのか?

我ながら、無駄な動きを朝からしてます。


そして思った。

わしは、いちいち娘にこのおかずでいいのかを

聞いてるのだ。

こ~れは問題だ。たぶん。

いろいろ気になってしょうがない。

仕事してても、わしこういう神経質なとこあったなー。って

わしの性格的問題点ね。

そして、わしのような親が子育てしてたら、

どんな子どもになってただろう?


うちは、もう高校だかんね。

まぁ、もう変わんねぇ。と思いますが。


いや。弁当作り。深いです。

下は零時アップの分です。


それでは、みなさん

よい一日を


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そうかー。こうやって順を追って書けばいいのか。妙に納得。


昨日まで、鬱病やひきこもりの方の、その周りの方の心労について

書いてきました。

今日は、病気の方の側から書いていきたいと思います。

といってもわたし自身が病気の苦しさをわかっていませんし、

素人なわけですから、言葉足らずな部分は出てくるかもしれません。

ご勘弁ください。


鬱病、ひきこもりの方、他には今だと燃え尽き症候群、

そしてアナウンサーさんの自殺という衝撃的な話題もありますね。

非常に苦しい時代な感じがひしひしと伝わってきます。

しかし、逆さことばで考えてみると、今の時代は、自分のことを

真剣に考える機会を与えてくれてるのかもしれない。


ヴィクトール・フランクルは、人間には生きる意味が必要だと言います。

鬱病やひきこもりになってしまったら、いろんな事を考えるのではないか?

生きる意味ってなんだろう?


わたしは精神障害の方々と仕事をしてきて痛感したことがあります。

「わたしには、鬱病やひきこもりの方の苦しさはわからない」ということです。

当たり前ですよね。

わたしは、自分がわからないくせに精神障害の方の話を聞いている自分に

ほとほと嫌気がさしてしまいました。



人間は共感してくれる人がいると、とってもホッとしますよね。

「あー私のことをわかってくれてるー」って。

でも「僕って共感してないじゃん」・・こう気がついちゃったんですね。



つまり鬱病やひきこもりになられた方々は、同じように鬱病やひきこもりに

なられた方の苦しみ、辛さをこころから共感することができる方々なんですね。

ここで逆さことばを使うと、鬱病やひきこもりになったことは、人生の失敗ではなく、

何か意味のある存在なんだと考えることもできるわけです。



そんな甘くないですか?そんな簡単ではないでしょうね。

ただ、少しでも何かのきっかけにならないか?と思って今日は書きました。



今日の話はたしかに実績がたしかではない話なので、わたしの独り言ですね。

しかし、症状が好転することで、他の同じ症状の方々の希望の星になることは

まちがいないですし、実際ブログにはそのようなメッセージを発信されている

鬱病や引きこもりの方はたくさんおられますもんね。

ブログランキングの鬱病ランキングでたくさんのブログがあるので

驚きました。


ただ、逆さことばは、まちがえた方向へ発展するとたいへん危険な思想になります。

ポイントは劣等感なんです。わたしも漸次 さんのブログ読んでから、

またいろいろ考え始めました。

ヴィクトール・フランクルがほんとうに皆さんに伝えようとしてくれていた事も

逆さことばを越えた思いなのです。が、はたしてわたし自身もわかっているのか?

そこのところを明日書きます。


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  yuumanoboke saikin dannano waruguchi bakka kaitoruyanke!


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いや、まえに娘しゃんとエド・はるみごっこしたもんで。(・・。)ゞ

鳥居みゆきごっこもしますよヽ( )`ε´( )ノ

今日の記事は、後生ですので必ず昨日の記事を先に読んでください。

逆さことばについては、ずっと書きたかったんです。気付きとして。

逆さことばのほんとうの醍醐味は、昨日のような一世一代の気付きです。

鬱病やひきこもりの方との生活。それは、一生続くかもしれません。

そして、当初の人生計画がすべて狂ってしまうかもしれません。

そのような出口の見えないどん底のような気分の中で、もしかしたら

鬱病やひきこもりの方は、わたしに自分を見つめる機会を与えてくれる人

だったのか?という気付きは、人生の大どんでんがえしです。



このように逆さことばで人生を考えてみれば?という記事は前々から

ずっと書きたかったのですが、なかなか書けなかった。

受け取り方によっては非常に危険な勘違いもあるからです。

ほんとにに真剣に人生を考えて、なおかつ出口の見えない

そのような時、逆さことばは大きなヒントを与えてくれるかもしれません。



心の病気から抜け出した手記を読んでいると、けっこうあるのが、

「病気を直さなくちゃ、直さなくちゃ。と焦っていたけど、ある時

治らなくたっていいじゃん。病気と仲良くしていこう!と思ったとたん

好転した」

なんて話。



ヴィクトール・フランクルは自分の命をかけて、一世一代の考えかたを

残してくださりました。

強制収容所に入れられて、どうすることもできない。

その逃げる事のできない、避けることのできない、出口の無い宿命。

全てをあきらめるしか道は無いように見える状況。

生ける屍のように惰性で生きるだけなのか?



そのような状況でも人間は未来に希望を持つ事ができる。

人間はどんな状況にあっても未来に希望を持つ事ができるのを

自分で証明してくれたのが、ヴィクトール・フランクルなんですね。



すべてのことに意味がある。いいですねー。

もうひとつ。フランクルから素晴らしい言葉を。

心が病気になっても精神が病むことはけっして無い。


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身内や部下が鬱病やひきこもりになってしまった。

どのように接したらいいのだろう。

周りの方がまず精神的に楽になる事を目的にして書いてみます。

個人的な考えなことをご了承お願いします。


まずは、相手の方が病気が治って欲しいです。

正確には、鬱病の場合は、寛解 (かんかい) という、症状が出なくなる状況を

目指します。


「がんばって!」と、鬱病の方に声を掛ける事が禁句であることは、有名になってきました。

とにかく、治って欲しいのですが、どのように接したらよいか、わかりません。

本を読んだり、パソコンで検索したり・・・

いろいろ情報を仕入れて調べます。


調べているうちに、『相手の立場に立って接する』ということが、重要な事が

わかってきます。

相手は鬱病やひきこもりになって苦しんでいるわけです。

「そのことを考えてあげよう。話を聞いてあげよう。」

そう考えて、接します。

症状が好転したらいっしょに喜んだり、

症状が悪くなったら、いっしょに悩んだり。


しかし、時にたとえようもない、怒りや苦しみがやってきます。

なぜだろう?

わたしの場合は精神障害の方々の職業訓練の指導という特殊な状況なので、

特別な思いが心の中にありました。

つまり、『相手の鬱病が治る事でわたしの実績が認められる』という

まったく自分勝手な思いが心の中にあるわけです。


『相手の立場に立って接する』という実際にやっている行為と、

心の中の自分勝手な思いに隔たりがあるわけです。


ここでさらに念を押しますが、わたしの個人的考え方です。

読んでいて、憤りを感じる方がおられるかもしれません。

ご勘弁ください。


身内や知り合いが鬱病になってしまった場合、

それを見守る周りの人の心の中には、

「ゆっくり、見守ってあげよう」という思いと、

実は、

「早く治ってほしい。経済的にもたいへんだ」とか、

「ほんとはどこかへ遊びに行きたいけど、それもできない。

私の人生は損だ。」

という、相反する気持ちが存在するかもしれないと思います。

少なくとも、わたしはこういう考え方をしてしまいました。


相反する思いが心の中にありますので、苦しくなるのは仕方がないのです。

また、まじめに考えれば、考えるほど自分を責めてしまい迷宮に入り込んで

しまいます。


わたしの場合は、自己嫌悪に陥ってしまい、自分自身が鬱っぽくなってしまいました。

というか、その時精神科を受診していたら、鬱病と診断されていたかもしれないです。


大げさに言うと、自分の根拠なき自信が崩壊してしまい、新たな自分の考えを

組み立て直さざるをえない状況に追い込まれてしまいました。

ここまで8年かかっています。


ここまでをとりあえず整理します。


まず、『相手の立場に立って接する』という考え方で病気の方と接し始めます。

しかし、自分の心の中に、相手の立場を考えている部分と、自分の都合を

考えている部分が存在していますので、心が納得できずに苦しむわけです。


では、『相手の立場に立って接する』という考え方はまちがっていたのか?

ここをどう書いたらいいのかとても迷ってしまいます。

つまり自己嫌悪に陥り苦しむ可能性があるとしても、それに意味があると

わたしは、考えを持っていきたいです。


つまりほんとうの自分と向き合わないとしょうがない状況になるということは、

”自分を見つめるチャンスをいただいた”という風に変えることができる可能性が

あるのです。


ここを是非感じて欲しいのです。

鬱病やひきこもりの方と接することによって、ほんとうの自分とは何か?

ということを考えるチャンスをいただいた!

もしもこのように考えることができたならば、そこから、鬱病やひきこもりの方に

助けていただいた。救っていただいた。という考え方に繋げることができるのです。


この時点で、心の中で以前は相反する考えとして存在していた、

「早く治ってほしい。経済的にもたいへんだ」とか、

「ほんとはどこかへ遊びに行きたいけど、それもできない。

私の人生は損だ。」

というような考えかたの部分が、かなり小さくなります。

そして、なんとなんと不思議な事に、そのような思いを冗談で、

相手に話す事ができるようになったりするのです。



実は、自分を救ってくれた大切な存在だったという風に気付くのです。

その時点で劇的に接し方が変化するのは想像できると思います。

で、実はその事で相手の方の症状が好転するか?というと、

それはわかりません。

わたしは、たぶん好転するであろうと信じていますが、

そこまでの成功はわたしのまわりでは、見たことも聞いたこともありません。

是非、皆さんが成功例を作り上げて、他の同じような状況で苦しむ方々の

希望の星になってほしいな。と思います。


つづくかもしれません


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