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戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」(後)より       

長い文なので、重要と思われる箇所を赤字にしました。赤字のところだけを読んでも充分意味が分かると思います。

 

第5章 マッカーサーはOSSによって操られた
OSS(OSS Office of Strategic Service  戦略情報局)とは
第2次世界大戦中のアメリカの諜報活動機関。 1942年6月 F.D.ルーズベルト大統領により設置され,統合参謀本部の指揮下におかれた。情報の収集と分析,特殊工作活動の計画と実施,宣伝活動や心理作戦など多方面にわたる活動に従事,戦後 1945年 10月に解体されたが,1947年中央情報局 CIAが創設された際に,その経験がいかされた。

 

 

最初に言わなければならないのは、天皇の存続はGHQのマッカーサーが決断したわけではないということである。私たちの多くはマッカーサーがGHQを支配し、その方針によって戦後の日本が指導されたと考えてきた。しかし彼はあくまで最高指揮官である大統領によって指名された部下の1人であり、彼の一存で日本を采配できたわけではなかったのだ。

天皇を「象徴」とするという戦後の一貫したマッカーサーの主張も、実を言えば開戦の半年後に情報工作の一環として立てられていたことがOSSの機密文書によって明らかになっている。つまり天皇を象徴として残すという点も、すでにルーズベルト大統領の1942(昭和17)年の段階でOSS「日本計画」によって方針が与えられており、それが軍諜報部や国務省経由でマッカーサーに伝えられていたと考えられるのである。これは昭和天皇を平和の象徴として利用するという計画で、軍部と対立させ、日本国内を対立の渦中に置こうとする計画であった。「天皇制」を打倒するよりも、その伝統の力を利用して国内を対立させ、折からの日本の軍事力の膨張を抑える方向に作戦を立てたのである。天皇の存在により、好戦的な日本軍の士気をくじくことを当面のプロパガンダ戦略としたのであった。そのために「日本の天皇を、慎重に、名前を挙げずに平和のシンボルとして利用すること」を明記しているのである。

このことは、「天皇制打倒」を主張し、軍部も同時に崩壊させることを目指していた日本共産党やソ連・コミンテルンや中国共産党の方針とは異なるものである。これはマッカーサーによる良心的なアメリカの日本理解と取られた節があるが、実際はもともと日本社会崩壊に向けたステップとしての行程であったことを忘れてはならない。
 

普通アメリカとソ連は最初から対立していたと見られがちである。すぐに冷戦がはじまり、自由主義と社会主義とに分かれるような異なったイデオロギーがはじめからあったと考えられている。だが事実は異なっていた。冷戦以前のアメリカの方針は、決して冷戦開始以後のような反共産主義の路線ではなかったのである。さらにソ連のスパイによりコミンテルンの方針に従っていたわけではないこともわかってきた。「ヴェノナ」文書におけるソ連スパイの存在よりも、アメリカ自身の共産主義者の暗躍がその方針を作り上げていったことが理解されるようになった。GHQの政策はマッカーサーのような反共のアメリカ人政治家たちによって決められていたわけではなかったのだ。

驚くべきことは、戦後ある時期までトルーマンとその部下たちは、スターリンとほとんど同じように、世界の共産主義化に同意していたことである。端的に言えば、アジアの共産主義化をあの時点では「アメリカ一国でも作り上げようとしていた」そしてそれは、戦後の日本の占領期における検閲にいたるまでそれが貫かれていた。つまり両国は一致して、ある時期まで中国と日本の社会主義化を意図していたのであった。

すでに前章で日本共産党員の野坂参三とOSSとの協力関係について論じたが、アメリカは彼を通じて、日本の共産化を図っていたことが明らかになっている(一方でアメリカは中国共産党を援助し、その中国支配を望みそれを着々と進行させていた。アメリカは蒋介石の率いる国民党勢力を支持していたのではなかった)。すなわちアメリカ政府はGHQに「日本革命の2段階論」を送っていた。GHQの政治改革はまさに、この野坂の「修主義」、別名「構造改革路線」、すなわちコミンテルンの綱領とは異なる、ルカーチなどの理論に基づく路線から成り立っていたのだ。曰く「日本は20世紀の文明社会ということであるが、実態は、西洋諸国が400年前に捨てた封建社会に近い国だった。」それを破壊するために、「第1に、軍事力を破壊せよ。戦争犯罪人を処罰せよ。議院内閣制を確立せよ。憲法を近代化せよ。自由選挙を行なえ。女性に選挙権を与えよ。政治犯を釈放せよ。農民を解放せよ。自由な労働運動を確立せよ」等々を命じたが、よく見るとこれらはまさに野坂やOSSの見解であったのだ。それはアメリカ民主主義の日本化を意味しているように見えて、実は社会主義への道を開く方針でもあった。

共産主義者野坂参三への好意的文章を書いたケーディスもまたマッカーサーの影に隠れてはいたが、最も意図的に日本の共産主義の戦後を作り上げようとした人物と言ってよい。彼はニューディール政策の実行者だとしか書かれていないが、そのニューディール政策そのものが共産主義の隠れ蓑であったのである。この人物はアメリカでもはや実現できなくなったニューディールの理念を日本で実現しようと考え、意図的に日本にやって来た人物であると言ってよい。彼は1948(昭和23)年にアメリカの対日政策が反共主義に転化するときに、わざわざワシントンに出向いてその変更を元に戻すように説得までしている。しかしそれが聞き入れられなかったので辞任を申し入れて受理された。

OSSと野坂参三らがしかけた「共産革命」の危機は、戦後のマッカーサーとその下のGHQの動きによって、その企図は打ち消されたかに見える。しかしマッカーサー下のGHQ内で2派の対立があり、OSSの影響はその左派の中に温存され、右派が力をもつ以前に占領政策に大きな影響を与えた。終戦直後のトルーマン大統領によるOSS解散の後、GHQの中で、この旧OSSの勢力と新たな勢力との対立がはじまった。それはGS(民政局)とG2(参謀第2部)間の対立ともなった。民政局長はホイットニーで、1946(昭和21)年以降マッカーサーの右腕となって働きOSSの路線を継いでいた。

 

しかし47(昭和22)年になると右派が強くなる。軍事情報部長になったウィロビー陸軍少将はマッカーサーに秘密報告をもたらし、日本共産党に対する強い警戒心を植えつけた。その後、マッカーサーはウィロビーの路線によって反共の動きに転じるのである。50(昭和25)年、日本共産党は非合法化され徳田も野坂も中国に逃亡し、ついで朝鮮戦争が勃発する。

日本人の戦後の歴史に対する後ろめたさの感情は、GHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争の罪悪感を植えつける計画)が与えたものと思われ、それはアメリカの「自由」と「民主主義」を標榜する若いリベラル派の方針と漠然と考えられてきた。しかし実はOSSというすでに1942(昭和17)年に創設された軍事戦略局の方針に添っていたものであり、そしてその方針そのものが、アメリカの左翼がしかけたものであることが明らかになってきた。彼らがOSSの解散の後、GHQに入り込み、1947(昭和22)年までその勢力を保ち、そこから発せられた戦後処理が日本の社会主義化という方針を含んでいた、という事実が判明している。

戦力を否定した第9条は、日本の軍隊が海外への侵略を2度と行なわないためという対外向けが底意と言われるが、それは明らかに、国内内部の統治という問題を警察に任すということであり、それは暴力的な共産革命を可能にする最も有効な体制であったことは、革命の過程を少しでも歴史的に知っている者にとっては、誰にでも理解できることである。

 

だがマッカーサーの名の下に行なわれたこうした共産革命準備に対して、日本側は全く予想ができなかったのであろうか。戦時中の日本において、共産革命の動きが無視されていたわけではない。ただそれはソ連とのつながりにおいてという点であって、アメリカのOSSの動きに気がついていたわけではなかった。ソ連の日本赤化政策ならともかく、米国自体の左翼の動きはほとんどその警戒の範疇に入ってはいなかったと言ってよい。
無警戒といえば、日本にも世界の容共の動きに追従すべきだという政治家も指導部にいたのである。とくにソ連との交渉によって戦争を終結させようとした木戸幸一が、ある側近に次のようなことを言っていたという。「共産主義と言うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り、残るは米国くらいのものではないか。今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかという気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか。」高松宮殿下でさえこう言われていたという。「日本とソビエトとドイツとの間に共通な理想を見出すべきであり…、実際のところ、神ながらの道も共産主義も少しも変わらんではないか。…もしそんなことで日、独、ソが結び得れば幸いだが。」
この動きに対し強い危険性を感じていたのが、細川護貞を含む近衛―吉田グループであったという指摘がある。このグループは昭和18年の段階から天皇制維持を唯一の条件として英米側に降伏するという方針をもって、東條内閣を倒し、宇垣一成を担ぎ出す運動を進めていたという。それが「近衛上奏文」と言われるものにあらわされている。「近衛上奏文」は「最悪なる事態は遺憾ながら最早必至」と判断し、英米の世論には一部の過激論もあり将来どうなるかは測り難いが、「今日までのところいまだ国体の変更にまでは」進んでいない、ところがこの点で最も憂慮すべきは敗戦とともに起こる「共産革命」である、「わが国内外の情勢は今や共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、」すなわち第一に国外におけるソ連の異常な進出で、「ソ連は欧州においてその周辺諸国にソビエト的政権を、そのほかの諸国民には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとして着々その計画を進め、現に大部分成功を見つつある現状」であると述べている。そしてユーゴのチトー政権、ポーランドにおけるソ連の後押しを受けたポーランド愛国者連盟を中心とした政権、「米英占領下のフランス・ベルギー・オランダにおいては、対独戦利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争が続けられ」、ドイツに対しても「すでに準備せる自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図」であるらしい、しかもこれはヨーロッパだけでなく東亜に対しても行なわれており、「現に延安にはモスコーより来たれる野坂を中心に日本人民解放連盟が組織せられ、朝鮮独立連盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊と連携、日本に呼びかけ」ている。

ここでソ連や野坂への動向に注意を向けているが、その野坂がアメリカOSSの後押しである、ということの推察がないのは、この時期、日本にはアメリカのこの動きに対する情報がなかったからに違いない。しかしこの戦時中において、共産化の危機をいちはやく嗅ぎ取っているグループが上層部にいたことは、こうした動きが日本の国体にとって危険であることを察知していたからである。細川は「アジア解放連盟なるものあり。中共中に邦人野坂、森、杉本など潜入し、戦後日本にソビエト政府を樹立すること、民族自決の政府たること、無賠償などの方針を立て居れり」そして「延安工作のため、在ソ日本人共産
党員7名を延安に呼び寄せる交渉を、政府、特に陸軍が成し居る」と述べている。

「近衛上奏文」は国内の危機をはらんでいることも述べている。「翻って国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観あり。すなわち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の半面たる親ソ気分、軍部内一部の革新運動、これに便乗するいわゆる新官僚の運動およびこれを背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候」とある。また英米との戦争の中で、ソ連がそれらと対立しているかに見え、「軍部の一部にはいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずる者あり。また延安との提携を考え居る者もありとのことに御座候」とある。ソ連の参戦による一部日本の占領はアメリカによって拒否されたものの、少なくともOSSの存続中には、アメリカそのものによる日本の共産化の危険性はある時点までは濃厚であった。それはソ連主導のコミンテルンの力ではなく、OSSと組んだ日本共産党によるものであったのだ。

 

OSSの動きは日本では成功しなかったが、中国では成功した。1951(昭和26)年に出版されたジョゼフ・マッカーシーの「共産中国はアメリカが作った」という本が、55年も経ってようやく日本で翻訳出版されたが、このことは、いかに日本の出版界が左翼に支配されていたかを示すものであった。ソ連が崩壊し、少なくとも社会主義国が消滅したにもかかわらずすぐに翻訳されなかったことも、マッカーシズムの名が長く否定的に見られていたことの現われでもあった。ソ連の全体主義がナチス以上であったことや、毛沢東の圧政が皇帝時代のそれよりもはるかに残酷であったことなどが明らかになってきたが、アメリカ内部の左翼自体が意外に強く、ソ連や中共への加担が目に余るものであったこともこの本で詳らかにされている。

 

OSSの対中国・日本工作について深くかかわっていたのが、ドノバンの下で働いたオーウェン・ラティモアという中国学者であった。ラティモアは太平洋問題調査会(IPR)の機関紙「パシフィック・アフェアーズ」の編集長として長年アジア問題に携わっていた。ちなみにこのIPRは、日本が国際連盟を脱退した後、唯一、日米関係の接触点とでも言うべき国際機関であった。ところがこの組織そのものが日本と中国を共産化する原点となっていた。OSSが戦争開始時に作られた組織であったのに対し、それ以前からの左翼化を推進する組織であった。その目的は中国共産党による中国統一の実現と日本の大東亜戦争への誘導であったと言われている。IPRの会員のうち、46名がアメリカ共産党員であったし、8人が後にソ連のスパイとして挙げられた。日本に真珠湾攻撃をさせるプランがIPRで練られたとさえ言われているのである。

 

1995(平成7)年公表された「ヴェノナ文書」のソ連側スパイの中に、マッカーシズムで挙げられたオーウェン・ラティモアの名前がないことが話題になったが、これは見落としではなく、彼が決してソ連のスパイとして行動したわけではなく、OSSの一員として共産化に動いていたことがわかる。ラティモアはルーズベルト大統領に登用されたが、ソ連スパイのカリーの推薦で、41(昭和16)年から42(昭和17)年にかけて蒋介石の特別顧問として中国に派遣されていた。そしてラティモアの助言によりアメリカの為政者は蒋介石を見捨て、毛沢東を支援したのである。このことはアメリカが毛沢東を、ソ連からの要請ではなく自ら支持したことがわかる。ラティモアだけではない。アメリカが中国共産党を支持し、蒋介石を見捨てたことにもっとも貢献したのが、戦後、国務長官にもなったジョージ・マーシャルである。マーシャルは1946(昭和21)年晩春、毛沢東が危機状況に陥っているときに蒋介石に対して強力な圧力をかけ、東北へ敗走する共産党勢力に対する討伐作戦を中止させた。共産党をこれ以上深追いするならばアメリカは蒋介石を援助しない、国民党部隊を東北へ移送する作戦も中止する、と申し渡したのである。アメリカは意図的に毛沢東を勝利させようとしたと言ってよい。あのとき侵攻を続けていれば、蒋介石は少なくとも共産党勢力がソ連国境沿いに大規模で強固な根拠地をおくのを阻止できた可能性が大きかっただろう。

こうしてこの時代の日本と中国の状況を見てくると、両国を同じように共産主義化する執拗な意図が、アメリカ政府自体にあったと考えざるを得ない。それは終戦の年に死んだルーズベルトの意志の反映であったと考えることができよう。マッカーシーが「共産中国はアメリカが作った」と言うのと同じように、日本もまたアメリカによって共産化されようとしたのである。
しかしそれが日本でできなかったのは、中国よりはるかに安定した日本という国家と国民大多数の意志によると言うべきであろう。天皇を国民が強く支持していることが何よりも日本の共産化が不可能であることを示しているということを、アメリカが察知せざるを得なかったのは、OSSが1942(昭和17)年の段階から、天皇に手をつけないと判断したところでほぼ確定していたのである。確かに、野坂のような共産主義者を政権につけようとしたが、天皇の存在によって、共産主義の2段階革命を説く路線を取らざるを得なかったフランクフルト学派路線が生かされたのである。ラティモアもケーディスもエマ
ーソンもその路線があったからこそ、日本の戦後を次の段階に向かわせるように仕向ける政策をとろうとしたのだ。この考え方が、ソ連を日本に参戦させ、一気に社会主義化せんとした左翼を押しとどめさせた、と言うこともできる。それは日本にとってまだしも幸いなことであった。天皇を護り、国体を護ることができたからである。