おはようございます
週末は法要の準備から買い物から掃除やらいろいろ
無事法要が終わった後は、長男の来月再婚予定の婚約者さんと子どもたちと一緒に
ファミリーレストランでランチしました。
その後家に帰って、大人はリフォーム前の片付けをして、
今朝は粗大ごみを玄関外にたくさん出してジジババはもうくたくたです
また日めくりカレンダーに載っていたことわざなんですが
『花は根に鳥は古巣に』って、なんだか雅なことわざですね。
気になったので調べてみました。
物事はみなその本源に帰ることを意味するたとえです。
「花は根に」は木の枝に咲いた花が根元に散って木の肥やしとなることにたとえ、人生にはさまざまな曲節があるが、けっきょくは元に戻ることを意味します。
「鳥は古巣に帰る」は、故郷は忘れることができないということのたとえです。
そして平安時代後期の天皇である崇徳院の和歌「花は根に鳥は古巣にかへるなり 春のとまりを知る人ぞなき」は、晩春を惜しむ歌として知られています。
ということで、平安時代の天皇のお歌なのね~と調べてみたら、この崇徳天皇、「日本三大怨霊」と書いてあるではありませんか
「日本三大怨霊」ってなに?
wikiによると
日本三大怨霊(にほんさんだいおんりょう)とは、
日本に数多伝わる怨霊の中でも特定の三人、菅原道真・平将門・崇徳天皇(崇徳院)を指す呼称である。
歴史学者山田雄司は、菅原道真・平将門・崇徳天皇が三大怨霊とみなされるようになった背景には、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしている。
と書かれてあります。
日本三大怨霊①「菅原道真」
菅原道真は平安時代の貴族です。朝廷の最高職とも言われる右大臣に就任し、藤原氏と並ぶ権力の絶頂期を迎えます。
しかし、そんな菅原道真の出世を快く思わない人も多く、中でも当時のもう一人の権力者である左大臣・藤原時平はその筆頭でした。
藤原時平は当時の天皇、醍醐天皇に「菅原道真は天皇を廃帝させるために陰謀を企てている」と伝え、菅原道真は無実の罪を着せられることに。
その後、時平の言葉を信じた醍醐天皇により、菅原道真は左遷され大宰府(現在の福岡県)に送られてしまいます。
左遷後2年で道真は大宰府で無念の死を遂げるのでした。
その後、道真の怨念でたくさんの人が亡くなったと信じられ、災いを鎮めるため「天神様」と祀られるようになりました。
日本三大怨霊②「平将門」
平将門は平安中期の関東の豪族で、桓武天皇の子孫である平氏の一族であり、元々京で藤原氏に仕える武士の一人でした。
関東で一族争いに打ち勝った後に、関東八カ国の国府を襲って行政官である国司を追放してしまいます。
そして自らを「新皇」と名乗り、日本半国を有する新国家の樹立を宣言。
当時、関東の国々は国司の圧政に苦しんでいたため、新国家樹立は市民とって喜ばしい出来事だったと言います。
しかし、この行為は朝廷への反逆とみなされ、平将門の追討令が出されます。
そして新国家の樹立を宣言してからわずか2ヶ月で、平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ひでさと)にあえなく討ち取られてしまいました。
この一連の出来事は「平将門の乱」と呼ばれ、貴族の世から武士の世へと変革するきっかけとなった歴史的クーデターとして語り継がれることとなります。
討ち取られた平将門の首は京へと送られ、都の河原に晒されることとなりました。しかし、無念の死を遂げた平将門の首には、奇妙な出来事が立て続けに発生。何ヶ月も目を閉じなかった、夜中に歯ぎしりをしたといった噂が絶えなかったのです。人々は平将門の強い怨念としてこれを恐れました。
そしてついには、首が体を求めて関東へと飛んでいったという伝説まで残っています。飛んでいった先に建てられたのが、現在の東京都千代田区・大手町にある将門塚(しょうもんづか)と言われています。
そして現代、平将門の首塚を取り壊そうとするたびに不吉な出来事があまりにも多く起きるため、いつしか平将門の怨霊による祟りと噂されるようになりました。
日本三大怨霊③「崇徳天皇」
鳥羽天皇と藤原璋子の間に第一皇子として平安後期に誕生した崇徳天皇。
3歳という幼さで日本の第75代天皇として即位しましたが、実権を握ることはほとんどありませんでした。
さらに、上皇となった鳥羽上皇の計略によって10代のうちに強引に天皇を譲位させられることになってしまうのです。
鳥羽上皇の死後、自分の不当な扱いに不満を募らせた崇徳上皇は、朝廷の実権を奪い返すため当時の天皇・後白河天皇に戦いを挑みました。こうして朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、「保元の乱」という皇位継承争いが勃発。戦いは激しい武力闘争へと発展します。
最終的に崇徳上皇は敗れ、出家をすることに。当時は皇族が乱を起こしても出家さえすれば罪に問われないのが慣例でしたが、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)へ流されるという厳しい処分を受けました。
讃岐に幽閉された崇徳上皇は、仏教に深く傾倒し、5つの写本を仕上げます。京都の寺に納めて欲しいと朝廷に差し出したところ、あろうことかこの写本は「呪いが込められているのではないか」として送り返されてしまいました。
その屈辱以降、崇徳上皇は「妖怪に生まれ変わって無念を晴らす」として死ぬまで髪と爪を伸ばし、鬼のような形相へと変わったといいます。そして最後まで京へ戻れずこの世を去ることに。
崇徳上皇の死後、延歴寺の強訴や安元の大火など、日本を揺るがす事件が立て続けに発生。また、崇徳天皇と敵対していた後白河法皇の身内が次々と亡くなります。
これら一連の出来事は、崇徳上皇の怨霊が引き起こす祟りであると考えられました。そこで保元の乱の戦いの場に「崇徳院廟」が建てられ、罪人の扱いは取り消されることに。
しかし、その後も後白河天皇が亡くなるまで災いは止まなかったと伝えられています。崇徳天皇の怨霊はその後の天皇にも恐怖を与え続け、明治時代以降の天皇も崇徳天皇の鎮魂の行事を執り行っています。
皇室や貴族の抗争の果てに、怨霊となってしまわれたのですね。
雅な話から、怖いお話となってしまいましたが、楽しんでいただけましたでしょうか。