函館を後に、江差に向かいました。距離は70キロほどあります。
途中で寄りたかった場所が一ヶ所ありました。二股口古戦場です。
二股口は、大野川と二股沢に囲まれた小高い丘で、江差山道と呼ばれる一本道が二股に岐れる場所にあり、榎本軍はこの場所で進軍する新政府軍を向かい打つ作戦を立てました。
300人の兵を連れた土方歳三は、16時間にわたる死闘を繰り広げたものの、600人を超える人数の敵兵、装備している銃の機能の差もあり、後退を余儀なくされます。土方歳三最後の激戦地と言われる場所です。
この場所は、国道227号線沿いにあり、「二股口古戦場跡」の標識は見えたものの、1車線の道路に車を停めることもできず、残念ながら通過せざるを得ませんでした。
山中には、今も当時の土塁の跡が残っているそうですが、同時にヒグマの住処になっていて、立ち寄ることは命に関わります。
函館から1時間半ほどで目的地の江差に到着です。
江差港は、榎本軍の軍艦「開陽丸」が沈没したところです。
 
榎本は、蝦夷を完全に征服するために、土方隊を送り、松前藩の福山城を攻め立てます。
土方隊は松前藩の要害を撃破し、逃れた松前藩を追って江差に向かいます。
江差は、北前船の発着地で繁栄をきわめていたことから、榎本ら首脳陣は江差の占領を企て、土方隊の応援に榎本武揚自らが軍艦「開陽丸」で江差に向かいます。
しかし、折からの風雪で押し流され、浅瀬に乗り上げ、座礁し、沖合で沈没してしまうのです。
 

開陽丸は榎本軍最強の軍艦で、しかも、オランダで製造し、日本まで運んできた榎本武揚自身にとってもかけがえのないものだったに違いありません。

この開陽丸記念館には、平成2年に開陽丸の実物大で復元した船体と、引き揚げた3万3千点の遺物が展示されています。
下の写真の展示物は、引き揚げられた開陽丸のスクリューです。
 
船体の一部もありました。
 
実物大に復元された開陽丸に上がったみました。
 
船体の中は意外に広く、引き揚げられた当時の大砲や砲弾の数には驚きました。
蝋人形もよくできています。
 
展示されているものをじっくり見ていたら、何時間もかかりそうです。
 
発掘作業の様子も展示されていました。
 
甲板に上がります。帆を張った姿も見たいところです。
しばらく、この場所から江差の浜を眺めていました。
さすがに人影はありませんが、向かいの砂浜は海水浴場になっています。
 
前方に見えるのは、かもめ島です。とても美しい景観でした。
 
江差港を後に、2日目の宿泊地の洞爺湖温泉街を目指します。約140キロほどのドライブです。
途中、新政府軍が上陸した乙部の海岸線を眺め、八雲の峠を越え、洞爺湖温泉街に入ります。
チェックインした時はすでに夕方になっていました。
ホテルの窓から撮った洞爺湖です。奥に見える山は羊蹄山です。
 
翌朝の洞爺湖の景色です。まだ、紅葉は見られませんね。
 
泊めていただいたホテルです。久しぶりに温泉に浸かりました。
 
湖畔から撮りました。透明度が高く、小魚まで見ることができます。また、湖の深さは全国で5番目で180メートルもあるそうです。
 
最終日は、新千歳空港に向けてゆっくりとドライブです。
途中で昭和新山と熊牧場に寄りました。
道沿いには、いくつも「熊出没、注意」の看板が建てられています。ヒグマの住処に入っていることを実感した次第です。
 
こんなヒグマに出会ったら、どうすることもできません。出会わないようにするしかありません。
ここで、吉村昭の小説「熊嵐」を思い出しました。
小説の舞台は、大正4年に北海道の苫前村で起こったもので、ヒグマの獣害では日本史上最悪の事件です。
ヒグマは体重340キロ、体長2.7メートルのエゾヒグマで、開拓民7人死亡、3人が負傷しています。
皆さんも気をつけてくださいね。近づかないことです。
 
支笏湖で休憩です。支笏湖のビジターセンターの展示を見ると、支笏湖の自然がよく分かります。お出かけの際は立ち寄ってみてください。
4回にわたり、お付き合いいただきありがとうごさいました。2020.9.20〜22 完
函館1日目の最後に巡ったところは、函館市立博物館です。
場所は、函館山麓にある函館公園の中にあって、周りには動物園や遊園地、図書館などが点在しています。

 

今回の旅行にぴったりの企画展示がありました。志士三千「函館戦争」です。

 


企画展のこのポスターを最初に見た時は「志士三千」が読めなくて、「志士シチ」?、えっと思っていたのですが・・・。

 

 

 

慶応4年4月に江戸城無血開城になり、戊辰戦争は、上野、北陸、東北へと舞台が移り、新政府が決定した徳川家に対する処分は、駿河、遠江70万石への減封というものでした。

約8万人の幕臣が路頭に迷うことになることを憂い、海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓に活路を求めたのです。

そして、約3千人が開陽を旗艦とする8隻の軍艦で10月21日(西暦12月4日)に函館の北、内浦湾に面する鷲ノ木に上陸を開始したのです。

そうです、3千人の志士が、箱館にやってきたのです。やっと分かりました。

 

展示は、実物展示が多く、結構充実しているので、箱館戦争に興味がある人は、見る価値がありますよ。年末まで継続されるようです。
普通、博物館の場合には保存の関係で写真撮影ができないのですが、どこにも撮影禁止の文字がありません。
そこで、念のため、事務室に写真撮影について聞いてみたところ、「大丈夫ですよ」と快くありがたいお言葉を頂きました。心置きなく撮影させていただきました。
 
 

 

展示の中に、なんと、吉村昭「夜明けの雷鳴」の主人公高松凌雲がパリの医学校「神の館」から持ち帰った外科手術用具があるではありませんか。箱館戦争に持参したことは小説を読んで知っていましたが、これには感動しました。

これだけでも函館に来た甲斐があったなあ、と思いました。

 

外科手術用具と言っても、どう見てもノコギリやペンチにしか見えないのですが、こうしたもので当時、オペをしていたのですね。

 
下の写真は、高松凌雲が、慶応3年、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武の随行医として渡欧した時のメンバーです。
後の左から3人目が高松凌雲で、中央で椅子に腰掛けている一際小さい方が徳川昭武(徳川慶喜の実弟)です。
一行の中には、次期NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公の渋沢栄一も事務方として同行していました。
吉村昭「夜明けの雷鳴」の中でも渋沢栄一の「緻密な計算」と「人への誠意」が描かれています。

 
今年の6月に千葉県松戸市にある徳川昭武の邸宅「戸定邸」に行ってきましたので、参考にご覧ください。
 函館の2日目も快晴です。気温は21度ですが、東京と違って湿度がなく、カラッとした天候です。
下の写真は、函館駅です。これから函館の朝市に向かいます。
 
函館の朝市は、ちょうど築地の場外市場のような雰囲気があり、活気があります。
 
 
 
 次に向かったのは、ベイエリアです。ここも函館の観光スポットですね。
金森赤レンガ倉庫群は、素敵なショッピングモールとして生まれ変わっています。
ここから、八幡坂を上がって、元町公園周辺を散策するのが人気のようです。
 
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函館の旅の最終は、土方歳三最期の地です。
箱館戦争に身を投じた土方歳三は、この一本木(若松町)の地で最期を遂げます。
土方歳三ファンにとっては聖地とも呼べる場所ですね。
私も、戊辰戦争の関係で宇都宮城の戦い、会津戦争で土方歳三の足跡を巡りましたが、この箱館戦争でも大きい働きをしました。
箱館戦争の一場面でもある宮古湾海戦は、吉村昭の歴史小説「幕府軍艦「回天」始末」でも紹介されていますが、そこでも土方歳三の勇姿が描かれていました。特にスペクタルなシーンが面白いですよ。
そういえば、岡田准一主演の映画「燃えよ剣」がコロナウイルス  の影響で上映延期になって久しい感じがしていますが、まだですかね。早く観たいです。
 
 
続きます。
今回の旅で大いに活躍してくれたのは、トヨタレンタカーのルーミーという真っ赤な小型のファミリーカーです。
函館空港からスタートし、坂道の多い函館市内をぐるぐると廻り、江差から洞爺湖、新千歳空港まで快適にドライブできました。ざっと、400kmくらいは走ったと思います。
 

高龍寺を出て、次に向かったのは、称名寺です。

函館開港当初はイギリスとフランスの領事館としても利用された古い寺院です。
このお寺には、高田屋嘉兵衛の顕彰碑や土方歳三ら新撰組隊士の供養塔があります。
 
土方歳三と新撰組隊士の供養塔です。
解説板には、次のように書いてあります。
「土方歳三(新撰組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、異国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に供養塔を建てた、と記されている。称名寺は、明治期の大災で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年に有志が現在の碑を建立した。他の4名は新撰組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。」
称名寺を出て、向かったのは実業寺(じつぎょうじ)です。
安政元年(1854)ペリー来航時には、実業寺にスタジオが設けられ、そこで行われた写真術に市民は驚いたという記録が残されています。翌年には、フランス軍艦シビル号が入港し、実業寺が多数の疾病水兵の養生所になっています。また、安政5年(1858)にはロシア領事館としても利用されています。
明治2年(1869)箱館戦争終結後、旧幕府軍戦死者の遺体が市中に放置されたままになっていた時、住職が侠客柳川熊吉と相談して、寺に葬ったという美談も残されています。
 
旧ロシア領事館です。
安政元年(1854)12月の日露通好条約に基づき、実業寺に領事館を置き、2年後の万延元年(1860)元町の現ハリストス正教会敷地内に領事館を建てますが、隣の英国領事館の火災で被災します。その後、建設は日露戦争で中断し、明治41年にこの建物が完成しました。
設計は、ドイツ人建築家R.ゼールで、レンガ造りの2階建て本館の玄関には唐破風を用い、日本的な意匠が加味されています。現在は、函館市が所有しています。
 
元町公園にやって来ました。函館の観光地として有名ですね。
この美しい建物は、旧北海道庁函館支庁庁舎です。
明治42(1909)に建てられた洋風建築物は、明治末期の函館を伝える建物として、北海道開拓の歴史上価値が高いことから北海道有形文化財に指定されています。
江戸時代、この元町公園には、箱館奉行所が置かれていましたが、嘉永7年(1954)に日米和親条約で下田と共に補給港として箱館の開港が決まると、港湾から近く、防備上不利という理由から五稜郭に移されました。
 
旧北海道庁函館支庁庁舎の前にあるこの建物は、旧開拓史函館支庁書籍庫です。レンガ造りの美しい建物ですね。
「レンガの積み方の違いから、建物の玄関部分は後から増築されたもの」という説明を解説ボランティアの方がされていました。
 
レンガには、「明治七年」という刻印がありました。
 
函館の観光スポットにも足を運びました。このライトブルーが美しい函館ハリストス正教会は、まさに異国情緒たっぷりです。
長崎や横浜と同様で安政5年(1858)に締結された日米修好通商条約を機に開港しているので、西洋文化の影響を受けた建物がたくさんありますね。
 
六角屋根に風見鶏のこの建物は、カトリック元町教会です。この辺りは函館を象徴する観光スポットという感じでした。
 
この写真は、カトリック元町教会を正面から撮ったものです。
 
函館を代表する八幡坂です。
 
函館の観光スポットをさっと見学した後、再び箱館戦争の史跡を訪ねます。
この場所にも必ず行きたいと思っていました「碧血碑(へっけつひ)」です。
ただ、函館山山麓にあることと、あまり案内表示がないために、しばらく山歩きをしてしまいました。一応、ヒグマに出会わないようにとラジオで音を出しながら歩くと、山奥からガサガサという物音がするではありませんか。
もしや、今回は吉村昭の「熊嵐」の舞台を巡る旅ではないので勘弁してください。と心で思いながら先を急ぎました。230メートルがこんなに遠いと感じたことはありませんでした。
 
ようやく着きました。ちなみに夜のニュースで函館の民家にヒグマが出没と出ていました。
碧血碑は、箱館戦争で亡くなった新撰組の土方歳三ら旧幕府軍の戦死者約800人の霊が祀られています。観光雑誌には土方歳三の遺骨もこの場所に埋葬されたと書かれていました。
 
碧血碑の隣に柳川熊吉の寿碑があります。先程、実行寺でも触れましたが、侠客の柳川熊吉が大工棟梁の大岡助右衛門や実行寺住職らと市内に放置された旧幕府軍戦死者の遺体を回収し、碧血碑を建立した方です。
パンフレットの人物紹介には、江戸浅草の料亭の息子として生まれ、侠客として箱館に渡り、江戸流柳川鍋を商売として生活していた。と書かれていました。本名は野村熊吉ですが、箱館奉行から柳川と呼ばれていたので、姓を柳川としたようです。
続きます。
今回は、4連休を利用して行った北海道函館、江差、洞爺湖の旅をご報告します。もちろん、GOTO travelを利用しての旅でございます。
真っ先に行った先は、ご存知、五稜郭です!
 

今回の旅の目的は、吉村昭「夜明けの雷鳴」の舞台を巡ることです。この小説、ご存知の方も多いかと思いますが、幕末維新に活躍した医師、高松凌雲を描いた歴史記録小説です。

正面の山は、函館山です。
 
コロナ禍ではありますが、五稜郭タワーには連休を利用して来られた多くの観光客で賑わっていました。
函館と言えば、箱館戦争で壮絶な死を遂げた土方歳三の最後の地でもありますね。
 
五稜郭は、やはり、タワーから見ないとその星型の美しい城郭には気付きません。
 
箱館奉行所は、3密回避のために入場制限をしていました。
建物内には、箱館戦争の資料が展示されているようですが、仕方なくパスです。
 
次に向かったのは、千代ヶ丘陣屋跡です。
この千代ヶ丘陣屋の隊長は、中島三郎助でした。中島三郎助を有名にした最初の話は、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に副奉行として乗り込んだことでしたね。
 
https://ameblo.jp/mondo7126/entry-12529014181.html

 

 

 
当時は浦賀奉行所の与力に過ぎなかったのですが、身を挺して幕府を守ろうとした勇気ある行動でした。
その後、長崎に派遣され、海軍伝習生となり、幕府海軍の充実に尽力します。そして、榎本釜次郎(武揚)の下、「開陽」の機関長として箱館の地を踏むのです。
 
中島三郎助親子は、新政府軍によって箱館が制圧された後も降伏することなく、長男、次男とともに新政府軍の攻撃の中、戦闘を続け、命を落としました。
 
中島三郎助親子にちなんで、この千代ヶ岡陣屋付近は「中島町」と名付けられています。
 
函館中心部を通り抜け、現在の函館どつく前に来ました。ここに、かつて弁天台場がありました。もともと箱館奉行所が外国船が来襲するのを恐れ、幕府に願い出て建造した砲撃用の台場でしたが、使われたのは、箱館戦争の場面でした。
戦いは、箱館湾海戦となり、新政府軍の艦艇の甲鉄や春日からの艦砲射撃により、砲台は崩壊します。最後まで籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか240人全員が五稜郭降伏の前に降伏した地です。
この弁天台場には、島田魁ら新撰組も戦闘に立っていたようで、「新撰組最後の地」という標柱もありました。土方歳三も、この弁天台場の救出に向かう途中に戦死しています。
明治29年、港湾改良のため、周囲が埋め立てられ、現在の姿となっています。
 
弁天台場前の坂を上り切った場所に高龍寺があります。市内で最も古いお寺です。ちょうど、お彼岸ともあって、お墓参りの方が大勢いました。
高龍寺は、箱館戦争の折に、高松凌雲が病院長を務める箱館病院の分院として、負傷者らを受け入れたところです。
明治2年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われました。
当時の高龍寺は坂の下にあり、高龍寺に収容されていた旧幕府軍負傷兵は、松前、津軽両藩兵らによって斬殺され、両藩兵はさらに火を放って引揚げていきました。
両藩兵は、前年の10月に鷲ノ木に上陸した榎本軍の攻撃を受けて敗走し、津軽海峡を渡り、青森に逃れた者たちで、その報復の念をいだき新政府軍に参加していたための惨禍となったようです。
 
明治33年に現在の本堂が完成し、明治43年に山門が建てられました。
越後出身の名工による山門の彫刻は見事で、国の有形文化財に指定されています。
このお寺には日本で最初に種痘を行った中川五郎治など著名な方の墓があります。
 
今回の旅の目的でもある高松凌雲にまつわる高龍寺には、供養塔が本堂の前に置かれています。
 
高松凌雲は、慶応3年、パリ万国博覧会に徳川慶喜将軍の名代として出席した徳川昭武の随行医として渡欧し、1年半にわたりパリの医学校で医学の精神を学んだ後、幕府瓦解後、日本に戻り、旧幕臣として箱館戦争に身を投じ、壮絶な戦場で敵味方の区別なく治療を行った人物で、日本の赤十字創設に係った義の方です。
 
供養塔の横には、「傷心惨目」の碑があります。
新政府軍の先鋒隊の乱入により、傷病者らを殺傷して、寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲者となったと言われていますが、明治13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養しています。
碑面の「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったものだそうです。
 
続きます。

 
 先日の8月22日に、女性芸人の草分け、内海桂子さんが逝去されました。97歳の大往生でした。好江さんとのコンビで人気があり、歯切れの良い芸風が印象的でした。
 内海桂子さんは千葉県の生まれで、東京浅草で育ちました。幼い頃、父親が行方不明となり、父親の顔を知らないまま育ったということです。
 そして、尋常小学校3年生の時に神田の蕎麦屋「更科」に子守奉公に出され、その後、漫才の道に入ったそうです。
 私は、3年ほど前、自宅近くにある潮田神社にお詣りした際に、その神社の鳥居に刻まれた「潮田牧場 小野玄三建立 大正13年9月」という文字が気になって、インターネットで調べてみたんです。動機は、工場地帯になぜ牧場があったのだろうという素朴な疑問からでした。
 すると、意外なことに、小野玄三さんと内海桂子さんとの関係が記されていたんです。