今回は、4連休を利用して行った北海道函館、江差、洞爺湖の旅をご報告します。もちろん、GOTO travelを利用しての旅でございます。
真っ先に行った先は、ご存知、五稜郭です!
 

今回の旅の目的は、吉村昭「夜明けの雷鳴」の舞台を巡ることです。この小説、ご存知の方も多いかと思いますが、幕末維新に活躍した医師、高松凌雲を描いた歴史記録小説です。

正面の山は、函館山です。
 
コロナ禍ではありますが、五稜郭タワーには連休を利用して来られた多くの観光客で賑わっていました。
函館と言えば、箱館戦争で壮絶な死を遂げた土方歳三の最後の地でもありますね。
 
五稜郭は、やはり、タワーから見ないとその星型の美しい城郭には気付きません。
 
箱館奉行所は、3密回避のために入場制限をしていました。
建物内には、箱館戦争の資料が展示されているようですが、仕方なくパスです。
 
次に向かったのは、千代ヶ丘陣屋跡です。
この千代ヶ丘陣屋の隊長は、中島三郎助でした。中島三郎助を有名にした最初の話は、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に副奉行として乗り込んだことでしたね。
 
https://ameblo.jp/mondo7126/entry-12529014181.html

 

 

 
当時は浦賀奉行所の与力に過ぎなかったのですが、身を挺して幕府を守ろうとした勇気ある行動でした。
その後、長崎に派遣され、海軍伝習生となり、幕府海軍の充実に尽力します。そして、榎本釜次郎(武揚)の下、「開陽」の機関長として箱館の地を踏むのです。
 
中島三郎助親子は、新政府軍によって箱館が制圧された後も降伏することなく、長男、次男とともに新政府軍の攻撃の中、戦闘を続け、命を落としました。
 
中島三郎助親子にちなんで、この千代ヶ岡陣屋付近は「中島町」と名付けられています。
 
函館中心部を通り抜け、現在の函館どつく前に来ました。ここに、かつて弁天台場がありました。もともと箱館奉行所が外国船が来襲するのを恐れ、幕府に願い出て建造した砲撃用の台場でしたが、使われたのは、箱館戦争の場面でした。
戦いは、箱館湾海戦となり、新政府軍の艦艇の甲鉄や春日からの艦砲射撃により、砲台は崩壊します。最後まで籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか240人全員が五稜郭降伏の前に降伏した地です。
この弁天台場には、島田魁ら新撰組も戦闘に立っていたようで、「新撰組最後の地」という標柱もありました。土方歳三も、この弁天台場の救出に向かう途中に戦死しています。
明治29年、港湾改良のため、周囲が埋め立てられ、現在の姿となっています。
 
弁天台場前の坂を上り切った場所に高龍寺があります。市内で最も古いお寺です。ちょうど、お彼岸ともあって、お墓参りの方が大勢いました。
高龍寺は、箱館戦争の折に、高松凌雲が病院長を務める箱館病院の分院として、負傷者らを受け入れたところです。
明治2年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われました。
当時の高龍寺は坂の下にあり、高龍寺に収容されていた旧幕府軍負傷兵は、松前、津軽両藩兵らによって斬殺され、両藩兵はさらに火を放って引揚げていきました。
両藩兵は、前年の10月に鷲ノ木に上陸した榎本軍の攻撃を受けて敗走し、津軽海峡を渡り、青森に逃れた者たちで、その報復の念をいだき新政府軍に参加していたための惨禍となったようです。
 
明治33年に現在の本堂が完成し、明治43年に山門が建てられました。
越後出身の名工による山門の彫刻は見事で、国の有形文化財に指定されています。
このお寺には日本で最初に種痘を行った中川五郎治など著名な方の墓があります。
 
今回の旅の目的でもある高松凌雲にまつわる高龍寺には、供養塔が本堂の前に置かれています。
 
高松凌雲は、慶応3年、パリ万国博覧会に徳川慶喜将軍の名代として出席した徳川昭武の随行医として渡欧し、1年半にわたりパリの医学校で医学の精神を学んだ後、幕府瓦解後、日本に戻り、旧幕臣として箱館戦争に身を投じ、壮絶な戦場で敵味方の区別なく治療を行った人物で、日本の赤十字創設に係った義の方です。
 
供養塔の横には、「傷心惨目」の碑があります。
新政府軍の先鋒隊の乱入により、傷病者らを殺傷して、寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲者となったと言われていますが、明治13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養しています。
碑面の「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったものだそうです。
 
続きます。