新年を迎えて

2021年元旦 本年もよろしくお願い申し上げます。
新年最初の記事は、吉村昭記念特集です。この写真は、吉村昭記念文学館news Vol.15の巻頭を飾ったもので、吉村昭の仕事場(書斎)の写真かと思います。
吉村昭記念文学館は、2017年3月に建てられた「荒川区立ゆいの森あらかわ」に併設されている資料館で、吉村昭ファンの聖地ともいえる場所です。私も何度か伺いました。
初めて読んだ吉村昭の小説は、「漂流」でした、次に読んだのが「羆嵐」です。2冊とも吉村文学を代表する作品です。これでハマりました。
吉村昭記念文学館ができるまで、日暮里図書館内2階に「吉村昭コーナー」がありました。吉村昭の蔵書や直筆の原稿などがある小さなコーナーでしたが、吉村昭の小説に対する思いが伝わる素晴らしい場所でした。この小さな「吉村昭コーナー」には、2013年6月に明仁天皇陛下(現上皇陛下)も訪れています。
 
私が最初に吉村昭記念文学館友の会に入ったのは、準備室ができた2013年でした。下の写真の上段の紫色のものがその会員証で、2017年に開館するまでの期限付きでした。当時300人ほどいたそうです。下段の赤色のものが、2017年に開館して以降に発行された会員証です。

 

2006年1月、荒川区から吉村氏に、氏の功績を顕彰する文学館の構想を伝えたところ、「区の財政負担にならないこと、図書館のような施設と併設すること」を条件に設置を承認されたそうです。その半年後に吉村昭は亡くなりますが、夫人で作家の津村節子氏の協力で蔵書、原稿、愛用品などが寄託されました。

下の写真は吉村昭記念文学館の広報誌です。津村節子氏の題字「万年筆の旅」は、準備室が開設された2013年3月から発行されています。

 

友の会に入会すると、「万年筆の旅」が毎回送られてきますから、吉村昭記念文学館のイベント情報を知ることができます。また、文学館に展示されている常設展示図録(144ページ)が送られてきます。そこからは、吉村昭の人間像を知ることができ、展示されている資料に解説が添えられているので、作品を深読みすることができます。

 

「メガネ拭きクロス」も同封されています。メガネをかけていた吉村昭には必需品のひとつだったのかも知れませんね。描かれている絵は、吉村昭の書斎から見える愛犬クッキーです。

 

あと、スタンド式のカレンダーも入っていました。

 

最新の吉村昭記念文学館news Vol.15と一緒に送られてきたのは、下の写真にある「戦後75年戦史の証言者たち(令和2年度企画展)」の図録(64ページ)です。

今回の企画展は、新型コロナウィルス感染拡大防止の折、館内展示を控え、ウェブサイトで開催されています。

ページをめくると、吉村司氏(吉村昭の長男)が寄稿した「父と戦艦武蔵」が掲載されています。

私も父の作品で何を勧めるか? と問われたら「戦艦武蔵」を筆頭に上げる。しかし、この小説が発表されてベストセラーになった時、父の純文学が好きだった小学生の私には事実だけを書いているように思えたこの作品を、これでも小説なのか? と言ってしまったことがある。しかし、そんな私が今、愛好し読み返す父の作品と言えば、圧倒的に記録小説だ。父という小説家が歴史に対峙すると、それまで本質が埋もれていた史実も生き生きと蘇ってくる。それは、多くの読者も同感されるのではないだろうか。私は親孝行ができなかったといって悔やむ息子ではないが、小説「戦艦武蔵」は最高だと、存命中の父に言えなかったことが、唯一私の悔いとなっている。

吉村昭の記録文学の原点は「戦艦武蔵」と「戦艦武蔵ノート」に書かれてあると思う。この企画展を機に改めてこの2作品を読み返そうと思っている。(出典「戦後75年戦史の証言者たち(令和2年度企画展)」)

 

友の会入会と同時に送られてくる「吉村昭記念文学館常設展示図録」には、「吉村作品の舞台と取材地」(A2サイズ)が挟み込まれています。以前からこうした情報が欲しいと願っていたので、これを見た瞬間、これだけでも友の会に入会した価値があると思ったほどです。

一昨年は、小説「長英逃亡」の舞台である東北地方を巡り、昨年は小説「夜明けの雷鳴」の舞台、北海道函館を歩きました。さて、今年はどこに行こうかと思いを膨らませています。これだけ作品の舞台があるとなかなか制覇するのは容易ではありませんね。

 

 

下の写真は、私の文庫本の書棚の一部ですが、上段が司馬遼太郎と伊東潤の小説ばかり、下段は吉村昭に関する文庫本で82冊並んでます。良い小説と言うのは、読み返す毎に感動を覚えます。今、小説「海の祭礼」を読み返しているところです。

ステイホーム、今年もコロナに負けずに頑張りましょう!

新型コロナウイルスの猛威は衰えることを知らず、いよいよ日本も第3波に突入してしまったようで、心配です。
ところで、私の習慣の中に、史実の基づいた小説や映画の舞台を巡って歩くというものがありまして、これまでも愚輩のブログにはいくつか登場してきています。
中でも、好きな小説家に吉村昭がおりまして、自然と吉村昭が書いた記録歴史小説の舞台を歩くことが多いのです。
そこで、前回の「夜明けの雷鳴」に続き、今回は再読した吉村昭の記録歴史小説「間宮林蔵」の舞台をご案内したいと思います。
ここは、間宮林蔵の生家で、隣接して、つくばみらい市教育委員会が運営している「間宮林蔵記念館」があります。

 

場所は、茨城県つくばみらい市上平柳。小貝川の岡堰の近くです。周りは田畑に囲まれているところなので、案内板を見逃さない限り、迷うことはありません。

さて、小説は、文化4年(1807)4月、千島エトロフ島のオホーツク沿岸にあるシャナの海岸にロシア軍艦が現れ、シャナ村を襲撃し、箱館奉行所の支配下にある会食(砦)の役人全員が逃避するという事件から始まります。

 

逃避した役人はその後、自刃したり、処罰される中、間宮林蔵は、幕府からのお咎めもなく、逆に幕府から現在の樺太の踏査を命じられます。単独の踏査を含め2回にわたり、未踏の地「樺太」の探検に赴くのです。その結果、樺太が半島ではなく、島であることを証明し、樺太および蝦夷地全体の測量を行い、蝦夷地地図を作成したのです。ちなみに大陸と島の間にある海峡は、「間宮海峡」とシーボルトにより世界に紹介され世界地図にその名を残します。

19世紀初め、蝦夷地は十分な踏査がなされておらず、未開の地でした。また、ロシア軍艦が度々蝦夷地沿岸や千島列島に現れ、村々を襲撃するという事件もあって、幕府にとって樺太の領地所有の実態を正確に掴む必要があったのです。

 

間宮林蔵記念館は、思っていた以上に資料が見やすく展示されており、関心いたしました。車を利用する方は、間宮林蔵の師匠に当たる伊能忠敬の記念館も千葉県香取市にあるので、併せて見学するのも良いかもしれません。

 

記念館に隣接して間宮林蔵の生家があります。林蔵は、幼い頃、幕府役人が小貝川の河川工事をしていた時、林蔵の才能に驚き、江戸に出て行くきっかけとなります。その後、蝦夷地を中心に測量を行う他、全国各地を隠密として行脚することとなるのです。林蔵は立ち寄ることはあったものの、生家で暮らすことはありませんでした。

 

現在は、市の管理により整備が行き届いています。

 

間宮林蔵記念館から200メートルほど離れたところに専称寺というお寺があります。幼い頃、林蔵は寺子屋だった専称寺に通い読み書き算盤を学びました。

 

専称寺本堂の前の緑に囲まれた場所に間宮林蔵のお墓があります。

 

階段を上がると、明治37年に正五位の贈位を受けた後、明治43年に建立された間宮林蔵の顕彰記念碑があります。

 

顕彰記念碑の後ろに、間宮林蔵の墓があります。向かって右は両親の墓で、左側が間宮林蔵の墓です。この墓は、文化4年(1807)、決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、林蔵自ら建立した生前の墓です。身分の低い武士に合った百姓並みの墓です。林蔵は、天保15年(1844)、波乱に満ちた65歳の生涯をこの地に遺骨が納められ、眠っています。墓の奥は、小貝川です。

小説「間宮林蔵」のあとがきに吉村昭は次のように書いています。

林蔵の墓石について、様々な推測がなされている。林蔵の故郷の専称寺に、間宮林蔵墓と刻まれた墓碑がある。問題は、墓石の両側面に刻まれている二人の女性の戒名である。右側面には林誉妙慶信女、左側面に養誉善生信女とある。林誉妙慶信女は専称寺の過去帳に記載され、庄兵衛娵と記されている。庄兵衛は林蔵の父であるから、その戒名の女性は林蔵の妻ということになる。が、林蔵は妻帯した気配がなく、両親が、旅に明け暮れて故郷に変えることのない林蔵の嫁として家に入れた女性とかんがえられる。・・・養誉善生信女とは、どんな女性であったのか。寺の過去帳にはないが、墓碑に刻まれているのだから、林蔵の妻と考えられる。林蔵の故郷には、第二回目の樺太探検後、アイヌの娘を妻とし、故郷に連れ帰ってきたという伝承がある。戒名の女性は、その娘ではないかという。・・・それを裏付ける確証がないので採用することはしなかった。

 

専称寺を後に、小貝川の反対側に移動しました。これが小貝川の岡堰です。

 

小貝川の中島に岡堰の記念公園があります。

 

江戸時代以降、岡堰は小貝川の氾濫により、幾度も壊されます。田畑に水を引くために欠かせなかった岡堰は煉瓦からコンクリートに製法を変え、改築されていきました。公園には、その一部が野外展示されています。

 

公園の中には、岡堰の史跡の他に間宮林蔵の記念のブロンズ像があります。

 

間宮林蔵は生涯独り身でした。そのため間宮家を継がせるため、茨城伊奈間宮家(上平柳)として、分家から哲三郎を養子にもらい、現在も子孫に引き継がれています。また、江戸の普請役の家督は、勘定奉行戸川播磨守が浅草の札差青柳家の鉄二郎に目を付け、引き継がせます。子孫の方の情報はわかりません。晩年、林蔵は深川蛤町に住まいを持っていたことから、江東区平野2丁目7-8にも墓が建てられました。墓の管理は、近くにある本立院が行なっていて、この墓には、林蔵の歯が埋葬されているということです。

墓石の正面には「間宮林蔵蕪崇之墓」と刻まれています。この墓標は水戸徳川藩主徳川斉昭が選したものと言われています。林蔵が江戸にいる頃、水戸徳川斉昭は、蝦夷地を領地にしたいと考えを持っており、林蔵に蝦夷地やロシアのことを聴取していた縁からかもしれないと思います。最初に作られた墓石は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼けてしまいますが、拓本が残っていたので、昭和21年5月に建て直されています。また、林蔵の墓の傍に「まみや」と刻まれた小さな墓碑が建てられています。これは、晩年、林蔵の身の回りの世話をし、看取った女性「りき」のものとされています。

 

下の写真は、伊能忠敬の住居跡碑です。伊能忠敬は、千葉県小関村の生まれで、18歳の時に江戸に出て、平山左忠次の名で昌平坂の学問所に入ります。その年、酒造業を営む伊能家の養子に入り、、やがて天文学への関心を深めるようになります。

そして、50歳で家督を譲り、専門の測地術を学ぶことを志し、幕府天文方高橋至時(当時31歳)の門に入ります。当時、蝦夷地の地図は粗末なものしかなかったため、高橋至時の勧めで幕府に蝦夷地の調査を願い出るのです。

結局、幕府は許可はするものの、費用は出さなかったため、自費で箱館、室蘭、釧路、厚岸、に達し、箱館に戻るのですが、蝦夷地にいた林蔵はその際、伊能忠敬に会っているのです。

 

林蔵は、樺太、蝦夷地の調査、地図の作成を終え、江戸深川蛤町に住むようになってからは、深川黒江町に住んでいた忠敬の住まいに度々通い、忠敬から測量法を学んでいます。

 

伊能忠敬や高橋至時の墓は、浅草の源空寺にあります。明暦の大火で湯島から浅草に移転した浄土宗のお寺です。台東区東上野6-19-2

 

伊能忠敬のお墓です。測量学の師匠高橋至時のお墓も隣にあります。これは、偶然ではなく、忠敬が高橋至時が眠っている源空寺に埋葬してほしいと願っていたからなんです。

 

樺太や蝦夷地の測量を行い、地図を作成した林蔵は、幕府から海防関係の隠密の命を受け、東日本の沿岸や九州、伊豆七島と全国を歩きます。

深川で体調を整えていたある日、高橋至時の息子の高橋作左衛門(景保)から小包が届きます。中身はシーボルトからの書簡と贈答でした。

シーホルトとの面識のない林蔵は小包を上司の勘定奉行村垣淡路守に届けるのですが、それがきっかけで、高橋作左衛門(景保)がシーホルトに国禁である日本地図を譲渡していたことがわかり、高橋作左衛門(景保)は獄中で亡くなり、その他、多くの学者たちが処罰されていきます。また、シーボルトは、日本地図を没収され、国外追放となるのです(実際には、すでに日本地図は海外に持ち出されていたのですが・・・)。

この事件により、周囲から、林蔵は自分の栄達のために密告したと噂されるということになります。歴史にも登場する「シーボルト事件」です。

 

都内にもシーポルトの記念の胸像があります。場所は、中央区築地のあかつき公園です。直接、シーボルトとこの地は関係があるわけではありませんが、この地が江戸蘭学発祥の地であり、娘のいねが築地に産院を開業したことなどから建てられたもののようてす。

吉村昭の「間宮林蔵」は、間宮海峡を発見した間宮林蔵のその苦難の探検行をリアルに再現していて、面白かったのですが、幕府隠密として生きた晩年までの知られざる生涯が幕末の日本の事件に繋がっていくことにも驚きました。史実の闇に光を当てた傑作だと思います。

さらに驚いたのは、インターネットで偶然見つけたニュースでした。

2003年に間宮林蔵をしのぶ「林蔵祭」が生誕地の茨城県伊奈町で開かれ、子孫が一堂に集まったのですが、そこに、間宮林蔵の直系の子孫と前年に確認された間見谷喜昭さん(75歳、北海道旭川市)の親子が参加されていたという記事です。

主催した間宮林蔵顕彰会によると、間見谷さんは間宮林蔵とアイヌ民族の女性との間に生まれた娘の子孫。長年、間宮林蔵に直系の子孫はいないとされていましたが、2002年の郷土史研究家の調査で子孫と確認されたようです。

歴史記録小説の題材をこうして調べてみると、現代にも繋がっていることがわかり、結構面白いので、当分、続けてみようと思っています。

 

再び西浦賀へ

渡船は、午後1時まで昼休みなのですが、私の顔を見て「どうぞ」と声を掛けてくださいました。15分も早くの出船です。船頭さんありがとうございます!
再び、西浦賀に向かいましょう。
 

先ほどは、叶神社のある明神山の頂きまで登りましたが、今度は、西浦賀の最高峰、愛宕山の登頂を目指します。

 

愛宕山には、中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航碑、与謝野鉄幹・晶子の歌碑があります。

中島三郎助招魂碑が建つ愛宕山

浦賀港沿いの路地に入ったところに「浦賀園」と読むのでしょうか、愛宕山公園の入口があります。

 

 階段を登り始めたところで、何十年か振りに大蛇と遭遇してしまいました。

 

毒蛇ではなさそうですが、アオダイショウ?・・・目を合わせないようにして、こちらから道を譲り、何とか切り抜けることができました。

 

息を荒くして登った先に「咸臨丸出航の碑」がありました。

この碑は、昭和35年に日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられました。

碑の裏には、勝海舟をはじめ、福沢諭吉、中浜万次郎(ジョン万次郎)など乗組員全員の名前が刻まれています。

 

個人的には、主要な浦賀奉行所与力が選ばれるなか、功績も高く、咸臨丸の修理も担当していた中島三郎助や通詞として活躍した堀辰之助が遣米使節団の一員になれなかったことに複雑な思いがします。

 

 

 

 その先に中島三郎助の招魂碑と功績を記した解説板がありました。
 
江戸時代末期に横須賀造船所ができてから、浦賀は幕府の軍港としての役割はなくなりますが、中島三郎助の23回忌に建てた招魂碑の除幕式に、箱館五稜郭で共に戦った榎本武揚らが中島三郎助の功績を称えて、再び浦賀に造船所建設を呼びかけ、煉瓦造りのドライドッグが造られることになったのです。
 
それにより、浦賀は造船所の街として再び賑わいを取り戻すことになりました。多くの軍艦や、青函連絡船などがこの港で造られています。
 
現在、特定の日に文化財となった浦賀ドックを見学することできるようです。

 

 

 与謝野鉄幹と晶子の歌碑があります。この地で詠んだ後、鉄幹は20日後に亡くなっていることから、最期の歌となったのかも知れません。

 

(与謝野夫婦の歌碑)
*黒船を怖れし世などなきごとし浦賀に見るはすべて黒船  寛
*春寒し造船所こそ悲しけれ浦賀の町に黒き鞘懸く  晶子
 (引用;横須賀市 与謝野夫妻歌碑)

 

 さらに、先に進むと、何と日本龍馬会という法人が龍馬像をこの地に建てる計画だという看板を発見しました。
そもそも龍馬はこの地に来ているのだろうか?
 
 ちなみに龍馬像が建ったとすると、こんな景色を望むことになります。
対岸の山は先ほど登った明神山です。
 
陸軍桟橋の前にある「よこすか浦賀病院」は、浦賀奉行所の出先機関である番所が置かれていたところです。

番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものでした。

その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当していました。

 

 太平洋戦争が終わると南方や中国大陸から引き揚げ者56万人がこの場所から上陸したそうです。

 

しかし、日本帰還の前に、船内でコレラが発生し、多くの死者が出たそうです。

 
堤防釣りにちょうど良いこの場所は「陸軍桟橋」です。

浦賀奉行所跡

浦賀湾から少し奥に入ったところに「浦賀奉行所跡」があります。

2年ほど前に来た時は、まだ団地がありましたが、現在は埋蔵文化財の調査も終え、更地になっています。

 

享保5年(1720年)に奉行所が下田から浦賀に移されました。

奉行所では、船改めのほか、海難救助や地方役所としての業務を行っていました。

 

また、1830年代にたびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防御する海防の最前線として、さらに重要な役割を担うようになりました。

奉行所跡を取り囲む堀の石垣は当時のものです。 

 

 浦賀奉行所跡から1キロほど歩いた先に「燈明堂跡」があります。
 
慶安元年(1642年)に幕府の命により建てられた燈明堂は灯台の役割をはたしていて、その灯は、房総半島まで届いたといいます。
 
燈明堂は、浦賀湾西岸の先端にあり、荒々しい岬の岩礁と反対側には美しい砂浜が続いています。
 

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燈明堂の建物は明治5年に消滅しますが、台座の石垣のみ横須賀市の史跡に指定されています。

幕末はここから始まりましたペリー上陸記念碑

ここまで来たら、ペリー提督が最初に上陸した久里浜に参りましょう。
 
1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、米国フィルモア大統領の日本開国を求める国書をもって、提督ペリーは久里浜海岸に上陸しました。

この歴史的事実をきっかけに、翌年には日米和親条約が結ばれ、日本は200年以上に渡ってつづけてきた鎖国を解き、開国しました。

ペリー公園は、日本の近代の幕開けを象徴する史実を記念した公園です。
 
1901年(明治34年)7月14日、ペリー上陸と同じ日にペリー上陸記念碑の除幕式がおこなわれました。
 
碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、初代内閣総理大臣 伊藤博文の筆によるものです。
 
太平洋戦争以降、日米が敵対関係となり、1945年(昭和20年)2月に碑は引き倒されました。
しかし、終戦後、粉砕されず残っていた碑は同年11月に復元されました。
 
公園の奥にペリー記念館があります。1987年(昭和62年)に横須賀市の市制80周年を記念して建てられました。
 
1Fは黒船来航を再現したジオラマ模型の展示ホール、2Fはペリー上陸にまつわる貴重な資料を展示するスペースとなっています。月曜日は休館です。
 
この久里浜の海岸には、ペリー艦隊の4隻の軍艦が整列していたことでしょう。
 
ペリー公園から最寄りの駅、京急久里浜駅まで歩きました。今回の旅で歩いた距離は14Kmでした。私にとっては、久しぶりの距離です。

西渡船場から京急久里浜駅までの散策マップ

続きます。

東浦賀の船着場の横に「徳田屋跡」の解説板があります。
徳田屋とは東浦賀の旅籠で、浦賀が江戸湾防衛の最前線となると、多くの武士や文化人が訪れたといわれています。その中には、吉田松陰や佐久間象山がいました。

 

 

東浦賀は、浦賀湾の周囲を除くとほぼ山々に囲まれている場所ですが、お寺と神社が所狭しと建ち並んでいます。
 
最初に伺ったのは顕正寺です。
このお寺には、横須賀が舞台となった小説「血族」の作者山口瞳や江戸時代の陽明学者、中根東里の墓があります。
 
次に向かったのは、東林寺です。
墓地には、浦賀奉行所与力だった中島三郎助親子の墓があります。お墓は偶然見つけることができました。

 

中島三郎助の墓は、右手前の墓石です。ここで、中島三郎助の人物像に少し触れたいと思います。

 

中島三郎助は、黒船来航の折に浦賀奉行所副奉行と称し、旗艦サスケハナ号の船上でペリー提督と交渉に当たります。その功績は大きく、中島は幕府から金一封を貰い受けます。


黒船来航を機に、全国に海防のお触れが出され、品川には台場が造られ、砲台が全国各所に整備されるきっかけとなりました。
幕府にとって最初の西洋式大型軍艦となる鳳凰丸の建造は、中島三郎助らが担当することになります。
 
その後、幕府の命により勝海舟らと共に長崎海軍伝習所の第一期生として、軍事と航海術を修得し、築地海軍操練所に教授として迎えられます。
 
しかし、勝海舟と反りが合わず、浦賀で咸臨丸の修理に携わりながらも、遣米使節団には選ばれませんでした。
 
再び浦賀奉行所に戻りますが、ちょうどその頃、幕府が瓦解し、浦賀奉行所も新政府軍の手に落ちます。
 
中島三郎助から造船知識を授けられた長州の桂小五郎からは新政府の要職を勧められますが、義を重んじた中島は榎本武揚と共に、海陽丸の機関長として箱館戦争に向かうのです。
 
箱館五稜郭の前線基地となった千代ヶ岡陣屋では、箱館奉行並となった中島三郎助が陣頭指揮をとりました。
 
箱館市内が新政府軍に制圧されたことから、榎本武揚から五稜郭に入るよう説得を受けますが、応じず、この地で中島三郎助親子は壮絶な死を遂げます。その2日後、榎本武揚ら旧幕府軍は降伏するのです。
 
この写真は、明治20年代の千代ヶ岡陣屋です。
 
今でも、千代ヶ岡陣屋のあたりは、中島町という地名が残され、毎年5月には、函館で中島三郎助まつりが行われているそうです。
 
また、毎年1月には、浦賀で生誕祭が行われています。中島三郎助は、函館と浦賀にとって誇りなのですね。

 

中島三郎助が眠る東林寺からは、浦賀港が見渡せます。対岸は西浦賀です。

 
次に叶神社に向かいました。東浦賀の鎮守様です。裏山は明神山といいます。
祭神は「厳島姫命」(いつくしまひめのみこと)で、海難その他の難事の際に身代わりとなって人々を救う「身代わり弁天」として祈願されています。
 

文治2年(1186)に源頼朝が源氏再興の願いが叶えられたので、叶明神とされたといわれています。

 
本殿の横にある石段を上り切ると(マップでは神社を巻いていますが)、曲輪のような場所に出ます。そこには「勝海舟断食之跡」という石柱が建てられていました。
 
ここで遣米使節団として咸臨丸でサンフランシスコに向う前に、祈願したといわれています。
 

この場所は、かつて浦賀城でした。

戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。
 
この場所からは、正面に房総半島を見ることができます。また、この下辺りが黒船が停泊した場所とされています。
 
さて、東浦賀の散策はこのくらいにして、再び西浦賀に戻りたいと思います。

今回の散策ルートです。

続きます。

前回のブログで北海道函館から江差、洞爺湖の旅をご紹介しました。目的は、現在の函館を舞台にした箱館戦争の史跡を巡る旅でした。
 
中でも、吉村昭さんの小説「夜明けの雷鳴」の主人公、高松凌雲の足跡を追うものでした。
 
今回は、黒船来航の地、浦賀を訪ね、旧幕臣として、榎本武揚や土方歳三らと共に箱館戦争で闘い、壮絶な死を遂げた元浦賀奉行所与力の「中島三郎助」にスポットを当てたいと思います。
この写真は、久里浜にあるペリー公園に建てられたペリー上陸記念碑です。
ペリー提督は、4隻の黒船を率いて浦賀沖に姿を現しました。そして、この久里浜に上陸し、大統領の開国と通商を求める親書を幕府に渡します。嘉永6(1853)年6月のことです。
 
最初に黒船が来航した際、浦賀奉行所与力の中島三郎助に異国船検分の命が下ります。異国船への乗船を試みますが、ペリー提督から無視されます。ペリー提督は、身分の最も高い者との交渉を望んでいたからなのです。
 
その時に通詞として随行していた堀辰之助が機転を働かせ、ペリー提督に対し、与力の中島三郎助を浦賀奉行所副奉行として紹介し、漸く黒船に乗船することができ、来航の目的など検分することができました。
 
この中島三郎助と数奇の縁を持つ通詞堀辰之助は、後に幕府の命で、箱館に行くこととなります。しかし、その後の幕府瓦解により、新政府の官吏となり、箱館戦争を迎えるのです。
 
旧幕府軍幹部として、箱館戦争の指揮を執る中島三郎助との再会はあったのか、興味はつのります。
 
さて、本題に戻りましょう。今回の旅は京急浦賀駅からのスタートです。駅前の交差点を渡り、浦賀港の西側(西浦賀コース)を進みます。
 
浦賀警察署の手前に「大衆帰本塚の碑」があります。この石碑に刻まれている文章は中島三郎助によるものです。
 
江戸時代、この辺りは湊の繁栄と共にコレラなどの疫病により多くの人が行き倒れになったため、無縁仏の墓地があった場所で、市外に墓地を移転させるために建てたものです。
 
浦賀港沿いに歩いて行くと、浦賀コミュニティセンター分館があります。
2階には郷土資料館が併設されていて、浦賀の歴史な中島三郎助の足跡を辿ることができます。
 
郷土資料館は、浦賀奉行所に見立てて作られていました。
 
今年、2020年は、浦賀奉行所が開設されてから300年の節目を迎える年に当たっていました。
 
展示されているものをいくつか紹介しましょう。この船体模型は、幕末に幕府によって建造された西洋式帆船、鳳凰丸です。
 
鳳凰丸は、幕末に日本で建造された様式大型軍艦のなかで最初に竣工したもので、1853年(嘉永6年)に建造を始めました。まさに、黒船によって時代が動いた瞬間ですね。
 
これは、同年に起きた黒船来航を受けて、海防強化策の一環として決まったもので、幕府の命により、浦賀奉行所の担当で建造されることになったものです。
 
蒸気船の急速な普及のため旧式化し、実際には軍艦ではなく輸送船として使用されました。
 
隣には、咸臨丸の船体模型があります。
幕府は黒船の来航から、海軍創設の必要を感じ、オランダ政府に軍艦を注文します。
 
建造された咸臨丸は、長崎海軍伝習所で練習艦として使われ、勝海舟や榎本武揚、そして、中島三郎助らが訓練を受けています。
 
その後、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣された際、アメリカ軍艦ポーハタン号の随行船として、咸臨丸が、この浦賀港からサンフランシスコに向け出航します。
 
咸臨丸には、勝海舟や長浜万次郎、福沢諭吉らが乗船しています。
 
下の船体模型は、ペリー提督が乗船していたサスケハナ号です。
 
郷土資料館を出て、西浦賀の湾口に向け進むと東浦賀への渡船場が見えてきます。西浦賀の渡船場は、広小路に建つ関東大震災慰霊塔が目印になります。
 
渡船が向こう岸の東浦賀の渡船場にいるのが分かります。早速、ボタンを押して、呼んでみましょう。
 
すると、来ました、来ました。
 

乗船していた方は、ロードバイクの皆さんでした。

 

私も東浦賀に向け出航です。乗客は私1人です。優雅な船旅です。

 

渡船からの見た景色です。奥に見えるのが浦賀ドッグです。

 

安政6年(1859年)に日本で初めてドライドッグとして造られました。ここで鳳凰丸を造船し、また、サンフランシスコへの就航に向け咸臨丸の整備をしました。

 
乗って5分、東浦賀渡船場に到着です。
船着場にはお洒落なカフェがあります。カフェの建物の柱には、中島三郎助が活躍した箱館戦争の解説板がありました。
中島三郎助の聖地であることが伝わってきます。
 
ここまでのルートを掲載します。
 
続きます。