前回のブログで北海道函館から江差、洞爺湖の旅をご紹介しました。目的は、現在の函館を舞台にした箱館戦争の史跡を巡る旅でした。
 
中でも、吉村昭さんの小説「夜明けの雷鳴」の主人公、高松凌雲の足跡を追うものでした。
 
今回は、黒船来航の地、浦賀を訪ね、旧幕臣として、榎本武揚や土方歳三らと共に箱館戦争で闘い、壮絶な死を遂げた元浦賀奉行所与力の「中島三郎助」にスポットを当てたいと思います。
この写真は、久里浜にあるペリー公園に建てられたペリー上陸記念碑です。
ペリー提督は、4隻の黒船を率いて浦賀沖に姿を現しました。そして、この久里浜に上陸し、大統領の開国と通商を求める親書を幕府に渡します。嘉永6(1853)年6月のことです。
 
最初に黒船が来航した際、浦賀奉行所与力の中島三郎助に異国船検分の命が下ります。異国船への乗船を試みますが、ペリー提督から無視されます。ペリー提督は、身分の最も高い者との交渉を望んでいたからなのです。
 
その時に通詞として随行していた堀辰之助が機転を働かせ、ペリー提督に対し、与力の中島三郎助を浦賀奉行所副奉行として紹介し、漸く黒船に乗船することができ、来航の目的など検分することができました。
 
この中島三郎助と数奇の縁を持つ通詞堀辰之助は、後に幕府の命で、箱館に行くこととなります。しかし、その後の幕府瓦解により、新政府の官吏となり、箱館戦争を迎えるのです。
 
旧幕府軍幹部として、箱館戦争の指揮を執る中島三郎助との再会はあったのか、興味はつのります。
 
さて、本題に戻りましょう。今回の旅は京急浦賀駅からのスタートです。駅前の交差点を渡り、浦賀港の西側(西浦賀コース)を進みます。
 
浦賀警察署の手前に「大衆帰本塚の碑」があります。この石碑に刻まれている文章は中島三郎助によるものです。
 
江戸時代、この辺りは湊の繁栄と共にコレラなどの疫病により多くの人が行き倒れになったため、無縁仏の墓地があった場所で、市外に墓地を移転させるために建てたものです。
 
浦賀港沿いに歩いて行くと、浦賀コミュニティセンター分館があります。
2階には郷土資料館が併設されていて、浦賀の歴史な中島三郎助の足跡を辿ることができます。
 
郷土資料館は、浦賀奉行所に見立てて作られていました。
 
今年、2020年は、浦賀奉行所が開設されてから300年の節目を迎える年に当たっていました。
 
展示されているものをいくつか紹介しましょう。この船体模型は、幕末に幕府によって建造された西洋式帆船、鳳凰丸です。
 
鳳凰丸は、幕末に日本で建造された様式大型軍艦のなかで最初に竣工したもので、1853年(嘉永6年)に建造を始めました。まさに、黒船によって時代が動いた瞬間ですね。
 
これは、同年に起きた黒船来航を受けて、海防強化策の一環として決まったもので、幕府の命により、浦賀奉行所の担当で建造されることになったものです。
 
蒸気船の急速な普及のため旧式化し、実際には軍艦ではなく輸送船として使用されました。
 
隣には、咸臨丸の船体模型があります。
幕府は黒船の来航から、海軍創設の必要を感じ、オランダ政府に軍艦を注文します。
 
建造された咸臨丸は、長崎海軍伝習所で練習艦として使われ、勝海舟や榎本武揚、そして、中島三郎助らが訓練を受けています。
 
その後、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣された際、アメリカ軍艦ポーハタン号の随行船として、咸臨丸が、この浦賀港からサンフランシスコに向け出航します。
 
咸臨丸には、勝海舟や長浜万次郎、福沢諭吉らが乗船しています。
 
下の船体模型は、ペリー提督が乗船していたサスケハナ号です。
 
郷土資料館を出て、西浦賀の湾口に向け進むと東浦賀への渡船場が見えてきます。西浦賀の渡船場は、広小路に建つ関東大震災慰霊塔が目印になります。
 
渡船が向こう岸の東浦賀の渡船場にいるのが分かります。早速、ボタンを押して、呼んでみましょう。
 
すると、来ました、来ました。
 

乗船していた方は、ロードバイクの皆さんでした。

 

私も東浦賀に向け出航です。乗客は私1人です。優雅な船旅です。

 

渡船からの見た景色です。奥に見えるのが浦賀ドッグです。

 

安政6年(1859年)に日本で初めてドライドッグとして造られました。ここで鳳凰丸を造船し、また、サンフランシスコへの就航に向け咸臨丸の整備をしました。

 
乗って5分、東浦賀渡船場に到着です。
船着場にはお洒落なカフェがあります。カフェの建物の柱には、中島三郎助が活躍した箱館戦争の解説板がありました。
中島三郎助の聖地であることが伝わってきます。
 
ここまでのルートを掲載します。
 
続きます。