日本橋からスタートです
新型コロナウイルスの影響から街道歩きもご無沙汰です。そこで、2年前の桜の時期に歩いた「日光街道」の旅を思い起こしながら記事にしていきたいと思います。
まず、思い出したのは、花粉症との戦いでした。大量にティッシュを抱えての旅路でした。今年もそろそろ季節ですね。
日光街道といえば、ご承知の通り、江戸時代に徳川幕府の政策として整備された五街道の一つで、1936(寛永13)年に江戸から下野国日光間に開通したものです。距離にして、約140キロに及びます。
当時は、江戸から下野国を経て奥州に至る物流の動脈路線、参勤交代の大名の通行の道としての役割も大きかったのだと思います。
日本橋三越本店の右側を真っ直ぐ進みます。日本橋室町の辺りですが、江戸時代は魚河岸があったことから鰹節問屋、海苔問屋、芝居小屋などが軒を連ね、賑わいがあったところです。
日光街道は、室町三丁目の交差点を右折して小伝馬町、浅草橋方面に向かいます。
途中の昭和通りは地下通路を通って渡ります。渡った先に見えるのが「小津和紙」の看板です。
日本橋と聞くと、連想するのが東野圭吾の小説「麒麟の翼」です。映画も大ヒットしましたが、その中にも「小津和紙」は登場してきます。
街道歩きの時は、和紙の紙漉き体験や資料館の見学ができていましたが、コロナの影響で今はどうなんでしょう。
江戸伝馬町牢屋敷だった十思公園、大安楽寺の近くを通って、桜舞い散る神田川を渡ります。
歌川広重は、名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いていますが、今もこの辺りは衣料繊維問屋が建ち並んでいます。
この写真は、浅草橋から神田川を撮影しています。この先で隅田川と合流します。
浅草橋の袂に「浅草見附跡」があります。江戸城外の城門で「浅草御門」と呼ばれていたところです。
振袖火事の時、伝馬町牢屋敷から囚人が脱獄したとの誤報を信じた役人がこの門を閉じたため2万人以上の犠牲者が出たと言われています。
蔵前一丁目の交差点に「天文台痕」の解説板があります。
天文方の高橋至時が天文観測を行なっていた場所です。高橋至時といえば、隠居後に17年かけて日本全土を実地測量し、初めて日本全図を描いた伊能忠敬の師匠ですね。
伊能忠敬も深川の自宅からこの地まで通っていました。そして、ここで学んだ技術を元に、日光街道から奥州街道を通って、奥州、蝦夷地へと実測の旅を続けたのです。
「駒形どぜう」は創業享和元(1801)年のドジョウ料理の老舗です。
文化3(1806)年に大火に遭い、それまでの「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと「どぜう」にしたのだとか。
駒形橋西詰の交差点を直進すると「雷門」の正面に着きます。この時は、外国人観光客で賑わっていましたが・・・。
この写真は、行ったことはありませんが、セーヌ川を思わせる隅田川です。
この時はちょうど隅田川で「桜橋桜祭り」が行われていました。この隅田川堤に桜を植えさせたのは8代将軍徳川吉宗だそうです。
「待乳山聖天」は歴史も古く、由緒ある寺院ですが、お供え物が「大根」なんです。お供え物の大根は、寺務所で売られています。
大根には心の迷いを取り除き、心身の健康と良縁成就、夫婦和合にご利益があるそうです。ここはパワースポットですよ。
大根の絡み具合がなんとも言えませんね。浅草の人力さんが必ず寄る名所です。
大根の値段は時価相場です。この時は1本250円でした。今日、イトーヨーカドーに行くと、野菜売場で九州大根が1本98円で売られていました。
「待乳山聖天」の入口近くに小説「鬼平犯科帳」で有名な作家池波正太郎生誕の地の解説板があります。
浅草には図書館に併設した「池波正太郎記念文庫」もあるので、併せて見学するのもオススメです。
旧日光街道に沿って歩いていくと、「山谷堀公園」があります。江戸時代には新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言っていたようです。
この界隈には、船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すほど有名な場所でした。
山谷堀の近くに「今戸神社」があります。特に女性に人気の縁結びの神様です。
「待乳山聖天」と同様、こちらにも浅草の人力さんが必ず案内しています。
この辺りは「今戸焼発祥之地」で、江戸時代に初めて「招き猫」が作られたことでも有名なんです。
本堂でお詣りすると、子どもの背丈ほどある大きなペアの招き猫が鎮座しているのが見えます。
とても愛嬌のある招き猫が本堂にいます。
「今戸焼発祥之地」碑の隣に、新撰組一番隊組長「沖田総司終焉之地」碑が建っています。解説板によると、「沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて没したと伝えられている」と書かれていました。
松本良順は佐藤泰然(川崎市生まれ)の次男で、徳川家茂の侍医として京都に帯同していた時に新撰組の治療にも当たっていたので、縁のある新撰組が江戸に戻ってからも、結核の沖田総司の治療を続けていたのではないかと推察できますが、終焉之地は他にも説があるので何とも言えません。
松本良順はその後、戊辰戦争に従軍し、幕府軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、榎本武揚の誘いを受けて仙台に向かいます。「新政府を樹立するために蝦夷に行くので、医者として従軍して欲しい」というわけです。
そこへまた土方歳三が訪ねてきて、「医者のあなたは、江戸に戻っても斬殺されることはないので帰ってください」と言われ、オランダ船で横浜に逃げるのです。土方歳三は、松本良順を助けたいという気持ちだったに違いありません。
新政府になってからは軍医総監を勤めます。終焉の地となった大磯では日本で初めて海水浴場をつくったことでも知られています。
いつしか、松本良順を描いた小説、吉村昭の「暁の旅人」の紹介になってしまいました。
南千住に向かいます。跨線橋を渡った先に小塚原刑場跡に建つ延命寺があります。
江戸時代、処刑された屍体は捨てられ一帯に死臭が漂っていたと言われています。
延命寺にある「首切り地蔵」は、寛保元(1741)年に刑死者供養のために造立されたものです。
延命寺の隣に小塚原豊国山回向院があります。回向院には安政の大獄で斬首された吉田松陰や橋本左内らの墓があります。
また、この地で蘭学者杉田玄白らが刑死者の解剖を元に「解体新書」を発刊したことからプレートが掲げられています。
南千住の交差点の近くに「素盞雄神社」があります。
境内には「小塚原」の地名となった「小塚」や大銀杏、文政3(1820)年に建立された「芭蕉旅立記念碑」などがあります。
隅田川に架かる千住大橋を渡ります。この橋は昭和2年に造られています。
千住大橋を渡り終えると、「奥の細道矢立初めの地」碑があります。
芭蕉は深川から舟に乗り、千住に着き、「奥の細道」へと旅たちます。その際に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と詠んでいます。ようやく千住宿に到着です。
千住宿から草加宿に向かいます。続く











































































