日本橋からスタートです

新型コロナウイルスの影響から街道歩きもご無沙汰です。そこで、2年前の桜の時期に歩いた「日光街道」の旅を思い起こしながら記事にしていきたいと思います。

 

まず、思い出したのは、花粉症との戦いでした。大量にティッシュを抱えての旅路でした。今年もそろそろ季節ですね。

 

日光街道といえば、ご承知の通り、江戸時代に徳川幕府の政策として整備された五街道の一つで、1936(寛永13)年に江戸から下野国日光間に開通したものです。距離にして、約140キロに及びます。

 

当時は、江戸から下野国を経て奥州に至る物流の動脈路線、参勤交代の大名の通行の道としての役割も大きかったのだと思います。

 

 

日本橋三越本店の右側を真っ直ぐ進みます。日本橋室町の辺りですが、江戸時代は魚河岸があったことから鰹節問屋、海苔問屋、芝居小屋などが軒を連ね、賑わいがあったところです。

 

 

日光街道は、室町三丁目の交差点を右折して小伝馬町、浅草橋方面に向かいます。

途中の昭和通りは地下通路を通って渡ります。渡った先に見えるのが「小津和紙」の看板です。

 

日本橋と聞くと、連想するのが東野圭吾の小説「麒麟の翼」です。映画も大ヒットしましたが、その中にも「小津和紙」は登場してきます。

 

街道歩きの時は、和紙の紙漉き体験や資料館の見学ができていましたが、コロナの影響で今はどうなんでしょう。

 

 

江戸伝馬町牢屋敷だった十思公園、大安楽寺の近くを通って、桜舞い散る神田川を渡ります。

歌川広重は、名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いていますが、今もこの辺りは衣料繊維問屋が建ち並んでいます。

この写真は、浅草橋から神田川を撮影しています。この先で隅田川と合流します。

 

 

浅草橋の袂に「浅草見附跡」があります。江戸城外の城門で「浅草御門」と呼ばれていたところです。

 

振袖火事の時、伝馬町牢屋敷から囚人が脱獄したとの誤報を信じた役人がこの門を閉じたため2万人以上の犠牲者が出たと言われています。

 

 

蔵前一丁目の交差点に「天文台痕」の解説板があります。

天文方の高橋至時が天文観測を行なっていた場所です。高橋至時といえば、隠居後に17年かけて日本全土を実地測量し、初めて日本全図を描いた伊能忠敬の師匠ですね。

 

伊能忠敬も深川の自宅からこの地まで通っていました。そして、ここで学んだ技術を元に、日光街道から奥州街道を通って、奥州、蝦夷地へと実測の旅を続けたのです。

 

 

「駒形どぜう」は創業享和元(1801)年のドジョウ料理の老舗です。

文化3(1806)年に大火に遭い、それまでの「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと「どぜう」にしたのだとか。

 

 

駒形橋西詰の交差点を直進すると「雷門」の正面に着きます。この時は、外国人観光客で賑わっていましたが・・・。

 

 

この写真は、行ったことはありませんが、セーヌ川を思わせる隅田川です。

この時はちょうど隅田川で「桜橋桜祭り」が行われていました。この隅田川堤に桜を植えさせたのは8代将軍徳川吉宗だそうです。

 

 

 

「待乳山聖天」は歴史も古く、由緒ある寺院ですが、お供え物が「大根」なんです。お供え物の大根は、寺務所で売られています。

 

大根には心の迷いを取り除き、心身の健康と良縁成就、夫婦和合にご利益があるそうです。ここはパワースポットですよ。

 

 

大根の絡み具合がなんとも言えませんね。浅草の人力さんが必ず寄る名所です。

 

 

大根の値段は時価相場です。この時は1本250円でした。今日、イトーヨーカドーに行くと、野菜売場で九州大根が1本98円で売られていました。

 

 

「待乳山聖天」の入口近くに小説「鬼平犯科帳」で有名な作家池波正太郎生誕の地の解説板があります。

 

浅草には図書館に併設した「池波正太郎記念文庫」もあるので、併せて見学するのもオススメです。

 

 

旧日光街道に沿って歩いていくと、「山谷堀公園」があります。江戸時代には新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言っていたようです。

 

この界隈には、船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すほど有名な場所でした。

 

 

山谷堀の近くに「今戸神社」があります。特に女性に人気の縁結びの神様です。

「待乳山聖天」と同様、こちらにも浅草の人力さんが必ず案内しています。

 

 

この辺りは「今戸焼発祥之地」で、江戸時代に初めて「招き猫」が作られたことでも有名なんです。

 

本堂でお詣りすると、子どもの背丈ほどある大きなペアの招き猫が鎮座しているのが見えます。

 

 

とても愛嬌のある招き猫が本堂にいます。

 

 

「今戸焼発祥之地」碑の隣に、新撰組一番隊組長「沖田総司終焉之地」碑が建っています。解説板によると、「沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて没したと伝えられている」と書かれていました。

 

松本良順は佐藤泰然(川崎市生まれ)の次男で、徳川家茂の侍医として京都に帯同していた時に新撰組の治療にも当たっていたので、縁のある新撰組が江戸に戻ってからも、結核の沖田総司の治療を続けていたのではないかと推察できますが、終焉之地は他にも説があるので何とも言えません。

 

松本良順はその後、戊辰戦争に従軍し、幕府軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、榎本武揚の誘いを受けて仙台に向かいます。「新政府を樹立するために蝦夷に行くので、医者として従軍して欲しい」というわけです。

 

そこへまた土方歳三が訪ねてきて、「医者のあなたは、江戸に戻っても斬殺されることはないので帰ってください」と言われ、オランダ船で横浜に逃げるのです。土方歳三は、松本良順を助けたいという気持ちだったに違いありません。

 

新政府になってからは軍医総監を勤めます。終焉の地となった大磯では日本で初めて海水浴場をつくったことでも知られています。

 

いつしか、松本良順を描いた小説、吉村昭の「暁の旅人」の紹介になってしまいました。

 

 

南千住に向かいます。跨線橋を渡った先に小塚原刑場跡に建つ延命寺があります。

江戸時代、処刑された屍体は捨てられ一帯に死臭が漂っていたと言われています。

 

延命寺にある「首切り地蔵」は、寛保元(1741)年に刑死者供養のために造立されたものです。

 

 

延命寺の隣に小塚原豊国山回向院があります。回向院には安政の大獄で斬首された吉田松陰や橋本左内らの墓があります。

 

また、この地で蘭学者杉田玄白らが刑死者の解剖を元に「解体新書」を発刊したことからプレートが掲げられています。

 

 

南千住の交差点の近くに「素盞雄神社」があります。

境内には「小塚原」の地名となった「小塚」や大銀杏、文政3(1820)年に建立された「芭蕉旅立記念碑」などがあります。

 

 

隅田川に架かる千住大橋を渡ります。この橋は昭和2年に造られています。

 

 

千住大橋を渡り終えると、「奥の細道矢立初めの地」碑があります。

 

芭蕉は深川から舟に乗り、千住に着き、「奥の細道」へと旅たちます。その際に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と詠んでいます。ようやく千住宿に到着です。

 

 

千住宿から草加宿に向かいます。続く

 

 

旧前田家本邸

コロナ禍なので、昨年のこの時期に行った場所を振り返り、記事にしました。

井の頭線駒場東大前駅から、閑静な住宅街を10分程歩いて目黒区立駒場公園に行ってきました。
公園の入口には、石造りの厳しい門柱が建っています。門を入り、ヒマラヤ杉の林を抜けると、若草色の屋根に赤煉瓦張りのタイルを貼り付けた洋館が現れます。その奥には、和館も配置されています。この洋館と和館が旧前田家本邸です。


明治17年、華族令発布により、前田家は侯爵の爵位を授与されて、百万石の威信を保っていましたが、約10万坪あった前田家上屋敷の大半は、文部省用地東京帝国大学(現東京大学本郷キャンパス)と駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換されることになったのです。

今も東京大学に残る赤門は、上屋敷の御守殿門で、文政10(1827)に第12代斉泰が第11代将軍家斉の息女溶姫を正妻に迎えた際に造られたものなのです。



重々しいノッカーの付いた玄関扉を開けると、そこには深緑の蛇紋石の柱、チーク材の梁、寄木細工の床、シャンデリアで彩られ、重厚で広々とした玄関広間が現れます。

その周囲には、大小客間や応接間が配され、用途によって使い分けられています。



中庭に面した縦長3連アーチのガラス窓から大階段に柔らかい光が差しています。

小さな菱形の色ガラスを並べた意匠はテューダー様式の特徴で、大きなガラスを作るのが難しかった時代のデザインを模したものとなっています。



2階は侯爵家の私的な空間で、家族の私室が並んでいます。

夫人室は、邸内でもっとも華麗な部屋で家族や親類の集まる居間でもあったそうです。

夫人室に並んで、子供達の私室が続いています。

また、和室もありましたが、使用人の部屋と記されていました。当時、使用人は100人程いたと言われています。



侯爵夫妻の寝室の内装は、銀地に金銀色の模様の壁紙、カーテンは絹織物、絨毯は毛織物で、大変豪華なもの。

ベッドの枕元の壁龕には、守り刀が飾られています。



1階の客間からは、広大な芝庭が見えます。 

南側には築山もあり、家族はスキーやゴルフを楽しんでいたようです。また、園遊会などの催事会場としても使用されていました。



芝庭から洋館南側を撮影したもの。

洋館南側には屋根付きのベランダがあり、半屋外として利用できるようになっています。



特に1階のベランダは、サロンや大客間から芝庭へ続く外回廊のような空間で、3連アーチが見事です。



芝庭には梅が見頃を迎えていました。



洋館北側の写真です。

煉瓦に見えるのは、表面に引っ掻き傷をつけたスクラッチタイルで、帝国ホテルや東京帝国大学の本郷キャンパスをはじめ、この時代の建物装飾に多く用いられていたそうです。 



洋館北側の奥に進むと和館があります。洋館とは渡り廊下で繋がっていました。



和館は、主に外国からの賓客をもてなすために建てられ、四季折々の前田家の行事にも用いられていだそうです。

木造2階建ての近代和風建築で、見学者は見ることはできませんが、庭園側から見ると、銀閣寺とプロポーションが似た姿をしていました。

和館の門は、唐破風が横につく平唐門の形式で、唐破風頂部に幼剣梅鉢紋の瓦を載せています。



駒場への本邸移転は、昭和4年に洋館、昭和5年に和館が竣工しています。

東京帝国大学工科大学教授である塚本靖を中心に、明治神宮造営技師を務め高島屋東京店などを設計した高橋貞太郎や宮内省内匠寮技師で東京国立博物館の内装を手がけた雪野元吉など優秀なスタッフが行い、工事は竹中藤右衛門(現在の竹中工務店)が請け負っています。



1階大広間は、主室と次の間と合わせると40畳近くあり、周囲を畳廊下で囲んでいます。



1階大広間から池泉庭園が見えます。

灯篭は本郷邸から移設したものです。奥には、小さな滝があり、池に注がれています。



秋の紅葉の時期に再び見てみたいですね。 



洋館に隣接して近代文学館が配置されていたが、平成14年に閉館されています。



旧前田家本邸ホームページ(目黒区)


日本民藝館

旧前田家本邸がある駒場公園に隣接して、日本民藝館があります。日本民藝館は、1926年に思想家の柳宗悦らにより企画され、1936年に開設されました。柳の審美眼により集められた陶磁器、染織品、絵画など約17000点が収蔵されていて、国内外から高い評価を受けています。今回は見学できませんでした。



外観、各展示室ともに和風意匠を基調としながらも随所に洋風を取り入れた施設となっています。

旧館および道路に面した石塀や門柱は、大谷石でできていて、1999年に国の有形文化財に登録されています。



日本民藝館本館の道路向いに西館(旧柳宗悦邸)があります。

栃木県から移築した石屋根の長屋門と、それに付設した母屋からなっています。72歳で没するまで柳宗悦が生活の拠点にしていた建物です。




 吉村昭の歴史小説「梅の刺青」は、解剖される側の人間を描きながら、日本の死体解剖の歴史を掘り起こしています。
 
 日本で初めて解剖が行われたのは、宝暦4(1754)年でした。
 京都の古医方の大家山脇東洋が、それまで誰も疑うことのなかった中国医学の五臓六腑説が果たして正しいのかを確認したいという願望から始まっています。
 
 宝暦4年2月7日、京都六角の獄舎で罪人5人が斬首刑に処され、嘉兵衛という38歳の罪人の解剖が行われました。
 
 その後、腑分けが続きますが、明和8(1771)年3月4日に杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」の刊行に繋がっています。

小塚原回向院

 小塚原回向院に入ると、「解体新書の扉絵」と「蘭学を生んだ解体の記念に」が刻まれた記念碑が掲げられています。
 

 

 明治政府が発足してからは、解剖は東京のみで行われていました。明治2年8月の美幾女(みき)の解剖を最初に、黴毒院患者の生前志願によるものでした。

 

 その後、社会情勢が不安定なことから犯罪がしきりに発生し、処刑される罪人の身許不明者が多いことから、大学東校(東京医学校前身)のある旧藤堂家屋敷の敷地内で処刑された罪人の解剖が行われるようになりました。

 

 

 小塚原回向院の墓地には、安政の大獄等で斬刑(梟首刑)に処された橋本左内や吉田松陰らの墓石が並んでいます。

 

 その中の一つに「雲井龍雄」の墓碑があります。墓碑には「雲井龍雄遺墳」と刻まれています。

 

 いずれも伝馬町牢屋敷で斬首された後、梟首刑の者は野捨てにされる定めとなっていて、斬首された頭部は小塚原刑場にさらされました。
 
 
 初めて小塚原回向院に訪れた時は、雲井龍雄という人物についてよく知りませんでした。
 
 5年ほど前に吉村昭の歴史小説「島抜け」を読んでいた際、亡き友人が眠る「円真寺」が、著書のなかで重要な場所として登場していることに気付き、米沢藩士雲井龍雄について知る機会となったのです。
 
 雲井龍雄のことについては、藤沢周平の歴史小説「曇奔る-小説・雲井龍雄-」に詳しく書かれています。
 
        
 

円真寺

 円真寺は、東京都港区高輪、二本榎(にほんえのき)通りに建つ日蓮宗の寺院です。
 米沢藩士雲井龍雄と円真寺について、吉村昭の「島抜け(梅の刺青)」から紹介します。
雲井は、慶応元年正月、二十二歳で江戸警衛に派遣された。任期後も江戸にとどまって、考証学の大家安井息軒の門に入って、多くの俊才と交わり、憂国の情熱を燃やすようになった。米沢にもどった雲井は、情勢に即した藩論を定めるべきと強く説き、藩命を受け探索方として京都に潜行した。
明治元年、薩摩藩が長州藩とともに倒幕の兵を起こし、強硬な薩摩藩の動きに反撥した雲井は、各藩の代表者に接近して倒薩論を強く唱えた。倒幕軍が江戸を占拠して東北への進撃を開始すると、雲井は関東に潜入し、さらに東北諸藩によって成立した奥羽列藩同盟を支持して激しい動きをしめした。薩摩に反撥する諸藩の連合のもとに、江戸を奪回する檄を発したりした。
 
 雲井のもとには、薩摩藩が主導権を握る政府に反感をいだく旧幕臣や脱藩浪士たちが集まり、雲井は芝二本榎の上行寺と円真寺を借りてそれらの者を寝泊まりさせ、「帰順部曲点検所」という標札をかかげた。
 帰順とは、雲井らが服従して政府の兵力になるというものであったが、それが容れられた折には政府の武器を手に反乱を起こそうと企てていたのである。
 
 政府は雲井に手を焼き、彼を隔離すべきだと考え、藩に命じて米沢に禁錮させた。東京に残された者たちは、挙兵の準備に取り組んで動き、これを政府の密偵が的確につかんで、次々に逮捕した。
 彼らの中には拷問に堪えきれず、雲井が政府転覆を企てて不満分子を積極的に集めていたことを告白する者もいて、罪状は明白になった。
 
 雲井は、三十名の兵の護衛の元に東京に押送され、八月十八日に小伝馬町の獄舎に投じられた。
 雲井の遺体は、会津藩士原直鐡をはじめ九体の遺体とともに甕に入れられて大学東校に運ばれた。
 初めに甕から出されたのは、雲井の遺体であった。解剖台にのせられた雲井の体はきわめて小柄であることに、見学者たちの顔には一様に驚きの表情が浮かんだ。政府転覆を企てた一党の首魁である雲井は体躯も大きいと予想していたが、体は華奢で肌は白く、あたかも女体のようであった。
 解剖後、雲井の遺体は、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられた。
 他の九体の遺体は、つぎつぎに解剖にふした後、谷中天王寺に運ばれ僧の読経のもとに無縁墓地に埋葬された。
 
 円真寺近くの芝二本榎の交差点には、昭和8年に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)があります。
 

 第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、そのレトロな外観から、地域のシンボル的な存在となっています。

 

 建物は、平成22年3月26日に「東京都選定歴史的建造物」に選定されています。

 

 
 小塚原回向院に埋葬された雲井の遺体は、その後米沢に移葬されますが、その際に建てた自然石「竜雄雲井君之墓表」が谷中天王寺(現谷中霊園)にあります。
 
 撰文は人見寧によるもので、雲井の事績が刻まれています。
 人見寧は旧幕府遊撃軍の幹部で戊辰戦争では雲井と刎頚の交わりを結び、新政府軍に抗した人物です。
 

 

 雲井の遺体は解剖後、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられましたが、他の九体の遺体は、つぎつぎに解剖にふした後、谷中天王寺に運ばれました。

谷中天王寺

 谷中天王寺は、戊辰戦争(上野戦争)の際、幕府側・彰義隊の営所となったため官軍との戦闘に巻き込まれ、本堂(毘沙門堂)などを焼失しています。


 さらに明治初年の廃仏毀釈、神仏分離で寛永寺の広大な境内地が上野公園になるなどの荒波を受け、天王寺も境内の多くを失っています。


 都立谷中霊園も江戸時代には天王寺の墓地(徳川将軍家の墓地は寛永寺墓地)。中央の園路は天王寺の参道だったそうです。

 

 
 元禄13年(1700年)には感応寺(現・天王寺)に対して富突(富くじ)の興行が許され、湯島天神、目黒不動(瀧泉寺)とともに「江戸の三富」に数えられていました。
 
 
 境内にある「元禄大仏」(露座、銅製)は、元禄3年(1690年)鋳造の釈迦牟尼如来坐像。
 神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造し、像高296センチです。

 江戸時代後期の天保年間(1831年〜1845年)刊行の『江戸名所図会』にも記される大仏なので、当時からかなり有名だったことがわかります。
 

 

 谷中の墓地(都立谷中霊園)にある五重塔の跡は、寛政3年(1791年)再建の天王寺五重塔の跡です。

 

 戊辰戦争の戦火を逃れた五重塔ですが、昭和32年に放火(谷中五重塔放火心中事件)で焼失してしまいます。幸田露伴の小説『五重塔』は、その顛末を題材にしています。

 

 

 雲井龍雄らの解剖のあと、刑死者の遺体解剖は頻繁に行われるようになりました。

 

 明治5年8月に旧藤堂家屋敷にあった大学東校は、第一大学区医学校と改称され、明治7年5月に東京医学校となります。

 その後、東京医学校は、明治9年11月に本郷の加賀藩屋敷跡に校舎を新築し、翌年4月に東京大学医学部と改称されます。

 小石川植物園にあった旧東京医学校本館は、その時に建てられたものです。

 

千人塚と東京大学医学部納骨堂

 明治14年に入って、解剖遺体が千体に及んだので、霊を慰めるために千人塚を建立する計画が起こり、谷中霊園にその年の12月に碑が建立された。

 その後、千人塚はさらに2基建てられ、年に一度、東京大学医学部の主催で多くの医学部関係者が集まり、しめやかに慰霊祭が行われている。

 

千人塚の隣にある東京大学医学部納骨堂

 

 吉村昭は、随筆「わたしの普段着」の中でも「雲井龍雄と解剖のこと」について触れています。

 私はこれらの解剖を記録をもとに小説を書いたが、その記録を繰ってゆくうちに思いがけぬ記述を眼にした。

 解剖された刑死者の中に雲井龍雄という名を見出したのである。

 解剖記録によると、雲井と原をはじめ十体の斬首された遺体は大学東校(医学校改め)に運ばれ、解剖に付されている。

 それを見学した者の記録に、雲井の体が華奢で肌は白く、「女体ノ如シ」と記されている。

 

 米沢に行って雲井のことを調べたが、その死は梟首とあるのみで、遺体が解剖されたとはされていない。

 吉村昭の鋭い着眼力と執拗な取材力によって、事実が解き明かしていく所作を見たように感じました。
 
 最後までお読み頂きありがとうございました。
  前回、吉村昭の小説「梅の刺青」の主人公「みき」が埋葬されている念速寺(文京区指定史跡「美幾女墓」)を紹介しましたが、その後、念速寺の近くにある「小石川植物園」を散策してみました。
  小石川植物園は貞享元(1684)年に徳川幕府が当地に設けた「小石川薬園」に源を発している場所で、日本の近代植物学発祥の地とされています。
  新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の発令後、多くの博物館が閉館となっている中なので開館はありがたいと感じました。
  正門左手の受付(自動販売機)で一般入場料500円を払い、アルコール消毒をしてから入場です。(検温はありませんでした)
 
 
  受付でいただいた植物園案内図を手に冬の小石川植物園を散策します。やはり、冬のメインは、植物観察よりも、望遠レンズを備えたカメラを持つ野鳥観察の方がほとんどです。それにしても、やはりコロナ禍ということもあり、来園者は少ないように感じました。
  正門を左の方向に歩いていくと、目の前に素晴らしい庭園が見えてきます。徳川5代将軍綱吉の幼児の居邸であった白山御殿と蜷川能登守の屋敷跡とに残された庭園が往時の姿をとどめた庭園です。
 
  庭園の最奥に旧東京医学校本館があります。国の重要文化財に指定されています。これは、東京大学関係の現存する最古の建物で明治9(1876)年に建設されたもので、昭和44(1969)年に本郷構内よりこの地に移築されたものです。
  
  新緑や紅葉の時期にも訪れてみたいと思いました。

 旧東京医学校本館の脇から木製の階段を上がると景観が一変し、多様な古木が見えてきます。シマサルスベリの林を抜けていきます。
 
  ユリノキの林を抜けていきます。
 
  甘藷試作跡です。青木昆陽は、江戸付近でも甘藷(さつまいも)の栽培ができるならば、利益も多く救荒食物としても役立つと考え、享保20(1735)年に幕府に進言し許可を得て、この地で栽培を試みました。
  この試作は成功し、やがて全国的に甘藷が栽培される端緒になりました。大正10(1921)年にこの業績をたたえ記念碑が建てられています。
 
  ニュートンのリンゴです。物理学者のニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したという逸話は有名です。
  この木は昭和39(1964)年に英国物理学研究所長サザーランド博士から日本学士院長柴田雄次博士に贈られた木を接木したものです。
  
  西洋式温室が本植物園に最初にできたのは明治8(1875)年でした。
 
  当時の温室が老朽化したため取り壊し、令和元年に現在の温室が完成しました。
 
  温室には、熱帯、亜熱帯産の野生種を中心に約1,100種の植物が栽培されています。その中には、小笠原諸島の絶滅危惧植物のほか、貴重な植物を見ることができます。


東京大学大学院理学系研究科付属植物園(小石川植物園)の案内


 ステイホームに少し疲れたなと感じたら、人出の少ない、自然の中でゆったりと時間を過ごすのもリフレッシュ効果があって、気持ちを穏やかにさせてくれるものです。
皆さんもいかがですか!
 吉村昭の歴史小説の特徴は、何と言っても史実に基づいて書かれていることですね。吉村昭は、「事実はまさにドラマである」という信念で、多くの取材を重ねて歴史小説を書いてきました。特に、幕末の「漂流」ものや、「逃亡」ものを題材にした作品は吉村昭の真骨頂といえます。
 その「漂流」と「逃亡」の両方を味わえる作品が「島抜け」だと思います。とてもスリルのある物語なので、オススメです。
 文庫本「島抜け」には、「島抜け」の他に短編2作品が収められています。今回は、その中の一編「梅の刺青」の舞台を歩いてみることにします。
 
 
 このお寺は、東京都文京区白山にある「念速寺」です。念速寺は、寛文12(1672)年に創建された浄土真宗のお寺で、「小石川植物園」のすぐ側にあリます。
 
 本堂の前に、文京区指定史跡「美幾女墓」(特志解剖一号)と書かれた解説板が建てられています。解説板の文字を起こしてみますと、
美幾女(みき)は、江戸時代末期の人。駒込追分の彦四郎の娘といわれる。美幾女は、病重く死を予測して、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治2年(1869)8月12日、34歳で没した。死後、直ちに解剖が行われ、美幾女の志は達せられた。当時の社会通念、道徳観などから、自ら屍体を提供することの難しい時代にあって、美幾女の志は、特志解剖一号として、わが国の医学研究の進展に大きな貢献をした。
墓石の裏面には、"わが国病屍解剖の始めその志を憙賞する"と、美幾女の解剖に当たった当時の医学校教官の銘が刻まれている。文京区教育委員会
 
 墓地は、本堂の裏手で、美幾女の墓は千川通りの塀ぎわにあります。しっかりとしたアクリル板で覆われていて、「美幾女の墓」と記されているのですぐ見つけることができます。墓石は思っていたよりも、小さな作りでした。
 
 解剖と言うと、明和8年(1771)3月4日に杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」の刊行をうんだことが有名ですね。
江戸時代後期になると、西洋医学を学ぶ者によって、解剖が続けられましたが、幕府が公認しているのは中国医学だったことから、漢方医たちの西洋医学への反発があり、江戸で行われることは稀でした。
 
 明治維新以来、一例もないことから苛立っていた医師たちは、医学校に付属していた黴毒院に視線を注ぐようになっていました。その医療所は、広く蔓延する梅毒に侵された重傷患者を収容していましたが、治療法もなく死を迎える者がほとんどでした。
 
 黴毒院は、徳川吉宗が創設した小石川養生所の性格をそのまま受け継いだところで、極貧の梅毒患者に無料で薬を与え治療を施す施療院でした。現在の小石川植物園に小石川養生所はありました。
 
 黴毒院に入院している患者の中に、みきと言う34歳の女がいました。長年遊女をしていた女で、みきの病勢は進み、体は痩せこけ、寝たきりの状態で舌もただれて出血し、激痛に悶えていました。みきも死を自覚していました。
 
 医学校の医師は、医学の進歩のため死後の解剖を受け容れるように溶きます。みきの心を動かしたのは、解剖後、厚く弔うという言葉でした。遊女は死ぬと投込寺の穴に遺棄されるのが習いだったことから、戒名をつけて、然るべき寺の墓地に埋葬し、墓も建ててやるという説得を受け容れたのです。
 
 下の写真は、小石川植物園内にある旧養生所の井戸です。
 

 

 旧藤堂家の江戸屋敷に建てられた医学校では、直ちに解剖の準備に手を付けました。

体の所々にはただれの跡が残り、身体は痩せこけ骨が浮き出ている。乳房はしぼんでいるが、隠毛の豊かさと艶をおびた黒さが際立っていた。遺体を見つめる医師たちは、みきの片腕に思いがけぬものがあるのに視線を据えた。それは、刺青で、梅の花が数輪ついた枝に短冊が少しひるがえるようにむすばれている。短冊には男の名の下に「・・・さま命」と記されている。

 小石川植物園でも、梅が少しづつ咲き始めていました。(スマホ撮影)
 親族の意向により、小石川戸崎町の念速寺に埋葬することが決められました。
 白提灯灯をかかげた長い葬列に、沿道の人々は身分の高い死者の葬送と思ったらしく、道の端に身を寄せ、合掌し頭を垂れる者もいたそうです。
  四人の僧の読経のもと葬儀が行われ、みきには「釈妙倖信女」という戒名がおくられました。